14日に京都文化博物館の映像ホールで見た。今月と来月にかけての「おもてなしの映画 娯楽映画賛歌」という全17本シリーズの1本だ。先月から『京の食文化展』の展覧会を見る日にこの映画を見ようと決めていた。
主役は伴淳三郎で、花菱アチャコも出ている。上映は昭和30(1955)年で、評判を得て以後6年間に計10本が作られた。筆者はその中のどれかを子どもの頃に映画館で見た記憶があるが、この初作品ではない。昭和30年では筆者は4歳だ。もし映画館に連れて行かれてもわけがわからず退屈したろう。「二等兵物語」と伴淳の名前をセットでよく記憶しているが、当時よほど人気があったに違いない。映像娯楽と言えばまだ映画だけの時代であればそれは当然だ。大人が騒いでいたことを子どもも感じることは出来た。それにこの映画も一応は大人も子どもも楽しめるように作ってある。確かに大人の世界を描くので小学生低学年が見ればまずい部分も多少はあるが、少年が重要な役割で登場し、家庭ドラマ的な要素も持たせている。昭和30年と言えば戦後10年だ。わずか10年でこのような日本の陸軍を茶化す映画が登場していることにまず驚く。そしてその当時はこの映画が撮影された京都ではまだ戦時中と変わらない場所がそのまま多く残っていたはずで、戦時中を舞台に撮影することは困難ではなかった。この映画からちょうど半世紀経った現在、京都にはこの映画で撮影された場所はすべて消え失せた。変化がないのは山並みだけだ。京都盆地のどこにいても山が見えるが、季節や時間帯、天気、そしてちょっとした場所の移動によって山の稜線の連なり具合は容易に変化するので、よほど京都の山並みの形に詳しい人でもそれだけを見てどこから撮影されたかを言い当てることは難しい。筆者も上映中、あちこちの場所を現在のどこかと考えたものだが、おおよそはわかるとしても、すっかり変わってしまった街角や建物、道路などを確認するばかりで、京都での撮影と言われなければにわかに信ずることは出来ないほどであった。今思い出したことをついでに書いておこう。15日は京阪の淀駅から天満橋まで電車で出た。淀は伯母が住んでいて小さい頃からよく訪れたが、その駅が現在の地より300メートルほど京都寄りの淀競馬場前に新たに作られ、当日は大阪方面行きのホームの最終利用日であった。そのことはホームに立っている時に知ったが、数年に1回ほどしか利用しなくなっていたこの駅のホームの最後の日にそこに立ったわけだ。駅の跡地は淀城の整備に利用されるとのことだが、古い人間しか知ることのない記憶はこのようにいつの瞬間も増えて行く運命にある。
そんな古い記憶のひとつが最初に書いたように、筆者が小学低学年の時に見たこの映画シリーズだ。二等兵は将棋で言えば「歩」で、上官から虐げられるだけの惨めな存在であることを知ったのはこうした映画やあるいは漫画によってだ。『少年』や『少年画報』という月刊漫画誌を筆者は小学2、3年生の頃から知っていたが、筆者の家庭ではそれは安くはない買物で、確かクリスマスのプレゼントや正月のお年玉代わりにしか買ってもらえず、もっぱら近所の子から借りての回し読みだった。小学2年だったと思うが、夏休みに伯母のところに長期滞在した時、その新刊を買ってもらった。水色のビニール袋に本誌と付録が入っていた。宝物を手にしたように嬉しかった。伯母の家も苦しいのは同じであったのに、子を3人抱えて懸命に暮らす妹をいつも見かねて伯母は筆者らに優しく接した。伯母は忘れているが、筆者はその本を買ってもらったことをどれほど喜んだことか。人生の喜びのうちのベスト5に入るほどと言ってよい。それを思うと、貧しく幼い子に何か喜ばれることをする大切さを思う。それはさておき、『少年』か『少年画報』に山根赤鬼・青鬼という漫画家が描く「ロボット三等兵」という漫画があった。ここにはロボットが登場する。子ども心にも旧式の田舎臭い存在に思え、あまり面白く読んだ記憶はないが、そのタイトルや主人公のロボットの形は異様な迫力があった。ずっと後年、映画『オズの魔法使い』を見た時、そこに登場するロボットがほとんどこの漫画のロボットと同じ形であることに気づいた。どちらが先かは微妙で、調べてみないとわからないが、そのことよりも、山根赤鬼・青鬼がロボットを使って兵隊物、しかもそれを三等兵として描いたことが面白い。ロボットでなければあまりに生々しい哀れな兵隊の実情であったのだろう。もっとも、子どもの時にはそんなことは知らない。おおよそ知っていても実感はない。だが、この年齢になってみると、戦後10年ほど経って漫画家がおそらく自身の体験を潜ませた話を描く時、ロボットのようにこき使われたことを滑稽に描写するしか手もなかったことがよくわかる気がする。それとある意味では同じことがこの映画にある。
また脱線するが、伴淳は「アジャパー」というギャグをよく使った。これもどういうわけか小学生の頃から筆者は知っていた。小学校の卒業記念に学校で新聞を出すことになり、担任のK先生は筆者の絵の上手さを見込んで新聞に掲載するカットや漫画などを一任してくれた。最後に残ったのは4コマ漫画で、そうしたものを描いたことのない筆者は苦しみながらもどうにか作った。宇宙人が地球に飛来するが、UFOの蓋が開けば中は地球人で、地球にいる人は「アジャパー」と叫ぶという、落ちのない見事に外れた内容の漫画であったが、K先生はその版下原稿を見ながらこう言った。「伴淳を知っているとはねー…」。小学生で「アジャパー」という古いギャグを知っている者は当時は少なかったわけだ。そんな伴淳が動き回る映像を今回は久しぶりに見たが、まだ若さが残るその姿にまず驚いた。それだけ年が行った証拠だ。さて、伴淳は京都松竹太秦撮影所の専属俳優であった頃、この映画と同名の小説を読んで気に入り、映画化の企画を申し出た。サイレント時代から喜劇俳優であったので、伴淳の鋭い嗅覚は恐らくたちまち受け入れられたのであろう。共演相手として吉本興行のトップ・スターであった花菱アチャコが選ばれ、映画にさらに貫祿を付与した。アチャコの演技についてはあまり印象はないが、この映画ではそれがよくわかった。アチャコは京都の新京極にある蕎麦屋の表にその店内で蕎麦を食べるモノクロ写真が長らく飾られていたことがあるが、アチャコの存在を知る人が少なくなってからはそれはいつの間にか外された。喜劇に限らず俳優は消耗品だ。次々と新しいスターが今ではTVに登場する。だが、戦前や戦後間もない頃のスターは別格的に大きな存在であったことを今一度こうした映画で確認するのがよい。「アチャコ」という名前からしておちゃらけ振りが徹底しているが、映画から伝わる人柄はクラスにひとりはいるような身近に感じる庶民派で、しかも「間」の意味を真底知った芸人だ。しゃべくり漫才家の始祖としてその風格を再確認した。その独特の味は今の吉本の若手芸人ではもう誰も出せないものだ。伴淳はどこの出身か知らないが、アチャコに比べると口が重く、田舎っぺの感じが強いが、それがまた魅力であるのだろう。アチャコは顔が完全に喜劇人のそれだが、伴淳はむしろシリアスな演技に向くような気がする。
95分の上映はかっちり半分ずつ前後に分かれていて、前半が「女と兵士」、後半が「蚤と兵士」とそれぞれタイトルが出た。だが、このタイトルは前半は内容によく合っているが、後半は「蚤」は全然登場しないので適当につけたものと言ってよい。95分は少し長い印象があった。今なら60分に短縮するだろう。途中で3、4回腕時計を見たほどだが、これは当時ののんびりとした時代を思えば仕方のないところかもしれないし、そののんびり具合を楽しめばよいとも言える。昭和30年に筆者は京都を何度も親に連れられて訪れていたが、今は忘れているそんな空気が映画から味わえると考えてもよい。どんどん変わり行く京都の昔の姿はこうした映画の中でしか見られないから、映画はまた別の見方や価値がある。「女と兵士」と題される前半は子ども向きではないかもしれない。妾が出て来て、昼間から部隊長とベッドをともにするシーンがあるからだ。だが、赤裸々ではなく、ほんのほのめかしだ。妾役は関千恵子で、昔はよく映画で見たが、TV全盛時代になってどうであったのかは知らない。さて、物語は発明家である伴淳演ずる古川凡作のもとに赤紙が来るところから始まる。昭和20年1月の設定だ。戦争末期には普通なら兵隊に取られない人にまで赤紙が来たが、そのことを映画の最初に伝えて、悲喜劇であることを匂わせる。一方、アチャコ演ずる柳田一平は小さな男の子と一緒に暮らしているが、同じように赤紙が来て、徴兵検査場に赴き、そこで凡作と出会う。検査場ではいかにもチャップリンの映画に感化を受けた場面がある。凡作は腰に神経痛があることを偽装して乳母車に乗って検査場を訪れるが、そんな彼を軍は治療用の矯正機械に拘束して機械を作動させ、その調子が狂って凡作を無茶苦茶にしてしまう。このシーンはそうなることがわかっている点で全然笑えないが、発明家の凡作に対抗して軍もそのような機械を用意していたという設定なのかもしれない。二等兵に合格した凡作と一平は毎日訓練に明け暮れる。上官から理由のないビンタを食らう毎日で、描写はかなりリアルで軍の実体を伝えるだろう。ある日新聞記事で凡作の乳母車での入隊を知って感心したという中年の婦人とその姪の娘が面会に来る。とんとん拍子に話が進んで、その純朴な姪と凡作は恋仲になる。隊長は陸軍の大将だったか、お偉方の娘を嫁にしていて頭が上がらないが、妾を囲っていて、暇を見つけては馬に乗ってそのアパートに訪れる。お供をする凡作はその様子を知っているが、このことが後の伏線になっている。
一平は残して来た息子を凡作の恋人の家に預かってもらえることになる。だが、中年婦人にいじめられて、家出をし、兵舎にいる父親に会いに来る。それを凡作は匿おうとするが結局見つかり、一平は兵舎の中の独房に閉じ込められる。隊長はある日妾の存在を妻に知られるが、妾は機転を利かせて凡作の彼女と主張する。そしてついに凡作は隊長の懇願によって妾と偽装結婚させられるが、その様子を誤解して恋人は泣いて凡作のもとを去る。一平は隊長に偽装結婚をする代わりに一平の除隊を条件として主張する。それを認めながらも隊長はのらくらとして実行しない。そんなある日、一平の息子はひとりで乞食のように過ごしているところをたまたま通りかかった凡作の彼女に見出されて保護される。ある日兵舎の中で日本が戦争に負けたという報せが届く。凡作は広島でピカドンがあったことも知っていて、いよいよ戦争が終わったことに安堵の表情を見せる。上官たちはみな兵舎の保存物資を横領して持ち去ろうとするが、凡作は機関銃を手にしてそんな上官たちを脅し、そして言い放つ。ここはこの映画の最大の見せ場だ。いじめ抜かれて来た二等兵が上官に鬱憤をぶちまけるシーンで、伴淳は格好がよく、どう展開するかとハラハラさせらもする。銃はぶっ放すかどうかだが、予想に反して凡作はそうする。ただし、上官に直接向けてではない。この場面は見ていて考えさせられた。戦争が終わったとはいえ、正式にそれが上官から伝えられていない時点でこのような態度に出れば現実にはただちに殺されたであろう。そうはなっていない非現実な点でいかにも娯楽映画だが、こうした描き方が戦後10年でなされたことを思うと、戦後が本当にがらりと180度世の中が変わったことを認識する。いくら娯楽とはいえ、陸軍への茶化し具合はそうとうなものだ。現在ではもうこのような風刺映画はとても無理だ。そこから見えるのは近隣諸国から言われるように日本の右傾化が顕著なことだろう。反戦映画とは言えないが、今見れば反戦的な感じが強い。銃をかまえた凡作が上官たちに言い放つ言葉は、上官が妾を堂々と持ったり物資を横取りしたりするといった人心の乱れで日本が負けたといった内容で、反戦ならぬ反省と解釈も出来るだろう。それにしても昭和35年当時ではまだこうしたまともな意見が娯楽映画にもあったことに驚くし、権力風刺が徹底している点にも共感した。もし日本に軍国主義が過激化すると、たちまちこうした映画は上映禁止になり、監督を糾弾して非国民扱いをするのだろう。伴淳にどの程度厭戦的な思想があったのかは知らないが、こういった映画を撮ろうと提案しただけでもとても偉かったと思う。