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●「DON‘T WORRY KYOKO」
滅の 街の上飛ぶ 鳩映す 画面の前で 人に幻滅」、「雲ゼロの 青空気づく カップルは笑みや満ちつつ 未知の道行く」、「たまにはと 外食をして 文句言い サービス態度 今は落ちたと」、「寝入りばな 詠んだ一首を 忘れけり 詠みしに気づき まずそれを詠み」
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今月16日の「大ザッパ会」で松本和樹さんが集まった客にお土産として用意したCD-Rは、ザッパ/マザーズとジョン・レノン、オノ・ヨーコがニューヨークのフィルモア・イーストで1971年6月に共演したアルバムからの選曲であった。これまで何度か書き、話しても来た半世紀前のことを今日は思い出しながら、改めてジョンとヨーコについて記しておく。71年6月のその時の録音は当時まずジョンとヨーコが翌年に発表した2枚組LP『サムタイム・イン・ニューヨーク』の全4面のうち、1面丸ごとを費やして発表され、見開きジャケット内部にはそのライヴ演奏の白黒写真が1枚載せられた。そのアルバムを初めて聴いた、つまり2日にわたってFMラジオで丸ごと放送された正確な日を記憶していないが、当時盛んであったFM雑誌は国会図書館にあるはずで、それを調べればわかるだろう。その時の放送で使用された音源は輸入盤であった可能性が高い。というのは当時筆者はジョンのアルバムが発売されればすぐに買っていたからだ。当時は日本盤が少し遅れて発売されるのは常識で、同作はアメリカ盤が6月中旬の発売で、日本盤は7月か8月であったと思う。ともかく日本盤を買ってジャケットや中袋の文字情報の多さに驚いた。前述のジョンとヨーコに並ぶザッパがギターを弾く姿の写真を見ながら、そのライヴ録音のレコードを収める中袋が本来は黒の鉛筆書きの文字だけのアルバム・ジャケットの裏表にジョンとヨーコが赤のマジック・インキで落書き風に大幅な追加訂正を行なっていることに着目し、その本来の鉛筆書きのジャケットのアルバム、すなわちザッパ/マザーズが同じフィルモア・イーストで同じ日に演奏したアルバムが存在することを知り、それを探すことにした。手に入れたのは『サムタイム…』を買ってから1か月ほど後のことで、今も同じ場所で営業する心斎橋筋商店街の三木楽器の1階のレコード売り場で、そこには以前からよく通っていた。ザッパのその『フィルモア・イースト』を買う時、当然他のアルバムのジャケットも見た。日本のワーナー盤の『いたち野郎』や『チュンガの復讐』、そして輸入盤の『ホット・ラッツ』やビーフハートの『トラウト・マスク・レプリカ』などを知り、72年の終わりまでにはビーフハートのアルバムを除き、ザッパのアルバムで入手可能なものはみんな買い、そしてザッパの音楽のつかみどころのなさに驚くばかりであった。しかしそれはジョンとヨーコとのフィルモア・イーストでの共演からしてそうであった。端的に言えばロックンロールとアヴァンギャルドの同居だ。
 ジョンとヨーコがいつザッパと共演したいと思ったのか。そのことはいまだに情報がなくてわからないが、ヨーコはジョンを前衛の世界に引き入れ、またヨーコの最初の夫が音楽家の一柳慧であったことから、ザッパはジョンよりもヨーコに関心があったのではないか。それが芽生えた時期もわからないが、ザッパはビートルズの『サージェント・ペパー』のジャケットを翌年にパロディにしたので、遅くても67年からはビートルズの新作に着目し、それらすべてを聴いていた可能性は大きい。当然批判を交えてであって、学ぶべきものは学び、模倣したくないものは無視する。ビートルズ時代のジョンには「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」や「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」、「アイ・アム・ザ・ウォルラス」といった、突出して奇妙な曲がある。それはドラッグの影響もあってのことだが、両親の愛をほとんど知らない幼児期の生活に大きな原因がよりあったと思う。そのジョンの情緒不安点な激烈性はヨーコと出会ってからは丸くなる一方で尖鋭さが増した。丸いというのはたとえば「ドント・レット・ミー・ダウン」のようにストレートにヨーコへの愛を歌うことで、先鋭化はジョン&ヨーコの名義で発売されたアルバムに顕著な、他者へ直接音楽で抗議を訴えるという態度においてだ。これらヨーコへの感謝や愛と世の矛盾に対して物申すことの混合はヨーコとの出会いによる幼児期の記憶の爆発的覚醒であって、その意味でジョンはビートルズ時代から何も変わっていないと言い得るが、大人に完全脱皮して全人格が露わになった。そう考える筆者は、ビートルズ時代のジョンの曲では上記のように66年の「トゥモロー…」から順に並べながら、ヨーコと出会ってからの68年に「ディア・プルーデンス」をその年の最高傑作と昔から思っているが、その根底にロックンロールのリフがあることに着目する。ザッパがジョンと話が合うとして、それはともに青年期に黒人のR&Bに心酔したことだ。英米の生まれの差はあっても同年齢であり、ロックンロールに魅せられたのは流行に敏感な若者であれば当然であった。ビートルズのうちではジョンが最もロックンロールのリフという極小に短縮した旋律の繰り返しの創造性に着目し、やがて「ディア・プルーデンス」のようにジョンにしか書けないリフが中心となった名曲を生んだが、ビートルズによるR&Bのカヴァー曲とそうしたR&Bを基盤に持ちながらビートルズらしいリフを使った曲とを集めたアルバムがあれば、ジョンの個性はより際立つだろう。それはさておき、筆者が71年6月のザッパとジョン&ヨーコとの共演で最も驚いたのはザッパのギターだ。演奏の前にジョンは「リヴァプールのキャバンでよく演奏した曲だ…」と言い、その後にザッパは「Aマイナーのブルースだ…」とつけ加える。
 この「ベイビー、プリーズ・ドント・ゴー」のキャバン・クラブで演奏された録音は存在しておらず、ジョンやポールがビートルズとしてデビューする以前にいかに多くのアメリカのロックンロール曲を学んでいたかがわかる。ザッパもそうで、現在ではほとんど知られないミュージシャンのシングル盤を収集した。そのことはたとえば70年代半ばのニューウェイブのロック・ミュージシャンに言い得ることで、U2やスミスなど世界的名声を得た陰に無数の無名同然のミュージシャンとその演奏曲がある。最良のエキスが世界的有名になったミュージシャンに集約されていると見るならば、すっかり忘れ去られたミュージシャンやその曲を知る必要はないが、個人的に好きでカヴァー演奏することで陽の目を見る曲はあるはずで、「ベイビー、プリーズ・ドント・ゴー」はその類であろう。またザッパは同曲を知らずともAマイナーであると知れば、即座にそれに合わせたギター・ソロを披露出来る。筆者はフィルモア・イーストでのザッパの同曲のソロを、ギタリストなら完璧にコピー出来ることがその才能を認めるかどうかの試金石と思っているが、実際のところそうした才能は珍しいのかそうでないのかはわからない。ともかくギターはある程度は速弾きが出来て、しかも稀な個性を感じさせるのでなければつまらない。それは練習量に負い、その練習量は音楽に対する愛に正比例する。ジョンとポールはささやくように歌うことから絶叫型までこなし、また稀に見る声の色艶で、作曲と演奏以外のその能力によってビートルズは世紀を代表するバンドになった。ザッパはヴォーカルがうまくないことを自覚していたので、マザーズではもっぱら歌手を雇った。それで作曲と指揮、そしてギターの演奏に能力を発揮する方向に進み、そのことはジョン&ヨーコとの共演でも明らかとなり、Aマイナーのブルース曲ではジョンの歌とザッパのギターが同格に空前絶後の状態で光っている。曲の途中の最初の16小節のギター・ソロの直前でジョンはザッパに向かって「ザッパ!」と大声をかけ、次の瞬間、ザッパが奏でる16小節のギター演奏は、もちろんビートルズではなかった長いものでありつつ、ジョージ・ハリソンでは無理であった奇蹟的に起承転結のドラマ感のある見事な旋律を素早く奏でる。当時匹敵するソロの才能はエリック・クラプトンくらいであったろう。そうしたこと、つまり自分はヴォーカルとリズム・ギターを担当し、ギター・ソロは名手に任せるべきことをジョンは熟知していた。とはいえ自作曲にギター・ソロは欠かせないとは思っておらず、それゆえビートルズではジョージの曲は別として、ギター・ソロは気がつかないほど少ない。また長いドラム・ソロやギター・ソロは不要とも考えていた。ところがザッパと共演してブルース曲をやるとなれば、歌の合間のギター・ソロは必須だ。
 そこにザッパの出番があったが、Aマイナーのブルース曲のみの披露ではステージは持たず、またジョンにその考えは最初からなく、40分ほどの演奏の後半はヨーコに主役を譲った。ただし71年6月のその演奏こは69年9月13日のトロントでのプラスティック・オノ・バンドのライヴに前例があった。筆者が同アルバムの輸入盤を買った日は記憶しないが、前述の三木楽器においてで翌年であった。筆者は卓上式の小さなステレオを母から買ってもらって聴いていた時期を卒業した後、70年にパイオニアのセパレート型の比較的安価なものを8、9万円で購入し、最初にプレーヤーでかけたのがその青空に一片の白雲が浮かぶジャケットの『ライヴ・イン・トロント』であったからだ。69年9月はビートルズが解散すると言われていて、それを裏付けるのがジョンとヨーコが中心になった同アルバムでもあったが、ビートルズのロックンロールという原点に立ち返る考えは「ゲット・バック」やその後のアルバム『レット・イット・ビー』からも伝わり、『ライヴ・イン・トロント』がもしビートルズにヨーコを加えた演奏であれば、ビートルズは解散することなく、ヨーコがビートルズ・ファンに嫌悪されることもなかった。現実は否定され、それは歌声や音楽が前衛過ぎて柔なビートルズ・ファンの理解を超えていたからだ。ビートルズのシングル盤「ジョンとヨーコのバラード」は69年4月に録音され、翌月に発売された。当時ジョンがひとりで書いた曲でも「レノン=マッカートニー」の名義になったが、この曲は題名からしてビートルズとは無関係で、ビートルズの編集ものアルバムに収録されることは収まり具合が悪い。ビートルズらしくなく、その後に発展していくジョン&ヨーコの作品の冒頭に掲げてよい。つまりビートルズの晩期はジョン&ヨーコの活動に被り、ジョンに焦点を合わせれば、ビートルズはジョン&ヨーコの作品期に移動し、その最初のアルバムが『ライヴ・イン・トロント』だ。発売時に『レット・イット・ビー』に改題されるアルバム『ゲット・バック』がロックンロールに原点回帰したビートルズとすれば、その地点からスタートしたのが『ライヴ・イン・トロント』だ。その半分がヨーコの仕事というのはビートルズ・ファンの理解度を試す踏み絵で、ヨーコを拒否するファンは音楽を広く見る能力がなく、筆者にとって彼らは63年にビートルズが日本で紹介された時、否定した連中に思える。何度も書くが、64,5年でのビートルズ・ファンはわが中学校の400人近い一学年に4,5人であった。1パーセントが理解者であったことは、クラシック音楽好きの割合と同じではないだろうか。1億人に対して百万人で、周囲を見渡すに、まあそのくらいだろう。大多数の人は音楽や芸術を必要とせず、笑わねば損とばかりにTVのお笑い番組で時間を消耗する。
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 『ライヴ・イン・トロント』はあまり売れないと思われたのか、70年のカレンダーがついていた。今もたまに聴くのはジョンがロックンロールを歌うA面で、ヨーコの出番を収めるB面はほとんど聴かない。繰り返し楽しむ音楽ではなく、一度聴けばヨーコのやりたいこと、やったことはわかるからと言ってよい。前衛と呼ばれる芸術はみなそういうものだ。作者の考えが重要で、それに触れ得さえすればわかった気になるし、またその了解で当の作品の価値は消耗される。市販の陶製便器にサインを施したデュシャンの「泉」は実作品を見ても感動はない。デュシャンのその意外な行為が世間を驚かせた事実が重要で、作品に伝統に連なる美はない。作者の斬新なアイデアが美であって、その後の前衛芸術はみなアイデア勝負となった感がある。ヨーコの音楽作品以外の作品はそのあっと言わせる驚きを内蔵する点で一級の前衛作品だが、音楽はジョンの手助けを得たものからそうでないものまで幅広く、その意味でビートルズの曲とは正反対に捉えどころがない。その点が「はったり臭い」と思われるゆえんだろう。前衛芸術にはみなそうした「はったり」感がまとわりつく。単なる思いつきがなぜ芸術なのかと普通の人は思うからだ。だがヨーコの音感の鋭さは否定し得えない。またジャズの即興演奏のように間の取り方も巧みで、そのことは『ライヴ・イン・トロント』やザッパとの共演の『フィルモア・イースト』からも如実にわかる。筆者は69年夏発売のジョンとヨーコの『ギヴ・ピース・ア・チャンス』のシングル盤を買わなかったが、当時の、つまりジョンとヨーコの最初のアルバム『ウェディング・アルバム』も入手せず、そのLPが入った箱を開いたことがない。ベッド・インしたジョンとヨーコが記者団に囲まれて「ギヴ・ピース・ア・チャンス」を半ば即興で歌ったことは野次の標語を作品化した安易な方法により、ビートルズの完成度の高い、特に『ホワイト・アルバム』を聴き馴れた耳からすればわざわざシングル盤を買うまでもないものに思えた。つまりカヴァー演奏する気になれない曲だ。しかい社会的メッセージを広く伝えるには単純なメロディの繰り返しがよく、またそれはロックンロールの特徴で、ジョンはその精神をアジテーションの言葉に移して「平和に機会を!」と唱えた。これはヨーコの思想の受け売りであったろうか。その可能性は大きいと思うが、当時のジョンとヨーコは一体化していて、どちらが上か下かの意識はなかったろう。現在から見ると、その「平和をわれらに」の曲は戦争反対のスローガンとしては人類の古典的財産になっていると言ってよい。戦争が起こるのは単純な理由からではないという見方はあるが、複雑は単純さが絡み合っている状態とみなせば、人間のすることはすべて単純で、そのことを気づかせるには子どもでもすぐに覚える単純な言葉とメロディを持つ曲がよい。
 ブルースは主音と三度と五度高い和音から成る16小節が基本で、その単純性を繰り返すことでいくらでも長く演奏が出来る。ジョン&ヨーコがザッパと共演したAマイナーのブルースも同じで、『サムタイム…』では同曲の後半がカットされたが、ザッパの遺族が去年春に発売したアルバムには初めてノー・カット・ヴァージョンが収められ、それを聴くと後半は冗漫と言ってよく、フィル・スペクターがその部分をカットして『サムタイム…』に収めたことは不自然な編集ながら正しかったことがわかる。それは言い換えれば最初のザッパのギター・ソロがあまりに秀逸で、それが二度と繰り返され得るものではなかったことを証明しもする。さて、『ライヴ・イン・トロント』のA面は、ジョンはヴォーカル以外にギター演奏もビートルズ時代以上に円熟味を出し、またエリック・クラプトンの16小節のギター・ソロは鬼気迫り、ジョージ・ハリソンが代わって出演していればそうはならなかったであろう。これはビートルズの4人が当夜演奏していればビートルズ・ファンは喜んだが、演奏の質は劣っていたということだ。A面の6曲の前半はR&B曲のカヴァーで、後半6曲はそれに学んで独自の境地を開いたジョンの3曲だ。この6曲の流れは50年代半ばのロックンロールからわずか10数年でそれがどう進化したかの見事な好例になっている。ジョンにその矜持があったかどうかだが、当日トロントで開催された「ロックンロール・リヴァイヴァル」のフェスティヴァルに参加した錚々たる黒人のミュージシャンの後にジョンとヨーコが予告なしに観客の前に姿を見せて演奏したことは、ジョンが別格的存在とみなされていたことと、ロックンロールがリヴァイヴァル的な、つまり回顧趣味ではなく、前衛的前進が可能な音楽であることを示した。A面後半の最初は『ホワイト・アルバム』で発表された「ヤー・ブルース」で3拍子のブルースだが、68年12月にジョンはこの曲の演奏でローリング・ストーンズのキース・リチャードにギター・ソロを弾かせ、またヨーコの声を被せるので、『ライヴ・イン・トロント』でエリック・クラプトンをリード・ギタリストに迎える前に71年6月のザッパとの共演は予期されていたことであったかもしれない。A面後半の最後の2曲は新曲の披露で、「コールド・ターキー」と「平和をわれらに」だ。この2曲によってビートルズ時代を継ぎながらジョン&ヨーコ時代の幕開けの宣言を行なった。それはヨーコの前衛曲とは違ってロックンロールの延長上の新たなポップスで、「コールド・ターキー」は「平和をわれらに」に通ずる単純なリフが基調となり、しかもそれを奏でるギターの連打的音色はビートルズ時代になかった殺人的強烈さがある。当時パンク音楽はまだなかったのに、ジョンが奏でるその機関銃のようなギター音のリフは70年代のニューウェイヴの走りであったと言ってよい。
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 ヨーコのヴォーカルもそうで、『ライヴ・イン・トロント』のB面のヨーコによる2曲はA面後半を受けて同じムードで、さらにアヴァンギャルドの言葉に真にふさわしい舞台上の一回限りの「出来事」を記録する。ジョンはヨーコの陰にあって補佐に徹し、それはクラプトンも同じで、ステージ上で用意していた布袋にすっぽり入り込むヨーコの「ハプニング」に立ち会いながらそれを静かに見届ける。それを支配するのはギターがアンプに立てかけられたことによる鋭いフィードバック音だが、静寂を意図する聖なる場と言ってよく、かくてステージはヨーコの祈りで締めくくられる。その巫女や霊媒師に徹したような一連の行為に不自然さは微塵もない。つまり「はったり」が感じられない。あるいはそう見せかけるほどにヨーコは自己に埋没していたが、それが霊媒師の本質である。長く歴史に残るものはいかに真摯であるかが第一条件だ。虚飾にまみれたものはきわめて魅惑的で、一時期人気を博すが、すぐに消え去る。しかしそんな先のことより、まずは今は大事で、有名になれば勝ちという価値観はいつの時代も大手を振る。若い世代にとって晩節など存在しないからだ。ミュージシャンならなおさらだろう。『ライヴ・イン・トロント』で紹介されたA面最後の2曲はスタジオで改めて録音され、シングル盤が出た。筆者はそれを買った。手元のそのレコードの中袋を見ると、盤中央の円形が収まるその円形の空白に購入日を記してある。1970年9月12日で、『ライヴ・イン・トロント』の収録から1年と1日だ。A面の「コールド・ターキー」はドラッグの禁断症状を精神状態を表現すると言われたが、その点でも良識派をいわば気取るビートルズの曲にはなり得ない。ジョンは自己を完全に解き放って剥き出すことを望んだ。ヨーコも同じで、B面の「京子ちゃん心配しないで」は二番目の夫との間に生まれた子どもに対する親としての叫びで、その歌唱はジョンの鋭い転調しないリフを背景に悪霊を振り払うかのような母性が表現される。同曲におけるジョンによるワン・コードのギターの祖型は3年前の「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」にあって、ジョンがヨーコと知り合ったのはその直後の同年であったろう。つまりジョンは彼なりに音楽を少しずつ変貌させ、何物にも囚われないパンク・ミュージックの礎を作ったが、それはヨーコも同じで、ふたりの前衛精神はニューヨークのその後のジャズ・シーンにまで影響を及ぼした。それはヨーコが68年にオーネット・コールマンのコンボをしたがえて演奏したことと、それを後年ジョン・ゾーンとヨーコの共演がいわばカヴァーしたことからも言えるが、別に論ずるべきことであろう。同シングル盤の日本のジャケットはジョンとヨーコの頭蓋骨のレントゲン写真を使い、腹を見せ、気骨を示すためか、ともかく赤裸々で、彼らのような夫婦の表現者は現在まで他にはいない。
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by uuuzen | 2023-09-30 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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