「
繊維質 ばかりで失くす 戦意かな たまに肉食い 肉に弾受け」、「何もかも つまらぬことと 知りてなお 妻要らぬとは 思わぬ旦那」、「擦り減った 男心の 価値なきを 自覚せぬまま 長生き望み」、「オマージュを 捧げつ明かす 本心を 磨き並べる 意図は尊き」
アコーディオン奏者の
ガイ・クルセヴェクつながりで今日取り上げる映画を知った。そのことは後述するとして、本作は2002年にアメリカで制作され、ニコール・キッドマンが翌年アカデミー賞の最優秀女優賞を獲得した。原作は2002年にアメリカのマイケル・カニンガムによる2002年の小説『THE HOURS』(時間)で、出版された邦訳を筆者は読んでいない。この映画から知る限り、同小説はヴァージニア・ウルフが代表作
『ダロウェイ夫人』を執筆中の1923年のロンドンにおける彼女と、50年代の無名のアメリカ人女性ローラ、そして2001年のニューヨーク在住の女性クラリッサの3人を中心に描く。同小説を元にした本作『めぐりあう時間たち』のDVDのジャケットは右からヴァージニアに扮するニコール・キッドマン、ローラ役のジュリアン・ムーア、そして左端にクラリッサ役のメリル・ストリープが並ぶ写真が使われる。ヴァージニアは20歳頃の横顔写真が有名で、ヴィクトリア朝の美人画のモデルのように写っている。彼女の小説の読者はその顔のイメージを記憶し、その美人顔で彼女は得をしているように思える。20歳頃は誰でもそれなりに美しいが、その頃のヴァージニアは儚さが顕著で、還暦直前の自殺は何となく理解出来る。とはいえ彼女が『ダロウェイ夫人』を書いたのは43で、その後も名作を書いた。『ダロウェイ夫人』にも自殺者は登場する。それは第一次世界大戦から帰還した青年のセプティマスで、彼は精神を病んで妻とともにロンドンにやって来た。そして衝動に駆られて窓から身投げし、鉄柵に串刺しとなって死ぬ。筆者が『ダロウェイ夫人』の感想で何を書いたのかほとんど記憶にないが、クラリッサ・ダロウェイ夫人のロンドンでのある日を描き、わすかだが原書を確認したところ、難解な英語は使っておらず、読みやすい。だが細部の描写が次々に続き、物語の筋だけ追う人はそうした細部を無視して読み飛ばす傾向が強いはずで、また翻訳では原語の味のある世界はおそらく楽しめず、その小説のどこがいいのかよくわからない読者が少なくないだろう。翻訳に頼るとしても月日を開けて読み直せば新たに意識に入って来るものがあると筆者は思うが、カニンガムは『THE HOURS』の文体をたぶんヴァージニアのそれに似せたのではないだろうか。そのことは『めぐりあう時間たち』を見ての感想で、実際細部が重要であるように部屋や小物配置がなされているし、登場人物の発言やごくわずかに登場する人物の描写からもそれは言い得る。
またそういう映画であるので一度見ただけではよくわからない場面があるが、『ダロウェイ夫人』と同じく、自殺を扱い、全体に暗い映画なので二度見る気になかなかなれないのが本音だ。その別の理由はやはり俳優だ。彼ら、特に前述した3人の女性はそれぞれ名女優とされるが、本物のヴァージニアを演じることはニコール・キッドマンでも無理であったように筆者は感じる。彼女は特殊メイクで鼻を誇張したが、それでもヴァージニアの有名な20歳の横顔写真とはあまりに顔の相が違う。ニコールは『ダロウェイ夫人』と『THE HOURS』を読んでヴァージニアの役作りをしたはずだが、この映画で見せる彼女の表情はあまりに暗い。自殺願望のあったヴァージニアをそのように演じるのは自然かもしれないが、演技を見せようという意識が強すぎる。俳優はどのような人物にもなり切る職業で、名優となれば常人が真似の出来ない努力と天賦の才能があるはずだが、写真がたくさん残っている実在の人物になり切って演技する場合、鑑賞者はその元の実在の人物に対するイメージを持っていて、簡単に言えば俳優ごときがその実在の人物になれるはずがないという貫禄の差を如実に感じてしまう。ヴァージニアはその人生と才能によって写真で伝わる人格を得たのであって、いかに有名女優でもその風格を演技することは無理ではないか。そう思う人は多いはずで、将来はヴァージニアの写真を元にAIで彼女と瓜二つの女優を創造し、彼女に演技させる映画が生まれるだろう。ただしそうなった時、今後はどこまで人間的感情が表現出来るかの問題が発生し、顔や雰囲気は似ていなくても本物の俳優が演技したほうが迫真性が得られるということになるだろう。結局のところ、俳優を起用する映画は作りものであって、その作り込みの巧みさを味わうものだ。その点は小説も全く同じだ。ところがヴァージニアの場合、彼女の自殺という結末によって彼女の小説が云々されやすい。カニンガムが『THE HOURS』にヴァージニアと彼女の『ダロウェイ夫人』を登場させたのも、彼女が最期は自殺で人生を閉じたことに着目したからで、この映画も最後の場面はヴァージニアの入水自殺場面となっている。ではそうした結末が有名なヴァージニアの、しかも自殺者が登場する『ダロウェイ夫人』をどう扱ってカニンガムが別の小説を仕立てようとし、またその目的な何であったかが『THE HOURS』やこの映画では重要になる。女優に話を戻すと、筆者はクラリッサ・ヴォーンを演じるメリル・ストリープの演技にも感心しなかった。彼女の映画を何本か見ているので、彼女のイメージはどんな役でもこなし、したがって本作でも彼女でなくてもいいではないかという思いを引き起こした。そこは映画の興行収入の観点からは有名女優を起用する必要があったことは理解するが、それはわざとらしさを強化する。
ニコール・キッドマンのわざとらしい化粧や表情とは別のわざとらしさだが、映画を二度見たところ、その思いは解消した。これはヴァージニアの同じ小説を繰り返し読むことで初めて気づく細部と似たことであろう。あるいはストリープの演技の卓抜さのおかげで、映画が俳優による演技という前提を脇に置いたうえでの迫真性に魅せられることでもある。本作は百年前のロンドンと現在のアメリカを結びつけ、メイフラワー号に乗って最初のイギリス人が渡米してアメリカを建国したことをカニンガムが主張したかったのではなく、百年前の同性愛を含む社会事情が現在とさして変わらないことに着者したからだろう。実際1920年代に現在と同じ現代文明が生まれたとされ、『ダロウェイ夫人』で描かれたロンドンのある日はニューヨークでも同じように繰り返されているとの想像は正しい。単純労働をする人はその小説では登場せず、また本作の映画でも同じで、経済的はかなり恵まれた人たちの空虚な人生が描かれる。それは贅沢病として謗られそうだが、衣食住が満ちた人が幸福であるとは限らないという人間精神の複雑さがある。さらに深刻なことは、やりたい仕事、さらには作家として有名になっても人生が楽しくないという人の存在だ。それがたとえばヴァージニア・ウルフであったが、本作ではリチャードという小説家がその存在として描かれ、彼は『ダロウェイ夫人』のセプティマスと同じように窓から身投げして死ぬ。セプティマスが精神を病んだのは従軍したからだ。現代のアメリカでも従軍兵士が帰還して精神病を発症した例は無数にあるが、カニンガムはリチャードの精神病を、ヴァージニアと同じく細部描写に執着する才能として描きつつ、かつて同性愛者であった彼がエイズを発症し、極端な人間嫌いとして部屋に引きこもっているとの設定によって説明している。これは原作『THE HOURS』では読者が納得行くようにもっと詳しい書き方がされていると想像する。さて、同性愛者の彼はニューヨークの汚れた部屋で住んでいて、彼の世話をするのがクラリッサ・ヴォーンで、昔彼女はリチャードと一夏だけ暮らしたが、彼は後にルイスという男性と同性愛関係になる。そしてクラリッサも同性愛者となって10年を女性と暮らしている。クラリッサはリチャードが受賞したのでその記念パーティを自宅で開こうとし、その準備の最中にルイスが訪問し、ふたりは互いの現実を知るが結局リチャードの自殺によってパーティは開催されない。そこには経済力を得てそれなりに有名になっても満たされない人々の現実が描かれているが、そのことが特殊なのか一般的なことかは大半の本作の鑑賞者にはわからないだろう。しかし現実のヴァージニアや本作でのリチャードに刻印されたスティグマに目を向けると、人間の本質は子どもの頃に形成され、それが人生を左右し続けることを知る。
カニンガムはそれはどうしようもないことと思っているかもしれないが、リチャードが死んでもクラリッサは同性愛の相手の女性と生きて行くし、そのように精神的に強い女性として本作では描かれていることに鑑賞者は一種安堵の気分を味わう。ヴァージニアが夫に感謝し、そのことを手紙に書き終えて入水自殺した現実は本作でも描かれるが、ヴァージニアがなぜそのように自殺せねばならないほどに精神が追い詰められていたかは、ヴァージニアの小説を読む人でもよくわからないだろう。彼女の母は同じように子持ちの男性と再婚し、ヴァージニアはその義父の兄ふたりから何度も強制性交をされ、そのことが精神を病んだ理由ではないかとされているが、そうした少女時代のヴァージニアについてのことは本作では描かれない。では本作のリチャードは文才豊かで有名にもなるのに、なぜ自殺したのか。その説明として本作は彼の母親ローラを登場させる。彼女はリチャードが数歳の頃、優しい夫との生活に精神的に疲れ、妊娠中で自殺を試みる。一方彼女は読書好きで、自殺のために訪れたホテルのベッド上で『ダロウェイ夫人』を読んでいる。本作を見る限り、彼女はヴァージニアと同じ精神状況にあるが、その理由までは描かれない。彼女は妊娠中で、夫は経済力もあって傍目には何ひとつ不自由でないのに、自殺願望がある。結局彼女は二番目の子を産んだ後、カナダに失踪し、そこでの図書館で司書となる。そしてリチャードは母を受け継ぎ、文才がありながら自殺願望がある。母に捨てられたという意識が自殺願望を肥大させたかもしれないが、人の心も人生も複雑で、本作ではリチャードの憂鬱の原因は明らかにされない。リチャードが死んだ後、高齢のローラはクラリッサのアパートを訪れ、ふたりが会話する場面がある。ローラが姿を見せた時、パーティの用意をしていた別の女性は「あの人がモンスターね」と言う。二児を捨てて単身別の場所で生きて行く女性がそう呼ばれるのは当然だが、筆者の周囲にもそういう女性はいた。また彼女らは成人しない子どもがいるのに別の男と逃げたのだが、そういう性に奔放な女性からすればローラは平凡な暮らしに満足出来なかっただけで、ないものねだりのわがまま女、すなわちモンスターと揶揄されるのは当然だ。しかしカニンガムはそういう女性が現実にいることを前提に小説を書いた。その好例がヴァージニア・ウルフであった。筆者が購入した本作のDVDは2枚組で、その1枚はメイキング映像や監督や女優たち、そしてヴァージニアの紹介が含まれる。つまり本作は『ダロウェイ夫人』の前知識があって見るのが本当はよい。カニンガムは『ダロウェイ夫人』をパロディにしたかったのではないが、本作からヴァージニアを省けば物語の説得力はかなり失せたはずだ。
繰り返すと、カニンガムは百年前のロンドンと同じように現代のニューヨークでも文明病とでも言うべき精神の病が珍しくないことを描こうとしたが、ヴァージニアが『ダロウェイ夫人』を書いた時は自殺者を登場させはしたが、彼は従軍して精神病を患ったという客観的な説明があって、ヴァージニア自身はまだ自殺することを踏みとどまっていた。ただし彼女は何度も自殺未遂をする。本作ではリチャードがヴァージニアンの成り変わりで、リチャードから渾名で「ダロウェイ夫人」と呼ばれていたクラリッサ・ヴォーンは『ダロウェイ夫人』の主役のクラリッサと同じように作品の中では自殺しない。そこで読者は自殺をどのように捉えるか戸惑う。パーティ三昧の日々でも本質的な退屈を抱え、心が満たされないとすれば、そうした人はいかに生きるべきか。カニンガムが書きたかったことはそこか。面白さを感じずに生きても結局はいつか死は訪れる。とすればさっさと自殺しても同じではないか。しかしそれでは小説の読者、映画の鑑賞者は納得しない。そこで本作では悲しい出来事があっても快活な印象を与える演技をするメリル・ストリープを起用することで、自殺せずにいればまた楽しいことがあるかもしれないという希望を与える。そのように解釈しないことには『ダロウェイ夫人』の焼き直しになり、鑑賞者は救いのなさを感じる。ただしこの映画では「生きていればまた楽しいことがある」という肯定感をごくごくかすかにほのめかすだけで、それを主張することはない。ではそのような映画はお金を払って見る価値があるか。その点はアメリカ映画がさんざん考えていることだろう。60年代までの薔薇色に染まった楽天性は21世紀に入ってはアメリカ映画では時代遅れとなった。苦しさと日々格闘しながらどうにか生きて行くという人は現在の日本でも少なくないはずで、そういう世界にあっては他者の苦しみを少しでも理解することで人生に対する強さを得るしかない。それが人間というもので、本作ではモンスターと呼ばれる二児を捨てたローラですら、懺悔の気持ちを抱き続けながら生きている。その生は他者に感動を与える文学作品を生んだ息子リチャードのそれよりも価値のないものかもしれないが、生きることは可能性を秘めることであって、彼女が自殺しない結末はクラリッサのそれと呼応して本作を前向きなものにしている。カニンガムが最も主張したかったことはそれではないか。つまりヴァージニアとは正反対のヴェクトルで、オマージュでありながら批判した。筆者がこの映画を最初に見た時に感じたことはそれだ。二度見るとさらに細部が鮮やかに見えて来るが、そこには原作の小説を監督がどう読み込んだかの別の問題がある。すなわち『ダロウェイ夫人』と比較するのであれば映画よりも『THE HOURS』を読む必要がある。
さて、本作の監督はスティーヴン・ダルドリーで、イギリス人の彼は2000年に
『リトル・ダンサー』を撮った。筆者は同作についてかつて感想を書いた。同作の2年後に『THE HOURS』を撮ったのは、同じイギリス人のヴァージニア・ウルフに対する思いもあったからだろう。つい先日知ったが、『ダロウェイ夫人』は本作以前に映画化されている。そこでダルドリーはカニンガムの新作小説の映画化を思ったのかもしれない。ともかく、筆者にとってはこれまでの関心の延長上にこの映画に出会ったが、その巡り合わせは意外なところにあった。最初に書いたように、それはガイ・クルセヴェクつながりだ。彼の2004年発売のアルバム『THE WELL-TAMPERED ACCORDION』の冒頭に、4曲から成る11分ほどの「FOUR PORTRAITS」という曲が収められる。ガイらしい単純な主題を元にした変奏組曲で、以前紹介した「PERUSAL」と似た手法で書かれている。その2曲目は「リチャードのためのブルース」で、この曲があることでいかにも現代のアメリカ曲であることがわかるが、ブルースであることを省けば、女性の名前を冠した他の3曲すなわち1「クラリッサ(ダロウェイ夫人)」、3「ローラ(ブラウン夫)」、4「ヴァージニア(ウルフ夫人)」と基本的なメロディは同じで、題名の「4つの肖像」は4人が絡み合う物語を元にしたものであることがわかる。ガイの解説によればカニンガムの小説『THE HOURS』に触発された曲で、イタリアの著述家エリザベッタ・スカルビ(Elisabetta Scarbi)が主宰となった『La Milanesian 2003』から委嘱された。この芸術祭は文学やオペラ、演劇や映画など幅広い芸術を含み、エリザベッタが関心を寄せる表現者が集められるようだ。彼女はイタリアの芸術好きの富豪なのだろう。「4つの肖像」がどのように2003年の同芸術祭で演奏されたかはわからないが、『THE WELL-TAMPERED…』が2004年の発売であり、その冒頭曲であるので特に自信作であったとみなしてよい。それは同アルバムにアコーディオンの蛇腹のように折りたたまれる写真つきの凝ったデザインのガイによる曲の解説からもわかる。同アルバムは全27曲57分で、アルバムの題名を兼ねる組曲は後半の12曲を占めるが、蛇腹風解説書では全27曲すべてがフローチャートのように冒頭曲から矢印の線で順に結ばれ、同アルバム全体で組曲を構成するとのガイの思いが伝わる。またそれは同解説書の表紙やCDの盤面が百年ほど前にニューヨークに向けてヨーロッパ諸国から出帆した移民船を描くことでガイは出自を再確認し、また同アルバムの冒頭曲「4つの肖像」の第1曲目に「クラリッサ(ダロウェイ夫人)」を置くことにヴァージニアの小説手法「意識の流れ」にあやかった印象がある。
筆者はたまたまこのCDを買い、その最初の曲が「ダロウェイ夫人」についてのものであることを知った。ヴァージニア・ウルフの同名小説については以前投稿したからだ。その小説への関心が意外なところでガイとつながった。言い換えればそれは「めぐりあう時たち」であって、ウルフのその小説を知らねばガイのこの曲への関心は薄かった。しかしガイは「4つの肖像」をカニンガムの小説を読んで書き、『ダロウェイ夫人』を読んだかどうか定かでない。ガイはおそらく『めぐりあう時たち』を見たはずだが、「4つの肖像」の作曲はその公開に先立ったはずで、本作とは無関係だ。そこが残念で、本作の映画音楽は「4つの肖像」とは似たところがない。ガイは自作のごく短い曲に『ダロウェイ夫人』ないし『THE HOURS』の気分を凝縮した。それは解放的な一種の心地よさで外気を感じさせる。とこが映画は室内の暗い印象が強く、音楽はほとんど印象に残らない。そのことをガイはどう思ったかだが、映像化に先立って原作を読んで作曲したことは、より純粋に、つまり他者の解釈に煩わされずに主題とその展開を導き出し得たから、映画とは別に、あるいはそれ以上にガイの曲を通じて『ダロウェイ夫人』に流れる空気とそれが現在のアメリカでさして変化せずに伝わっていることを実感する。その爽快感と呼んでいい空気が漂う中に自殺もあって、人間界は複雑だ。先述を補足すると、移民船でやって来た人たちがアメリカの文化を作り、その多民族のひとつとしてガイは自覚しながら自己のアイデンティティのみに固執せず、アメリカの雑多な要素を吸収しながら曲作りをする。その過程において他の芸術でも同じことが行なわれていることの想像力を持つのは当然かつ必須だ。ましてやアメリカはイギリスから最初にかつ決定的に影響を受け、文化を移入したから、百年前に活躍したヴァージニア・ウルフの後継者と言ってよい小説家がアメリカにいて、さらにはウルフの小説そのものを核にして内容を延長拡大した新たな小説があるのはもっともだとガイは思ったに違いない。『THE HOURS』は『ダロウェイ夫人』がなければ存在し得ず、『ダロウェイ夫人』のオマージュでありつつ、同作とは決定的に違う点がある。映画化では省略された箇所が大量にあるはずだが、カニンガムが最も言いたかったことは描かれていると思う。ただしそう結論づけるのはやはり小説『THE HOURS』と読まねばならない。それはさておき、邦題『めぐりあう時間たち』は原題の直訳の『時間』ではどういう映画かさっぱりわからないからであって、「めぐりあう」と形容したからには「時間たち」という、日本語ではあり得ない複数形を用い、またその「時間たち」は時空を超えてつながる、あるいは繰り返される人間の業を意味している。
ヴァージニアが育ったヴィクトリア時代は、ヴァージニアが経験した身内による性的虐待は今以上に秘匿すべしとして世間ではみなされていたことは想像に難くなく、ヴァージニアの自殺の遠因、あるいはひょっとすれば最大の要因として未成年時に経験した性的虐待はあったかもしれない。そのように考えるとガイの『THE WELL-TAMPERED…』は冒頭曲「クラリッサ(ダロウェイ夫人)」から陰鬱なイメージがまとわりつくが、ガイは『THE HOURS』に触発されたのであって、その小説は『ダロウェイ夫人』の焼き直しではない。ガイの曲「リチャードのためのブルース」のリチャードは『ダロウェイ夫人』で自殺する青年と同じように窓から自ら身を投げて死ぬが、そのことは『ダロウェイ夫人』を読んだことのある人は本作を見てそのリチャードが登場すると同時に予測し、意外性は全くない。そして本作のクラリッサは、『ダロウェイ夫人』のクラリッサ・ダロウェイと同じく自殺せずに生きて行くはずという結末として描かれるので、その結末だけを見れば端的に言えば『ダロウェイ夫人』の世界が現代アメリカで繰り返されているとカニンガムは描きたかったことになるが、本作の最後はヴァージニアの現実と同じく入水自殺する場面で、それを深読みすればクラリッサはリチャードが自殺した後、映画では描かれないが、やがて精神を病んで自殺する可能性はなきにしもあらずだ。しかし前述したように、メリル・ストリープの人柄がクラリッサ役にうまく適合して自殺とは無縁の性格描写がなされる。たぶんカニンガムが描きたかったのはその点ではないか。つまりヴァージニア・ウルフは自殺したが、本作で描かれるクラリッサは自殺しない。それは言い換えればカニンガムに自殺願望がないことであって、彼は『ダロウェイ夫人』を元に現代アメリカの同性愛や異性愛、作家志望、エイズや自殺などを扱いながら、ヴァージニアが生きた時代と変わらぬ人間の孤独、そして流されるようにして生きて行く、行かざるを得ない日々同じような暮らしを描こうとした。そうした日常を破る行為としてパーティがあるが、本作では誕生日や出版記念のパーティも無残な結末になる。退屈な日常に飽き飽きしているのに、それを打破するパーティすらも虚飾となれば、人は何を楽しみに生きるのか。特別な人にとってそれは創作だが、ヴァージニア・ウルフは自殺し、リチャードもそれをなぞった。それはそれとしてガイは『THE HOURS』を読んで主役級の4人に対応させた「4つの肖像」を書き、それがカニンガムの思いをどう正確に反映したのか、あるいはそうでないのか、ともかくガイらしい印象深い組曲となった。ヴァージニアの魂は移民船に乗ってアメリカにやって来て、同じように人生に悩む人々と呼応している。小説や小曲は人生のごくわずかな安らぎに過ぎないが、なければこの世はもっとさびしい。
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