「
鱈のアラ 三百円の 盛りふたつ 爺が相次ぎ 手に取り篭へ」、「遠き先 着いてさびしさ 振り払い さらに先へと また奮い立ち」、「もう終わり もっとお代わり 持って来い 時の限りを 知りつ無視して」、「美女を見て しばし息飲み 名作と 口に出さずに 素知らぬ振りを」
ガイ・クルセヴェクの「PERUSAL」について書いた時、同曲がガイにとっての最高傑作とは言えないことを自覚していた。それは先月このカテゴリーで書いた
ポーリン・オリヴェロスの「聖ジョージとドラゴン」でも言える。だがある作家に対してその最高傑作ないし代表作は本人を含めて誰が言い切れるだろう。ポップスであればレコードやCDが最もよく売れた大ヒット曲がそれに該当するが、聴き手はその世評を気にして聴くとは限らず、個人的な好みでその作家の代表作を決める。筆者はそのことをして本カテゴリーで曲を取り上げていて、心中に他者の作品がいかに入り込んで住みつくかを重要視している。このことをたとえれば、街中に多くの美女がいるとして、どの男にとっても大多数は会って話すことは出来ず、たまたまの何かの縁で出会って話すことになる女性から恋人や伴侶となる人を見つけることに似て、本ブログで取り上げる作品のほとんどはたまたまの縁があって筆者の内部に何らかの刻印を留めるものと言ってよい。ある作品や作家と何年も対面しているのに一向にそのよさがわからない場合はあり、それを取るに足らない作品とみなすか、ただ感性が響き合わないだけかは即断出来ないが、筆者の今の年齢を思えば、受け入れられない作品のほうが圧倒的に多いことは確かなはずだ。そうであるからこそ好きになる作品に出会えることはとても嬉しく、それが大きな生き甲斐になっている。話を戻して、ガイは自身の代表作をどう思っているのだろう。本人の発言からそれがわかると聴き手はいわゆるコスパのよさでその曲にただちに接して彼の真髄に触れ得るが、20数枚あるとされるCDを全部聴くことは経済的時間的によほどの熱いファンでない限りは困難で、それで筆者の限られた知見から「PERUSAL」が最もガイらしい曲と思い、最もよく聴く。さて同曲について書いた時、ガイのソロ・アルバムではない2作を所有することに触れた。その2枚は「ACCORDION TRIBE」(アコーディオン族)の名義により、ガイが他に4人のアコーディオン奏者を集めて組んで録音したアルバムで、CDは98年、2002年、筆者が所有しない2006年の計3作が出ている。どれもガイ以外のアコーディオン奏者の曲をランダムに収録していて、全体の統一感はありながら、中心となった演奏者ないし作曲者の個性の違いが各曲から伝わる。ガイが書いた曲について言えば、本来は彼がソロで弾く曲が他の奏者が加わって編曲の妙味が楽しめるので、ガイのファンは所有が欠かせないと言ってよい。
とはいえそれらのCDは5人のアコーディオン奏者の曲と演奏のオムニバスであり、筆者はガイのソロ・アルバムほどには聴いておらず、実のところこれを書く直前にようやく細かい文字で印刷される英文解説に目を通した。それによれば70年代の終わり頃、つまり30歳頃のガイは暮らしていたフィラデルフィアのとある劇場でアコーディオンのソロ・コンサートを申し出たところ、そういう実例がないことで拒否された。アコーディオンは地味な楽器で、それ一台でのコンサートを企画してもほとんど誰も聴かないことは想像に難くない。地味な顔つきのガイであればなおさらで、ルックスがよくてもっと若ければ、そしてエレキ・ギターやドラムスが加われば話は別であったかもしれない。劇場主に対してガイはポーリン・オリヴェロスとアコーディオンの共演をしたことがあると伝えると、劇場主はアコーディオン2台とはさらに話にならないという顔をした。その経験をガイは忘れず、ソロ・アルバムを何枚も出してそれなりに世間で知られるようになった時、ふたたびアコーディオン奏者の合奏を目論んだ。それがおよそ20年後の96年春のことだ。オリヴェロスとの共演がいつのことか知らないが、20代後半は間違いなく、当時オリヴェロスからのような影響を受けたかについてはたぶん著作や映像があるだろう。しかしガイはオリヴェロスの直系の弟子のようなミニマリズム的で即興演奏を主とする仕事をせず、原初体験のポルカやワルツを基盤にした、楽譜に書いて演奏する方向に進んだ。オリヴェロスの二番煎じのようなことをしても先が見えているからであろう。オリヴェロスの曲を聴くと頂点というべき境地に達していて、そこから先に進むべき道は見えない気がする。それはさておきガイがアコーディオン奏者のみのバンドを結成するきっかけはオリヴェロスの曲にあったとも考えられる。先月書いたように彼女の84年の録音に、自身とは別に20台のアコーディオンを加えた曲や、アコーディオンとバンドネオン、コンサーティーナ、ハーモニウムの合奏曲があり、「アコーディオン・トライブ」はやや違う形として前例があって、それがオリヴェロスであったことはさすがと言うべきだ。しかしガイは数十人規模のオーケストラを好まず、少数精鋭主義であることは彼のCDからわかる。そして「アコーディオン・トライブ」は5人編成と決め、ガイがその筆頭に挙げたのがスウェーデンのラーシュ・ホルメル(Larsh Hollmer)であった。ガイは先に述べたCDの解説に他の4人の奏者を選ぶ基準として、アコーディオン奏者用にオリジナル性を称えた独創的な曲を書く作曲家を条件にし、そしてラーシュを他の4人の筆頭として紹介し、「旋律、対位法、奇妙な変拍子、生来的な抒情性への愛について私と同質のものを見た」と書き、4人の中では別格扱いだ。
直接対面しなくてもCDで互いの作曲や演奏能力、そして性格までわかる。画家や文学者と違って合作、合奏が普通にある音楽では他者と出会いやすく、一緒に演奏しやすいだろう。ラーシュはガイより1歳若く、2008年に60歳で死んだ。96年に「アコーディオン・トライブ」がゲントを初めてとしたベルギーを皮切りにオーストリア、スイス、フィンランド、スロヴェニア、ドイツのさまざまな都市をツアーしたが、ガイは先の解説の最後に、最良の思い出は楽屋でラーシュとデュエットで演奏したことだと書くほどで、ラーシュが世を去ったことはよほど応えたに相違ない。それは「アコーディオン・トライブ」の初CDはラーシュが数十時間の録音から選曲し、構成したものであるからなおさらであろう。解説にはまた、今日取り上げるラーシュの「BOEVES PSALM」について「私にとってはかつて書かれた最も美しいメロディのひとつ」とある。その絶賛はガイが18年後の2015年にYouTubeに投稿したラーシュの同曲のカヴァー演奏の裏付けとなっている。ところでラーシュの曲はスウェーデン語で表記されることが多いが、「BOEVES」はドイツ語では「ベーフェス」で、同曲名はベーフェという男性への賛歌で、「ベーフェ賛歌」と訳しておく。ベーフェがラーシュにとってどういう人物なのか知らないが、ガイは同曲をラーシュの最高傑作とみなしてカヴァー演奏し、そのことが「ラーシュ賛歌」になっている。何度も聴き比べてはいないが、ガイのヴァージョンはラーシュより少し硬い。それはラーシュを追想して厳粛な気分であったからだろう。ついでながら96年の「アコーディオン・トライブ」のツアーはチューリヒで500以上の観客があったとされ、そのことをガイが特筆するほどにアコーディオンのみの公演は地味であることがわかる。それはガイやラーシュの才能を以ってしても仕方のないことで、その意味ではアコーディオンはマイナーな楽器であることに今後も留まりそうだが、その分熱烈なファンがいるだろう。大多数の芸術とはそのようなものだ。良質の作品が誰にも等しく届いて感動を与えることはきわめて稀で、普段から強く求めている人にのみしかるべき作品が偶然かつ必然的に反応する。その真空での火花は火山の噴火のような巨大なものではなく、線香花火のようにはかないが、それを手に取る者には人生の意味を強く感じさせるいわば神からの贈り物であって、その感動を知った者は生涯それを求め続け、自己の内部に蓄えて行く。筆者がラーシュの名前と曲を知った時にはラーシュはこの世におらず、その欠落感を抱えて本曲を聴くと、ガイのカヴァー演奏は原曲にはないガイのさびしさをしみじみと伝える。そしてラーシュの本曲の演奏を聴くとガイが絶賛したことがよくわかる。メロディはきわめて覚えやすく、その単純さは何らよけいなものを必要としない。
ガイが本曲に対して書いた「これまで書かれた最も美しいメロディのひとつ」をおおげさに感じる人はあるだろう。変拍子を得意としたラーシュからすれば本曲はあまりに単純で、「美しい」は「素朴」と言い換えてよいと思うが、素朴な美は「民藝」を持ち出すまでもなくやはり絶対感を伴なう。それはオリヴェロスが採用した自然律のようなもので、細部が単純に割り切れる整数比から成っている。それにあらゆる音楽が書かれて来た現在、今さら単純素朴な旋律が人を新たに打つことがあるかと疑念を抱く人はある。60年代のザッパもそういうことを考え、一聴して記憶され、聴き手を幸福にする旋律を生むことに挑戦した。演奏困難で複雑怪奇な音楽を作る一方で単純素朴な曲の威力を信じることは矛盾であろうか。あらゆる音楽に関心のある作曲家であれば、どのような形、様式の楽曲にも美は宿ることを知っている。「ベーフェ賛歌」は誰しも一度聴いて記憶し、他のラーシュの曲を聴き進んで彼の多彩な才能を知るにおよんでまた「ベーフェ賛歌」に意識が舞い戻る。それはラーシュの優しい人柄を想像し、べーフェやラーシュがもうこの世にいないことの無常さを感じつつ、厳然と本曲が変わらぬ形で存在することの安心感と一体となっている。もちろんラーシュが生きている時に本曲を聴けばその無常は感じなかったであろうが、何事も確実に過ぎ去る。にもかかわらず出会って感動した作品はそのまま残り続ける。いかにもラーシュの曲が死とそれに対する哀切に結びついていると決めてかかった書き方をしているが、今日の3枚目の写真が示すように筆者は2枚の「アコーディオン・トライブ」以外に4枚しかCDを所有せず、その点ではガイについて書く以上に知識と聴いた経験が乏しい。であるのでラーシュが参加したアルバムをもっと聴くべきだが、そのことを増進させない思いがある。それはラーシュの最高傑作の「ベーフェ賛歌」を聴けばもう彼の本質はかなりわかった気分になることと、同曲を筆頭に収録するアルバム『ザ・シベリアン・サーカス』を聴くと彼のユーモアや過激さ、狂気のようなものがよくわかり、聴くことにかなりの体力を要すると思うからだ。そしてまた「ベーフェ賛歌」に戻って気分が安らぐ。それは同曲を陰で支えるオリジナル曲が多いと言うのではなく、同曲の一方に同曲にはないラーシュの多面性が釣り合って存在していることであって、ガイが本曲をラーシュの傑作とみなしたのはガイの性格を示すと同時にラーシュも本曲を自作の代表と思っていたことをガイは知っていたからだ。実際98年の『アコーディオン・トライブ』に収録されたラーシュの5曲では本曲が最もよく知られ、同時点での彼の代表曲としてよい。ついでながら同アルバムは21曲で75分となっていて、最長曲が6分、最短曲は2分弱で、比較的どれも短く、「ベーフェ賛歌」は3分ほどだ。
これは誰かが書いているのかどうか知らないが、ラーシュがキーボード奏者として参加した60年代末期から70年代初頭にかけてのバンド「SAMLA MAMMAS MANNA」(サムラ・マンマス・マンナ)は明らかにザッパ/マザースの影響を感じさせる。60年代半ばから70年代半ばにかけてザッパは北欧で特に人気があって、ザッパと交友した熱烈なファンもいた。ザッパはラーシュより8歳年長で、ザッパがスウェーデンでライヴをした時にラーシュはそれを見たか、あるいはアルバムを聴いたことは確実な気がする。筆者はサムラ・マンマス・マンナの73年のアルバム『MALTID』のボーナス曲つきの再発盤のみを所有し、それを聴いた限りの感想だが、8分や10分ほどの長い曲の中間部のリズムは初期マザーズの「POUND FOR A BROWN」とそっくりで、ザッパ・ファンならば一聴してそれらの曲にザッパ色を認める。おどけたヴォーカルや複雑なリズム・パートの挿入もそうで、ザッパが北欧のロック・ミュージシャンに与えた影響の大きさを思う。ただしザッパの60年代に演奏した曲の最良の部分をラーシュが数年遅れでたどっているところに、今聴けば時代遅れ感が拭えない。また73年のザッパは60年代のマザーズから大きく脱皮し、サムラ・マンマス・マンナはもうその時点のザッパの音楽には魅力を感じなかったか、あるいはR&B色を濃厚にしたザッパの音楽に関心を失ったのではないか。そのことを知るには少なくても76年までの彼らのアルバムを聴く必要がある。また筆者は所有するこれもボーナス・トラックつきの再発盤のラーシュのソロ・アルバム『THE SIBERIAN CIRCUS』は93年の発表で、80年から88年までの曲を収める。ラーシュ自身が編集したベスト・アルバムの赴きがある気がするが、ともかく同作が録音順に22曲が収録されるとすれば、同作の筆頭に収録される「ベーフェス賛歌」はサムラ・マンマス・マンナとしての活動が一段落した80年の作曲と予想される。これはロック・バンドでキーボードを演奏していたことに代えてソロではアコーディオンを奏でることになったことを意味しそうだが、手元にラーシュに関する資料がないので想像の域を出ない。ともかく「ベーフェス賛歌」はザッパの影響が強いロック・バンドを経て最初に生まれた名曲で、そこにはザッパの影響はない。その点が大事だ。ガイが70年代までのラーシュの作品や演奏をどう見ていたのか知らないが、同じアコーディオン奏者として高く評価するのは「ベーフェス賛歌」が書かれたおそらく80年以降だろう。また『THE SIBERIAN…』は「ベーフェス賛歌」以降の曲は半数が1分から2分半までで、その短さの中に主張したいエキスを凝縮させ、遊び心の横溢が時に狂気の境地に達していて、聴き手はラーシュの才能に度肝を抜かれることは確実だ。
『MALTID』では曲の中間部のソロはギターとキーボードが担当し、それは初期マザースのザッパとイアン・アンダーウッドを彷彿とさせ、またサムラ・マンマス・マンナのギタリストは速弾きの才能もあって光っている。バンドがキーボード主体であっても全くかわまないが、60年代末期から70年代初期ではギターとキーボードの存在は常識化していた。その名残ではないが、ラーシュが「アコーディオン・トライブ」の活動の一方でジョン・ゾーンのTZADIKレーベルでも馴染みのギタリストのフレッド・フリスと共演したことはラーシュの音楽性からも当然であったと言える。ラーシュはサムラ・マンマス・マンナでヴォーカルを担当したが、ソロ・アルバムでも同じで、威勢のよい歌声をしばしばおどけた調子で披露する。その点もザッパらしいとは言える。さてラーシュは「アコーディオン・トライブ」の活動が一段落してからか、2000年12月に初来日して日本のミュージシャン6名と共演し、翌年9月には録音のために再来日し、CD『空』を翌年1月に出した。さらには同作でヴァイオリンを担当した向島ゆう子と2003年3月に共演し、7曲で30分弱のデュオ・アルバムを同年秋に発売した。『空』のCDケースのトレイにラーシュの文章があり、飼っていた二匹の犬について書かれる。2001年の初め、YRSA(イルサ)という13歳の雌犬が深刻な病いを患い、4月に死んだ。ラーシュが自宅の台所スタジオ、これもザッパに通じているが、そのSTUDIO KITCHENでの仕事中、時々そのスタジオの外で死の間際の数日を苦しんでいたYRSAの面倒を看た。YRSAが逝った後、もう一匹の黒い雌犬のSNOTANはYRSAを探しにスタジオに入って来て、座りながらメロディカを奏でているラーシュのそばに近寄り、音楽に合わせて鳴き声を発した。それに反応したラーシュは早速その犬の鳴き声と自分の演奏を録音し、悲しみに浸った。後日後半部を仕上げるためにアコーディオンで和音を加え、また大熊ワタルにクラリネットを演奏してもらった。同曲は『空』に「YRSAREQUIEM」として収録され、演奏が終わった後、1分間の無音が続く。それは悲しみを噛みしめる黙祷の時間で、この曲の切々とした悲しさを少しでも癒すためのものだ。犬好きでなくても、また愛する身近な存在を失った経験のない人でも、この曲を一度聴いただけで悲しみを実感するだろう。『空』ではラーシュは前面で自己主張しているというより、メンバーの引き立て役を買って出ているように思えるが、全曲がラーシュの作曲で、ガイが認めた作曲家兼アコーディオン奏者としての才能が、そしてサムラ・マンマス・マンナ時代から変わらぬリズムの特異性が発揮されている。ラーシュは癌で死に、その点もザッパと同じだ。しかし抒情性に関してはラーシュが豊かと言ってよい。
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