「
狸そば 狐うどんに 猫まんま 烏賊に蛸焼き 犬は無視され」、「埃舞う 部屋でほっこり 我が家かな ゴロ寝しながら 駄洒落を誇り」、「くしゃみして 花粉のせいと うそぶいて 部屋に転がる 綿埃無視」、「紅白の 梅の花咲く 裏庭に のそり黒猫 我を見つめる」
ガイ・クルセヴェクつながりでポーリン・オリヴェロスを知った。彼女のCDはなかなか見つからず、中古でもかなり高価だ。筆者は今日取り上げる曲を収めた1枚しか所有しないが、それを聴いて思うところを今日は書く。YouTubeでは彼女の作品は、初期の電子音楽は少ないが、アコーディオンを使った演奏曲は10作ほど投稿されていて、筆者はそれらをすべて聴いた。ただしパソコンからの貧しい音量ではオリヴェロスが意図した音空間はさっぱり感得出来ない。こんな音楽かとおおよそはわかるが、そのことが誤解になりやすく、オリヴェロスの途方もない曲は高価なステレオ装置を使って響きのよい空間で聴かねば感動は正しく伝わらない。スマホとイヤフォンでもっぱら音楽を聴く人が多い昨今、豪華な再生装置とそれに見合う理想的な音の響きの部屋はほとんどの人には不可能なことで、想像を逞しくして音の世界に浸るしかなく、またオリヴェロスの作品はそのことを特に強いる。筆者は本作を最初に聴いた時、ただちに雷に打たれた気分になった。そういう感動は人生にそう何度もない。つまり筆者はオリヴェロスと幸福な出会いをした。これほどの作曲家、演奏家について今まで知らなかったとは、人生は長く生きる価値がある。長く生き続けなければ出会わない作品がある。その作品は人であり、またその人との出会いは物心ついた子どもの頃から自分が追い求めて育んで来た「めったにない何か」を常にアンテナを張りながら欲することの必然の結果で、それは卑近な言葉を使えば「運命」ということになるが、出会えない何かも運命であるから、短い人生の中で心を大きく動かしてくれる存在に出会えることに素直に感謝したい。筆者はほぼ毎日音楽を聴いているが、無音ではさびしいのでBGM感覚によって惰性で聴くことも多い。そういう暮らしで「めったにない音楽」と出会うことはほとんどない。ガイ・クルセヴェクの音楽からオリヴェロスに関心を抱いたのは、ガイが彼女を尊敬し、オリヴェロスの没後は追悼の演奏を捧げ、またガイのアルバムに明白に彼女の影響を受けた曲があることを知ったからだ。また髭を生やしたガイがオリヴェロスと並ぶ写真もあり、そこではオリヴェロスはほとんど男に見える。彼女の若い頃はさほどでもないが、老いるほどに男性化したように見え、彼女が公言したように同性愛者であることは誰の目にも明らかであろうし、彼女はフランスからアメリカに移住したユルスナールに近い雰囲気がある。ただし写真で見る限り、晩年のオリヴェロスはより狂気が潜んでいるように感じられるオーラがある。
彼女の音楽を貫いているのは自然が内在する美しさだ。YouTubeで見られる彼女の晩年のインタヴューから知ったが、1955年であったと思うが、ともかく50年代前半すなわち20代前半に彼女は父親から2台のテープ・レコーダーを買い与えられた。彼女はそれで部屋の外気を録音し、それが何よりも最も美しいと感じた。自然の中の自然さに最良の音楽を聴いたのだ。話は少し変わる。昔新聞の読者欄に、展覧会で名画を見るより自然の美しさを感じる方がはるかに楽しく、なぜ芸術の必要があるのかわからないと投稿していた年配の女性がいた。そういう人がいて当然で、またそういう目をまず持たねば芸術はわからない。自然に美しさを感じることは誰しもで、ごくあたりまえのことだ。絵画でも音楽でも文学でも、芸術は形づくることであって、そうして生まれる作品が他者を感動させる。その形はさまざまで特別の決まりはなく、形らしいものがない無定形の場合もある。オリヴェロスがテープに録音した自然環境のさまざまな未加工の音は録音開始と終了が必ずあるから、最初と最後を持つ一定時間を記録したもので、それは作品と言ってよく、その自然の音には鳥のさえずりや車が遠くに走る音、人の会話が時にかすかに混じっているかもしれない。それら全部を含んでオリヴェロスがその録音を美しいと思ったのは、人生をそう感じたことと同義だ。彼女がそのテープによる録音を皮切りに音楽の世界に踏み込んだのかどうかは知らないが、常識的に考えて子どもの頃から音楽に関心はあり、遅くても10代でピアノなどの楽器を演奏し始めたであろう。それに同時代のアメリカでどういう先達の音楽があるかも探ったに違いない。だがテープ・レコーダーが彼女の作曲に大きな変化の機会を与えたことは確かであろう。演奏することで自分と他者が聴く音楽と、レコードとして記録するために必要な録音のふたつに関心を持ち、後者はテープの早回しや切りつなぎによって自然には存在しない音楽を創出出来る可能性を気づかせ、またその延長に電子音楽へも開眼させたように思う。20歳頃のザッパも電子音楽、テープ音楽に興味を寄せ、そうした録音を遺しているが、当時ザッパがオリヴェロスの名前は出さなくてもその存在を知っていたであろう。ただし、ザッパは電子音楽の道に進まず、8歳年長のオリヴェロスはそのパイオニアとして活動を続ける。筆者はオリヴェロスの電子音楽の作品を数点しか知らないが、当時最先端の機器を駆使し、後にシンセサイザーの原理を導く素朴な周波数の信号音やその変調音をパレットの色として使い、さまざまに重ね合わせて音楽作品を作っている。それらはどれも起承転結があり、
アルヴィン・カランのある種の作品の祖となっていて、端的に言えばミニマリズムでありまた詩情豊かで、ドラマティックでもある。無機質な信号音を使用するからにはその志向性は欠かせない。
もっと言えばどこか女性らしさを感じさせ、そのことはアコーディオンを使うようになっても変わらない。同性愛者であるので女性的と評されると彼女は心外だろうが、女性らしさを細やかさと言い換えてよい。その繊細できめ細かい感性は作品の構成や演奏に表われる。それは暴力的とは正反対に聴き手を大きく包み込むもので、筆者が本曲を聴いて直ちに感じたのはそのことだ。彼女のどの作品にもそれは共通し、彼女が基本的なごくわずかな要素を発展、変化させ続けることで紡ぐ長大な音楽はBGMとして聞き流すことはもちろん可能だが、作業の手を止め、じっくり音の流れに身を浸すとあらゆる感情が湧き、また思索している自己に気づきもし、3,40分続く1曲を聴き終わると快感と疲れを覚える。その疲れは熱中し続けるための気力と体力を消耗するからだが、快感とは一言出来ない、それこそオリヴェロスの音楽でしか伝わらない何かがなせるわざと言ってよい。言い換えれば不可思議なものに接した時の戸惑いで、その謎めきは日常では感じられない異常なものと一体化している。彼女は自分の音楽を「ディープ・リスニング」と形容した。そのとおりで、気軽に聴いて楽しむ音楽ではない。じっくりと真剣に聴くのであれば一度で充分と言えるが、人間は忘れやすい。本曲にしてもどういう音であったかをすぐに忘れ、いずれまた聴きたくなる。彼女の音楽を聴く行為は儀式に近く、聴き手はまじまじと音の連続にただただ身を浸し、聖なる何かを見つめている気になる。その聖なるものは本来自然に内在し、自然から感得されるものだが、いつどこでもそれを感じることは現代人には困難だ。自然豊かなところに住んでいる人でもその自然に慣れ、神々しさを感じることは珍しいことだろう。そういう時に人が創る芸術作品が役立つ。結局人は人から感動を与えられるもので、豊かな自然から微小な存在の人が見出して構成した見事な形というものに対して人は温かみや懐かしさを感じる。ただし、そのこともいつまで可能か筆者にはわからない。以前何度か書いたように晩年のロジェ・カイヨワは人が創る芸術よりも自然の中にある見事な造形に魅せられ、世界各地の珍しい貴石を収集した。その気持ちはわからないでもない。押しつけがましさを感じる作品があるからで、柳宗悦が民藝品を愛したのはそうした自己主張とは無縁であるからだろう。芸術は自己の何を表現したいかだ。名声や金に執着する者は作品にも人柄にもそれが出て当然で、筆者は年々そうした人物や作品を避けるようになっているが、オリヴェロスは聴いたことのない音の響きを追い求め、美や神、宗教や自然、そして音楽といった、人間にとって根源的なことだけに問いを発し続けたように筆者には思える。だが彼女の長大な音楽は多忙な人にはコスパが悪く、要するにどんな音楽かと、YouTubeでわずかに聞き齧って知った気になるだろう。
結局のところ、芸術はそれが必要な人にだけ心を開く。オリヴェロスの電子音楽はいかにも60年代の雰囲気があって、今では古臭い音色と言ってよいが、彼女はシンセサイザーが登場した頃には電子音楽に興味を失ったのではないか。そこが冨田勲との違いで、冨田が欲したのは電子音を実在の楽器音に近づけながら決してそれと同じにはならない電子音による演奏と作品であった。オリヴェロスは電子音を12音階に定め、それを自在に使って楽曲を作る方向には無関心で、素朴な周波の電子信号音やあるいはテープの早回しなどの構築で音のドラマを作った。前述したようにそれは起承転結があって、たとえば水の一滴の落下音がやがて広大な川の流れの音に広がって行く電子音楽曲のように、その物語性がわかってしまうと、耳馴れない電子音で作ったドラマティックな構成の曲は聴き手に陳腐さを感じさせる場合があるかもしれない。オリヴェロスの3、40分のアコーディオンの演奏曲は必ず始まりと終わりがあって、聴き手は始まりにおける一種のかまえと第一印象を抱き、それがどう変化して行くかの期待を抱きながら、やがて聴き疲れから最後がどうなるかを探りもする。そのことはオリヴェロスも同じで、彼女は自分で納得するように演奏しながら、聴き手と同じ人間であるので長時間の緊張した演奏の持続は起承転結の思いに当然裏打ちされている。断っておくと、彼女は楽譜を使わず、即興で演奏する。ゆえに演奏疲れを生ずる時間は40分程度が限界となるだろう。ミニマリズム的にほとんど明確な変化のない和音をゆったりと奏でるのであれば、どの演奏も似たものになりがちだが、彼女は演奏する場所を特に選び、その独特な音の反響に見合う音楽を紡ぐ。そのため、彼女のアコーディオンを使った演奏はどれも似ていながら、どれも全く違う。その点が驚くべきことで、筆者は本曲のみで充分と感じているのに、その背後に数多いディープ・リスニングを強いる作品があることに慄然とする。彼女のその途方のなさはアメリカの現代音楽では比するものがなく、聴いた後の余韻の長さは何日も何か月も去らない。西海岸に住んだ彼女が60年代に流行した瞑想や禅、仏教に強い関心があったのは当然として、筆者は一方でビートルズの音楽を思い浮かべ、特にオリヴェロスがジョージ・ハリソンのある曲との旋律を共有していることを面白がっているが、ジョージのインド音楽との影響関係はさておいて、アメリカにおけるインド音楽の紹介の経緯に思いを馳せる。ガイ・クルセヴェクはホヴァネスに関心を抱いたが、オリヴェロスも少なからず父親世代に当たるホヴァネスの音楽世界に感化された気がする。それは自然の雄大さへの着眼だ。とはいえここでは彼女が異文化の音楽や文化に強い関心があったとだけ触れておく。そして彼女はアメリカの広大な自然を感じるほどに極小の要素で作曲することにしたのだろう。
後述するが、オリヴェロスの曲にガムランの打楽器を使ったものや読経を思わせるものがある。またアコーディオンでは日本の笙とそっくりな音色をしばしば奏でる。そうしたことが瞑想や聖なるもののイメージとの結びつきやすさで、音楽が非日常性に昇華している。それは彼女が若い頃にテープ・レコーダーで自然の音を録音したこととつながっている。自然の日常の音世界をテープ録音によって切り取ることはひとつの儀式的行為だ。その録音を聴き返してその音が何よりも美しいと感じることは、彼女をその後カメラマンに駆り立てたかもしれない自然美の発見で、それを元に自作を構成しようと決めた時、自然に溶け込み、自然の助けを得ることを最大限に考えたことは想像に難くない。そして電子音楽とは別の方法による現場主義による音の構造の探索には持ち運びがたやすく、ひとりで演奏可能なアコーディオンが最適であった。ところで、音は周波数で高低や音色が決まる。そして楽音の連なりとなれば各音の周波数をどう定めるかがまず問題となる。電子音楽でそれをするには、また豊かで自然な音色を得るには、高度なシンセサイザーを待つ必要があるが、彼女は電子音楽を作る閉じたスタジオという空間を捨てた。そのことはかつて自宅で窓の外の自然の音を録音したことから説明出来る。しかし不定期かつ切れ目なしに続く自然の中の音を録音してテープを切りつなぐという方法ではなく、自ら自然の中で自然にはない自然らしい楽曲を構築する方向を目指した。それには楽器を手に取るのが手っ取り早い、あるいはそれしか方法がない。さらにそこでより自然らしさ、しかも完璧なそれを求めるのであれば、楽器の調律にこだわる必要がある。電子音楽を作るスタジオの中でそのことはすでに思いにあったはずで、周波数の単純な整数比によって和音が最も美しく響くという、ギリシア時代から人々が考えた音楽の根本にある「律」をまず考えたに違いない。ガイ・クルセヴェクの2004年のアルバムに『THE WELL-TAMPERED ACCORDION』がある。題名はバッハの『平均律クラヴィア』をもじったものだが、ガイの頭にはオリヴェロスのアコーディオンがあったのではないか。アコーディオンは必ず平均律で調律されていると筆者は思っていたが、オリヴェロスはアルバムの解説に自分が使用するものは自然律であると書いている。自然律を使う音楽家として筆者は最初に
テリー・ライリーを知った。彼の音楽はキーボードの即興とヴォーカルによる長大なものがもっぱらで、しかもともに同時代の西海岸のミニマルの作曲家であり、オリヴェロスとの共通性はある。それは瞑想性に聴きどころがあることだが、TZADIKレーベルからもアルバムを出しているユダヤ系の彼は奏でる旋律はクレッツマー性が濃厚で、オリヴェロスの音楽と違って秘教性を狙ってか、概して陰鬱さが強い。
テリーのように電子楽器のキーボードを自然律に調律することは今ではたやすいようだが、アコースティックのアコーディオンとなればその内部のリードを調律する必要があって、専門家に任せる必要があろう。ガイ・クルセヴェクは数台のアコーディオンを所有し、その中に自然律で調律したものがあるのかどうか知らないが、彼がオリヴェロスにオマージュを捧げるべく数人のアコーディオン奏者と演奏した時、それらの楽器は自然律であったのだろうか。そうでなければオリヴェロスの求めた音色は出せないはずで、たぶん調律し直したであろう。しかしガイの曲は多彩なメロディを旨とし、自然律では不便であるので平均律を採っているはずだが、先のアルバム名のようにバッハを意識しつつ、西洋音楽の伝統を踏襲する気持ちはない。そこにはアコーディオンが傍流の楽器であるとの思いと、オリヴェロスの自然律とその絶大の効果を知っているからであろう。ガイは彼女を尊敬しながら、彼女とは全く違う世俗性に立脚し、伝統から前衛までを把握しようとした。そのあらゆる音楽に着目する態度の中から同じアコーディオン奏者のオリヴェロスに着目したことは必然として、ガイは彼女の音楽の方法に範を取った1曲を除いては模倣しない。それは彼女を超えて創造的であることは不可能であったからで、学び取るとすれば精神の自由さだ。ガイとオリヴェロスとでは作品におけるその発露は差があるが、気高さや純粋さ、美しさの点で通じている。さて、自然律で今思い出したが、ロジェ・カイヨワに著作には筆者の知る限り、音楽の律について書いたものはない。カイヨワは美術に関心はあっても音楽にはさほどではなかったようだが、自然の仕組みがごく単純なそしてごく少ない理論によっていることを考えていた彼には音楽の律がどのように見えていたのかは興味深い。和音は数学的に完璧な、つまり単純な数値の比例によることを古代人は知っていた。周波数を倍にするとオクターヴ高い音が得られる。周波数は弦や管の長さと同じで、それらを倍にして音を発すれば逆に1オクターヴ低い音が出る。また周波数を1.5倍にすれば元の音とは完全5度の和音の音が得られる。そのことを繰り返して行くと自然律の音階が得られるが、12音ではなく、13音が生まれ、最初の音と最後の13音目は12音から成る音階で言えば同じ音になるはずが、4分の1半音ほどの音の差が出る。その差をピタゴラス・コンマと呼ぶが、カイヨワはその自然の中に存在する具合の悪さ、収まりの悪さと言い換えてよいが、それをどのように思ったことであろう。自然は美しい、完璧な法則で構成されているはずであるのに、音楽ではそうではない。カイヨワは自然の中に非対称のものがたくさんあることの理由についても思索したが、ピタゴラス・コンマはカイヨワが着目した稀な左巻き貝のようなものとは言い切れず、厳格に音楽に存在している。
ピタゴラス・コンマは整数比的に音を積み上げた音階に必然的に生ずる誤差で、ギリシア時代以降、音楽家は音階をどう調節して作曲、また演奏するかに無関係ではいられなかった。バッハの時代になると完全5度も厳密には完全ではないように調律し、どの和音も濁りが混じるようになった。WELL-TEMPEREDは「WELL」が肝で、それは「絶対」の意味ではない。平均律は「充分に」調律されたとの意味であって、完璧を言えば自然律のほうがそうだろう。ただし自然律では平均律よりも濁る和音がある。主和音、下属和音、属和音はうなりなしに響くが、移調が困難で、たとえばハ長調の根音のCをラとする短音階では平均律のように美しく響かない。つまりどの律も一長一短で、あらゆる複雑な音楽に対応する理想的な律が求められて妥協的に平均律が生まれた。それはいかにも市民社会に適し、ピタゴラス律や自然律は絶対君主のイメージに近い。オリヴェロスは鮮やかに転調する曲を演奏しない。3,40分もの間、音階はひとつで、完全調和を念頭にアコーディオンを即興演奏する。そのほとんど途切れない音は、蛇腹をどう動かすかの技術的な難しさがあるだろう。歌で言う息継ぎのようなごくわずかな不自然さはあるが、それを不自然と感じないのはアコーディオンを奏でるのが人間であり、人間は息をするからと思えばよい。ともかくオリヴェロスは大きく息を吸い、それを長々と静かに吐く深呼吸のような感じでアコーディオンを奏で、少しずつ音を変え進む。それは気分の赴くままで、そうしたゆったりとした気分に浸れる特別な空間を選んで録音した場合が多い。それは演奏場所を変えると響きが異なることの面白さに着目し、楽器内から響く音がその楽器を取り巻く空間とどう響き合うかを確かめたいからで、彼女のCDは楽器そのものとそれが奏でられる空間の響きが等分されて収録されている。そのことは電子音楽ではあり得なかった。単純な周波数の信号音の世界から、同じ自然の根本原理に沿いつつ、人間的な音楽へと進んだ。そして作品の構造は電子音楽では周波数の信号音のダイヤルのつまみを回す手作業による積み上げで、そこにも即興性はあったはずだが、そのダイヤルがアコーディオンの鍵盤に代わり、そして閃きを与えてくれる特別な空間に場所を移して、自然さを得ると同時に自然に内在する神秘さに接近するために自然律に負いつつ、その律から最大の魅力を引き出そうとした。それは自然の美を見つめながら自身に内在する自然さを美しく引き出すことであって、見事な作品は彼女の人となりが美しいことにほかならない。長大な作品でも煮詰めれば何か一言でたとえられると言われる。彼女の作品は聴いたことのない響きと言ってよく、それは自然律の採用と、息継ぎをほとんど聞かせないように蛇腹を開閉する技術とどういう和音や音階を奏でるかという独創性の追求だ。
オリヴェロスのアルバムはどれもジャケットが面白い。82年録音の『ACCORDION & VOICE』はソロとしての初録音で、「HORSE SINGS FROM CLOUD」と「RATTLESNAKE MAUNTAIN」の2曲が収録され、どちらも動物が題名に含まれる。ジャケット写真の遠景は禅のセンターがあったニューヨーク州のトレムパー山で、その麓の草原で彼女は傍らに犬をしたがえてアコーディオンを演奏している。その顔は晩年よりかなり女性らしく、また自然を満喫している様子が伝わる。彼女はその草原にあった家に住み、自然の色の移り変わりを感じ取ったことが同作に反映された。「HORSE SINGS…」では最初のアコーディオンの単音が次第に音を加え、やがて彼女はその和音に合わせてお教を唱えるように声を発する。同地で暮らしたのは禅のセンターで瞑想するためであろう。そのことを知ると日本では彼女の音楽はわかりやす過ぎると思われ、また西洋人の禅への傾倒はどれも野狐禅であると謗る人もあるだろうが、瞑想が洋の東西を問わない普遍的な行為であるならば、多民族国家のアメリカでは禅や仏教も偏見なしに憧れを抱かれるはずだ。ジョン・レノンが66年に「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」を発表した時、本来ならば僧侶の読経の音を使いたかったことのその現実の一例としてオリヴェロスが同曲と同じくワン・コードでこの82年録音のアルバムを作ったと考えれば、彼女の音楽はビートルズのようにポピュラーにはならなくても、別のアプローチで瞑想しかも自然美の中でそれを得ようとしたことは現代音楽に馴染みのない人にもたやすく受け入れられるのではないか。また彼女はジョンより8歳年長であるのにジョンよりかなり遅れて僧侶の読経とその伴奏のような長大な曲を演奏したことに対し、ビートルズよりはるかに遅れた仏教思想かぶれとみなす人もあるかもしれないが、彼女なりの独創がたどって来た道があり、ビートルズから影響されたと考えることは間違いだ。ともかく、20世紀後半はインドその他の外国の音楽に注目する動きが活発化し、そのことは日本における当時の民族音楽ブームからもわかる。「RATTLESNAKE…」はバグパイプの演奏を想起させる音色で、彼女は演奏しながら山歩きを想像したとのことだ。歌はなく、アコーディオンはある音階から成る即興のメロディを終始繰り返し、テリー・ライリーの演奏をどこか思わせる。この音階から外れない音を素早くまた執拗に同じテンポで奏で続ける行為は、脳裏にある多くのイメージを順にひとつずつ描き出すのではなく、一歩一歩地面を踏みしめる山歩きそのものになぞらえ、そのあまりに充実した思いに触れるよすがとしたもので、聴き手は題名から示唆されてオリヴェロスが味わった幸福感をその曲から想像し、またそのことが楽しい。
もう1枚紹介する。オリヴェロスが象に乗った写真をジャケットに使う84年のアルバム『WANDERER』がある。動物が登場するのは前述のアルバムと同じで、彼女の自然や動物好きが伝わる。アルバム・タイトル曲と前述の「HORSE SINGS…」の別ヴァージョンが収められ、2曲とも彼女単独の演奏ではなく、合奏だ。前者は最初彼女のアコーディオンの独奏があり、やがて20台のアコーディオンと打楽器が加わる。その同じ楽器の多用はグレン・ブランカのギターを使った交響曲に通ずる。冒頭10分ほどのオリヴェロスの独奏は前述の「RATTLESNAKE…」のメロディと同じはずで、山歩きでさまざまものを目にしながら思いが定まらない逡巡のような感覚を表現し、そのことは題名の「さまよう人」にも表われている。10分以降は突如20台のアコーディオンと打楽器が加わり、とても賑やかになる。指揮者にしたがっての演奏で、ジグ、リール、ブラジルのバトゥカーダ、ブルガール、クレッツマーやケイジャンなどのダンスのリズムを混在させる。音階はB-C#-D-D#-E-F#-G#とのことで、これはロ長調とすればC#が多くてB♭を欠き、ロ短調とすればD#とG#がよけいでGがなく、彼女独特の音の世界にふさわしいのだろう。また純正律で調律されていたならば他の20台もそうであったのかとの疑問が湧くが、アコーディオンのオーケストラは派手な打楽器を加えているから、微妙な音の調和を問題としないのではないか。グレン・ブランかの100台を超えるエレキ・ギターの合奏は平均律であるはずで、20台のアコーディオンを用いたのはさまざまなリズムが混在すると同時に、倍音が生じてもかまわない、あるいはその効果を狙ったように思う。2曲目の「RATTLESNAKE…」が面白い点はオリヴェロスがバンドネオンを奏で、他にアコーディオン、コンサーティーナ、ハーモニウムという類似のリード楽器3種を加えた合奏となっていることだ。これも調律がどうであるかだが、耳のいい人はCDから聴き取るだろう。さて以上は前置きだ。今日取り上げる「聖ジョージと竜」は91年の録音で、2曲収めるCDの2曲目で演奏時間は50分弱だ。題名は美術でよく知られ、オリヴェロスは石造りの薄暗い教会の中でこの聖人の彫刻を目の当たりにしながら早朝に演奏した。途中で栗鼠が姿を見せたそうだが、そうした時のオリヴェロスの心の動きが演奏にわずかに表れているかもしれない。アコーディオンのみの演奏で、題名から何を連想するかによるが、聖ジョージの物語を知れば、また暗い空間で若い女性を救うためにドラゴンを退治する聖人の姿を想像すれば、竜が殺戮されるイメージも湧く。また聖人に列せられたことは殺されたためで、本曲を聴いて心が穏やか一辺倒にはなるとは限らない。そこに仏教とはやや違うキリスト教の血生臭さが本曲には張り付いている。
オリヴェロスはたまたま教会の中でこの彫刻があることに気づいて本曲の題名を思いついた。そのため題名は別のものであった可能性がある。そうなれば聴き手は別の印象をこの曲に抱くことになるが、この題名を選んだのは偶然であり必然でもある。動物好きであれば空想の動物のドラゴンに導かれても当然で、また瞑想によって聖なる境地にさまようことを目指すのであれば、教会内部で演奏することも彼女にとって必然であった。したがって彼女があえて定めた本曲の題名は他のものに変えられない。また一旦そのように題名を決めると作品はその名前に沿って人々に享受される。それほど題名は重要で、熟考する必要がある。それに本曲の題名を選んだことはオリヴェロスの詩人としての才能を示しもする。彼女は教会で演奏することに決めた時、そこに設置される聖ジョージと竜の彫刻を目に留め、その時はさほど意識しなかったかもしれないが、演奏中あるいは後に題名を考える際、その彫刻が思い起され、また演奏中にその彫刻の存在に意識を向けなかったことはあり得ない。周囲の環境に敏感に反応して演奏する彼女であるから、教会内のすべてが本曲に作用した。そして演奏後に題名をつける時、さほど意識しなかった彫刻が心の中で拡大し、その伝統的な画題しかあり得ないと確信したのだろう。「聖ジョージと竜」はたいていは凄惨な場面として描かれ、日本で言えばヤマタノオロチや、あるいは現代で言えば黒澤明の『七人の侍』が思い浮かび、刃物による殺戮場面を伴なう。その一方、オリヴェロスが書くように演奏中に栗鼠が現われたことは彼女らしいかわいさに対する眼差しに示すもので、本曲がただ慄然とした気分で聴くものではないことを意味する。聖ジョージが槍で竜を刺し殺しながら、その場面を栗鼠が見ていると考えれば、一気に非現実的な「聖ジョージと竜」は身近なもの、すなわち作りものである映画か劇の一場面に変容するが、音楽は題名によってある一定方向に導かれるだけであって、本来何も意味しないから、本曲を聴いて何を連想しても間違いではない。彼女の85年と89年の作に『ライオンの目』と『ライオンの物語』があってどちらもガムラン楽器を使っているが、どのようにして鳴らしたのか、猛烈に素早い金属の連打音が随所にあってそのコミカルさに筆者はいつも笑う。ライオンをイメージするのにそういう旋律は具合が悪いのではないか。だがオリヴェロスは象に乗ることを望むほどで、ライオンを恐怖の対象とは見ず、愛らしい動物と思っていたのだろう。それも女性らしさと言える。そのように考えて本曲をじっくりと聴くならば、各自が自由に想像を広げるべきで、また自ずとそうなる。その経験が貴重だ。音楽は詩に近い。詩を伴なわないオリヴェロスの曲は却って詩情に溢れている。彼女の全録音を網羅した全集が発売されないかと思う。
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