「
蕉門を 自認する人 しょうむない 模倣の句詠み むほほ自惚れ」、「教養の 漢字知らずも 仲間あり 群れて馴れ合い 心はだはだ」、「落とし前 自らつけて 男前 誰も褒めずも 天晴気分」、「死を想い 今が大事と 何もせず お目目を森に 向ければ夕日」
ここ数日の投稿は今日の『魔の山』についての感想の序みたいなものだ。そして今日は重い腰を上げてその小説について書く。気が思いのはいつも以上に考えがまとまらないからだ。それほどに『魔の山』は簡単にはまとめられない多面性を持っている。物語の起承転結のみに関心がある人にとっては本書の大部分は面白くなく、10分の1程度の量で書き替えられると思うだろう。だがトーマス・マンはそうしなかった。作品はそのままの姿で受け手は鑑賞すべきで、長編になっていることはそれなりの理由を把握し、また楽しむべきだ。以前に書いたことがあるが、17、8の頃に学友Uが分厚い文庫本を読んでいた。題名を問うと笑顔で『魔の山』と答えてくれた。Uとは卒業後一度も会っていない。そのためUが『魔の山』をどのように読み、その後どのように関心を広げたか知らない。また筆者がUとのそのごくわずかな対話を半世紀以上も何度も反芻し続け、ようやく読破し、こうして感想文を書くことUは想像だにしないはずで、そう考えると縁の不思議さをつくづく思う。筆者の関心事は20歳までに完成した。もう少し広げて20代半ばまでだ。幸いその頃は日本の高度成長で、初めて実物の作品が展示される画家の展覧会が目白押しの状態であった。その時期に筆者は遭遇して幸運であった。もちろん今はネットでそうした情報は瞬時に得られるが、実物との遭遇はやはり価値が断然違う。話を戻して、Uが『魔の山』を読んでいた頃、筆者はその題名を知っていたが、ドイツ文学は誰しもまずゲーテやヘッセを読むのがもっぱらで、トーマス・マンはやや敷居が高かった。それに当時書店で毎月買っていた河出書房の世界文学全集にはマンの作品は『ブッデンブローク家の人々』のみがあった。筆者は読むならばまずはもっと長編の『魔の山』を、またそれを新潮世界文学全集にある一冊でと決めていた。その理由は版型が河出書房の全集より小ぶりでデザインがよく、また1冊にまとめられていたからだ。新潮世界文学全集は河出書房の全集より少し遅れて69年か70年から刊行されたと思う。手元の『魔の山』の奥附は71年1月の発行となっていて、筆者19歳だ。その本を入手したのはネット・オークションで昨年の夏ことだ。本には注文票が発行時の状態のままで挟まり、栞紐も指を触れた形跡がなく、半世紀前に購入した人は箱から出さず、繙かずに死んだのだろう。昔は文学全集の刊行が流行し、多少教養に関心のある人は買った。ところが多くは読まれず、やがて邪魔もの扱いされて古書店行きとなる。そして筆者のような酔狂な人物が買うが、またそのままになることはよくある。
筆者が10代で本書を読んでいれば人生が変わったかと言えば、それは何とも言えない。半世紀経った分、理解度は高まったと思うが、老いたことで感激の精神が磨滅しているかもしれない。それはさておき、本書の読破によって新たな関心がいくつか湧き、読んでよかった。読書の愉しみはそこにある。長年の気がかりを解消出来たことは言うまでもないとして、言葉のみで構築された本の見事さ、その可能性を目の当たりして圧倒された。世間に存在する小説は何十回生まれ変わっても読みこなせない量があるから、読むならコスパを考えて名作を優先したい。他の芸術でも同じで、質の高い感動を求めるのであれば評価が定まったものにまず接すべきと思う。そしてどのような芸術でもその実物にまともにしかも孤独に対峙せねばならない。『魔の山』は400字詰め原稿用紙で2500枚弱の文章量で、筆者は読み終えるのに3週間以上要したが、そのようにある程度の月日を要して読み進めるのがこの本ではふさわしい。それは本書の序にあるように時間をテーマにしているからでもある。筆者は『魔の山』もマンのことも全く何も知らずに、また知ろうとせずに半世紀をあえて過ごした。予備知識なしで作品に接することを筆者は絵画でも音楽でも旨としている。その方が感動は大きい。ネット社会になり、コスパという言葉がよく使われる。『魔の山』を読むことはコスパ最悪と考える人が多いのではないか。WIKIPEDIAで手っ取り早くあらすじを知れば金もかからないがそれではよけいにコスパが悪い。本当の面白さ全くわからないうえに、他人がまとめたあらすじを読むことは時間の無駄でもあるし、誤解の可能性が大きくなる。そのため必ず最初からつぶさに読むことだ。途中で投げ出す人はいるはずだが、それは縁がなかったと思うしかない。あるいは理解力の不足を自覚すべきだ。筆者は10代にヘッセの『ガラス玉演戯』を読み始めて途中で放り出したものの、本書と同じように半世紀以上気がかりになっている。そして数年前に本を入手し、それを近いうちに読み始めるつもりでいる。本書も『ガラス玉演戯』もなぜこだわるのかと問う人がいるかもしれない。世の中にはもっと楽しいことが山とあり、アニメやゲームのほうがはるかに気晴らしになると考える大人は多いだろう。長編小説はあらすじを知れば充分で、そうした知識だけでも他人に自慢も出来るし、そのように考えて薄っぺらい知識を物知りのような顔をしてYouTubeで報じている人もいるだろう。筆者はこの文章で本書のあらすじを書くつもりはない。それでは面白味を伝えられないからで、また多岐にわたる内容をどうまとめていいかわからない。いつものように即興で書き連ねることしか出来ず、その熱意のようなものが読者に伝わればと思っている。本書を貫くマンの考えや主人公のそれも一言すれば、その熱意による軌跡だ。
芸術作品もすべてその熱意が根幹にあるべきで、それが美しい形として受け手に伝わるべきでもある。コスパを言えば、筆者の文章は収入につながらず、最悪のコスパだが、書いておきたい熱意を自覚している。それが熱い状態でいる間に言葉を繰り出しておきたいのだが、即興ゆえに美しい形に整えることは無理で、読者はやはり損したと思うかもしれない。なぜこんなことを書くかと言えば、本書を読んだ時間に見合う価値が充分あってコスパがとてもよかったのだが、こうして書く感想を他者が読んだ時のコスパのよさを筆者は保証出来ない。その点においてマンに申し訳ない気持ちになると同時に自分の能力のなさを自覚もするが、筆者の文章を読む人は多くて数十人で、他者に興味がない筆者は他者を念頭に置かずに書いている。他者とは作品を自ら作らない人のことで、したがってそうした人からどう思われてもかまわないし、そもそも声が届かない。この文章によって本書を読みたい人が出て来れば嬉しいが、10代半ばで『魔の山』やトーマス・マンの名前を知らない人は読みこなせないだろう。名作と呼ばれる作品でも縁のない場合は多々ある。筆者もそうで、偉そうなことは全く言えない。ところで日本の高度成長期は文学全集が流行した。その後出版社はほとんどそうした全集を出さなくなった。ネット時代になってスマホ一台で何でも事足りるようになり、重い本は敬遠されるようになったのだろう。ミニマル主義者はモノがほとんどない部屋が心地よく、文学全集のように物理的に場所を大きく占めるモノがあることを汚らわしく思うだろう。そういう人は、あるのかないのか知らないが、電子本で本書を読みたいだろう。だがそれでは駄目で、分厚い本の重さを常に実感しながら活字を追うべきだ。マンはそのような読み方を念頭に書いた。小説が言葉の巨大な積み上げであれば、電子本でも内容は同じだが、人間が感じる重さは質感が伴なう。紙を触る質感は快感であり、たとえばこうしたネット上の画面上の文字をたどる文章は一瞬で吹き消されるはかなさを本質的に持っている。それでもないよりははるかにましとの思いを抱いたので、筆者は2005年からほぼ毎日ブログを書き続けて来た。さて、本書を1日1節ずつを心がけて読み始めた。最初の方は1節が数ページで、1,2節ずつ読み進めたが、後半になると1節が当初の10倍ほどのページ数が目立つようになった。この不均衡性は12年要して執筆した間のマンの気持ちの変化に幾分は応じているだろうが、後半になるほどに1節当たりのページ数が増すことは、濃密な山場をそこに置いたからだ。もちろん長い1節を数日に分けて読んでいいが、少なくても1日1節と決めれば、かなり長い1節を深夜2時や3時になっても読み終えたい気になる。そういう読者の熱を促すべく物語が構成されているし、そこに読者を飽きさせないマンの周到な計算がある。
本書の舞台の95パーセントはサナトリウムという閉ざされた小空間で、舞台劇の赴きがある。そこでの人間模様を終始描くのでいわば映画にはとうていなり難い物語であって、本書を元に映画用の脚本を書くことは不可能ではないにしてもマンの思いを大きく無視したものになるはずだ。また登場人物はすべて経済的に豊かで、その意味で二重に別世界の物語だ。トーマス・マンはバルト海に面したリューベックの生まれで、本作の主人公の青年ハンス・カストルプはリューベックから近いハンブルク生まれで、20代半ばで造船技師の見習いの勉強をしている。その彼がスイスのダヴォスに行くことになったのは軍人である友人が肺を病んでサナトリウムにいるのを見舞うためで、当初は2,3週間の滞在であった。それがミイラ取りがミイラになった形でサナトリウムで7年も過ごすことになる。そこは現在の日本で言えば介護つき老人ホームのようなもので、部屋があてがわれ、食事はすべて用意され、患者という言葉は一切出てこないが、サナトリウムの住民は知り合いのグループを作って日々遊んで暮らしている。肺結核が死に直結する深刻な病ではなくなった今、本書の舞台となるサナトリウムは非現実的だが、世間から離れて浮世離れした空間での人間模様は、たとえば会社や自治会、あるいは飲み屋での交流といった形でいつどこの国でもそれなりに存在し、またマンはそのことを知ったうえで、狭い社会での人間模様を描き、そこにまだ世間知のない青年カストルプを置くことで、その平均的市民がどのように変貌して行くかの一例を描くことにした。本書でマンが書くように、本書は「時代小説」であり、また巻末に解説者が形容するように「教養小説」でもあって、その意味では大学生ないし社会で働き始めた頃の人が読むのがいいだろう。だがいつの時代も教養の言葉に拒否反応を示す若者が多いのではないか。筆者が20代の時も同じで、堅苦しいことは避けて娯楽を享受したいものだ。スマホ・ゲームしている若者をよく見るにつけ、いよいよそう思う。だが本書が書かれた時代もおそらく事情は同じで、文字は読めても文盲同然の人は少なくなかったであろう。ネット時代になって何でも即座に手軽に調べられる便利さが得られるようになったのに、相変わらず本書を読む人は昔から同じ少ない割合に留まり、教養を強要されることに拒否反応を示す。知らないことを知りたい、そのことが楽しいと思う人でなければ本書は面白くない。こういうことは本書を進んで読む人にとっては言うまでもないことで、筆者はどうでもいいことに言葉を費やしていることを自覚せねばならない。もっと言えばカストルプは学ぶ意欲のある青年で、あらゆることに好奇心が旺盛で、本書には量子から天文、暦や数学、植物学、美術や音楽、詩など、あらゆるジャンルのことが書かれ、その意味でも教養を求める人しか読みこなせないと言える。
本書に映画の話が出て来る。100年前の物語なので当時映画はあった。しかしマンはそれを芸術として評価していないことが本書から伝わる。映画の画面に大写しになる俳優の正面顔は鑑賞者に対峙しているが実際はカメラを見つめていて、そこには演技が介在している。しかしマンは俳優業を否定はせず、その点は辻まこととは違ってどんな人間にもなり得ると自覚する俳優業に対してそれも芸のうちと見ていた。映画は次々に消えて行く影で、小説は言葉によって読者にそうした映像を脳内に映じさせ、しかもその映像は読者ごとに違ってその差異を客観的に比較することは神以外には出来ない。それで読者の誰が登場人物の身体や表情、また彼らが動き回る環境を最も濃密な映像として脳内に思い浮かべられるかとなれば、それは比較不可能なことゆえの愚問であり、結局誰しも堪能の度合いで本書を読んでよかったかそうでないかを自身で決めるしかない。またそのこと自体も各読者の心のうちに収められて他者に伝わりようがない。伝わるとすればこうした文章での評価だが、それも本書と同じく言葉の積み上げ以外に方法がない。つまり本書が優れた小説であることを誰かが文章で伝える場合、その文章も優れたものであるべきだ。そう思うので前述のように筆者はトーマス・マンに対してすまない気持ちがあるが、12年要して書かれた2400枚の文章に賛辞を贈るとして、「とてもよかった」的な子どもじみた短い言葉はあり得ず、したがって繰り返せば本書の要約を書く気がしない。それで本書の巨大な構築の中から出た今、バベルの塔を遠目に見る気分で断片的なことを思いつくまま連ねるしかない。さて、読み始めて全体の10分の1程度のところでは筆者は「これなら自分でも書ける」と思い、そのことを何度か家内に言った。そのように気軽の読み進めながら、やがて「これは手強いな」と思い始め、また本書がどのように着地するのか全く予想不可能となり、家内にこう言った。「マンがどういうつもりでこの小説を書き、どういう結末を用意しているのかさっぱりわからない」。ところが先が全く見えない状態が続くことが読み進める原動力になっている。それは音楽と違って読むのにある程度の時間を要する小説では特に不可欠なことで、また先が全く読めないことは人生そのものになぞらえ得る。そう思うとこの小説の凄みがなおよくわかる。さて、本書は大きくふたつの柱が交差している。本書はマンの妻がダヴォスのサナトリウムに入院したのをマンが見舞って2週間滞在したことから着想され、当初は短編となる予定であったのが、12年要して大長編となった。最初のその短編でどういう物語を描こうとしたのかわからないが、長編にした理由は主人公の青年が7年に及ぶ入院中にどういうことを経験し、また自ら学び、人間的に成長して退院後にどうなるかを描くのに多くの文章が必要と考えたからだ。
ふたつの柱のひとつは主人公の心の成長で、もうひとつはそうさせた外的なさまざまな思想だが、後者は感覚的に本書の4分の1は占め、それはカストルプより年配のセテムブリーニとナフタという思想が相反する持ち主の対話が中心となっている。そしてカストルプも本を購入して興味の赴くままに知識を増やして行くが、それが可能なほどにサナトリウムでは決まった生活を日々送り、毎日自由時間がたっぷりとあり、本書は働く必要のない金持ちの暇人社会を描くことになるが、実際そのとおりで、本書には経済的に貧しい人は登場しない。そのことだけで本書を読むのをやめる人があるかもしれないが、本書のような分厚い小説を読もうとする人はそれなりに時間があり、また本書の主人公のように知的好奇心が旺盛な人であるはずで、本書は最初から読者を選んでいる。また結核は死の病で、サナトリウムでは10代で死んで行く人々もあって、彼らはある日急に食堂に現われなくなり、死体は人目につかないように処置され、部屋は何事もなかったかのように清掃され、新たな入院者を迎える。カストルプがサナトリウムに貼ったその日の描写でもひどい咳をする人が描かれ、またカストルプのベッドは数日前に死んだ人が使っていたもので、カストルプはハンブルクにいた頃以上に死を間近に感じ、それに馴染む。つまり本作は全編を通じて死の気配があり、またそれだけに生が鮮烈に際立つ。先に本書が時間の不思議さについて書くと述べた。本書が7年間のカストルプのサナトリウムでの歳月について書くとして、次第に時間の感覚が曖昧になる。時間は時計の針の動きで計測されるが、人間が感じる時間とはそれとは全く関係がないことは誰しも知っている。楽しいことがあればごく短い時間が永遠に反芻され得る貴重なものとなり、毎日退屈であれば10年が一瞬に感じられる。そのことをカストルプはサナトリウムで改め思い、またその心の動きの上下にしたがって時間が伸びたり縮んだりすることを感じるが、カストルプがサナトリウムで過ごしたことは幸運であったかどうかは別問題だ。仮にカストルプが早々にサナトリウムを退所し、ハンブルクで仕事に就いたとして、そこでの人間模様はサナトリウム時代と同じようにあるかもしれない。なかったとしてもそれなりの人間関係を築くはずで、本書の舞台のサナトリウムはきわめて特殊な環境とは言えない気がする。だが、仕事に埋没する都会生活と違って、結核を治し、体力を取り戻すべきサナトリウム、しかもスイスのという国際的な舞台を設定すれば、あらゆる人種のあらゆる思想が考察し、カストルプにとっては広い世界の凝縮状態を目の当たりにすることになる。したがって本書はダヴォスのサナトリウムという舞台設定は必然であった。繰り返すとそれは暇と金のある閉じた社会で、そこで教養を深めたカストルプがその後それをどう活かすかは別問題だ。
話を戻して、本書における先のふたつの柱の後者である、カストルプを感化ないし戸惑わせる、そして学習させるセテムブリーニとナフタの思想は、ヨーロッパの歴史と精神をある程度知らねば理解出来ず、面白味を感じない。その程度がどれほどかとなると、たとえばフィヒテと聞いておおよそその人物の思想がわかる程度だ。もっと言えばギリシア・ローマから現代のドイツに至る、またつながっているとされる思想の概略に関心がなければ本書の半分は楽しめない。さらに言えば本書は書かれた時代のドイツを念頭に置く必要がある。読者はニーチェを片目で見つめながらイマニュエル・カントからハイデッガーに至る哲学を遠景に据え、また読者そうした有名な人物の名前くらいは10代半ばで聞き知っているべきだが、もっと進んで政治を含んだ歴史的背景も併せての知識があるとなれば、カストルプのように大学を出て20代半ばに達している必要はあろう。カストルプを間に挟んで登場するふたりの知的な人物すなわちセテムブリーニとナフタの思想には、キリスト教のイエズス会、神秘主義、ユダヤ、フリーメイソン、フランス革命など、今ではWIKIPEDIAによって端的に概略が学べることがびっしりと詰まっていて、主人公は両者の常に対立する意見に挟まってどちらに与すべきか右往左往し、また時に意見する。それはマンの自問であろう。マンは大量の本を読みながら、そこにヨーロッパの対立する思想があることを知ったが、それは当然のことで、たとえばナチスでも右派と左派があって、前者は後者を粛清する。この対立はまたすべて言葉が介在し、知性人は人間優先というよりも言葉に重きを置くほどだ。そのことがセテムブリーニとナフタの終わりのない論争で示されるが、何事も終わりはある。それは決着と言ってよい。そのことをマンは本書で非情さで描く。本書を一言すればそのことだ。話を戻す。マンはカストルプを精神的に感化する役割を負わせたふたりの年長者に、本書の大きな部分を割いて何を語らせたかったのかと読者は目を白黒させるが、マンはそれを見越してふたりを冷静に、また時に茶化すような書き方をする。つまりマンはある特定の政治思想に立っていないのだが、そうとも限らないことを読者は気づく。本書巻末の解説で、そのふたりの思想家のうち、ユダヤ人のナフタがハンガリー人のゲオルク・ルカーチをモデルにしたと書かれる。ルカーチはユダヤ人でマンより10歳年下で16年長生きした。その人生はWIKIPEDIAで概観しても波瀾万丈の極みで、彼を主人公にしても長編小説が書かれると思えるが、本書ではナフタの面貌の描写は確かにルカーチの写真から伝わる印象に通じており、またそういうナフタの本書での描写からマンがユダヤ人や共産主義をあまり快く思っていなかったことが伝わる。
ところがこれはきわめて印象深い下りだが、本書の最後の方にユダヤ人を嫌悪し、呪詛することだけが生き甲斐になっている男の患者が登場し、ユダヤ人患者と派手なつかみ合いをする場面がある。その動物じみた凄惨な場面でマンはユダヤ人患者に同情的で、ユダヤ人嫌いの男を醜くて取るに足らない存在として扱っていることは明白だ。マンの妻はユダヤ人で、マンは本書以降にヒトラー政権を避けてアメリカに亡命するので、ナチス信者になったハイデッガーをマンはどのように思ったかは想像に難くないが、ハイデッガーの『存在と時間』の出版は本書の数年後で、マンは自分なりに存在と時間を考えて本書を構築した。哲学書と小説はどちらも言葉を組み立てたもので、いかに破綻を見せていないかが問われる。もちろんどのような書物でも批判や反論の余地があるが、小説は提示されたものをそのまま受け取るしかないもので、批判されるとすれば小説家の思想の偏りであろう。だがその批判も時代が変わって為政者の思想が変われば立場が逆転する。セテムブリーニとナフタの果てしない論争を本書が持ち込んだのはそういう思いもあってのことだろう。マンがこのふたりに異なる思想を大いに代弁させながらどちらを正しいと思ったかと言えば前者であろう。そのことは本書の最後の方で意外な方向に進む両者の関係だ。本書は最後に近くなって物語が大きく動き、またその慌しさはかなり意外だが、その意外性が鮮烈で激動の印象をもたらしていて、小説の醍醐味をマンが忘れていないことを証明する。またその醍醐味は本書半ばでもわずか一語でも表現され、筆者はその箇所で「なるほど、ここであの出来事がつながるのか!」と驚嘆し、思わず本から目を上げてしばらく感動のあまり先を読み進めることが出来なかった。布石が周到に計画され、万の言葉のうちのたったひとつの言葉がずっと後になって光り輝く。つまり本書は膨大な言葉を積み上げながら、たった一語に重要性を置いてもいる。当然なことではあるが、2400枚の原稿のたったひとつの単語が際立っている箇所は他にも随所にある。またそういう箇所はある程度専門的ないし広範な知識がなければ意味を理解しないまま読み進んでしまう。また話を戻す。セテムブリーニとナフタの論争は一旦終わったかに見えて再燃し、筆者は「ああ、またか」と食傷気味になったが、そこをマンは見越していて、ふたりの発言は時として辻褄が合わず、あるいは入れ替わり、知識を集めた博学性の欠陥めいたことをほのめかす。実際両者の論争はヨーロッパの複雑な思想を知る手立てになり得るとしてもそれは本を読んでの個人的な立場であって、ネット時代の今ではWIKIPEDIAによって誰でもある程度は獲得出来る。だが両者のもっともらしい頑固な思想はカストルプのような経験不足の青年にはいずれの味方をしていいものかにわかにはわからない。それは読者も同感のはずだ。
そしてついに彼はアルプスの雪山をスキーによって気を晴らし、迷子になって生死をさまよった挙句に幻想を見て生の意味を知る。それはセテムブリーニにもナフタにも同調しない立場と言ってよいが、マンにすれば悟りは頭脳だけではなく身体を動かすことも必要との考えだ。またそこにはアルプスの雪が大きな効果を上げたが、三島由紀夫の『仮面の告白』を想起する人は多いだろう。本書にはサナトリウムからしばしの間抜け出してみ晴らしをする場面が大きく言って3つあり、それぞれに読者は観光気分にも浸ることが出来る。その中で主人公がひとりでスキー板を購入してそれを雪山で使用する設定は見事で、「雪」と題する節は読み応えが大きく、また誌的な風景描写も映画的で印象深い。集団生活を送るサナトリウムでの静に対して個人の勇敢とも言える遊びを通しての動的覚醒で、死の一歩手前に行きながら、幸運によってカストルプは生をまた見出し、サナトリウムに無事戻ることが出来る。本書のほとんど最後の場面からもマンはナフタよりもセテムブリーニ側に立っていたことが伝わるが、蛇足ながら書いておくとナフタは経済的にセテムブリーニより恵まれているにもかかわらず、幸福感は乏しい。その点を深読みするとマンの思想が垣間見えそうだが、次の大きな登場人物について触れる。本書はセテムブリーニとナフタの対立するふたりの年配の男にさらに対立する別の男が後半部に登場する。オランダ人のペーペルコルンで、彼から見ればセテムブリーニもナフタも意味のない人物だ。生を謳歌する彼は人間的魅力に溢れ、当然ながら女にも人気がある。そういう男はよくいるもので、やくざやそれに近い人物がその代表だが、ペーペルコルンは悪の権化ではない。実際は仕事から得た知性は豊富で、人生をいかに楽しむかをよく心得、またそのことだけに人生の意味を置いている。ペーペルコルンを登場させたのはサナトリウムが社会の縮図で、知的論争だけが男の社会を占めてしないことを示すためだ。ペーペルコルンに魅せられたカストルプをセテムブリーニはあんな馬鹿のどこがいいのかと冷ややかに言う。現実はペーペルコルン的な人物こそが世間で最も人気があって、たとえば本書の話をするような男は無粋の極みと目される。そう考えればペーペルコルンはセテムブリーニが言うようにただの馬鹿だろうか。マンはセテムブリーニに自分の思いを託したと思うが、一方では理屈抜きに人間的魅力に溢れた、体力と経済力に満ちた人物が世の中には大勢いて、そういう人物がいつの時代でも女性に最も人気があることを知っていた。その現実をカストルプは知る。筆者は男の魅力は頭脳の明晰さに比例すると思っているが、女性からすれば男の魅力は肉体の強靭さにも比例する。貧弱な体で独身であったカントは女性にはあまり人気がないだろう。おそらく三島由紀夫はそのことに気づいて肉体改造を行なった。
女は男の理屈では喜ばず、生活力の旺盛さに魅せられる。そのことを人生経験から熟知している肉体的貫禄の満ちる男から見れば、セテムブリーニやナフタは風が吹けば飛ぶ軽い存在で、全く眼中にない。ただし60歳ほどのペーペルコルンはカストルプのような若さには一目置かねばならない。若さ、生への活力こそが人生を謳歌する鍵で、ペーペルコルンはそれを存分に使って来たが、現実はサナトリウムに入院することでカストルプの前に姿を現わす。セテムブリーニが老いても頭脳明晰であるのに対し、肉体の老化は脳のそれより早く訪れることをマンは言いたかったのだろう。そしてペーペルコルンは論議が全く出来ない、あるいは関心のない人物として描かれるが、言葉の力を借りずとも他者を圧倒する力を持っている人物は男女ともによくいるもので、それは大人物ぶる自己洗脳による演技とたとえば大金を稼いでそれで存分に贅沢な暮らしをして来た場合が混じっていて、ペーペルコルンは後者だ。またそうなると貧しい口先だけのセテムブリーニは全く太刀打ちが出来ず、陰でペーペルコルンを馬鹿者呼ばわりするしかない。そういう場面に遭遇するカストルプは人生を一段階上った経験をしたと言える。それはともかく、カストルプはサナトリウムで何年も前から西アジアの目をしたその特徴的な顔の若いクラウディアに恋心を抱いていたが、彼女は一旦退院した後、ペーペルコルンと一緒に戻って来て、露骨に彼の女であることを周囲に示し、ペーペルコルンとカストルプの間に火花が散る。そして彼女は理想的な男として彼をセテムブリーニやナフタ、カストルプより上に置く。カストルプはクラウディアが大食漢で金持ち、そして思想について理屈を言わない無口な男を愛すると知り、その後の振る舞いは妥当な展開だが、やがて意外ではあるが読者が納得させられる結末になる。そこにマンの女性に対する思いが強く反映しているだろう。本書には彼女以外に数人の女性が登場するが、どれも知性のなさが設定されている。そこから推せばマンは女性の思想に興味がないし、女性も男がひとりで浸る思索のこだわりに関心がないか、それどころか面白くない感情を抱いている。ひとり置いてきぼりにされていると感じるからだろう。結局女にもてるには馬鹿な話で笑わせることを優先することだ。マンはそういう男を否定はしていないが、本書では付け足しの形で軽く扱われている。また男の知性に惚れる女は稀にいるもので、それがマンの妻であり、また妻帯するハイデッガーと恋愛関係にあったハンナ・アーレントで、男女ともにしかるべき人物が出会う。話を戻して、ペーペルコルンの登場は本書に現実味を大いに付与しながら、やはりマンが男の価値をどこに置いているかを読者は知る。だがペーペルコルンは潔い人物だ。そのことをクラウディアが知っていたので彼の女になった。そこは現実味がある。
7年もの間、カストルプはサナトリウムに入ったままで女性と性交しなかったのか。クラウディアとそういう関係はあったかもしれない。そこは行間から読者が推察することであって、本書の重要事項ではない。ちなみにサナトリウムではベランダから各部屋に移動が可能で、夜這いを許す患者がいることも書かれる。とはいえ本書では性に関してはほとんど触れられず、カストルプについては友人とかつて売春宿に行ったというわずかな記述で童貞でないことが読者にわかる。また前半部ではカストルプに同性愛的嗜好があることがほのめかされるが、それはヘッセの小説にしばしばあるものと同じで、精神的なものだ。カストルプとクラウディアの関係は宙づりのまま長く引き伸ばされるが、その主に精神的な関係は男女の恋愛では最も楽しい時期と言ってよい。本書ではそのように読み取れるし、最終的な性交はほとんど問題とするには当たらず、むしろそれを避けることで男女の関係はすぐに忘却されるし、またその状態は言葉はふさわしくないかもしれないが、美しいものとなる。こう書けば男女の性交は汚らわしさを内蔵することになるが、そのように感じる男はいるだろう。マンはその部類のように想像するし、三島由紀夫もそうだろう。なぜそのように女性を避ける、あるいは否定する男の心があるのかは本書とは関係のない事柄だが、性交の本能は動物的で、その行為には知性が邪魔となることを男は女以上に知っているからではないか。女からすればそれほどに男は知性の希求に毒されやすい存在であることをクラウディアは知っていたのだろう。本書を映画化した場合、クラウディアにどのような顔の女優を使えばいいかの大きなヒントをマンは繰り返し描いている。そこには西洋が憧れる東方があって、そのことはヨーロッパの歴史や文化について書く本書がアジアを無視していないことにも表われているが、本書はやはりヨーロッパ、しかもそこの中心を自負するドイツ人が書いたもので、思想についてアジアの視点が除外され、その点は『老子』に関心があったハイデッガーよりも汎世界的とは言い難い。また本書が結局クラウディアを最終的にどう扱ったかを知ると、やはりマンは東方に熱烈な興味がなかったと見える。しかしクラウディアが実際どのような顔をしていたかは読者が大いに魅惑的に考えさせられることで、筆者は村上華岳の重文となっている「裸婦像」をしきりに想起した。その名画の女性は華岳が繰り返し描いたシルクロードの西アジアに特徴的な顔で、港町のリューベックに育ったマンはオランダ人であるペーペルコルンと同様、アジアの文明に触れる機会は少なくなかったのであろう。またカストルプが育ったドイツ最北の低湿地帯とアルプスを対比させることも異文化ないし異なった生活圏への関心がマンに強くあったことを意味し、教養を深めるには広く行動することを勧めているように見える。
読み進めながら気になり続けることは「魔の山」が何を指すかだ。「山」は本書の舞台となるダヴォスから間近に見えるアルプスのことだが、それがなぜ「魔」なのか。このことは本書を読み終えてもはっきりとはわからない。本書の最後近くになってマンは「魔」という言葉を数回書く。それは魔術、魔法の意味で、もちろん本書の原題「ZAUBERBERG」の「ZAUBER」の日本語訳で、本書の邦題は『魔法の山』ないし『魔術の山』としてもよい。いずれにしても魔法にかけられた気持ちになる山すなわちダヴォスやアルプスが、特殊な場所であるとの意識がある。その特殊性は読者が解釈すればよく、またその解釈がひとつではないことを読者は知る。「魔」は悪い意味に解釈する場合が多いが、一方で魑魅魍魎の言葉にある「魅力」とつながっていて、よくないと知りながら引きつけられる存在でもある。これはマンの時代の目立った風習で、カストルプはひたすら葉巻やたばこを愛飲する。それは一種の魔性を持った嗜好品で、本書の舞台の通奏低音としてふさわしい要素だ。サナトリウムは結核患者の療養施設で、肺病にたばこはよくない影響を与えることは当時からわかっていたであろう。だが本書はそこまで書いておらず、主人公のたばこ好きはサナトリウムの院長からたしなめられない。本書を読みながら「風風の湯」の常連との対話を何度も思い出した。筆者の周囲に本書を読んだ人はおらず、また文学などの芸術を話す相手も皆無だが、本書を執筆中のトーマス・マンも似た境遇ではなかったかと想像する。そうであるからこそ、ダヴォスで思想が大きく異なり、またどちらも言葉の人物であるセテムブリーニとナフタがカストルプを介在させて意見を闘わせる場面を作り上げたのではないか。とすればマンは庶民の世間話はどうでもよく、思想家のさまざまな意見を陳述させることで現代のヨーロッパないしドイツの混沌とした思想の概略図を描こうとしたのだろう。これは庶民の世間話は書いたり読んだりする価値がないという思いであって、教養小説の真の価値が目標とされた。言葉はそのように重要なもので、大衆が笑いを求めるのであれば別の本を利用すべきだ。しかしマンは本書によってヨーロッパないしドイツのあるべき思想の姿を描こうとしたのではなく、時代に翻弄される人間の命における不条理性に目を向け、ともかく現在を精いっぱい生きるべきことを伝えようとしたのだろう。本書はマンが死んでも動かしようのない強固な形で聳え立っている。それはまさにアルプスで、動物とは違って人間のみが言葉でここまで見事に時間と空間、存在を描き切る能力があることを読者は知る。本書巻末の解説は、本書の終わり方がいわば中途半端で、まだ書き続けられそうだとするが、筆者はその意見に反対だ。見事は終わり方で、美と汚濁がない交ぜになり、そしてやはり美の言葉が荒野に響いている。
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