「
瑕疵のなき 人を探すは いとおかし 美を重んずるは 生の意味なり」、「たまさかに 生まれて死ぬを 頓悟しつ やはり生きたし 日を拝みたし」、「あの人と また話したし 虚空見る 生死知らずに 面影老いず」、「ぷかぷかと 浮かび道連れ 些事一二三 意味なきことを 黙して見つめる」
24日の投稿に書き忘れたが、正月明けに咳がひどくなり、毎日トーマス・マンの『魔の山』を読み進める一方、韓国ドラマの『愛の不時着』を1、2話ずつ見た。全16話を見終わったのが『魔の山』の読了と同じ頃で、今月は20日までにした最大のことはそのふたつであった。近年は韓国ドラマをさっぱり見なくなったが、TVでも『愛の不時着』が何度も話題になっていることを知り、また北朝鮮との絡みが主題になっているので、ぜひ鑑賞せねばと思っていた。最初に私的なことを書いておくと、『魔の山』とこの韓国ドラマは関係がある。それはスイスが舞台になっていることだ。こじつけで書いておくと、アコーディオン・デュオの461モンブランの「モンブラン」は今日の3枚目のスイスの地図で言えば赤で記したDで、スイスの西南端を少し外れたフランスとイタリアの国境にある。今日の2枚目の図版は昨日書いた『スイス・アルプス名画展』の図録表紙の見返しに印刷される表で、それによればスイス・アルプスでは最も高く、標高4807メートルある。Aはダヴォスで昨日書いたように『魔の山』の舞台で、キルヒナーが後半生を過ごした。B付近はセガンティーニの生活圏、Cはジュネーブで同湖がある。Eはダダで有名なチューリヒ、Fはベルン、Gはバーゼル、Hはローザンヌ、Iはルツェルン、Jはマッターホルンで、全土に有名な場所が点在している。これもついでに書いておくと、『スイス・アルプス名画展』図録に言及され、『スイス・スピリッツ』展では解説の中に参考図版が掲げられるコンラート・ヴィッツの「奇蹟の漁り」はアルプスを最初に描いた絵とされ、遠景にモンブランが見える。この油彩画は1444年に描かれ、筆者が最初にその原色図版を見たのは21,2歳の頃で、素晴らしい個性に驚嘆した。同じ画風の画家は他におらず、人物と風景描写に優れたルネサンス期の巨匠だ。「奇蹟の漁り」は湖のほとりにキリストが現われ、その姿に驚いている船上の漁民たちが描かれ、キリストに気づいて驚愕した身振りと視線が愉快だ。湖はジュネーブ湖で、そこからモンブランが見えるところから、画家がどこに立って描いたかがわかる。話を本題に戻すと、『愛の不時着』ではスイスは欠かすことの出来ない場所だ。主人公の男女ふたりともうひとりの女性の3人が実は何年も前にそこで出会っていたとの設定で、彼ら3人がスイスでロケをした点は海外に行く設定がありながら実際には海外ロケをしなかった『冬のソナタ』のような昔の韓国ドラマからすれば金のかけかたが違う。
スイスでロケをするとして、本作は国際音楽祭が開催されるルツェルンがふさわしかった。ルツェルン湖が何度か映り、主人公の男性が湖の畔に置いたピアノで演奏する場面もある。結論を言えば、本作は音楽という芸術が主人公ふたりの愛を結ぶ要素になっていて、金持ちで地位もある人物は芸術に力を入れるべきとの一種に教訓が込められている。これはどの韓国ドラマでも大なり小なり共通することで、それが日本のTVドラマとの大きな相違点になっている。大阪市長と知事を務めたタレント弁護士は大阪のお笑いが世界に誇る文化であると発言したが、無教養を証明する。彼は絶対に『魔の山』を読まないし、読んでも意味を解しない。筆者はそれを責めているのではない。馬鹿者は無視すべきで、また無視出来ない馬鹿者がいるとして、それは周囲の人々が彼の人間的魅力に惹かれ、さらには彼がみんなに大盤振る舞いする場合だ。そのことが『魔の山』に描かれる。話を戻す。北朝鮮のキム・ジョンウンはスイスのベルンに留学した。その現実からして本作の主人公がスイスでかつて出会っていて、その後にまたルツェルンで出会うことは大いにあり得る。『魔の山』ではダヴォスの国際サナトリウムが舞台となるが、そこにはヨーロッパ各地以外にアジアからも患者が逗留し、物語を作る。北朝鮮と韓国の人々が出会って交流するとすれば、合法的にはスイスしかない。違法では主に中国があり、また脱北して韓国入りする場合もあるし、スポーツなどの友好使節団として北朝鮮人が短期間韓国入りすることもある。そうしたあらゆる可能性を本作は脚本に利用し、可能性はあろうが、かなり強引な筋運びで両国人そして若い男女の偶然の出会いによる愛の物語を描く。その愛が前述のように音楽が絡むのは、芸術は国を超えることを意味し、筆者はその点で本作を絶賛する。というのは『魔の山』でもそれは同じであるからだ。一昨日の朝、筆者は布団の中で『魔の山』の最後の場面を想起し、不覚にも涙を流した。突如シューベルトの「菩提樹」のメロディが浮かび、またその1曲を収める『冬の旅』の冒頭曲を心の中で歌ったからだが、人生で出会った最高の曲はシューベルトの歌曲であると筆者も同意する。そのシューベルトは女性の愛に飢えながら、それがかなわずに若死にした。まあ、これ以上は書くまい。世の中には醜いことや人間が溢れている。平和と言われる日本でも同じだ。もちろん韓国も同じで、本作には韓国にも北朝鮮にもそういう醜悪な人物が跋扈していることが描かれる。韓国の財閥でも北朝鮮の軍部でも同じで、金すなわち権力を巡る争いが日常的にある。そういう世の中で何を信ずればいいか。肉親の愛を知らない女性と芸術を目指しながら兄が不審死した男性が南北を分ける非武装地帯でたまたま出会い、やがてお互い惹かれる。ただし現実を思えばふたりの結婚はあり得ない。
そこをドラマでどう描くか。その答えはルツェルンで音楽祭が開催されるわずかな期間だけ、ふたりがスイスに入国して会うという結末だ。そのふたりの関係は結婚してもすぐに離婚する、あるいは長年の結婚生活に飽き飽きしている夫婦からすれば理想的かもしれない。年に10日だけ異国で会えるのはふたりの関係を新鮮に保つからだ。しかしそれはふたりにとっては仕方なきことだ。それは朝鮮半島が南北に分かれていることの悲劇だ。だが、音楽を初め芸術があることによって時空を超えて人々は共鳴し合う。『魔の山』の価値も意味もそこにある。『愛の不時着』という題名は直訳かどうか知らないが、不時着を言えば愛よりも恋がふさわしい。恋の果てに愛がある。それはともかく、愛に発展する出会いは常に不時着で、またそれを言えば人生は不時着だ。それを今は「親ガチャ」などと否定的な言葉で言うが、人間も植物と同じで、根付いたところで精いっぱい生きるしかない。根なし草と言われるような人や行動でも、必ずそこには何らかの根がある。それをどう理解し、自覚するかで人生を泳いで行く先が決まる。あるいは自分で決めて行く。ここから本題、しかし随所で脱線すると思う。『愛の不時着』が日本で放映されたのは4年前の春だ。翌年春に母が死んだ時に上の妹としばし話をした中で、筆者は本作の話を妹にした。本作は今なおネットTVのとある会社が独占販売し、その会員にならねば見られない。妹に訊くと録画したDVDがあるとのことで、「友だちのところに行っているので戻って来たら連絡する」と言う。催促するのが面倒で、結局そのままになった。さらに翌年の夏、家内と大阪に出た時、鶴橋の薄暗くて古い商店街を歩くと韓国商品店の店頭に海賊盤の『愛の不時着』が売られていた。2000円しなかったと思う。焼いたDVD-Rを裸のまま袋に入れたもので、そういう個人が作った海賊盤は10年前ならネット・オークションで普通に売られていたが、今はほとんど見かけない。大いに話題になった本作をいつか見たいと思っていて、去年9月20日にアメリカの大西さんが京都に来てあちこち案内した時、その話をした。大西さんはアメリカでとっくに視聴済みで、英語字幕で充分楽しめたそうで、そして「ああ、お土産にそのDVDを持って来ればよかった…」と言われた。大西さんは大晦日にも来日し、到着日に日本語字幕の『愛の不時着』のDVDを筆者に送ってくれた。ありがたい。それで今月中にこれを書くことを決めた。正月は能登地震のために実家のある金沢に帰らず、東京に滞在したまま9日にアメリカに戻ったが、筆者にDVDが届いたのは2日だ。数日して家内と一緒に見始めた。筆者だけ見ると後で家内がひとりで見ることになって、それでは電気エネルギーの無駄だ。1話70分ほどだが、その倍近い回もあって見終えるのに体力を要する。
先日の奈良への一泊旅行は家内の弟に世話になったことを書いた。数年ぶりに会うので、その義弟の奥さんMに『愛の不時着』の話をするのを楽しみにした。『冬のソナタ』が日本で人気を博した頃、筆者は妹から借りた『ピアノ』のビデオを彼女に送った。それがきっかけになってMは今でもそのドラマの主役であったチョ・インソンが韓国男優では最も好きと言う。確かに彼は大物俳優になる予感があったのに、作品に恵まれず、デビュー当時に匹敵する話題作はないのではないか。それでもMはチョ・インソンの私生活などの現状について語り、その人間性に感心するとも言った。『ピアノ』を見たことが大きな理由にもなって、Mや義弟、ふたりの娘の家族全員が大の韓国ドラマ・ファンになり、やがて何度も韓国に旅行し、明日仕事や学校があるというのに毎日深夜まで韓国ドラマを見続けることもあった。それほど夢中になった理由はどのドラマにも家族愛が描かれているからだ。当然のことながら日本のドラマはアホらしくて全く見ないと言うが、その最大の理由は俳優陣の厚さ、多様性が圧倒的に韓国は勝っているからで、これは韓国ドラマを見る人がみな感じる。だがMや義弟が韓国ドラマを愛好する理由はもっと個人的な、出自にまつわることでもある。詳しくはここには書かないが、端的に言えば幼少時に肉親の愛情にあまり恵まれなかったことだ。Mが児童養護施設に勤務していることも先日書いた。その理由は筆者が想像するに、肉親に見捨てられた子どもたちの世話をしたいという思いからだ。奈良への旅行中にわずかだがMから施設での信じられない話を耳にしたが、彼女が憐れな境遇の子どもたちに実に根気よく親代わりになって世話をしていることが伝わった。それでも65歳では体力が持たない。というより精神的にあまりにきつい。親身になって世話した子が世間に出た途端に自殺したとの連絡が入ると、誰でも徒労を感じるだろう。本当の親がわが子をもっと大切に世話していればその子はリストカットを繰り返し、挙句自殺することはまずなかった。Mは一歩間違っていれば同じ境遇になっていたかもしれないが、幸い中学校時代の同級生の義弟と結婚し、義弟は一流企業の取締役に上り詰めて定年がない。数年前の前回に会った時に、義弟は安倍首相に会ったばかりでその名刺を見せてくれたが、海外にも頻繁に出かける多忙さだ。それゆえ今は韓国ドラマを見てないはずだが、Mは人気作品をそれなりに見ている。ついでに書いておくと、Mは今年3月に仕事を辞めた後を見越して、先の夢を見て活発に動いている。映画のエキストラ役に登録し、それなりに声がかかっているが、2、3年後に韓国に語学留学し、韓国の映画やTVドラマにエキストラとして出演するのが夢だ。有名な韓国ドラマの俳優を間近に見たいのだ。行動的なMはハングルを多少は知っているし話せもするので、夢をかなえるだろう。
話を戻す。Mに『愛の不時着』を見たかと訊くと、半分見て予想と違ったので見なくなったと言う。それは何となくわかる。20年ほど昔の『ピアノ』で韓国ドラマに大いにはまったのであれば、本作は方向が違う。端的に言えば金持ちの世界を描いていることだ。しかしそう断言するとこのドラマの味わいを見過ごすことになる。韓国ドラマを楽しむ人の大部分は、世間がそうであるように経済的にはさほど恵まれないか平均的な収入の人々だ。本作はそういう人々を北朝鮮に住む主に女性たちに代表させている。そのことによって南朝鮮の韓国が北に対して経済的に優位な「成功した国」との描き方をする。つまりかつての『ピアノ』の中心的な家族愛の部分は主に北朝鮮社会に移している。経済的には韓国は完全に優位だが、人情味では北朝鮮に劣るという五分五分の描き方をせねば北朝鮮から恨まれるし、韓国としては国際的に売る商品であるドラマを国家間の摩擦を生じさせないように韓国には希薄になった素朴な人情味、人間味が北にはまだ豊かにあるという描き方をするのが得策だ。だがそのことが見え透くと鑑賞者は白々しくなるので、そこは俳優陣を充実させ、北は北なりの暮らしやすさのようなものを描く必要があり、本作はその点は見事に成功している。しかし北朝鮮では珍しくない身寄りのない子どもたちの生態をも描き、同じ境遇の子どもが韓国にもいて、そのひとりの男性を本作では『冬のソナタ』などの恋愛ドラマでは常識となっている二組の男女カップルのうちの一組のカップルの片割れと設定しているところに、南北に関係なく、親がいない子が存在する現実に言及してする。またそのことは婚外子でしかもソン・イェジンが演ずる財閥の娘も同類として設定されているが、母親から見捨てられたとの意識ゆえ彼女は若くして自殺願望を抱き、死ぬためにスイスを訪れ、そこで北朝鮮から来ていた主役の男優のヒョンビンと、彼の許婚者の女性と相互に知り合うことなく出会う。それはともかく、前述した北朝鮮の乞食の子どもの兄妹は『火垂るの墓』そのもので、幼ない兄は奪ってでも食料を病弱の妹に届ける場面がある。これは本作ではやや場違いな場面だが、兄弟愛を描く点では意味があるし、財閥の兄弟でも金となれば骨肉の争いをするとの本作の物語の基本とは好対照を成す。本作の見どころは北朝鮮の兵士やその経済的には貧しい家族にあって、それら男女10人ほどの俳優は主役の美男美女のふたりよりも迫真的な現実感がある。その脇役の芸達者ぶりをMに言うと全く同感とのことだ。先年ハリウッドで韓国の高齢女優がアカデミー賞を受賞し、日本のネットにはそのことを謗る意見が目立った。彼らはその女優の顔も演技も知らない。筆者は彼女が出演するドラマをいくつか見ているので、受賞はもっともだと思った。もっと言えば彼女に匹敵する演技を見せる高齢女優は今の日本にはいない。
『愛の不時着』の制作費は40億円ほどと想像するが、その10倍ほどの売り上げがあったようで、国家がエンタテインメントを支援していることに納得させられる。制作費が嵩むほどに海外ロケを含み、登場人物が増え、複雑な脚本となって見どころが多様化する。Mが途中で見るのをやめたというのは案外そういう点だろう。『ピアノ』は登場人物が少なく、昔のドラマの感は拭えないが、たとえば昭和半ばの日本映画の名作を見るのと同じで、いいものはいつの時代に見てもよい。少ない制作費の中で何に焦点を絞って見せるべきかが制作者に明確にあるからだ。その点本作はあまりに内容が盛りだくさんで、脚本段階でこれまでの韓国ドラマのよき部分を列挙し、それらすべてを見せるという態度で作られている。そのため全16話は極限まで凝縮しながら、筆者には余計と思える暴力場面が少なくなく、幅広い世代の視聴者を見込んだための過剰演出が露わになっている。脚本は有名な女性が書いたようだが、筆者は彼女による本作以外の韓国ドラマを見ていない。本来なら16話ではとても収まらない物語だが、それ以上長くすればだれてしまう。そのため、次々に物語が変転し、中心となる韓国の美人社長と北朝鮮の大尉との偶然の出会いによる愛の芽生えとその成り行きが、純愛物語というより半ば喜劇タッチで彩られ、『冬のソナタ』時代のドラマがビートルズの64年頃に当たるとすれば、本作はホワイト・アルバムに相当する多角多彩的と形容してよい。つまり本筋は昔と変わらないが、装飾過多となっている。その装飾は不要なものかと言えばそうではない。登場人物をもっと減らして描くことも出来たが、そうなると『冬のソナタ』時代のドラマと差がつけられない。それではおそらく駄目なのだろう。どんな表現分野でも変化して行く。筆者は本作を見ながら、2年前にネットで見た『プレイヤー~華麗なる天才詐欺師』を何度か思い出し、またそのドラマを見たいと思った。断然面白かったからで、主人公は男ふたり、そして女性ひとりを加え、そのわかりやすさが彼らの格好よさを誇張していた。またそのドラマの主役のソン・スンホンは昔の『夏の香り』において本作のヒロインであるソン・イェジンと共演した。本作の大尉役は日本でもヒットした『私の名前はキム・サンスン』のヒョンビンで、寡黙な役柄は北朝鮮の兵士によく見合っていた。一方のソン・イェジンは『夏の香り』からは20年近く経ち、本作では貫禄のある女社長との役柄は妥当であった。言い換えれば美貌はどうにか保ってはいるが、40近い年齢は隠せない。70過ぎの筆者はそのことを何とも思わないが、20代がこのドラマを見るとソン・イェジンをおばさんと見るだろう。となれば本作は3,40代以上を主に対象にしたのかもしれないが、そこはちゃんと考えられていて、20代の女性が歓迎しそうな若い男性を北朝鮮の兵士役にしている。
ヒョンビンやソン・イェジンなどのかつての若い俳優がおよそ20年後に主役を張ることが近年の韓国ドラマで珍しいのか普通のことか知らないが、脇役にするのではなしに主役に据えるところは好ましい。中堅を育てるためにはそうすべきであるからだ。韓国ドラマはその中堅が脇役を固めることでも人気を保っているように見える。ソン・イェジンとヒョンビンは本作以降に結婚し、一子をもうけたが、となるともう彼女に主役は回って来ないのではないか。では脇役に徹するかとなれば経済事情にもよるだろう。そのことで思うことがある。本作の第1話の最初の方に昔の韓国ドラマを見た人が面白がる場面がある。非武装地帯を監視する若い兵士が、上官がいない間の真昼間に韓国ドラマの『天国の階段』を見ていることだ。2,3秒だが、チェ・ジウと相手役のクォン・サンウが兵士の見る画面に大写しになる。兵士は画面を見ながら狂喜し、ドラマの主役の男女が「どんなに遠く離れていてもいつか必ず一緒になる」などと声を出す。その言葉は本作の主題を端的かつ見事に伝えている。それは『愛の不時着』の「愛」を扱うからには、また韓国ドラマでは外せない設定で、その意味では本作は韓国ドラマの王道作だ。また韓国ドラマが『天国の階段』から大いに発展したとの意味で同ドラマの場面をわずかに引用していることは、先のたとえのようにビートルズ後期のアルバム的なドラマであるとの筆者の考えは伝わると思う。それはさておき、最後に近い回で、実物のチェ・ジウが登場し、先の北朝鮮兵士とソウルのレストランでふたりだけで会食する。本作の鑑賞者はその兵士の驚きを別の意味で感心する。ドラマのほぼ冒頭に北朝鮮の若い兵士にとっては画面のみで知って全く手の届かない有名女優のチェ・ジウが、財閥の社長娘のソン・イェジンの手配によって眼前にいるとの設定は、現実的に言えば財閥が金の力で女優の時間を買えるという金持ちの論理の駆使だが、その社長娘が自分に優しくしてくれた北朝鮮の若い兵士の望みを韓国でかなえてやるとの約束を果たしたことにおいて見上げた美しい行為でもあって、ドラマの中ではあるが、最初の伏線が意外な形で後に現実化することに二重のファンタジーゆえのリアリティがある。チェ・ジウはセリフがほとんどないが、美貌は変わらず、チョイ役を引き受けたところに好感が持てる。彼女の登場は『冬のソナタ』以降の韓国ドラマの勝利の歩みを象徴する意味もあるだろう。実際北朝鮮では密に韓国ドラマが見られているというし、本作を見た北朝鮮の兵士やその家族がどう思うのか興味のあるところだが、本作を北朝鮮の国民が見て韓国の経済的成功に憧れを抱けば不満が高じるし、キム・ジョンウンは韓国ドラマを排斥している。脱北者は後を絶たないが、韓国の現実に幻滅して北朝鮮に戻る人もいて、本作はその思いにも配慮が見られると言ってよい。
さて、第1話の最初は非武装地帯を飛び越える鷲の飛翔が映る。CGと思うが、次のソン・イェジンがパラグライダーで空を飛ぶ場面では突如竜巻が発生し、地面のトラクターや牛が宙を舞う様子を彼女が見下ろす。それら空を舞う物体もCGだ。その竜巻によって何もかも空を飛ぶ様子に誰しも『オズの魔法使い』の冒頭を想起するが、そのことは本作が作り話、ファンタジーであるとの宣言となっていて、鑑賞者は冒頭場面から本作が現実にはあり得ない物語であることを納得し、その安全地帯の中で荒唐無稽さを笑って楽しむ用意が出来る。だが、空想物語の中に現実にあり得ることやこうあってほしいと思うことを随所に俳優の演技によって迫真的に散りばめる。空想物語はアニメ映画が得意とするが、本作の脚本を漫画やアニメ映画に用いればおそらく面白さは大きく減退する。アニメでは俳優の表情や演技を描き尽くせないからだ。記号の集積のアニメと俳優が演技する映画とでは味わいの深みは比較にならない。俳優の一瞬の表情や動きが物語を濃くする。そういう演技は主に中堅どころが担う。その意味で、本作はソン・イェジンとヒョンビンが光っているのは言うまでもないとして、前述のように北朝鮮の他の兵士やまた村の女性たちが圧倒的な存在感を放っている。見終わった後に思い出すのは彼らの演技で、むしろヒョンビンはロボットじみて思える。しかしそこも脚本家や監督の狙いだろう。北朝鮮の言葉の訛りも駆使しているはずで、本作は韓国人が見ればさらに面白いと想像する。また北朝鮮の人々の暮らしぶりは脱北者の証言によって韓国には大いに伝わっていて、本作で描かれる北朝鮮の人々の暮らしは現実感がある。ひとつ意外であったのは、本作に描かれる非武装地帯近くの北朝鮮の村が海の際にあることだ。それは北朝鮮の女性たちが岩の多い海辺で洗濯する場面からわかる。またそのように海辺の村であるとの設定は、ソン・イェジンが北朝鮮の闇ブローカーが所有する沖の漁船に乗って脱北を試みる場面からは必然であった。話を戻すと、彼女はパラグライダーが竜巻に巻き込まれたために非武装地帯に落下する。そこで大尉のヒョンビンと出会い、いつしか心を通わせる。では彼女はどのようにして韓国に戻るか。先の漁船では目的を果たせず、国家の実力者である中尉の父親の手配によって密に36度線を南下する。それを追って大尉は秘密のトンネルをひとりで潜って韓国に入る。その後を部下の兵士たちが体育団の一員として入国し、大尉とともに北に戻る際は捕虜交換のような形で36度線を越える。そして離ればなれになった主役の男女はスイスで毎年10日ほど合流するとの結末だが、各話のあらすじはWIKIPEDIAに載る。それを読まずに鑑賞することを勧める。よく出来たドラマだが、エピソードを盛り込み過ぎて登場人物も多く、一度見ただけではよくわからない箇所がある。
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