「
毘沙門の 土人形と にらめっこ 笑えば負けも 負けて笑えよ」、「初雪の 舞う裏庭に 梅の花 紅白並び 蝋梅あらば」、「五六秒 バスから眺めた 松江城 ハローグッバイ 縁はあるなき」、「一度だけ 話した人の 笑み積もり よき人生と 笑みて思いし」
一昨日の朝、雪が積もっていた。前日の深夜から降り始め、寝床に入る時に20センチほど積もれば自転車置き場の屋根の雪下ろしをせねばならないと覚悟していたが、朝に解け始めたようで、布団の中で雨のような音を聞いた。窓を開けると厚さ10センチ未満で、雪下ろしの必要はない。毎朝裏庭に出て合歓木に集まっている30羽ほどの雀に屑米をやるが、積雪では撒いた米が雀にはわかりにくい。ところがその心配がないほどに雪は解けて地面が見えていた。暖冬との長期予報があったので今回の雪は意外だが、一度くらい雪の日がなければ冬らしくない。ところでトーマス・マンの『魔の山』では第6章の「雪」が最も読み応えのある節であった。そこでは結核の患っている主人公の青年がアルプスの雪山をスキーしながら方向感覚を失って生死をさまよい、そして人生の真実味を頓悟する。その節を読みながら、自分の少ない雪の体験から、18年前の1月4,5日に家内と一泊旅行した鳥取と島根の美術館巡りを思い出した。当然ながらその季節では鳥取、島根は雪が積もっていたからだ。しかしそれだけが旅を思い出した理由ではなく、『魔の山』を読み始めてすぐにその旅行中に
島根県立美術館でひとり別行動をして見た展覧会において特に印象に残ったキルヒナーの絵が思い浮かんだ。それで今日の投稿の題名は18年前に書いた同展の感想の続きの「アゲイン」としておくが、それを「キルヒナー」としてもよい。面倒くさいのでその18年前の投稿を読み返さないが、同展会場で買わなかった図録を7,8年前に入手し、今日の文章を書くために図録掲載の文章をすべて読んだ。それで18年ぶりに同展で展示されたキルヒナーの作品図版を紹介することが出来る。それだけであれば図録を買った当時に書けばよかったが、『魔の山』を読破した現在、その小説とキルヒナーを関連づけたいと思った。だが『魔の山』ではセガンティーニの名前は出てもキルヒナーはそうではない。『魔の山』はスイス東部のダヴォスが舞台になっている。全編その場所のみでの出来事で、1905年頃から7年間が描かれる。今日は『魔の山』についての感想を書く場ではないので簡単に済ますが、『魔の山』の執筆の契機は結核を患ったマンの妻が1912年にダヴォスで療養を始め、それをマンが見舞ったことによる。そして12年の執筆期間を要して上梓された。キルヒナーはマンより5歳下で、戦争とダヴォスという点で『魔の山』と並行関係にある。第一次世界大戦で心身を病んだキルヒナーは1917年に療養のためにダヴォスに転居、その後22年間、自殺するまで同地で描き続けた。
グーグルのストリートヴューで知ったが、ダヴォスの中心地に現在キルヒナー美術館がある。またマンの妻が入院したはずの病院もそのすぐ近くにある。行動力旺盛で経済力があればすぐにでもダヴォスに飛んでキルヒナー美術館を訪れたいが、NHKの『日曜美術館』のゲストとなるほどの有名人でない筆者には無理な話で、ストリートヴューやネット上の他の画像などを参考に行ったつもりになるしかない。そう言えば一昨日触れたロヴィス・コリントの代表作『赤いキリスト』は切り絵のホームページを始めた頃にその図版を載せ、その実物作品を見るためだけでも現地を訪れたいと書いた。思うだけで20年ほどがすぐに過ぎ去る。それで長年思っていることを少しでも消化したいので『魔の山』を読んだ。次にいくつもの読みたい長編小説が控えているが、それはさておき、『魔の山』のついでにキルヒナーを思い出したことはそう的外れでもない。隣家に昔平凡社が出版したイタリアのファブリ社の薄い大型冊子状の美術全集を乱雑に積んであり、先ほどそのキルヒナーとセガンティーニの巻を探して来た。今日の最初の写真がそれだ。表紙をめくると蔵書印とともに「1971.7.8.」が記され、筆者19歳の購入であったことがわかるが、それ以前からキルヒナーの絵は知っていた。今回久しぶりにその本を引っ張り出して解説文の書き手が音楽評論家の吉田秀和であることに驚き、また洋書からの明らかな文章の紹介部分はいいとして、全体にかなり物足りない内容であること、すなわち昔読んだ時と同じことをまざまざと思い出した。だが美術の解説はおしなべてつまらないものだ。図録というものは9割方は図版に値打ちがあり、文章は読んでもほとんど意外なことは書かれておらず、印象にほとんど残らない。昔からそう思っているので、このブログでは客観的な立場というより、目下の自分の私的なことに絡めて書くことにしている。それは情報を端的にほしい人にとっては迷惑なことであって、筆者個人の心情などどうでもよいはずだ。しかし筆者はその他人の思いを優先して書いているのではない。この文章を誰がどう読もうが筆者にはそのことは届かず、筆者は誰に読まれなくても書く。大げさかもしれないが、キルヒナーもそのようにして制作に励んだのではないかと想像する。一昨日書いたように、京都アニメ放火犯は自分が書いた脚本を盗まれたと思った。筆者は他人の文章を読まないので模倣や剽窃とは無縁と思っている。文章以外の本業などの作品でも同様で、筆者の表現が誰かのものにそっくりとすれば、それは偶然だ。そういうことはよく起こり得る。話を戻して、先のファブリのキルヒナーの巻は表紙が晩年の雪を被る針葉樹を中心とした油彩画で、同じ色調の作品が『スイス・スピリッツ―山に魅せられた画家たち』に出品された。同展はたまたま島根に訪れて知った展覧会で、京阪神では開催されなかった。
一昨日は最初に4冊の図録を重ねた写真を紹介した。上から2冊目は数年前に入手した日本初の『スイス・アルプス名画展』で、1977年春に東京の小田急百貨店で開催され、筆者は見ておらず、開催されたことも知らなかった。『スイス・スピリッツ』は同展の二番煎じと言えば聞こえが悪いが、同展とは幾分作品が被りながら、キルヒナーについては別の作品が展示された。それで今日はそれら二展に出品されたキルヒナーの作品図版をすべて載せる。さて、若い頃のキルヒナーは鋭く尖った槍のような形や構図が目立つ。筆者はキルヒナーの分厚い洋書を所有せず、したがって年代的な画風の変遷については疎いが、ファブリの巻に載る10数点の図版を見るだけでも、晩年の線や形が丸みを帯び、色彩が紫や緑が目立つことがわかる。それは都会で生まれ育ったキルヒナーがスイスの山間部で孤独に制作に没入したことの精神的な落着きを反映しているが、性格は変わるものではない。画題が田舎的、牧歌的になっただけで、色彩や形体は激しさをやや抑えながら相変わらずの猛烈な速筆で描きまくった。せっかちと言えばいいか、一瞬で沸騰する精神の持ち主で、直観で画題を選び、構図を決め、ジャズの即興演奏のように画面の四方の隅々までこうあるべきという形と色で塗り進んだ。セガンティーニのミニアチュール的な稠密な描き込みとは正反対にあるが、完成された一点はどれも同じ一点であり、描くに要した時間で絵画の価値が決まらない。それは鑑賞者の好み次第で、筆者は10代からキルヒナーは何となく無視出来ない画家であり続けている。その理由を深く考えたことがない。好きなものは一瞬で好きになる。女性を見た時と同じだ。ただしその一瞬は最初に見た時という意味ではなく、何度か見た後に一瞬で魅力に気づくと言ったほうがよい。絵画と女性を対照させるのであればそうだ。もちろんそれは筆者個人のことで、本当に初めて来た時に恋心を抱く対象はあるし、筆者もそうだ。キルヒナーの若い頃の作はブリュッケのグループと画風に共通性があって、またたとえばヴァン・ドンゲンの作を思わせる女性像も多くある。そういう他との影響関係をすっかり脱するのがスイスに移住してからで、2,30年代の作はどの作家にもない完全な独自の個性がみなぎる。どの創作家も年齢を重ねるほどにそうなる。そうした誰の模倣でもない充実した作品を量産しながらキルヒナーは密かに自信を深めたはずで、ダヴォスの家には若い画家たちが教えを乞うて集まった。それでキルヒナーはセガンティーニやホドラーと並んで、またそのふたりの後に位置するスイスの重要画家とされている。この3人の画家はあまりに画風が異なる。写実から遠い、あるいはデフォルメが目立つキルヒナーの絵は誰もやったことのない独特な原色の色彩対比によって、絵画を見慣れない人には精神異常者の作と見えかねないだろう。
刺々しい画題の処理は武器を連想させるが、実際木版画などの版画作品目立って多く、また木彫りの彫刻もしたキルヒナーは、刃物を表現に使うことに馴れ、その刃物を筆に持ち替えても表現が「切る」という言葉にふさわしくなった。「切る」は「キルヒナー」に通ずるが、そう言えばキルヒナーの油彩画に、自分の右手を切り落とした軍服姿の上半身の自画像がある。今その図版を載せた本が探せないが、たばこをくわえ、背後に裸婦が立ち、痩せて面長の顔はいかにも無愛想で神経質だ。カーキ色の軍服、確か赤の肩章、黄色い裸婦で、第一次大戦に従軍した後、1910年代後半の作と思う。雪舟の「慧可断臂図」では慧可が自ら切り落とした腕を壁に向かう達磨に差し出す図を描きながら、その切り落とした腕の切り口は赤い一本の細い線で描かれ、また鑑賞者はよく見なければそのことに気づかない構図となっている。ところがキルヒナーの先の作では切り落とした腕の赤い切り口の楕円形は丸見えで、真っ先にそこに目が行く。それを鑑賞者に平然と示しながらキルヒナーは画架に向かっている。なぜそのような絵を描いたのだろう。リストカット願望から浅い傷をつけるどころか、スパッと切りとしてしまうほどの強迫観念にさいなまれるほどに従軍によって精神を病んだのだ。キルヒナーの多作と速筆はいつ死んでもいいような思い、またいつ死ぬかわからない切迫感があったことも一因だろう。いつ死ぬかわからない不安はやはり戦争だ。その不穏な空気は同時代の人間模様を描く『魔の山』では終盤になって一気に増して来る。だがトーマス・マンが亡命で乗り切ったその第二次大戦をキルヒナーは避けることが出来なかった。ダヴォスでせっせと描いた作品はヒトラーに否定された。ファブリの巻の解説によれば頽廃芸術の烙印を押されて1937年に639点が押収され、頽廃芸術展覧会に展示もされた。スイスのバーゼルでの近作個展も評価されず、1938年、58歳でピストル自殺をする。世間から無視され、否定されたことによる失望をキルヒナーは全く予想しなかったであろうか。強い自意識は高名な画家ほどにあって当然で、キルヒナーは若い画家を指導もしたから、まさか自作が冷酷な扱いを受けるとは思わなかったのであろう。キルヒナーがもっと生きたとして、画風がどう変化したか。それは誰にもわからないが、ダヴォス時代の油彩画はもうそれ以上の進展が困難な画風と言ってよい。それほどに完成度が高く、唯一無二の様式を保っている。それを明言するにはダヴォスにあるキルヒナー美術館を訪れる必要があるし、ナチスが押収した大量の作品の内容を知ることも欠かせない。それでせめて洋書の分厚い画集をと思うが、思うだけで2,30年が経った。キルヒナーはドイツ表現派のひとりとしての展覧会での紹介はあるが、あまり一般向きではない画風ゆえ、日本でのキルヒナー展の開催は望み薄だろう。
キルヒナーの自殺は画風の変遷から見て何となく必然であった気もするが、オットー・ディックスのように60年代まで生きて描けば、案外ポップ・アートの先陣を切った可能性も大きい。画業後半期すなわちダヴォス時代の作は形は漫画的、補色を強調する原色系統の色合いは60年代後半から世界的に流行するポップ・アートの先鞭をつけている。『スイス・アルプス名画展』、『スイス・スピリッツ』はともに最後にポップ・アートの紹介となっている。筆者が小学生の頃、すなわち昭和30年代は海外旅行は一般化していなかったが、訪れたい国の筆頭がスイスであった。それはスイスが観光化し、ポップ・アートが流行する要因となった。キルヒナーがスイスで評価されるのはホドラーよりもポップ・アートを予告させるからだろう。となればもっと有名になってよい。ただし見て楽しいのはスイスに移住してからの作で、ベルリン時代の作はパンク・ロック、デス・ロックをさらに過激にしたような痛みを伴ない、フランスの印象派が好きな人は嫌悪の情を催すのではないか。ホドラーは両足を失った旗手を描いたが、そこには静けさと高貴さが支配的だ。一方自分の右手を切り落とした肖像画を描くキルヒナーは明らかにサド・マゾの性格を思わせる。今日の2枚目の図版は1919年の風景画、3枚目の白黒図版は23年の牧場風景で、漫画的で楽しい作品だ。4枚目は左が24年の『ゼルティッヒ峡谷』で、縦長画面の中央に針葉樹林、その背後に高い雪山、最下部に散歩中の小さな人物を3人描く。右は23年の『さまよえる人』で、農夫とのことだが自画像だろう。5枚目は左が27年の『日の出を前に―「深山荘」前のエルナと私』で、一緒に暮らしたエルナの生没年はわからないが、この絵は慈愛に満ち、幸福を噛みしめるキルヒナーが伝わる。画面左下隅に黒猫がいて、キルヒナーは他の絵でも黒猫を添え、猫好きであったのだろう。5枚目右は26年の一辺120センチの正方形の『ヴィーゼン近くの橋』で、ダヴォスの中心地から南東5キロほどのところにあり、『魔の山』でも主人公たちがピクニックでこの橋を訪れる場面がある。橋は鉄道橋で、深い峡谷に架かっている。観光名所となっているようだが、足腰が丈夫でなければ山の斜面を上り下りするのは大変だ。画面の白は雪だろう。真夏でも解けない雪があることは『魔の山』でも言及される。今日の6枚目の写真はグーグルのストリートヴューで探し当てて上下2枚で合成した同じ場面で、白はやはり雪だが、いかにキルヒナーが実際の眺めの色合いを好みの色に大胆に変えて全体の調和を考えたかがわかる。百年経っても眺望はほとんど変わらず、キルヒナーが写生した同じ展望台に立つことが出来る。キルヒナーの墓はダヴォスの森の墓地にあるとされる。『魔の山』ではサナトリウムで次々に死んで行く人たちがそこに葬られ、墓地の様子も詳しく書かれる。
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