「
巻き舌で ルルルトレモロ 『菩提樹』を 言葉知らずも 気分を糺し」、「教養は 強要されて 共用す 強いて勉めて 学ぶは大事」、「そうだねと 相槌打てば そうだよと 相打つふたり はたと傍目に」、「まじまじと 鏡覗いて 自画像を やがてへななの 崩れも示し」
今日京都アニメ放火犯に死刑の判決が下った。犯人と同じ無敵な境遇の人が大勢いて、そうした人が苦しみから脱出する方策を世の中が考えなければ同様の事件はなくならないと、TVで識者が語っていた。正論であろうが、無敵な人はいつの世にもいる。またそうした人がやけっぱちになって残酷な事件を起こすとは限らない。また昨日書いたように、毒親から性被害を受けた女子が長じて精神を病み、自殺することはおそらく今後もなくならず、そのことが目立ったニュースになることもないが、日本では年間2、3万人も自殺者がいて、彼らのその行為を踏み留まらせることも含めて先の識者は何か方策を講じる必要があると考えているとして、さて具体的にどうすべきかとなれば詰まるところ教育が念頭に浮かぶ。つまり、教育の質を上げるということだが、筆者のような昭和半ばの世代とは違って教師の質が確実に低下して来ている気がするので、まずはそこをどうにかする必要があるのではないか。だが一方で思う。教師や教育の質を上げるとは具体的にどういうことか。ヘッセの『車輪の下』には教育者が神童と称される男子に過剰な期待をかけて勉学に邁進させた結果、呆気なくその男子は事故死してしまう。それは半ば自殺と言ってもよいことで、学校の教育が万能ではなく、世渡りに必須なものではないことをヘッセは思っていた。義務教育中、生活保護を受けていた筆者は、仮に人から後ろ指を指されるような荒れた生活、人生を送ったところで、周囲はこう言ったに違いない。「ああ、やはりああいう片親育ちの貧乏な子ではそうなるのは妥当だな」。そこで後ろ指を指されても当然との思いから開き直り、無敵の人へと邁進する人生を歩んだかと言えば、今も変わらず金欠暮らしだが、別の意味での無敵となり、他人から謗られるような行為をしないことに努めて来たつもりだ。そこには母の育て方が大いに関係しているが、そればかりではない。物心ついた頃から「ああいう人にはなりたくない」という思いからそれなりの大人像を思い描いたからだ。小学5年生の時に近くの市場の斜め向かいにコロッケ屋が開店した。道路に面して若い女性と男性がコロッケを売っていて、当初評判を呼び、母もよく買った。開店日か、その数日後か忘れたが、10数メートル先に見た20代半ばのその男性店員の笑顔をまざまざと覚えている。愛想よく笑顔であったが、「真面目そうな青年がなぜコロッケを売っているのだろう?」と不思議で、彼のような仕事は絶対に嫌だと思った。コロッケを揚げて売ることはいつの時代でも誰かがやらねばならないが、筆者はそういう仕事をしたくなかった。
その2、3年後に筆者は絵を描く道に進みたいと思い、母にそのことを言うと、「せいぜい看板の絵描きになるのが関の山」とたしなめられたし、またわが家の経済事情では中卒で働かねばならず、絵具を買うことにも困る。その話を数年後に先日の投稿「THIS DIAMOND RING」に書いたFに言うと、いぶかり顔で「看板絵描きになるとは限らんし、また看板絵描きでも大山がええんやったらそれでもええんと違うか」とたしなめられた。確かにそのとおりだが、映画の看板絵描きの職業がもう時代遅れで、同じ職人になるのであれば別の道を探さねばならない。それに毎日同じものを同じように作る職人になるつもりは筆者にはなかった。何かを自分で作るとして、それは絶対に毎回違うものでなければならない。10代後半の筆者はそのことに気づいていた。京都アニメ放火犯と筆者の違いは、毒親でなかったことと、周囲の大人がみな優しかったことだ。真面目でおとなしい筆者であったので、周囲の大人からの評価は高かったのだが、真面目でおとなしいことを装っていたのではない。小学4、5年生の頃、正月に京都の親類宅に行くと、従姉たちがTVを見る筆者の顔を見て小さな声で話していることに気づいた。「こーちゃんのあの顔を見てみ。目の輝きが違うね。あの真剣さはさすがや」。その話を耳に挟んで別段何とも思わなかったが、周囲の目という存在を意識はした。人柄は幼少時に目に現われ、他者はそれを見抜く。いかにもアホ面がよくないと言いたいのではない。筆者はむしろ無害のアホな同世代とは親しくした。彼らは自分でもどうしようもなくその状態にあって、いくら勉強しろと親が言っても頭に入る知識に限界がある。そのことを謗るのは本当のアホがやることだ。アホにも有害な奴がいる。彼らはだいたい芸能界で頭角を現わし、世間を醜く染める。京都アニメ放火犯はどうか。彼は自分が懸命に書いたアニメ映画の脚本の一部を京都アニメに盗まれたことが原因で建物に放火したと主張している。京都アニメも世間も盗作を否定しているが、ほんのわずかでも似たところがあったことはあり得る。アニメは実写映画以上に記号の集積であって、筋運びでもパターン化している部分は大きいと想像する。それゆえに放火犯が盗まれたと主張することには少しは真実があると筆者は思うが、腹いせにガソリンをぶち撒けて放火するという行為は理解出来ない。その行為は出自も含めて自分の過去を焼き払いたかったからだろう。そう考えるとまさか36人も焼死するとは想像しなかったはずで、極悪犯人ゆえに即座に死刑しろという意見に筆者は即座には与しない。またその犯人にしても大火傷を負った不自由な身体で生きているのも辛いはずで、生が地獄との思いもあるのではないか。アニメの脚本が採用される可能性はどれほどか知らないが、盗作されたと思ってやけになるのでは元から才能がなかった。
才能は頑張って開花するものではない。何十年創作を続けても駄目なものは駄目で、そういう人のほうが圧倒的に多く、自分の才能を信じ、他人の意見を受け入れず、人生と金を無駄に費やす。本人がよければいいので、他人がとやかく言う必要はないが、とやかく言ってくれる人がいるうちはまだましで、たいていは呆れて無視する。だが、当人は「周囲に見る目のある人がいない」と信じ込んでいるので、正確に見通す人と出会ってもそのことに気づかない。さて、前置きが長くなった。今朝は雪が積もった。そのせいもあるが、トーマス・マンの『魔の山』やまた18年前に家内と訪れた島根県への旅など、ここ2週間は思うことが多々あり、まず今日はスイスの画家ホドラーについて書く。『魔の山』にセガンティーニの名前は挙がってもホドラーについては言及がない。『魔の山』が書かれ始めた頃にはホドラーはスイスやドイツで名を馳せていたので、マンがホドラーの作品を知らなかったはずはないと思うが、ホドラーより2歳年長でしかもマンが『ブッデンブローク家の人々』を完成させる2年前に死んだセガンティーニが名声を確立していたので、スイスの美術についてはセガンティーニを代表させたのであろう。筆者が京都市美術館でホドラー展を見たのは75年6月17日で、21歳になる2か月前だ。手元にその時に買った図録がある。図録の図版を改めて見るまでもなく、半世紀以上前の同展のことはよく覚えている。孤高かつ雄大な画家で、どの作品にも透明感と痛みが込められていた。だがスイスの画家でしかも同地から出て活躍しなかったので、たとえばクレーのようには有名でない。日本初の同展以降、さらに大規模なホドラー展は開催されたが、筆者はそれを見ていない。一方セガンティーニについては大原美術館に油彩画『アルプスの真昼』があるが、同作を含まずに78年に展覧館が兵庫県立近代美術館であり、筆者は5月4日に見に行って図録も買った。セガンティーニの緻密に描き込まれた油彩画は絵具の照りのせいもあって、光そのものを見る気がし、一度見れば忘れられない独特の味わいを持っている。トーマス・マンもそう思ったはずで、それで『魔の山』の舞台となった場所の描出にふさわしいと考えたのだろう。とはいえ、同小説にセガンティーニ論は展開されず、名前も一度しか登場しない。一目で把握出来る絵画よりも言葉の集積で映像を現出させ得る文学により高度な芸術性があるとの思いがマンにあったことは『魔の山』から明らかで、そのことを読者は納得するだろうが、『魔の山』の舞台となった場所と時代を考えれば、同時代のスイスやドイツの美術をおおよそ知っておくことは決して無駄ではない。それで今日はホドラーの話をしたいのだが、『魔の山』がらみからというよりも、成人するまでの過酷な境遇が必ずしも京都アニメ放火犯のような行為を生じさせない一例を示したいからだ。 そのことを言えば持って生まれた才能すなわち遺伝子の差という実も蓋もない話になってしまいそうだが、運も作用して優れた遺伝子を持つ人であっても挫折することがある例をヘッセの『車輪の下』は描いている。では逆に平凡かそれ以下の遺伝子でも社会的に大いに成功すること場合があるかとなれば、筆者はないと思っている。それも実も蓋もない話であるから、大多数の人は自分の可能性を信じて人生の一時期を賭ける。さて、『魔の山』は結核を患っている人々が集まるサナトリウムでの話で、今から百年ほど前は結核が多かった。それは筆者が小学生の頃まで続いた。以前に書いたことがあるが、筆者の母は20代の頃、家からさほど遠くない病院で掃除婦をしていたが、小学校から帰宅し、母に用事がある時は筆者はその病院にしばしば駆けつけた。ほとんど結核病院として機能していて、筆者が母を探して病院の廊下をすたすた歩いていると、近所の人のよいAおじさんは椅子に座ったまま筆者を見て、「ああ、大山さんのかわいい坊ちゃん、ここは結核菌がいっぱいやからあまり出入りせんほうがいいよ」とにこにこ顔で言ってくれた。その時のAさんの笑顔や姿、態度は今も鮮明に覚えている。その後Aさんはどうなったのだろう。Aさんの太った息子が筆者と同じ学年で、勉強は出来なかったが、理想的と言ってよい温和な性格で、中学を出てやがてトラック運転手になり、たまに銭湯で会うと、筆者の妹と一緒になりたいと半ば冗談でよく話していた。もうその頃には父親のAさんは亡くなっていたと思う。それはともかく日本でも昭和半ばまで結核患者は多く、筆者の周囲にたくさんいて、筆者の10代の終わり頃、レントゲンを撮ると、わずかな結核の痕跡があって自然治癒していると言われた。『魔の山』が書かれた当時、結核が悪化すれば死を覚悟する必要があった。そしてトーマス・マンのように経済的に裕福な者は保養所に行くなりして治療しながら暮らすことが出来たが、経済的な家族では次々に感染して子どものまま死ぬしかなかった。その一例がホドラーだ。彼は貧しい家に生まれ育った。洗濯婦であった母はホドラーら6人の子を産み、父は破産して32歳で死に、母は画家で5人の子のある男やもめと結婚して3人の子を産むが、ホドラーが12歳になるまでにすべての兄弟が肺結核で死に、また母もホドラー14歳の時に39歳で世を去った。それ以前から義父のアトリエで仕事を手伝い、また仕事を失った義父が転居した後、看板描きをし、15歳から20歳まで観光客用の風景画を描いていた画家に就いて修行し、そのことで画家を目指すことになった。母が無名にしろ絵描きと再婚したことがホドラーの天才を開花させる運となったのだが、看板描きや商品としての観光絵に携わることは職人仕事で、そのままではホドラーは名声を得ることは出来なかった。
とはいえ20歳を過ぎたホドラーがすぐに有名になって絵が売れたのでは全くない。貧困は長年続き、全欧に名声が轟いたのは50歳頃で、経済的な勝利を獲得してからのホドラーはそれまで自分の作品を見向きもしなかった金持ちに対して辛辣であったという。絵を見る目がないのに、有名画家となればこぞって描いてもらおうというのはいつの時代でも同じだ。それで画家は一夜にして極貧から億万長者になり得る。ホドラーは65歳で死に、油彩画は1000点、素描は1万5000点ほどあると言われるが、75年のホドラー展では注文画としての肖像画は除外され、ホドラーと生活をともにした女性たちの肖像や群像、ホドラーの自画像、そしてスイスの山を描いた風景画が中心となり、売り絵以外の作品が端的にまとめられてホドラーの画風の変遷を知る最初の機会であった。そしてホドラーがほとんど無名であろうが有名になってからであろうが、画風にマンネリの期間はなく、まっすぐ一直線に余分なものを削ぎ落して純粋さを極めて行ったことがわかる。これは貧しく育ったにも関わらず、金を儲けることが第一義ではなかったためであって、生とは何か、真実とは何か、美とはどういうものかを考え続けたことが作品群から伝わる。もちろん生とは死と裏腹のもので、ホドラーは人は必ず死ぬ存在であることを意識しながら、生や美のあるべき姿を一時も忘れなかった。そしてジュネーブに腰を据えてから画題をアルプスの山や湖に求め、そうした雄大な風景画を描く傍ら、人物を画題に象徴的な絵を描き続けた。ホドラーの絵が堂々としているのは風景画も人物画も左右対称性を意識しているからだが、雄大な山並みを見つめながらその姿に人物のあるべき姿を重ね合わせたと言ってよく、特に自画像と山の風景画は全く同じ精神性を保っているように見える。ということはスイスの風土がホドラーの天才を目覚めさせたのであって、ホドラーがスイスに生まれたことは幸運であった。スイスというヨーロッパ絵画の僻地で描き続けたこともあって、ホドラーの作品を絵画史のどこに置くべきかの問題があるが、フィンランドのシベリウスのように辺境の国ならではの作品の持ち味はあって、ホドラーはスイス最大の画家と言ってよい。最初期のホドラーが観光客用の風景画を描く画家の弟子になったことは日本の広重や北斎などの浮世絵の影響をわずかでも受けたのではないかと筆者は想像する。それはホドラーがゴッホと同じ生年で、またシンメトリカルで装飾性に富む画風や色彩感が浮世絵を連想させるからだ。またホドラーは三角錐のニーセン山を好んで描いたが、その富士山を思わせる形からも浮世絵を意識したことが想像される。またホドラーが主張したパラレリスムは映画のコマ撮りの連続や広重や北斎の風景画における人物や松並木に着想がある気がするが、図録のどこにもその可能性については言及されていない。
ホドラーは数人の女性と出会い、共に暮らし、絵のモデルにした。いかにも精力的な風貌のホドラーであるので、新たな女性と出会うたびに画風を豊かにして行ったが、75年展で特に印象的であったのはベルト・ジャックという女性で、彼女の顔や正面向きの裸体を厳格な左右対称の構図で繰り返し描いている。16歳年下のフランス語教師の彼女とは45歳で再婚したが、彼女がモデルになった絵は結婚から9年後の1907年頃までのようだ。図録の年譜にはヴァランティーヌ・ゴデ=デレルという新たな女性との出会いが1909年にあり、その後は彼女をモデルに描く。ホドラーはよほど彼女を愛したようで、彼女が癌を患って死の間際の病床の様子まで盛んに描き続けた。その冷徹な観察眼は無慈悲なようだが、実際はその反対で、なぜ彼女が自分より先に死に行くのかということに納得出来ず、真剣に描くことで孤独を紛らわせたと言ってよい。同じ時期にホドラーは何度も自画像を描くが、以前は巌のように頑健な正面顔がどこかネジが緩んだように悲しみを宿した表情になる。年譜によればホドラーは1905年にロヴィス・コリントに会っている。コリントはホドラーより数歳年少で、またホドラー以上に頻繁に自画像を描いた。筆者は画集でコリントの自画像を制作順に見て行くと、その観察眼にいつも驚嘆させられる。老いてよぼよぼになって行く表情をそのまま描き尽くす容赦のない態度は、画家として、男としてまことに格好よい。日本では同様の強靭な精神の画家はいない。そのコリントの圧倒的な精神力はホドラーにも言える。そのことは自画像から明らかだ。少年時に身内を次々に失い、描くことが生きる意味になったホドラーは、長年の貧困にあってもそれを他者のせいにせず、また自暴自棄にならずに絵画に邁進し続けた。そして名声を得て経済的な不自由がなくなってからも作品を深化させ続けた。そういう人が真の芸術家であって、そういう存在はどういう境遇にあっても頭角を表わす。ホドラーが死んだのはバランティーヌの死後3年目であった。元気であった頃の彼女の正面顔から死の床の顔までわずか5年だ。まさか癌になるとは彼女もホドラーも思わなかったであろう。しかし死はいつ訪れるかわからない。そのことは『魔の山』のテーマでもある。作者は死んでも価値ある作品は後世の人が必ず気づく。その価値とはすなわち美だ。それは美しい形であり、それを支えるのは生と死を凝視しながら今を見つめる真剣勝負の眼差しだ。それは言い換えれば孤独に沈潜することであって、他者に危害を加えることではあり得ない。とはいえ、いつの時代も天才を輩出すれば自惚れの馬鹿も量産する。もちろん後者が圧倒的に多く、大多数の人はその馬鹿の大いに目立つ者を天才と持ち上げる。そのことは数歳の子どもでも知っている。「芸なしを 芸NO人と 言う日本 能のある者 そっと爪切る」
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