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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●春が濃い日に思いつくまま書くと、
まだ見に行ってはいないが、滋賀県近美で今『川端龍子展』が開催中だ。2、3年前に高島屋でも開催されたので新鮮味はないが、チラシのうたい文句からは大作が中心になっている様子がうかがえるので楽しみにしている。



●春が濃い日に思いつくまま書くと、_d0053294_12233183.jpg
龍子は会場芸術を唱えて大作主義を標榜したが、一方でたとえば小さな庭だけを見つめていても一生題材に困らないはずと言った。この意味は筆者にはよくわかる。今日はわが家の小さな庭を、雑草を引き抜くなど多少の掃除をしたが、片隅に楓が育っているのを見つけた。近くには楓の木はないので、どこか遠くから種子が運ばれて来て、それが雑草に混じって芽を出したのであろう。高さ20センチほどに育っていて、緑の小さな葉が5つばかり1本の垂直の茎についていた。ところがその周りの雑草を抜いている間に間違って一緒に抜き取ってしまった。すぐに気づいたが、もう遅い。だが、よく見ると雑草よりも根が深いのか、茎の根本の方は残っている。そこからまた成長するといいが、たぶんもう無理だろう。せっかく珍しい植物が庭にやって来たと思っていたのに、残念だなと思いつつまた雑草取りに励んでいると、今度はもっと半ば捨てておいた鉢の中にも育っているのを見つけた。しかも抜いたものの2倍ほどの大きさだ。すぐにもっと陽の当たるところに出してやった。いつまで持つからわからないが、順調に育ってくれると楽しい。庭にある木はみな自分が気に入ったものばかりではない。大きな椿は本当は別の品種に植え変えたい。だが、もう樹齢が40年近く、高さ4メートルはあるので、植え変えは不可能だ。その木がすぐ近くにあった薔薇の何本かをすっかり駆逐してしまって、今ではそこに同じ品種の椿が背丈ほどに生えている。何本かあった薔薇のひとつは大輪の藤色の品種で、花の形がよくて何度も写生したが、虫がよくつくので薔薇は育てるのは簡単ではない。このように、ほとんど放ったらかしの庭でも生存競争が密かに進行中で、毎年様相を変える。それで龍子の言葉をまた思い出せば、毎日小さな庭だけを見ていても充分絵の材料には困らないことになる。今年は1月に大根島で牡丹の苗を2本買って来て植え、それがもう蕾になっているし、一方でネットで調べて買ったオニビシの実から食べずに残したものを数個、庭にずっと置いてあった陶製の小さな火鉢に水を張って入れておいたところ、昨日見るとようやく小さな緑の芽が水底に見えた。本当はもっと広いところで成長させたいが、あまり水面を大きくすると夏場に蚊が大発生して困る。それに適当な水場と言えば、息子が産湯で使用していたバス・タブしかない。それを庭に出して水を張ってもいいが、菱の芽の出し具合でそうしようと思う。
 近所の散歩と言えば、せいぜい500メートルほど離れた郵便局かスーパー程度しか行かないが、途中の家の庭先の花の変化を見るのが楽しい。あるいは小川沿いに雑草がよく繁茂していて、それも見方によってはそのまま絵の題材になる。それらの雑草は道路の一番端の狭い過酷な場所に根を張っているのに、陽がよく当たるためとても逞しく育っている。だが、あまり大きくなるとすぐに抜かれる。雑草は経験上それを知っているのか、ある一定の背丈以上にはならないし、また他の雑草とはうまく距離を開けて生えている。そしてふと視線を下に向けると、そこにはタンポポとスミレがまたうまく間隔を置いて花を咲かせている。何でもないそんな光景がとても好きだ。誰が植えたのでもない。自然がそのようにバランスのよい配置でさまざまな植物を成長させている。庭できちんと手入れされた梅や桜、桃の木もそれなりに美しいが、そうしたものばかりが完璧ではないのだ。それらを主役とするのはいいとしても、もっと知られないような小さな植物がいっぱいあって初めて目立つ花も生き生きと見える。その伝で行けば虫も大切だ。今日のTVで20世紀梨は自然には受粉しないので、人が花粉をつけた布で白い花が咲いたと同時に花全体を撫で回してやる必要がある。これは不自然な姿ではないだろうか。虫がやって来て花粉が運ばれるというのでなければ、花の方も本当は面白くないのではないか。花好きの人が虫嫌いであることはよくあるが、花と虫の関係は自然の摂理であるので、花だけ愛でて虫を拒否するでは花もかわいそうな気がする。鳥でも同じことだ。そしてまたこの伝で行けば虫にもいろいろあるから、百足やゲジゲジもそれなりに存在を認めてやる必要が出て来る。とはいえ、筆者はやはりこの手の虫は苦手だが。そう言えば、先日のTV番組で、ある美人タレントがインドネシアの山奥の村を再訪し、そこで前にも食べたタランチュラという大きな蜘蛛を焼いて食べさせられるシーンがあった。タランチュラはその格好からして不気味の頂点にあって、かなりの猛毒も持っていそうだが、実際はそうではないらしく、動きは鈍く、まためったに見つからない珍しい生き物だ。TVで映っていた山村では蛋白源として見つけられるあらゆる虫や小動物をも食べるが、タランチュラは珍味として重宝されている。実際に食べたその女性タレントもおいしいと言っていたが、味は蟹に似ているそうだ。これは当然か。同じ甲殻類で、海にいるか陸にいるかの違いだけと言ってよいからだ。みんなは蟹だと喜んで食べるが、あの姿を改めて見つめると、蜘蛛同様に恐い。ところがおいしさがその姿の恐さに打ち勝つ。もし蟹が乱獲されて入手が難しくなると、いずれタランチュラを養殖し、さらに品種改良して大きなものを作ろうと人間は考えるかもしれない。冗談ではなしに本当に。
 花から虫、それも気味悪いものというように話が進んで来たのは理由がある。先日見た若冲の「菜虫譜図鑑」は野菜や虫のオン・パレードになっていた。百足や蜘蛛もちゃんと描かれ、しかもどう呼ぶのか、ぬめりとしたナメクジのようなものも2匹描かれていた。それはどうやら枯れた花や葉、あるいは小動物の死体を食べるらしく、いかにも地面から湧き出たような格好に見えた。そうした嫌われ者的な小動物も自然の一部として若冲は描きとめていて、そこにはファーブル張りの観察眼と、やはりあらゆる生き物に等しい命を見る仏教心が見て取れる。植物学者のリンネが輪廻についてどう思っていたのかは知らないが、若冲の「菜虫譜図鑑」を見せてやりたかった気がする。リンネの理念にしたがった正確な植物画(ボタニカル・アート)は筆者は好きだが、それでも植物の構造だけを緻密に描くのは何だか自然を細切れに分離して見るようで、もう少しどうにかならないものかと思わないでもない。そこで、虫も一緒の画面に描くような正確なボタニカル・アートも存在する。それは写真と見間違うほど緻密だが、写真ではやはり同じように隅々まで細かく描くことは出来ないし、構図にも好き勝手に組み立てられない。そこには写真を使用しながらも、写真ではあり得ない世界を描こうとする画家の思いがあるからだ。だが、もし写真をそのまま絵具やあるいはほかの筆記用具で緻密に描くとすればどうか。アメリカに顕著なスーパー・リアリズム絵画はそうだ。昔書いたことがあるが、リチャード・エステスの絵は筆者は好きだが、知らない人には写真と同じ光景を描いたように見える彼の作品は、実はいくつもの写真を組み合わせて実際にはない光景を出現させている。その組み合わせは突飛な幻想絵画のそれではない。あくまでも本物の風景に見える。だが、エステスは写真そのままでは不満足か、あるいはより本物らしく見せるためには若干の嘘をつく必要があると考えているためか、とにかく写真そのままを拡大しては描かない。
 これも先日のことだが、平安画廊で門坂流さんの銅版画展を見て、2時間近くも作者の門坂さんと話をした。京都では初個展で、筆者も初対面であったが、大いに話が弾んだ。そして当然芸術に関する話ばかりとなった。門坂さんの作品はビュランでエングレーヴする驚くべき緻密なもので、作品は10号前後とあまり大きくはないが、2、3か月要して作る。版画であるので、版が完成すれば複数生産は出来るが、版は彫り直しがまず利かないものであり、また指紋のように流れる線が1ミリに2、3本は入っているほどの極小間隔で引かれているため、目が釘づけされて眩暈を覚えるほどだ。質問したところ、予想どおりそれは写真を元に描いたもので、ある意味では写真そのままと言ってよい。だが、黒1色の表現であるし、またすべては線表現であるため、真っ黒に見える部分でも線で埋める必要上、実際に目で見える、あるいは写真に写っているものとは違って、門坂さん流の翻案作業が彫る段階で常に瞬時に働いている。そのため、写真と同じでいて全然違う感覚を作品は内蔵する。自然を線で解釈する方法には種々あるが、物の輪郭だけではなく、その内部の実体やあるいは影もみな同じ線の流れで表現するとどうなるかというひとつの答えが門坂さんの作品にはある。これはある意味では作曲行為に等しいかもしれない。門坂さんとは音楽の話にもなったが、一時バッハをよく聴いたとのことだ。それはよくわかる気がする。他の音楽の話にもなって、それなりに興味深いこともいろいろ知ったが、ここでは書かないでおく。ところで、門坂さんの作品は名前に実によく似合った雰囲気がある。ビュランで彫られる線は、前述したようにあたかも指紋のようにくねりと平行に流れていて、そこには門坂流の流儀と呼べるものがはっきりと見られるが、門坂の「門」は「角」に通じてビュランの刃先の角、あるいは「門」を「過度」と読み変えれば、その過剰とも思える濃密な線描世界そのままのたとえとなる。もちろんこんなことは当日は門坂さんには言いはしなかったが。いや、言っておけばもっと笑いがあって楽しかったかもしれない。
 筆者は人見知りをする方で、ほとんど自分からは話しかけない方だ。だが、40を越えた頃からは図々しくなったのか、話が出来る相手と思えるとよく喋る。そのため、河原町に出ると2、3時間は人と話して帰って来ることが少なくない。大体いつも相手に話を合わせて話題を向けるが、自分の知らないことは正直に知らないと言って尋ねる。そんな中から意外に面白い情報がよく得られる。お互い顔馴染みになっている場合はいいが、初対面の場合は名刺を必要とする場合が時としてある。門坂さんからももらったが、筆者が持っていないと言うと、「それは困った人だなあ」と言われた。そして最近は同じような場面に何度か出くわした。筆者は20年前に作った古い名刺は持っていても、今は別のものを作りたいと思いつつそのままで、名刺を持って歩かない。そのため、先日はある人に面会を申し込んだが、多少訝られた。何者だというわけだ。それはそうかもしれない。自分を証明するものがほかに何もないからだ。だが、筆者は会社や組合に所属しないし、肩書きや看板とするものはないし、かと言って無名でもあるので、名刺があったところで何も変わらない。そこでずるずるとまた名刺を作らずにいる。しかし、最近は名刺はホームページのトップ画面を裏面にそのまま縮小して印刷しようかなと半ば冗談で思っている。カラー印刷ではかなり割高になるだろうなと思ってまた躊躇しているが。それにホームページのトップ画面もここ1か月の間、しきりに一部を作り変えたいと思っている。だが、それにはある程度のまとまった時間がかかる。そのためにこれまた躊躇して、何だか躊躇だらけの人生だが、実はシンボルとして使っている「マニマン」を立体化したいのだ。この考えはホームページ作りを始めた頃からあった。立体を1点作れば、それを写真に撮ってあらゆる角度から見せられるから、いちいち画像を作り変える手間も省ける気がするし、ひょっとすればアニメも作ることに発展するかもしれない。もともと伏見人形好きな筆者は何年も前からこうしたキャラクターの立体作りには大いに関心があった。そのことは昨日のブログの紫色の文字にも書いてあるとおりだ。だが、なぜ急にまた自分の生み出したキャラクターを立体化したいと思うようになったかだが、それは先月17日に京都文化博物館で開催された手づくり品フェア『京都アートフリーマーケット』で見つけて買った小さな縫いぐるみ人形がきっかけだ。それは「キミドリさん」と呼ぶ。そう言えば作者の女性にもしきりに質問してしまった。わずかな庭でも一生の題材に困らないと言う龍子の言葉を最初に思い出したのは、筆者が最近窓から眼下に見える畑の梅の木を何度も撮影していることを改めて考えてみたことによる。畑のごく一部を毎回同じように切り取りながら、日々刻々と様子が違って行くことが本当に面白く、龍子の言ったことを実感する。そして今日は畑写真の15点目として、「キミドリさん」を畑の黄緑色と対比させてみた。
●春が濃い日に思いつくまま書くと、_d0053294_12242041.jpg

by uuuzen | 2006-04-18 01:37 | ●新・嵐山だより
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