「
櫟の実 靴脱ぎ集う 路傍かな 吹き寄せ落ち葉 護美と言うべし」、「大掃除 せぬままくしゃみ 埃立つ 気力も時も 老いて減じて」、「気の抜けた シャンパンで酔う 父と子は 赤ら顔見合い 気を抜き笑う」、「百八つ 数えず寝入る 年の越し 煩悩忘れ 夢にうなされ」大晦日が雨であるとの天気予報が当たった。曇り空を見上げると掃除する気になれず、本が散らかり放題の部屋の片隅に陣取って年賀状の作業に取りかかった。切り絵専用に使っている韓国製の正方形の紙箱が4つある。そのひとつから黒と水色の色紙を取り出し、カッターナイフの刃を新しいものに取り換えた。切り絵の下絵はぶっつけ本番で、密に描いた波頭にいささか戸惑いながら、そのまま彫ることにした。年齢を思えば蛍光灯のみで裸眼で切り絵を作る作業は卒業した方がいいだろう。だが年に一度で1枚しか作らないでは腕試しによい。準備なしにいきなり切り進むのはまだどうにか自信があるからだ。本題に入る。30日に「風風の湯」で家内は89Mさんから言われた。「大晦日は法輪寺の除夜の鐘を衝きに行くので、108回のひとつは私と思ってよ」。その話を家内から聞いて初めて法輪寺の除夜の鐘は誰でも衝けることを知った。40年少々地元に住みながら知らないことは多い。息子と酒を飲みながら見るともなく見終えたNHKの紅白歌合戦の次に知恩院の鐘衝きの様子が映り、法輪寺の除夜の鐘を思い出した。たぶんそれも鳴り始めたのだろう。それで家内と息子を急かせ、雨の中を傘を差して法輪寺に出向いた。わが家から5分ほどだ。誰ひとり歩いておらず、また法輪寺下の境内に着くと真っ暗で、本堂に至る長い石段は足元がほとんど見えない。鐘を衝き終えたらしい数人と擦れ違ったが、89Mさん夫婦ではない。本堂前に着いて階段を見下ろすと、スマホを懐中電灯代わりに照らして息子が上って来る。そのほかに人影はない。鐘を衝くために百人ほどが列を成していると思ったのに、雨では億劫だろう。筆者の姿を認めたたぶん住職が「さあ、鐘を衝いてください」と20メートルほど先の灯された鐘楼を指し示す。ややぬかるんだ坂道を上がり、鐘楼の前に立つと別の僧侶が鐘を衝いていて、「さあどうぞ」と声をかける。早速一回衝き、息子に交代した。今日の最初の写真は息子の衝く最中と衝き終わりの様子だ。息子が鐘楼を出たところで家内が坂下に着いた。家内の鐘衝きは音が小さく、筆者は言った。「0.5回やな」。それででもないが、僧侶が「もう一度衝いていただいてもいいですよ」と言うので、息子がまた鐘楼に入った。筆者らが最後の鐘衝き一般人であったろう。家に帰るのに往路とは違って別の道をたどり、家に着いてしばらくしてもまだ鐘は鳴っていた。誰とも会わず、家族3人での鐘衝き初経験だ。0時半過ぎから切り絵を彫り始め、3時に半分ほど仕上げて布団に入った。午後に再開し、切り終えた本当の直後に家が大きく揺れた。
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