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糺ノ森で毎年夏に開かれる大規模な古本市に久しく行っていないが、街中でたまに古本屋を見かけるとたいてい入ってみる。ただしほとんど数分で店を出る。ここ20年近く、古書はもっぱらネットで買う。CDもそうで、中古レコード、CD店はもうほとんどが閉店したかと思うと、客層が若返って案外そうでもないのだろう。今の若者はレコードやカセットが珍しいようで、そうした人たちのごく一部は中古レコード店に足を運ぶ。だがレコードは聴くほどに針で溝が削られて雑音が入り、聴くに堪えない状態になる。消耗品なのだ。筆者が洋楽を聴くようになった60年代のシングル盤はたいては安価なプレーヤーで聴き倒したこともあって、雑音だらけになっているものが多いと想像する。筆者が所有したビートルズのLPはそうで、それで20代に全部買い直した。最初に買ったビートルズのアルバムはどれも初版で、それらが今手元にあればとたまに思うが、ネット・オークションにそうした日本盤は安価で出品されていて、きっとノイズがひどいはずだ。それでジャケット目当てで落札されるのではないか。東芝音楽工業製であれば、レコードを入れる紙の中袋に当時よく売れていた他のジャンルのアルバム・ジャケットが両面に整然と数十点、カラー印刷され、筆者にはまず積極的に聴くつもりがない別世界の音楽に見えたものだが、今ならどうだろう。以前に書いたことがあるが、1970年の万博でイギリス館の外にひとりが入れる丸い傘状のブースが数個あって、そこに入ると頭上の小さなスピーカーからビートルズの『アビー・ロード』から「ヒア・カムズ・サン」や「オー・ダーリン」が聴こえていた。ビートルズの音楽がひとり占め出来る小空間で、音質はよくなかったが、イギリスがビートルズを誇り、積極的に宣伝している印象をさらに強くした。ただし当時万博を訪れた大人のうち何パーセントがそのブース内で流れる音楽を一瞬聴いてビートルズだとわかったであろう。そのことは今でも案外同じ割合でないかと思う。ビートルズは確かに現在も有名だが、その有名さ加減には差があって、ビートルズの名前は知っているが音楽はあまり知らない人から、筆者のように全曲を詳しく知っている場合まであるし、さらに言えば筆者のように新譜が発売されるたびに同時代的に聴いた者から、当然ビートルズの解散後に生まれて好きになった者までいて、さまざまな人の分だけ、ビートルズ観がある。今の若い世代が、70年万博のイギリス館でビートルズの曲がエンドレスで楽しめる個人用ブースがあったと知ると、そして筆者がそのブースで『アビー・ロード』が流れていたことをこうして書くことを読むと、同じ曲を知っているのであれば想像を逞しくして70年の万博会場にいる気分になれるだろうが、そのように音楽は時空を超えて同じように存在することの不思議さを改めて思う。
そのことはビートルズの曲が古びていないことを証明しそうだが、実際はそれも個人の考えによりけりだ。筆者は70年の万博を遠い昔のことと思っているが、当時発売されて半年ほどしか経っていなかった『アビー・ロード』もそうだ。だが一方で、その後に多くの音楽が作り出されて来たにもかかわらず、『アビー・ロード』はやはり新鮮に思える。そのひとつの理由はビートルズが最後に録音したアルバムである事実を知っていて、ビートルズの7年ほどの活動期の最終という意味での最新さが記憶に擦り込まれているからだ。その点は今の若い世代のビートルズ・ファンも共有出来る感覚だろう。だが、前述したようにビートルズの日本盤LPの中袋の存在は日本における独特のビートルズ受容の土壌を示していたと言ってよく、そのことがビートルズやその音楽と無関係であるとはあながち言い切れないことを思う。当時のビートルズのアルバムが他の海外の国で発売された時にそうした自社が抱えるミュージシャンのアルバムの宣伝を中袋で行なったかと言えば、全くなかったとは言えない。つまりどの国においても他のさまざまな音楽とともにビートルズの曲が世間に流れていたはずで、受容の仕方や程度に差があった。ビートルズは来日した66年はすでに『リボルバー』をほとんど完成させ、そのテスト盤を持参し、ホテルの部屋で加山雄三がそれを聴いたとされるが、ポールが黒紋付を着た写真が同じ部屋で撮影され、その写真は初めて1年に2枚アルバムを出すことになっていたビートルズとしては夏場になって世に出た『リボルバー』に先駆けて66年にまず発売した『オールディーズ』の裏ジャケットに使われた。つまり、ビートルズは日本のミュージシャンに会い、また日本の文化に関心を示した証をアルバムに刻印した。ただし当時のビートルズは自分たちのアルバムの日本盤の中袋に加山雄三や越路吹雪のアルバムのジャケット写真がタンゴなどのラテン音楽のアルバムとともに数多く紹介されていたことまでは知らなかったであろう。それにその独特の中袋は65年の『ラバー・ソウル』ではもう廃止されていたと記憶する。あるいは66年の『リボルバー』からだが、それはそれでビートルズそのものだけに意識を集中させられる効果があってすっきりした印象を抱きはしたが、今にして思えばちょっとさびしい気もする。同時代のしかも日本の雑多性が見えなくなったからだ。日本でビートルズがどのような音楽状況、芸能状況で聴かれていたかが見えにくくなったことは、ネット社会におけるビートルズ受容の先駆けであったと言ってよい。純粋培養と言うべきか、小さな個人というシャーレの中でビートルズの音楽を楽しむことがあたりまえのようになった。またそのことによってビートルズ曲の古典化が形成されて来た。つまりいつどこで聴いても同じような感覚で楽しめる状態が完成した。
さらに言えば70年の万博のイギリス館で『アビー・ロード』が流れていたという個人の記憶はどうでもよいものとされ、今後もビートルズは古びない、つまり新しい音楽として聴き続けられる。だが果たしてそうだろうか。筆者はラジオのヒットパレード番組によってビートルズを知った。それは当時の他の洋楽のヒット曲を合わせて聴く体験で、ビートルズと同じ時代にどういう曲が流れていたかをよく記憶する。10代前半から半ばとはそのように流行にとても敏感で、一度の体験がその後の人生を決定する場合すらある。当時の同じ世代がみなラジオでもっぱら洋楽を楽しんでいたかと言えば、40数人の学級のうち、数名だ。これも何度も書いたが、ビートルズ大好き少年は一学年すなわち数百人に数名で、まあ筆者はその筆頭であった。そのように洋楽好きはきわめて珍しい存在であった。それはさておき、一方で同時代的にビートルズを聴いた数少ない友人は暮らしぶりに格差があった。裕福な家の子どもは兄もだいたいファンで、それで家には他のポピュラー曲に混じってビートルズのシングル盤がたくさんあった。当時の筆者と同世代はラジオやTV、それに兄や姉の影響からビートルズ以外の音楽を聴くことも多く、同じビートルズ・ファンでもビートルズ曲を聴いていた環境が微妙に違う。それをひとまず概観出来る場が、前述のアルバムの中袋の裏表に数十枚印刷されていた他のミュージシャンのアルバム・ジャケットとその題名で、東芝音楽工業所属のレーベルでないミュージシャンはそこに含まれないから、日本で大人が楽しむ軽音楽は実に多様であった。ところが筆者はその多様性からほとんどビートルズのみに焦点を当てた。そしてラジオのヒットパレードに登場して来る他の洋楽曲がそれに付随した。ネット時代になって、YouTubeで手軽に音楽が映像つきで楽しめるようになって、60年代は得られなかった情報や知識が容易に吸収可能となった。ビートルズ曲に関しても今の若者のほうがはるかにいろんなことについて詳しいだろう。しかしリアルタイムの体験はないから、受容の仕方に違いがある。それを言えば筆者の中学生時代も家庭によって音楽環境の差はあったが、広く世間でのビートルズという捉え方をすれば、60年代当時、貧富に関係なしにビートルズの魅力が他のミュージシャンとどう違っていたかはファンであれば共通して感じていたはずだ。その広い世間という意味がネット社会になって大きく薄れて来た。純粋培養のシャーレの中で聴くように、つまり世間で他の流行しているものとは無関係を決め込んで聴く態度が可能となった。そのようにしてビートルズのごくわずかにしか違わないリミックス・ヴァージョンなどをありがたがるファンが出て来た。そのレコード会社による巧みな商法にファンは踊らされているだけという皮肉な見方も出来る。
つまりファン心理をうまく手玉に取る大会社の商売によってビートルズの古典化が着実に築き上げられて来ているとの見方を忘れないようにはすべきだろう。ビートルズが大英勲章を授与された時に当時の大人はそのことを見破っていたはずで、新しい文化が大きな収入になることを知っていた。それで70年万博でもビートルズ曲をひとりだけくぐって傘の下に入れるブースの中で聴かせる場所を堂々と作った。話を戻すと、レコード会社がビートルズの録音をいじくって微細な部分を作り変えて売る商法は、客がわずかでも新しいものを求める期待に応じてのことでもあって、鶏と卵のどちらが先かの問題に収斂するところが大きいが、たとえば古典文学と称される書籍は多くの出版社が繰り返し印刷することによって古典になって来ているのと同じく、レコード会社による話題作りはビートルズが世間から忘れ去られずに古典化して行く最大の理由になっていると言ってよく、ビートルズの曲の分析よりも文化史的にビートルズを見る研究が今後はビートルズをさらに古典にするだろう。繰り返して言えば、ビートルズが活動いていた60年代、熱烈なファンは学校に数名しかおらず、これは大阪市内の他の中学校も同じで、無視出来るほどに少なかった。現在も同じ割合かどうかは知らないが、筆者はもはやビートルズの極微の部分の差異をありがたがるファンではなく、60年代半ばまでの東芝音楽工業が発売したアルバムの中袋に印刷されていたアルバムに興味がある。それを積極的に調べる気はないが、当時は無視していた音楽を今はそうではなくなっている。それは当時ビートルズの音楽がいかに斬新であったかを再確認することに役立つからだ。つまりビートルズの古典化の別の側面、すなわちビートルズの芸術性を知る手立てになるからで、そのことを10代前半の筆者はすでに感得していた。だがそれを他者にどう伝えられるかがまだわからなかった。斬新であるとして、それを言葉でどう表現するか。先を続ける。ビートルズはデッカ・オーディションで「ベサメ・ムーチョ」を録音した。ポールの好みであったのだろう。筆者が子どもの頃、ラテン音楽好きの大人が多く、レコード再生機器のある家ではたいていそういうアルバムが1,2枚はあった。それでビートルズの「ベサメ・ムーチョ」は違和感を覚えながらも、彼らがR&B以外の先人の音楽に敬意を評していると思ったものだ。視野の広さと言ってもよい。ところがその視野はビートルズの曲に心酔するほどに狭くなって行きかねない。ビートルズが素晴らしいとして、それは他のいろんな音楽をよく聴いての思いならいいが、重箱の隅ばかり注視する態度に気づかないファンがいるように感じる。とはいえ人生は短い。広くいろんな音楽を聴きたいと思いながら、筆者にしても買ったまま聴いていないレコードやCDがたくさんある。
それにビートルズにしても圧倒的体験はやはり熱心に聴いた10代半ばから20歳頃までで、その当時の生活の記憶と強くつながっている。それは純粋培養のシャーレの中での出来事のように思える一方、当時の世間のさまざまな音楽と絡み合っての感動であったが、それは誰しもで、ビートルズ曲の古典化はリアルタイムで当時から成され始めたのではないか。ビートルズが「ベサメ・ムーチョ」やアメリカ黒人のR&Bのカヴァー曲をアルバムに収録しなくなった65年辺りからビートルズは芸術を成し遂げ始めた。ただしそれはラテン曲を初めR&Bを学ぶ基礎があってのことで、その意味でビートルズはシャーレの中に安住し続けたのではない。さて、以上は前置きだ。今日取り上げる「恋のダイヤモンド・リング」はこのブログを始めた際、数か月以内に書こうと思っていた。気になりながら何年も何十年もそのままになることはある。今頃書くのは気が向いたからではなく、無理に気を向けてのことで、ひとつの肩の荷を下ろしたいからだ。この曲は65年の大ヒット曲で、ラジオのヒットパレード番組でビートルズの曲とともに頻繁に流れた。ビートルズのような男性バンドの曲が当たると見込んで多くのバンドがレコード会社が発掘した。それはイギリス、アメリカともで、日本ではその双方が紹介され、本曲を演奏するゲーリー・ルイスとプレイボーイズもジャケット写真の全員スーツ姿を見るとビートルズの真似であることは一目瞭然で、曲調もマージービートそのものと言ってよく、イギリスのバンドと区別がつかない。ドラムスのゲーリー・ルイスがアメリカの喜劇役者ジェリー・ルイスの息子であるとジャケットの解説からわかるのでアメリカの音楽会社が売り出したバンドであると知る。父に倣って幼少時にショー・ビジネス界で生きる思いがあって、友人のパーティで演奏して楽しもうという考えで64年末にバンドを結成し、ディズニーランドのダンス・パーティで演奏する機会を得た後、バンドは映画出演も果たし、リバティ・レコードのオーディションを経てレコード・デビューすることになった。そうして19歳で本曲が65年1月に全米でトップ・テンに入る大ヒットとなったが、その後は日本でヒットした曲はなく、今では知る人は少ないだろう。ビートルズの同時期の曲が今も新たな編集で発売されるのに対し、一発屋の運命といったところだ。解説には作曲をゲーリーもしくはバンド・メンバーが行なったとは書かれず、またレコードのレーベル面には本曲は3人の共作でそこにゲーリーの名前はなく、B面の曲も同様だ。これは後のモンキーズと同じく、タレント性に富む若者を見つけて来て、専門家が書いた曲を歌わせるという大手レコード会社の商法だ。つまり偶像を作り上げる手法で、一時でも人気が沸騰してレコードが売れればそれでよしとの考えで、そのことは日本にも持ち込まれた。
そのどこに芸術性があるか。そんなことは商売のレコード会社にすればどうでもよい。流行曲は大衆の間で常に人気を熾烈に競い合い、どんな曲が大ヒットするかは誰にも予想がつかない。それで歌い手のルックスがよくて、曲は若者が即座に覚えて口ずさめる2分少々の長さがよく、あらゆる専門家を動員して商品を作り上げる。その専門家はレコード会社への売り込みがある一方、過去にヒット曲を書いた作曲家が含まれ、誰にどういう曲をどういう形で歌わせるかの会議がレコード会社内で持たれていたのだろう。またヒット曲を待ち望んでいる10代は誰が曲を書いたかに関心はなく、ただ聴いて覚えやすく、個性的であればよいので、作曲家は陰の存在と言ってよいが、それが一気に前面に踊り出たのがビートルズであった。ビートルズが歌手のトニー・シェリダンのバック・バンドであった60年代初頭はバンド名はトニー・シェリダンとビート・ブラザースであったか、とにかく歌手が優先で、伴奏や作曲家はさほど重視されなかった。その慣習をゲーリー・ルイスとプレイボーイズは踏襲している分、当時彼らはビートルズよりも時代遅れのバンドに見えた。後述するが、そのひとつの理由はジャケット写真にあるように、アコーディオン奏者がいたことだ。彼を除けばビートルズと同じ4人編成で楽器も同じだが、アコーディオンを外せない考えが作曲家にはあったのだろう。当時もその後もロックンロール・バンドがアコーディオン奏者を抱えていた例はないと思う。それだけに却ってゲーリー・ルイスとプレイボーイズは目立った。筆者は本曲のシングル盤を当時地元商店街にあったレコード店で見て、中央のゲーリー・ルイスの背後にあまりぱっとしない風貌の4人のメンバーが立ち、そこにアコーディオン奏者が混じっていることに何とも奇妙な感じがした。ビートルズのように4人が目立ち、必要最小限のメンバーという小気味よさとは違うからで、それでこのバンドが印象に強かった。もちろん「恋のダイアモンド・リング」はビートルズが前年に大ヒットさせた「キャント・バイ・ミー・ラヴ」の歌詞から着想を得たものと一瞬でわかったが、曲の仕上がりはビートルズに劣らない個性があることに驚きもした。筆者はこれ本曲でしかゲーリーとプレイボーイズを記憶しない。またこの曲について話をした者は当時いなかった。10代の終わり頃か、1年先輩のFがこの曲のシングル盤を所有していることを知り、話題にしたことがある。Fは「最初のメロディが何か変だ」と言い、その意味はよくわかった。その変な具合はビートルズの曲にもあった。変と言えば聞こえが悪いが、日本人ならまず思い浮かばないメロディとの意味だ。そういうことがあり得るのか。何でも模倣するのが得意の日本人であるから、ビートルズ風のメロディは今ではたいていのミュージシャンは書く才能を持ち合わせるだろう。
それには音階や和音、音程に分け入って分析するのは当然として、それでビートルらしい曲が書けたとして、やはり決定的に欠けるのは詩的霊感だ。それがなければ模倣以上に出ない。ジョン・レノンには稀にその音楽的霊感が豊かにあった。それがビートルズの成功を導き、また古典となる風格を付与した。そのことを筆者は10代前半で知っていた。そういう話を筆者がまともに出来るのは1年先輩のFだけであった。Fは20年ほど前にタイに移住した。その直前、所有していたレコードをすべて筆者が紹介した京都の中古レコード店に売った。その中に「恋のダイアモンド・リング」が混じっていた。筆者はその1枚をもらいたかったが、彼は代わりに大事にしていたビートルズの詩画集本をくれた。形見のようなものだ。ただし、その本はビートルズの『レット・イット・ビー』の初版限定日本盤LPに附属した本とともに筆者の家からある日消えた。盗まれたか、筆者がしぶしぶ貸したまま、相手は自分のものとしたか、記憶が定かでない。Fの移住後、筆者はネット・オークションで「恋のダイアモンド・リング」を買った。先の本を除けばFの思い出としては最適なものだ。Fは本曲のメロディをどこか変だと感じたが、それは65年の10代半ばの洋楽好きなら誰しもだったろう。ただしその理由がよくわからないし、その理由を探る気にもならない。楽器を演奏出来る者ならその変さ加減がどこに由来するかはわかるだろう。筆者がその変な感覚の根源を知ったのはザッパの音楽を聴くようになってからだ。中学校では長短の音階を学ぶ。授業時間数がごく少ないので、シャープやフラットが順次多くなるにつれて長短の音階がどのようにずれて行くかは系統立って教えられないが、わかればごく簡単で、そういうことはちょっとした参考書に必ず書いてある。筆者が不思議であったのは長調はド、短調はラから始まり、それ以外の音を基音にする音階がなぜないのかということだ。だが、それも音楽の基礎を書く本には教会旋法として記されている。ただし、それらの音階は長短の音階に収斂して来た歴史的経緯がある。それは和音を持ち出すと具合が悪い音階で、またどこか不安定で取り止めのない印象を与えやすい。ただしそういう効果をあえて狙う作曲では威力を発揮する。日本の義務教育では長短の音階と、日本の陰陽の旋法、そして音階からいくつかの音を省いた民族的な音階については教えられる。一方では臨時記号という便利なものがあって、ある特定の音階から半音外れた音をいくらでも付与した旋律を書くことが出来るので、教会旋法の出番はないと言ってもよい。あるいは教会旋法に沿うメロディを聴いた時には何か変と感じる。「恋のダイアモンド・リング」がどこか変と感じたのはそのためだ。長短の音階に収まらないので、どこか変と思いながらとても印象深い。

教会旋法は作曲家が意識しなければ使えないものか。筆者にはそのことがわからない。だが筆者の知るシンガー・ソングライターのある女性の曲に終始教会旋法に収まるものがある。彼女は意識せずにそういうメロディを書いたはずで、それだけ耳がよく、また精神的にどこか不安定な面を抱えている。話を戻す。ゲーリー・ルイスはギターも弾くが、作曲の才能はない。本曲の作詞作曲は3人の名前が盤面に記されている。最初は「Kooder」で、これはアメリカ西海岸の音楽にそこそこ馴染みのある人ならばライ・クーダーかと思うだろう。ただし彼は「Cooder」で、綴りが違う。それに世代もやや違う。ずっと後年、筆者は本曲の「Kooder」が「Kooper」の誤りであることを知った。作曲家はアル・クーパーで彼は66年にもっと頭角を現わす。それはボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」で同曲を印象深いものとして最大の効果を発揮したオルガン奏者としてだ。当時筆者がラジオでその曲を聴き、ディランのヴォーカル以上にオルガンの響きに圧倒された。アル・クーパーの名を知るのはもっと後で、70年のアルバム『フィルモアの奇跡』においてだ。そのジャケットでは当時の流行の風貌でふたりの男がイラストで描かれ、大きく描かれるほうがアル・クーパーだ。それ以前の69年にクーパーは西海岸のR&Bの大御所の息子であるシュギー・オーティスとデュオでアルバムを録音している。クーパーはオルガン、シュギーはギターを天才的に弾きまくっていて、当時のザッパがそのアルバムをどう聴いたかは興味深い。ザッパはブルース・コードでの即興演奏の腕を磨く際にイギリスのエリック・クラプトンなどの有名どころを参考にする一方、やはりアメリカの黒人ミュージシャンから学ぶことが多かったはずで、それを基盤に一方では教会旋法や民族音楽の独特の音階を学び、独自の境地に至るようになった。それはどのような音階、旋法でも自在に弾きこなしながら、そこから独自の旋律を見出して行く作業で、膨大な学びと練習の賜物だ。シュギーのようにブルースの天才的即興が出来るだけではザッパは満足せず、ブルースからはみ出たものを吸収しようとした。それがさまざまな教会旋法であったことは、カトリック教徒として成人した出自から不思議ではない。だがクーパーはどうして本曲の最初の主題で教会旋法のエアリオンを使ったのか。それは意識してのことか。そうであればそれをどこで学んだのか。彼はユダヤ系で、ユダヤの教会に通ったり、あるいは幼少時にユダヤならではのメロディに馴染んだりしたかもしれない。とすれば長短の音階以外に擦り込まれる旋律があったろう。あるいはリバティ・レコードに自作曲を売り込む際、ビートルズのようなマージ―・ビートっぽいメロディならば歓迎されると目論んだか。
筆者はそうだと想像する。そこにはビートルズっぽいメロディや歌詞を書くことはたやすいと考えた早熟な才能の発露がある。だが本曲は3人の名前が列挙され、クーパー以外の作曲家の手が入った。その箇所は最初の変な、つまり本曲を大ヒットさせた理由になったエオリアン旋法のメロディで、それはクーパーが書いたものに違いない。ビートルズの曲で代表されるように、2分少々のポップスには最初のAという主題とサビと通常言われるBのメロディが欠かせない。そのBが意外なほどに曲はヒットすると言ってよいかもしれないが、本曲はAのメロディが命だ。そしてAとBの対照はあまり巧みとは言えない。Bをクーパー以外の人物が書いたからだろう。2分という長さの中間部にAのメロディを使った楽器演奏部分がある。そこではいかにもアメリカ西海岸のエレキ・ギターの伝統的音色とオルガンの絶妙な合奏がある。オルガンはあるいはアコーディオンかと思うが、やはりオルガンで、これはプレイボーイズのメンバーではなく、ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング…」のように、スタジオでクーパーが演奏したものだろう。となればやはりAは彼の作曲とみなしてよく、レコードに最初に間違いながら彼の名前が記されたことの理由がわかる。つまり、作曲やアレンジの才能がありながら、レコード会社はルックスのよい、そして芸能界では二代目のゲーリー・ルイスを主役にしてシングル盤を録音し、それでデビューさせた。クーパーはギターを弾き、また歌いもするが、声はあまりよくない。そしてやりたかったのはブルースのようで、即興のソロ演奏にもっぱら邁進した。クラプトンのクリームがそうしたブルースの長時間演奏の場をアメリカで存分に与え、そこにザッパも与することになって行くが、前述のようにザッパはブルースのみではなく、それはひとつの手持ち札の扱いであった。ではクーパーがブルースからはみ出して教会旋法の長いソロをなぜ演奏しなかったのかだが、それを受け入れてくれる客層がなかったであろうし、そういう思いにも至らなかったのだろう。やりたいことを貫きながらいかに長年ファンの思いを引き留め得るか。クーパーは誰かと組むことは出来てもバンドの統率者向きではなかったということか。クーパーが地味なのは、ザッパが創設したレーベルから世に出たアリス・クーパーと紛らわしいからとも言える。化粧して派手なミュージシャンのアリスと比べれば、アルは目立たない。そのことは本曲でいいメロディを書き、全米での大ヒットを獲得しながら、レコードのレーベル面に名前が間違って綴られることからも言えそうだ。彼は独学で音楽の才能を閃かせながら、陰のサポーター役しか運が回って来なかったと言ってよい。そういうミュージシャンは数多いだろう。それでも大したもので、大多数はヒットにかすりもしない状態で長年活動するか、途中で転職する。
本曲のジャケット裏に「リバティ・ヒット・レコード選」とあって、どれも330円の価格で11枚のシングル盤の題名と演奏者名が列挙されている。ヴェンチャーズが3枚も挙がっているのは当時の日本の洋楽趣味を伝える。ジャンとディーンは大ヒット曲があったのでよく知るが、トレシー・デイという歌手は知らない。アメリカでヒットすればたいてい日本でもそうなったと思うが、ヴェンチャーズの例からして各国の好みの独自性があると言ってよい。そういう中でビートルズを見る必要があることを先に長々と書いたが、今ではほとんど忘れ去られた本曲の魅力がどこにあるかを長年思いながら、ビートルズの圧倒的なアメリカへの影響と、キリスト教を介してのイギリスとアメリカの共通性に思いを馳せる必要性を思い、日本ではビートルズも教会旋法も皮相的にしか理解していないのではないかと考えてもみる。ともかく、10代半ばで聴いた時の最初に覚えた本曲の印象の変さ具合を筆者なりに探ると上記のようになる。こういう話をFとしたかったが、音信不通で生死がわからない。それはそうとゲーリー・ルイスとプレイボーイズと同じ時代にマージービートのバンドとしてジェリー・アンド・ペースメイカーズがいた。このジェリーはゲーリーの父のジェリーと同じでややこしい。ともかく、主役とその他のバンド・メンバーという組み合わせはビートルズが登場して一気に古臭くなった。それにその主役がレコード会社が作った一種の傀儡のようなものであれば、すぐに人気は落ちる。それで本曲のトロフィーはゲーリーに与えられるのではなく、アル・クーパーが授与されるべきだ。昔何かで読んだが、クーパーはアメリカのどこかの音大で教師になったとのことだ。ショー・ビジネスでさまざまなことを経験し、それを活かすためには、また食うためにはそれなりに収入を安定させねばならない。ユダヤ系であることはたとえばボブ・ディランの録音に参加するといったことには役立ったと想像するが、あるいはそうしたユダヤ系の人脈で教師の職に就いたかもしれない。一方のゲーリー・ルイスはその後どうしたか。有名芸能人の二代目であればそれなりに人脈があって貧困に陥ることはないと思うが、本曲を懐メロとして引っ提げてTVで長く活躍したかもしれない。大ヒットしたことは一瞬、人生はあまりに長い。しかしその長い人生の折々に少年時代に大ヒットした曲を思い出して口ずさむことは楽しい。65年のビートルズの曲が古典になるとして、数百年の後、本曲は20世紀のポップス史に確実にわずかでも触れられるだろう。歌詞の最初は「Who wants to buy this diamondo ring?」とあって、これは「このダイアモンドの指輪のごとき本曲を誰が買いたがる?」と読めば、アル・クーパーの切実な思いが伝わるし、またこの言葉はザッパが転用しもした。それは別の話。
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