2日に大阪高島屋で見た。久保田一竹は2003年に87歳で亡くなった。筆者は言葉は直接交わさなかったが、2回間近で接したことがある。

最初は京都でほとんど最初の個展の時だったと思うが、会場は岡崎天王町の古橋プラザだ。どこで調べたのか、筆者宛てに達筆な宛て名書きの案内はがきが届いた。「久保田」のはんこも捺してあるので、おそらく氏の自筆と思う。その時に買った大版の図録には1980年6月29日の日づけを記入してある。日曜日であるので仕事の休みの時に出かけたはずだ。見返しに、筆で「久保田一竹」と大きくサインを入れてもらい、横にいた人がすかさずそのうえに半紙を置いてくれた。この日会場のトイレに立つと、氏が隣に来た。氏は向こう隣に立つ同僚に声をかけ、立派な名刺をトイレの中でわたした。2度目に接したのは90年代初め、京都の全日空ホテルでの展示販売会の会場であった。その時は東京から来たUさんとたまたま付近を歩いていて展覧会が開催されているのを知った。「先生、ちょっと寄って行きましょうよ。わたし、一竹のキモノは好きではないけど、どんな風だか見ておきたいので」「ええ、かまわないですよ」。そんな会話をしながら広い会場に入ると、ほとんどお客さんはおらず、一竹氏とスーツ姿の女性っぽい男性の両人が応対してくれた。一竹氏は自染めの変わった羽織を着ていて、胸の紐は赤い珊瑚のような材で作った宝飾ものとなっていた。Uさんは一竹氏とは初対面だが、キモノを勧める話をはぐらかしながら、まるで知り合いのような気安さで話し始めた。「あらっ、先生のその羽織の紐の赤い玉、何ですか?」「これですか、これは鶴の丹頂部分の骨です。とても珍しいもので日本ではほかに数個しかないものです」「へえー、ほんとですか。何だかあやしー、でもいいですね」。こんな会話の間、横にいたスーツ姿の男性がしきりとUさんに向かって「わー、素敵な方だわ、とっても素敵な方」と何度もほめちぎる。後でUさんにそのことに話を向けると、「わたしの指輪を見たんですよ。ああいう人はね、持ち物で人を判断するから、わたしホテルに入る前にさっとこの指輪をしたのよ」。指輪は大きく目立つダイアモンドだ。そうでなくても服装や物腰からしてUさんは誰が見ても大金持ちに見えるが、初対面で馬鹿にされないように指輪を鞄から出してはめたのであった。Uさんはおだてられて2、300万ほどするキモノをぽんと買うのかなとひやひやして見ていたが、最後に一竹氏にはっきりとこう言った。「わたし、先生のキモノ好きではないんです」。一竹氏と男性は開いた口が塞がらないといった表情をした。氏の手が関与していないはずの無地のキモノでも100万円近くしていたが、Uさんは正統な友禅好みなのだ。
一竹辻が花が華々しくTVで取り上げられて、またたく間に日本中に知られる存在となったのは誰しもよく知る。しかし、日本の染色のことをよく知る者からすれば、氏の辻が花は桃山時代の辻が花の墨描き文様をそのまま引用し、そこに友禅の多彩さを加えたものであって、技術の混濁が見られるばかりのものと思える。キモノ染色の本場である京都では特にそう思う人が多いはずで、全日空ホテルでの展示会に人が集まらなかったとしても当然と言ってよいところがある。友禅を初め、日本の染色について深い知識を持っている人はあまり美術ファンにもいないと思うが、一竹辻が花があれだけ評判になったのは、マスコミが大きく騒いだことと、キモノが高価であるという一般的認識のうえにさらに凝った技術を駆使したものを提出したからだ。氏は最初は友禅染を学んだ。そしてそのことはある意味では生涯にわたって強く影響した。一竹辻が花が友禅の亜流と定義してもよいからだ。技術がまだ登場しなかった頃の絞り染め主体の昔の辻が花染に友禅を加味した染色で、言うならば「絞り防染の友禅」だ。友禅は糊を糸のように細い線状にして生地上に引くことで模様の輪郭を表現し、糊が乾燥した後に染料で筆でその内部に順に挿して行く。つまり「糊防染」技術を応用したものだ。糊は染色が終わった後で除去し、そこは生地白として完成する。江戸時代にこうした微細な糊防染の技術によって、それまでは刺繍に頼るしかなかった細かい絵画表現が初めて可能になった。本来の辻が花は、墨によって直接白生地に独特の模様を描いた後、その模様部分を糸で括って防染し、そして生地を丸ごと染料の液の中に浸して炊き染めするものだ。そのために地染め部分に大胆な表現が現われる。炊き染めは昔の染料が絵具のように筆で直接生地に挿して描くように染めることが出来なかったことによる染色方法だ。一竹辻が花が狙ったのは、友禅に特徴的な極彩色の表現と絞り皺の効果を併存させることで、これは友禅を手がけた者は大抵は誰でもその最初の頃に一度は考えるし、実際にそうして染める人もいなくなはなかった。つまり、糊による文様の輪郭の防染を糸で縫い括り、そこに筆で順に色をちょこちょこと挿すのだが、これは元来の炊き染め絞りからは邪道とみなされていた。伝統とはおかしなもので、今はキモノの染色にはほとんどの人が化学染料を使用して、江戸時代と同じように植物から抽出した染料で染める人はいない。したがって現在の絞りが炊き染めにこだわらずに、一竹氏が堂々とやったことを誰しも盛んにやればいいようなものだが、現実はなかなかそうはならない。これは染料が便利になったとはいえ、絞りの炊き染めは一気に広い面積を染め、それのみでしか得られない特徴的な表現効果を持つからだ。つまり、友禅のように細かい絵模様を染めたければ、確かに今では化学染料を使用すれば一竹氏のように絞りでも可能だが、そんな手間をかけるよりも、友禅ですっきりと仕上げる方がはるかに仕事は早いし美しい。そして筆者もこの考えに全面的に賛成する。
日本美術の大きな特色のひとつに平明な美がある。日本画ではモノの影を描かないが、これと同じ表現を染色もずっと持ち続けて来ている。日本画と友禅はかなり近い関係にあるのだ。絞りは生地を糸で縫い縛るので不可避的にそこに皺が生ずる。昔の辻が花の絞りはこの皺をよしとせず、染め上がった後は平らに伸ばした。皺はいわば技術上仕方なく生ずるもので、それは模様より沈んで見えるべきものなのだ。だが、絞りは手間のかかる技術という認識が高まると、それを見込んで、あえてこの皺を効果なシンボルとして主張する者が出て来る。その頂点にあるのが一竹辻が花と言える。一竹辻が花は複雑で濃い色の表現に重きを置くために、何度か絞りをほどいては染めることを繰り返すが、「空絞り」と言って、絞り皺のみを強調するために絞りを施したりもする。つまり、皺が目立つほどに手間がかかった絞りということで高価な商品になる。それは美の感覚が変化して来たためとも言えるが、皺が目立ち過ぎて肝心の模様が見えにくくなっているのが一竹辻が花だ。もし生地のこの立体的に見える絞り皺効果を全部アイロンで平らにしてしまえば友禅とほとんど同じ染色に見えるはずだ。友禅のからりとした平明な美とは違って一竹辻が花は陰影を伴っているが、それを美しいと見るかどうかは人によって意見が違うであろう。確かに友禅より手間がかかっていると言えるが、友禅でも別の意味でもっと凝った仕事はいくらでも可能であるし、手間だけかかっていることを主張するのであればそれはあまり意味のあることではない。一竹辻が花がその名前からして昔の辻が花と文様上の関係があるのは当然だが、それは引用に終わっている。昔の辻が花の遺品はあまり多くは残っていないので、引用可能な文様は限られているが、それらに共通する特徴を把握して、昔の辻が花にはなかった新たな、しかし共通点のある文様を生み出すことは簡単だ。一竹辻が花もそうしている。だが、それは文様作りとしては安易な方法で、結局は模倣に過ぎない。昔の辻が花模様は、そうでしか染められなかった制限の中から生み出されたものだが、今はもっと作家独自のオリジナルの文様を生み出し得るし、またそうあり得るべきと言える。そんな中、わざわざ辻が花模様を再生産する意義がどれほどあるのか疑わしい。独創的な文様作りの道はもっと厳しい。
一竹氏がTVに登場して来た当初、1点のキモノを染めるのに2、3年かかると発言していた。となれば、現在氏の作品はせいぜい20点ほどという計算になる。だが、比較的簡単なものまで含めてその100倍以上は作られ、そして売れたであろう。これは多人数を抱える工房があってのことだ。一竹辻が花は一竹氏が存在しなくても、工房さえあれば永遠に同じようなものが作られ得る。それは前述したように、文様的には過去の遺産の引用が主で、また染色技術も縫っては筆で色を挿すことの繰り返しで内職仕事のように途中で作業を中断しつつも長時間を費やせば出来るものであり、人海戦術に頼れば量産も可能だ。糊を使用する友禅では乾燥の問題があってそういうわけには行かない。全体の構図や色合いは一竹氏が指示する必要はあるが、これも小下絵があれば充分であろう。また友禅では針穴程度の汚れ染みも許されないほどのすっきりとした染め上がりが求められるが、生地全体に無数の絞り皺が目立ち、色が何度も重ねられるあまり、濃い発色の一竹辻が花では、多少の失敗の染みがあっても途中でどうにでも隠せる利点もある。単純化して言えば、友禅が一発勝負の墨絵とすれば、一竹辻が花は油彩画だ。実際染め上がった生地の表面はゴッホの絵のように絞り皺でデコボコしている。これは会場で小耳にはさんだが、一竹辻が花の代表的な作品は1点3億円ほどするそうだ。1点限りの芸術品がどのような高額になろうとそれはかまわないが、工房の無名の職人が手間暇かけて作るものとしては異常な高額だ。そのような価格で実際に誰かが買って初めてそう主張すべきと思うが、どうせ買えないものであればその程度の誇大さを言っておく方が一般人は喜ぶ。そして実際の売り物は桁がひとつふたつ少ないものだ。氏の美術館が富士山の見える河口湖近くに建ったのは1994年だ。今回その外観や内部の様子を写真などで初めて知ったが、まるでガウディ調で、一竹辻が花のキモノの雰囲気にも似合っている。
一竹辻が花の展覧会は何度も開催されている。80年に買った図録には4種のチラシが挟んである。4回とも見たが、今回は没後のものとしては初めてではないだろうか。「四季および宇宙」を80連作のキモノで表現する作品群『光響』のプロジェクトが生前から進行中で、現在は秋、冬、そして宇宙の一部の44点が完成している。残りは工房が作り続けるが、三世代かかる予定という。『光響』のうち「宇宙」部門の構成は、全5段にキモノが配置され、うえから順にそれぞれ3、5、5、7、9点が裾広がりかつシンメトリカルに並ぶ。そのように配置した全29点のキモノは全体で富士山を表現するようにデザインされている。当然1点ずつを見ればそれはわからない。キモノはいずれも通常に着るものとは違って身丈が3メートル近くある。これはキモノの形を借りてはいるが画布扱いだ。どうせ着られないキモノであるならば、最初から屏風といったパネル形式で染めればいいように思えるが、そうなれば裏打ちなどの必要が出て売り物である絞り皺が消える。それにキモノとは違って純粋な絵となると、鑑賞に耐えるものであるかどうかは疑わしい。キモノであるからこその過剰とも思える装飾画面であるからだ。「宇宙」のうち完成しているのは3段目中央の「宇」、4段目の「炎」「宙」「頭」「主」5段目の「冠」「叙」「情」「嗣」「寒」「零」「優」「瀑」の計13点で、筆者が素直にいいと思えたのは水墨調の「零」「優」「瀑」の3点だ。これは「宇宙」の一部と思うが、「穏」「御」「園」「恩」「泱」「澎」「激」「汪」「渚」「燦」も展示された。この一部は「新・海5連作」と題され、構成が複雑でややわかりにくい。同じく『光響』からだが、「紅」「緋」「香」「鶸茶」「藍鳩羽」「猖々桃」「瑠璃紺」「香柿」「弁柄」「柿紫」の10点があった。「清らかな水面としずかなる山」「夕陽に照り返る山河」「自然の美しい混在」といった簡単なサブ・タイトルがついていた。『光響』とは別のシリーズもあった。「着物に映える情念」では「葵」「女」「幻」「聖」「幻華」の5点が、「桜の精が創り出す幻の花」「芳しき華に誘われて」といった副題が添えられて展示された。これはどんなシリーズか知らないが、「無言」「井筒」「善朱華紋」「辻紫華紋」「簾」「祥弧」「翔」「優舞」もあった。80年の個展ではキモノ丈はまだ通常のものとさほど変わらない長さのものばかりで、あくまでも実際に女性が着ることを前提にして作られたものであった。そうした作品はみなほとんど売却されたのであろうが、今回そんな作品も数点目についた。だが、裾に別染めの裂が新たに数枚重ねて縫いつけられることで身丈がやはり極端に長く仕立て直され、一種の「嵩上げ」が行なわれていた。身丈が3メートルでは通常の反物の倍は必要で、その分染めるのにも手間がかかる。あくまでも鑑賞用ゆえ、このようなことが行なわれている。使用する生地も光沢や地紋がある特別製で、しかも絞りだけではなく、箔を貼ったり刺繍も一部に施しているので、ますます舞台衣裳的になる。氏は東京で友禅で舞台用のキモノを長年染めていたことがあり、それがそのまま生かされている。実際今回の展示のうち3点はマネキンが着ていて、舞台に使用されると表示があった。身丈が3メートルもあっても、帯下での「おはしょり」を大きく取れば実際の着用がいくらでも可能だが、価格が億単位では一般人には無縁だ。桁がふたつ足りなくてもそれは同じだろう。目の保養になればよいというものかもしれないが、手間があまりにかかり過ぎたことを感じさせる作品は見ていて息が詰まり、どれも同じように見えて来る。そこに工芸の悲しみのようなものがある。