「
菰を巻き 眠る乞食の 笑みし顔 我も生きるや 空蝉の世を」、「生と死は 対にあらずや 死も生きる この刹那こそ 永久と知れば」、「奏すれば 音の調べは 空を舞い 人の心に 届くと願い」、「見せかけの 大きさを恥じ 赤子見て 唇噛みて 秋雨の降る」
今月に入ってすぐ、5日に豊中の曽根で開催される461モンブランの演奏会に家内と行くことを決めた。そのことを家内に伝えると、いつものごとく「ひとりで行き」の返答であったが、筆者は決めたことはほとんど実現させる。当日の朝、服装の準備を始めると家内も一緒に行くことを当然と思うようになった。それはさておき、当日の朝、筆者は火山が噴火する夢を見た。夢は目覚める直前のものをよく覚えている。わが寝室の窓から嵐山から苔寺に連なる山が真正面に見えるが、夢ではその山の連なりが晴天下で緑豊かに見えた。そして視線を右手すなわち嵐山に移すとやや遠方に白くて尖った山があった。「ああ、モンブランだな」と思った途端、それが噴火した。即座に幾筋かの臙脂色の溶岩が山裾をこっちに向かって流れ下り始め、数秒後にはわが家まで到達した。大慌てでベランダの下に逃げ込むと、溶岩はベランダを覆い、見上げたベランダの下から溶岩が血のように滴り始めた。避難しようとしたところで目覚めた。窓の外は天気がよく、夢と同じ山の連なりがあって、当然ながら右手奧にモンブランはない。「どういう意味の夢か」と思いながらで階下に行って家内にその夢について話した。さて、筆者としては初めてのことだが、461モンブランのツイッターに会場の人数制限に関して質問しておいた。曽根まで出かけるからには制限人数を越えたために会場に入れないでは困るからだ。筆者は最近よく会合に遅刻するが、当日は気を引き締めてやや早い目に家を出て、開演30分前に着いた。曽根と言えば毎年「文化の日」に若冲の重文の襖絵が見られる。改めて調べるとその西福寺は小曾根にあって、最寄り駅は服部天神だ。筆者は今回の演奏会場の「原田しろあと館」のある曽根駅での下車は初めてで、帰り道も日和はよく、例によって道に迷いながらも山手の高級住宅地を通り抜け、とある店で現在地を訊ね、ようやく目当てのスーパーに到達したことは楽しかった。演奏会場はかつてサンルームとして使われた居間の一室で、光がよく入るガラス扉は演奏前に白いカーテンで遮光された。灰色の折りたたみパイプ椅子が並べられていて、25名限定であった。開演間近に予備の椅子がいくつか使われ、満席となった。筆者は最前列の左端、隣りに家内、その隣りに会場の建物から徒歩5分の家に住む高齢女性が陣取った。休憩の喫茶時にも親しく話したところ、彼女は毎月東京までN響のコンサート目当てに行くとのことで、なかなか文化度の高い暮らしをされておられる。そういう人は筆者が暮らす嵐山地域にはたぶん、いや絶対にひとりもおらず、曽根が別世界の文化地域に思える。
3日に書いたように461モンブランの演奏を最初に見たのは先月29日、
大阪梅田の老舗ビアホールにおいてだ。アコーディオン・ユニット他が8組出演した。筆者は丸尾丸子さんの演奏目当てで出かけ、どの出演者もそれなりに面白く、最も強く印象深かったのは461モンブランであった。モンブランは「白い山」の意であるから、「461」はよけいと思うが、この数字に込めた意味があるのかもしれない。レザニモヲの963さんや38さんに通ずる数字の当て字で、ただのモンブランでは洋菓子に間違われるので461をくっつけたのかもしれない。若い男女のデュオで、女性の山下カナさんがコンサーティーナ、男性の森祐介さんがアコーディンを奏でる。ふたりの見栄えは実によい。また演奏も息がぴったりと合い、技術も素晴らしい。15分の休憩を挟んで前後それぞれ30分ほどの演奏会で、全曲が終わった後、筆者は少しだけふたりと話すことが出来たが、森さん曰く、レパートリーは200曲ほどあるらしい。筆者は音楽に限らず、表現者は多作であるべきと思っているので、416モンブランには大いに感心する。名作は多作から生まれる。たとえば二、三千曲書いた中から運がよければ数曲の名曲が生まれる。したがって三、四十の作曲では名曲が生まれ出る可能性はない。ただし、461モンブランの200のレパートリーにオリジナル曲は含まれないのではないか。おそらく彼らの本領は暗譜による名曲のカヴァー演奏で、乞われればどこにでも出かけて演奏する。その立場にあれば、よく知られる曲を演奏することになる。それは酒場などを流しで演奏するミュージシャンと同じ立場にほとんど等しいが、そう思えば先月29日の老舗ビアホールでの演奏も形を変えた流しの演奏と言える。ただし、酔客の求めに応じて演奏するのではなく、自分たちが得意とする曲を披露する点でライヴハウスでオリジナル曲を演奏するミュージシャンと変わらない。違う点は客層だ。ライヴハウスを訪れる人たちは目当てのミュージシャンのオリジナル曲を主に聴きたい。ところがそのオリジナル曲が優れた作品で演奏もそうとは限らない。筆者の少ない経験で言えば、むしろ自己満足気味なミュージシャンが目立つ。それゆえファンの数はごく限られ、とてもプロとは言えない。ところが461モンブランは演奏で人を楽しませることを第一に捉えていて、またその演奏はふたりとも自己愛が露わではなく、むしろストイックさが伝わる。筆者が好感を抱くのはその点だ。ライヴハウスで演奏するミュージシャンは押しなべて自己愛が目立ち、それを魅力と思う客が集まる。レパートリーの多さはそれだけ練習時間が長いことを意味する。そうであれば自己愛に浸り切る暇はない。より多くの人に演奏を見てもらう、聴いてもらいたいという立場にあれば、ひたすら練習を重ね続けるしかない。そのことを416モンブランはよく知っている。
今回は狭い部屋での演奏でもあってマイク設備はなく、筆者のすぐ眼前でふたりは演奏した。こんなことは初めてで、御前演奏される貴族気分が味わえた。最初の曲が終わった後、山下さんは筆者の身なりを褒めた。全身ヴィヴィアン・ウエストウッドという年甲斐もない格好で出かけたが、山下さんも演奏時の着衣に気を配っていて、それがまた好感が持てる。出会いは一期一会で、真剣勝負ということを彼女は気遣っている。そのことが演奏から伝わる。眼前での演奏でふたりの指使いがよくわかり、一音のミスもない素早い演奏に家内も大いに感心し、筆者に説得されて出かけたことを喜んだ。最前列右端に位置した須磨の山手からやって来た中年男性のファンから聞いたが、山下さんは枚方、森さんは神戸に住むという。そしてこれは森さんが演奏の合間に語ったが、ふたりは結婚していないとのことだ。これは追っかけをするファンには重要事だろう。結婚したと知ってファンをやめることは自然でもある。自分だけの憧れのミュージシャンや芸能人という夢が打ち砕かれるからだが、ミーハーなファンを集めるのが目当てでない場合は話は別で、大方のファンは才能に惚れる。先ほどストイックという言葉を使ったが、461モンブランのふたりは常に一定距離を保ってステージに立ち、変にべたべたしたところを感じさせず、清潔感が伝わる。だが不思議に思うのは、枚方と神戸に離れて200曲もレパートリーがあるのはどういう練習をしているのかだ。また選曲をどのように決めているのかと思うが、今回はビアホールで聴いた曲がほぼ演奏され、「りんごの唄」や最後の「情熱大陸」がふたたび楽しめた。アイルランドの曲が演奏されるかと期待したがそれはなかった。最も気に入った曲は「リベルタンゴ」で、ピアソラの使うバンドネオンとコンサーティーナやアコーディオンが違う楽器であることが説明された。山下さんは主に主旋律を、森さんは和音を担当することが多いが、高音のコンサーティーナのメロディがアコーディンとハーモニーを紡いで行く様はふたりのたたずまいにぴったりだ。演奏終了後、ある高齢男性が老人施設でボランティア演奏をしないかと質問し、山下さんは戸惑いつつ「お金は頂いております…」と答えた。後で家内はその質問に憮然とし、「仕事に対価を支払うのはあたりまえ」と筆者に言った。全くそのとおりで、461モンブランのふたりはプロ意識をもって仕事をしている。またCDを作っていないのかとの質問には、考えてみるとの返事であった。これは喜ばしいことだが、カヴァー曲だけではなく、オリジナル曲を含めてほしい。帰り際、筆者は森さんに今朝見た噴火の夢を話した。その迫り来る溶岩のような演奏であったことになるが、溶岩から逃げ出した筆者の行為は何を意味するのか。それはともかく、文化度の低い田舎の嵐山で461モンブランの演奏会が開けないものかと思っている。
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