臀部の肉付きがよいのは殿方とは限らないので、「臀」という字は差別的であるかとなれば、「臀」と「殿」の元の意味を知らねば何とも言えない。ここでそれをしてもいいが、「殿」が「股状のものを展げる」という原義であることは想像がつく。それはさておき、昨日までアレシンスキーについていろいろと筆者の思いを展開して来た経緯から、森田子龍についても述べておく必要を感じる。筆者が子龍の名前と作品を知ったのは、ロジェ・カイヨワとの共著『印』の内容見本を書店で見かけて一部もらって帰ったことが最初であったように思う。その本は1980年に200部ほどの限定で出版され、10部ほどの特製本は45万円、その他の普及版も28万円という高額であった。筆者は図書館で同書を一度手に取っただけで、まだ所有せず、したがってカイヨワの文章も読んでいない。今後数千円の廉価版が再販される可能性がなきにしもあらずだが、子龍の書を原寸大で収める立場を採ればそれはあり得ない。200部の大半は図書館に入ったはずで、古書として市場に出ても確実に数万円にはなり、よほどの子龍ないしカイヨワのファンでなければ買う気にならないだろう。話は変わるが、80年代に表具屋から、子龍張りの墨象作品を裏打ちする際、あまりに濃い墨が滲んで困ると聞いた。表具にまで考えが及ばない書家に対して苦情を言うのは表具師として失格なのか、あるいは書家の才能が乏しいのか、どちらにも言い分があって即断は無理だが、良質の墨を使えば、そして書いた墨が充分乾けば、裏打ちの際に墨が滲むことの程度は抑えられるだろう。つまり、書家に責任ありと言うか、配慮は必要で、書いて終わりではないことを自覚すべきだ。子龍は墨以外のものを使ったし、また定着のための溶剤を混入させたこともあったので、鑑賞用の作品としての最終的な仕上げまで考えが及んでいた。つまり表具師とは懇意であったはずだ。筆者は製本に関心があり、それで簡単なものは自分で裏打ちをするが、安価で入手した古画を自分で修復して表具したいと思い続けている。200年ほど前の掛軸の表装を新たにするのに50万円ほどかかることは普通で、作品の購入代金より高くつくからだ。それに50万円出せばカイヨワと子龍共著の『印』は買えるだろう。子龍の現在の評価のほどを知らないが、墨象風の作品はほとんど無名の人を含めて現在も盛んに書かれているし、それらの凡作駄作を筆者が評価しないことは言及した。そこで思うのは、子龍とそうした凡人あるいは自称作家の作品との違いはどこに由来するのかだ。作品も人もさまざまで、それぞれに呼応している。カルチャーに対してサブカルチャーが唱えられ、いつの間にかそのサブがメインであるような風潮も日本ではことに盛んになって来たように感じるが、一時期大いに名声を博したものは作者が死ねばすぐに忘れ去られることはむしろ普通だ。
その意味では森田子龍とその一派の墨象作品もその例に漏れないことになるが、彼らの作品がサブカルチャーかどうかとなれば異論は噴出する。サブカルチャーを伝統にあまり囚われない新しいものと定義するならば、墨象作品はサブカルチャーになるし、篠田桃紅の作品が根なし草と言われたことは、言い換えればサブカルチャー的であったということだろう。そして桃紅の作品がそうであれば子龍らの墨象もそうなるが、サブカルチャーと呼ぶにはあまりに重く、また深い造形精神が作品に宿っている。それは伝統に関する知見の深さに支えられているからで、子龍の場合は伝統への自覚が特に強い。それゆえ全くサブカルチャーとは言えず、伝統に連なる創造を成したと言うべきだが、もちろんそれを肯定しない書家は多いだろうし、たぶん大部分の現在の書家は子龍を見習わない。となれば子龍の作品は書の歴史からはみ出たサブカルチャーに過ぎないものであったと将来みなされる可能性が大きいとも想像するが、サブカルチャーという言葉にまつわる一般的な印象からかなり離れたところに子龍の墨象は立っている。サブであろうがなかろうが、創造は尊いとして、その創造を支える技術や知識の多寡によって作品の軽重は定まる。重めのサブカルチャーがより歴史に残り得り、将来にわたって参照され、また敬愛もされる作品が重めのものであることは当然であろう。その重めのサブカルチャーからやがて伝統に加わって古典と目される作品が生まれるが、軽重の判断はファンの多さでは決まらない。ファンの中身が重要で、ミーハーの年少者あるいはそれに準ずる大人が子龍の作品を知らず、知っても意味を解さないことはさして問題ではなく、しかるべき人が評価し、将来に作品の価値を伝達する。子龍の作品はその位置にあって、筆者がここで取り上げなくても立派な芸術としてすでに評価は確定している。そこで墨象風の現在の書家ないしそれを標榜する人たちの作品のつまらなさの原因を考えるに、子龍にはとうてい届かない知識と技術の欠如と言ってよい。以前に何度か書いたが、辻まことは残る価値のある作品はその作品を除いても価値のある人間によってしか作り得ないといった意味のことを書いた。子龍の肖像写真はあまり多くないが、気迫がみなぎる顔つきのものからは、ただならぬ人物であることがわかる。もっと言えば、テレビに出る墨象的書を披露する連中はみな顔つきがまるで駄目で、知性の欠如が伝わる。ただしそういう人物ほどTV向き、つまり一般向きで、人気を獲得する。もっと言えばTVがサブカルチャーの軽い部分を担い、重い部分を世間から遠ざける役割を果たして来ている。これを言い換えれば、TVはもっぱら娯楽を提供し、ごくわずかな人が好む文化は等閑視されることであって、カイヨワと子龍の共著『印』は多くの人々が無視し、またせざるを得ない状況が形成されている。
TVの人気者の顔にうんざりする一方、TVでたまたま知って関心を抱くことはあるから、TVを全否定したくはないが、TVで取り上げられない大人物やその著作ないし作品はあり、直観と関心に頼って知識を増やし、思考を深めて行くことの重要性を思う。そうしたことはみなつながっており、その端緒は若い頃におおよそ形成されることを齢を重ねるほどに感じる。その意味で筆者は20代でアレシンスキーやカイヨワ、森田子龍の存在を知り、長年要して彼らの仕事のおおよそを齧ったことにひとまず満足している。齧るだけではなく、年月を要して充分咀嚼し、実態をより詳しく知るべきだが、それは程度の問題で、多大な時間を費やしても完全にわかるという境地には至らないだろう。今日は子龍の著作『書の歩み』を取り上げるが、これは昭和47年(1972)に墨美社から刊行された白黒印刷の26ページの冊子で、子龍が昭和26年(1951)から同55年まで出版し続けたA4版の『墨美』より一回り小さいB5版だ。中国の書道史に絞り、漢字の書を学ぶ人の基礎的な教科書と言ってよく、また子龍の考えがよくわかる。筆者は数年前に『墨美』の売茶翁に関する号を神戸大学図書館に行って閲覧したことがある以外、『墨美』を繙いたことはないが、子龍がこの全301冊の雑誌で取り上げた書と書家からは、いかに視野を広げて伝統を学び続けたかがわかる。子龍は『墨美』で自作をほとんど取り上げず、自分の作品を世間に売り込むために同雑誌を企画、編集しなかった。自己宣伝に余念のない作家を一方で見れば、子龍のこの態度はとても見上げたものだ。1912年生まれの子龍が40歳の手前で雑誌を企画し、なお本格的に書の歴史をつぶさに見て行こうと決心したことは、創作を本位とする者にはあまりに教育者敵側面が勝っていると思えるだろうが、根なし草と陰口を叩かれたくない前衛書家とすれば、伝統に連なった創作であることを示すうえでも欠かせない作業であった。それに、改めて書の名家を雑誌で掘り下げることは自作の方向性を示唆される、あるいは再確認に役立ったはずで、一見出鱈目に見える前衛の書が実は伝統に直結し、伝統の最先端を担っていることを鑑賞者は知る。これは筆者の直観だが、子龍の墨象作品は慈雲に学んでそれをもっと視覚的な面白さを狙ったものではないか。視覚的な面白さというのは絵画を意識したからで、子龍は絵画よりも書が優れていることを証明したかったように思う。そこにはアレシンスキーとの交友がもちろん影響している。アレシンスキーの映画『日本の書』は1955年の撮影で、その17年後の本書はアレシンスキーについての言及はないものの、本書の序である「はじめに」において、「書は、欧米にはその例を見ない東洋独自のものであった…」という記述があって、アレシンスキーないし日本の具体美術を意識していたことがうかがえる。
子龍はその「はじめに」で最も言いたいことを書いている。一読して気になるには、1200字足らずのその文章に「生」の漢字が目立ち、特に「生き方」という表現が7回も出て来ることだ。どう生きるべきかを子龍は考え続け、そのことが雑誌『墨美』のおよそ30年にわたる刊行と、自らの創作に結実した。これは「はじめに」に書かれるように古典の尊重だが、子龍は「安易に古典の前にひざまずくことが尊重ではなく、われわれ自身の生き方に裏づけられた正しい批判精神をもってこれに対することによってのみ古典は現代に生かされる…」と断り、続けて「古典へ盲従しそれによりかかる前近代的な人間になるためのものでは決してなく、あくまでも現代の、自主的創造的人間への深まりを得るためのものでなければならぬ」とし、子龍の「生き方」は自主的かつ創造的であったことが結論づけられる。「生き方」という言葉は青臭いものと捉えられがちだが、刹那的であることを拒否し、古典に精神を学びながらそれを現在にいかに活用するかの態度は、本来技術者や商人にも求められる。どの分野でも常に新機軸を打ち出すことを考えている人物はいるからで、新しきもので頭角を現わすには自主的かつ創造的でなければならない。自主的とは好きなことを見つけて寸暇を惜しまずに打ち込むことだ。多くの人はそれを日々行なっているが、もうひとつの創造的となれば話は違う。これは模倣に終わらずに自分自身の個性を見出すことで、子龍の「古典に盲従」という表現は臨書本位を指していると考えてよい。だがここには一筋縄では行き難い問題も含む。臨書を続けて個性を発揮することは出来る。そのことはたとえば円山四条派が確立した表現技術についても言える。だが戦前まで義務教育で強いられた円山四条派の技法は、応挙や呉春以降に美術史的にさして重要な弟子を生まなかったことからして、技術の模倣で生涯を終えてしまうことの危険性を子龍は知っていたと言ってよい。ほれぼれする書を前にして、それをひたすら臨書し、手本とほとんど区別がつかないまでに熟達することは大なる満足をもたらすだろうが、厳密に言えば模倣は創造ではない。子龍が言いたいのはそうした日本の書壇の臨書主義であったのだろう。卓抜な臨書の技術があれば素人の弟子を抱えてそれなりに生活は安定するが、子龍は漢字の歴史をたどり、そこに日本の仮名文字も加えて創作に邁進した。本書の巻末に「和漢対照書道年表」を4ページにわたって掲げ、本文では中国史とそれに対応する書の図版をふんだんに収録し、小冊子ではあるが密度の高い内容となっている。いかにも教科書的だが、本書を手がかりに他の書についての本をたどって行くことが可能で、また本書が『墨美』における中国の書についての号のひとつのまとめとして機能していることを想像させる。
本書で子龍は王義之や顔真卿を絶賛し、中国の書道史に異論を唱えてはいない。面白いのは「人間の生き方と書」、「民族性、風土性、社会と書」、「書体の変遷」、「鑑賞と臨書のために」という4つの項目に分け、最後の「鑑賞と臨書のために」の計10節を前3項目の間に適宜挟んでいることだ。特に1「書の動き」、4「書の空間」、6「書の視覚」、7「書の重さ」が印象深い。1では顔真卿や王義之の書を掲げつつ、「書は動きのなかで、しかも紙面の上に形をのこさねばならぬという性質の動きのなかで生まれる…。動きといっても水平運動だけでなく、垂直運動も含めたものであり、水平、垂直運動もただ進み又は抑えるという単純なものではないのである。…それぞれの度合はちがっても、それらの力が複雑に組み合さってしかも一つになってはたらいていることには変わりがない。そしてその複雑な動きが単に筆や手の動きに止まるのではなく、その人の人間性の最も深いところから発しているものであって、手の動きが同時に内の生命の動きでもある…」と、書をかく人なら誰しも感じる本質を突く。この子龍の意見にしたがえば、書から人間性がわかることであって、その代表的書が王義之や顔真卿となるが、現代は唐ではない。王義之や顔真卿と瓜二つの書を臨書できたとしても、それは王や顔の精神にかすかに触れただけであって、彼らそのものになることではない。子龍が古典に盲従しないというのはそういうことだろう。時代が違えば精神は異なり、書のあり様も変わる。ただし王や顔をひたすら臨書し、そこに現代人特有の精神を盛ることは可能なはずで、そういう道を進む書家は多いだろう。しかしその現代特有の個人の精神が、中国の書が王や顔以降に次々と新たな書風を生み出した事実を前にして視野狭窄を自覚しない場合は珍しいのではないか。4ではまず枝に実る梅の実と地面に落ちてしぼんだ実を比較し、「充実した実は実そのものが大きく感ぜられるだけでなく、周囲の空気もいききと張りをもって感ぜられ、落ちた実はその周囲の空気までしょぼしょぼと生気のないものにするのである。」とし、「その空間は現実空間的な、遠近法や物と物との関係で出てくる奥行というようなものとは全く別のものであり、他との対比を待つまでもなく、そこにそれ自体としてあるものである。そしてこの空間はいろいろ周囲の道具だてを工夫することによって出せるというものでは決してなく、生命の充実をおいては出せないものである。」と続ける。また「いのちに訴えて見、或いは書くとき、墨の黒、紙の白を超えて、一つの世界として生きてくるのである。」という言葉は、精神の充実の重要性の必要や、小手先の技術では「より高い次元の書の空間」をものにはできないことを説くが、これはあらゆる芸術に共通することで、心身が病弱であれば芸術作品に触れる気になりにくいことは誰しも経験する。
6「書の視覚」で子龍は20代の頃に飛行機上から見下ろした富士山に連なる山脈を想像して書をかいたことから論を展開する。書が絵画の構成理論では間に合わないこととして、「書の建築性をいう場合は、紙面の上方を上、下方を下に見て、力(重力)は紙面に沿って下の方向にはたらくのであるが、山を俯瞰するように見る場合は、紙面を下、視点を上として見て、力は紙面に対して直角にはたらくのである。人間は重力の中に生活していて、頭を上、足を下にして立つより外ないし、書く手の筋肉は上から下へ、左から右へ動きやすくできているから、書の建築的な視覚はなくならないと思うが、同時に紙面に対して上から筆を下し上から力を加える外に書きようもないから、視覚の俯瞰性もなくなる時はないように思う。…雲海の上に連なる嶺線は、それがどちらを向いていても安定して揺るがないのである。同様に一本の線もそれがどのように紙背のものに支えられているかによって安定と不安定が分れるのであって、紙面における方向性の問題ではない。」この引用文はわかりにくいが、雲海の下に隠れている嶺線が「紙背のもの」であり、書の一本の線が安定するには紙背に存在するものを意識すべしということだ。これは書の筆跡が雲海から飛び出たもので、雲海の下にあるものが点や線をつなぐ空白と捉えればよい。その空白の空間が、書かれた点や線と同じほどに重要であることは書を知る者の常識で、そのことは日本のたとえば円山四条派の絵画にも通じて余白の重要性を意味している。子龍は「建築的な世界での安定感は、紙面の下辺を下に見立てた上下の世界での安定感である。この上下の世界から離れられない具象絵画もその意味での安定を考えている。俯瞰する場合の安定感はこれとは非常に性質がちがう。」とも書き、絵画とは違う書の俯瞰的制作を強調するが、絵画が地面に垂直に立てた画面に向かって描くとは限らず、そのことは書でも言える。立てかけた紙に書をかく行為はあるが、墨が下方に垂れやすく、稀な行為と言ってよい。子龍は大作であっても必ず紙面を見下ろして書き、その行為に飛行機から見ろした雲海を連想した。ところがアレシンスキーは画面を俯瞰して制作する版画から出発し、やがて子龍の墨象作品を知るに及んで紙を地面に置いて描くことをもっぱらとするが、そこには書における雲海の下に隠れている嶺線への思いはないであろう。描かれたものと空白で残した部分との均衡は絵画でも考慮されるが、西洋では日本ほどではなく、円山四条派などの江戸期の余白の多い絵画は未完成と思われかねない。その点、漢字の書はひとつずつの漢字が強固な形を成し、「紙面における方向性の問題ではない」の意味は書かれた字を横から、あるいは逆さに見ても、字そのものの結実した宇宙は変わりがないがないことを意味しているのだろう。
ただし、文字は書かれる順からして天地左右があり、横向きや逆さに鑑賞するためには書かない。また先の「紙背のもの」は筆跡内の余白以外に書家の内面性も含むはずで、そのことは「書の視覚」の次のような最後の言葉から示唆される。「山のすそ野の広がりは外に広がり出る力であり頂きは内にひき締まる力である。この二つの力が一つになってはたらくところに点や線の力が生まれる。書にはその一方を欠いた力というものはあり得ないのである。そしてこの一対の力は、例えば愛ときびしさとして、人間の生き方にそのまま連なっているのである。」愛ときびしさとはロマンティックな表現だが、子龍が愛ときびしさを常に抱えて書に対峙したと捉えてもよい。愛ときびしさは何かを創造する人は必ず持ち、古典を愛しつつ、きびしさで自己を律して創作に挑み続ける。子龍はそのことを書の制作における一点一画にも適用し、無駄なものを一切省いた、抽象でありながら具象にも依拠する文字の多様な表現に絵画とは異なる、もっと言えば絵画を超える本質があることを言いたかったのだろう。7「書の重さ」では筆の性質と筆の運びについて書く。これは1「書の動き」において「筆は紙面の上を水平に動くだけではなく、紙面に対して上下に浮き沈みしながら動いているのである。」と書かれることをさらに説明するもので、「筆の毛の弾力を通した力が書の場合の力である。その弾力が最大限に、そしてわずかのスキもないタイミングで生かさなければならぬ。…筆を下ろすどの瞬間にも、筆が紙についているどの瞬間にも、又引き上げるどの瞬間にも、その正反二つの力がいつも一つになってはたらいているのである。だからそこには常に大きい緊張があり、重い線も底に軽みを持って重苦しくはなく、軽い線も紙背に重さをもって軽っぽくはないのである。」と、禅問答のような文章を綴る。だが、これは習字をしたことのある人ならば理解できる。そしてこの文章からすれば、習字を好む人は緊張を好む人と定義できそうだ。「常に大きい緊張」と言われると、気楽な娯楽を好む人は敬遠するが、そういう人でも儀式における緊張はあってしかるべきと考えているし、まさか自分の結婚式や葬式でふざけ回る人がいることを承知しない。習字に使う半紙は安価だが、書くからには失敗せず、手本に限りなく近づくことを意識する。その心持ちは非日常的で、神社にお参りして手を合わせる時間に似る。西洋でもたとえばラヴ・レターを書く場合はきれいな文字を書こうと意識するし、文字を書くこと、書かれた文字には魂が宿る。表意文字である漢字ではなおさらであろう。また先の引用の前段に「大きな圧力がなければ重々しい線は出ないが、筆を抑えるだけでは重さは出ない。」とあり、引用の続きでは「運筆の速さや筆の毛のよじれ等とも関係がある。」とし、「古典に学ぶと共に、体験の中で深めなければならぬ。」と結語する。
子龍の有名な作品は井上有一と同じように漢字一字が多い。若い頃は仮名混じりの自作詩を縦書き数行で書いたこともあり、もちろん見事な作品で一見して美を感じる。漢字一字となると、元来漢字は方形に収まるように書かれて来たこともあって、正方形の紙に書くのが収まりよい。年末恒例の清水寺の管主が揮毫する「今年の漢字」もそのように書かれる。ところが書が絵画を意識すると、正方形以外の画面に一字ないし数文字が書かれるようになった。もちろん横長の扁額にたとえば4文字の漢文を書くことはよく行なわれて来たが、子龍の墨象は漢字一字を横長の画面、場合によっては屏風に書き、漢字は方形に収まらずに横長となる。漢字を横長に書く書家は子龍以前にいたから、子龍の横に広げた漢字一字はさして奇異ではない。一方、前述した慈雲の書は極太の筆で書かれ、またよほど漢字に詳しい人でなければ読めないが、子龍の書もたいていの人には読めない。これは草書の崩しによるためではなく、漢字の一画ずつの構成をトポロジー的に自在に伸縮して書くためだ。漢字にはそういう便利さと面白さがある。そのことがわかれば素人でも墨象風の書をかくことはたやすい。ただし突拍子もないデフォルメで奇異な面白さを狙っても、それはそれだけのことで、知性や気迫が籠るかと言えばそうではない。また漢字はそのすべての画を画面に書かねば意味が正しく伝わらないが、絵画はたとえば人体や建物の部分を描くことでも成立する。その絵画特有の表現方法を意識して漢字を画面からはみ出さるか、一部を書くことが考え得るが、そうした作品があるだろうか。象形文字の漢字を立体的な彫刻にする書家がかつていて、筆者はそれに倣って「黒」の篆書の立体化を意図してホームページの「マニマン」の人形を作ったが、漢字と美術は接しており、特に子龍の時代は具体美術が勃興し、墨象はその前衛芸術と踵を接した。その西欧での代表的関係がアレシンスキーだが、子龍の作品との影響関係についての論考はあまりなされていないのではないか。また子龍は中国の書の歴史に連なる現代の書を目指したので、前衛絵画についてはさほど関心がなかったように想像する。しかし漢字の具象を単純化した記号的側面に注目すると、絵画における画題の記号的表現が視野に入って来るは。そこにアレシンスキーの絵画が立っている。その記号性は意味を内蔵するが、漢字を知らない者にはその意味がわからない。それで井上有一や子龍の作品は書かれる漢字の意味を知る者が情緒を感じるのであって、意味がわからない国の人は意味を知る人と同じ感情を抱くことはない。その点で書は限られた地域で作者の意図が伝わりやすい芸術と言える。こうしたことを子龍はたぶん具体の吉原治良と話したと思うが、一見読めない子龍の作品は絵画的迫力を押し出したもので、読めることを最大限に意図したものではないだろう。
「人間の生き方と書」は全8節で、その最後の「古典との間に散る火花」は本書が書かれた昭和47年頃の中国と日本の関係を垣間見せて興味深い。日中国交正常化は1972年9月で、本書刊行はその2か月前であった。国交回復後に中国の文物展は毎年のように開催され、それらの展覧会図録をすべて集めたいと思い続けている筆者はその冊数がどれほどになるのかまだ知らないでいる。そのような情報過多の時代以前に子龍が中国の書をどのように詳しく把握していたかとなれば、本書が示すようにもっぱら拓本か、本に掲載された写真図版に頼るしかなかった。日本の書ではまだ実物に対面できることはたやすかったであろうが、幸いと言うべきか、書は白と黒の二色がもっぱらで、拙い印刷図版でも点と線の造形具合はかなり把握できる。たとえば王や顔の拓本は書家本人が彫った石から採られたものではないが、実物の、つまり紙に書かれた書は存在しないので、書家の気風を伝える唯一のものとするしかない。また実際何度も拓が採られて細部が磨滅したであろう新しめの拓本であっても、書家の気風はそれなりに保たれ、それを臨書の手本とする。写真印刷が可能な時代となって以降、書家は本によって古典の書の資料を渉猟しやすくなったが、『墨美』はその恩恵を最大限に蒙っているだろう。話を戻して、日中国交正常化とほとんど時期を同じくする本書は、中国の国宝級の実物の書やそれに関する資料が目の当たりにできるようになった時代の者からすれば、かなり古臭いものに感じられるのはやむを得ないが、基本は押さえられているので、前述したように初歩の教科書の役割を充分に果たし、本書を基礎に他の専門書を繙けばよい。それはさておいて、「古典との間に散る火花」ではこう書かれる。「何といっても清代中国のこの新しい経験は、後代をまって生かされることなしにすんでは余りにも惜しいものではあったが、未消化のまま清末以後の動乱に突入、続く戦乱にかきまわされてその落着く先は未だに見えそうもない。さき頃中共治下の書作品を見る機会があったが、既にあの若さもなく、また明末清初の痛烈な気迫もなく、かの戦火をよそに平然と田を耕している偉いとも馬鹿とも分らないような農夫の姿そのままを見る思いで、中国に現代の書はない、すなわち中国人はまだ真に自らを生きてはいないという感を深くせざるを得ないのである。」これは全くそのとおりだが、その後半世紀経た現在、経済力を増した中国の知識階級に属する書家がどのような書をかいているのかは知らない。一方で中国では簡体字が使われ、漢字が持つ厳粛さは排斥されて来た。その簡体字は日本で言えば仮名としてよいかどうかの問題があるが、仮名混じりの日本の文章に比べると簡体字はまだ以前から用いられている漢字とは相性がいいのではないか。つまり子龍が簡体字混じりの中国の書を見てもさほど違和感を抱かなったと思う。
先の引用の中の「明末清初の痛烈な気迫云々」は本書で紹介される八大山人や金冬心などの書から素人でも感得できるが、「落着く先は未だ見えそうもない」という言葉の裏に、子龍がその一端を担うという覚悟がほの見える。そうでなければ本書を編集した意味もないだろう。中国の四千年の書の歴史の末端において、日本で現代的な書を成す。その気概を子龍は抱き続けた。先の引用の続きにこうある。「もちろんわれわれは現代中国がいかにあるかにかかわりなく、われわれ自身の手で書を現代の書に築きあげねばならぬ。しかし書は、既に見てきたように、社会を離れてはあり得ないし、人間の生き方を別にしては論じられない。書は、芸術は、社会の子であると共に、同時にその母でもある。…真の書を花咲かせるに十分な社会が望ましいことはいうまでもないが、その人類の理想を実現するために、われわれは書をかくのである。われわれ自身が真の書をかくことによって、そしてそれにふさわしい世界観を生きることを通して、社会を、世界を、真にあるべき姿へと推し進めなければならないのである。…」こういう文章は下衆なお笑い芸人が日本を代表する文化人として持ち上げられる昨今、揶揄の最たる対象になるだろう。王義之や顔真卿、そして蘇東坡など、本書で紹介される書を何ら知らずとも気分よく生きる人々が大多数を占めることは日本に限らないはずで、かくて子龍の芸術を知る者も今後何度も作品展が開催されない限り、減少の一途となる。そうなったところでほとんど誰も困らず、筆者もそうだが、自主的かつ創造的に生きた人物として、創造にわずかでも携わる者は子龍の作を知れば忘れ得ず、また意識し続ける存在として心中に宿る。生き方は人さまざまで、みんな好き勝手に生きればよい。そのことを原点に留めながら、刹那と弛緩を無視してやるべき仕事をやるというのが、格好よい生き方ではないか。また子龍は雑誌の威力を信じたが、現在は『墨美』が果たした役割と同様のことがネットでいかに可能だろうか。『墨美』の全冊は古書でおそらく百万円は下らないが、合本で復刻、安価での再販を筆者は望みながら、いつかネット上に載ることも期待もする。そうなれば子龍の考えは再発見され、新たな時代に応じた書の創造が活発化する気がする。書の教科書は多いだろうが、本書は子龍の書に対する精神の高さを示し、座右に置いて折りに触れて繙きたい1冊だ。巻末の「和漢対象書道年表」は小さな活字で読みにくいが、子龍と『墨美』の視野の広がりを目の当たりにするようで、書道家だけではなく美術愛好家も存在を覚えておくべきものだ。筆者はこの文章を座布団に臀部を載せた姿勢でパソコンのキーを叩いて書いているが、中腰になって床に置いた紙にのめり込んで書をかく子龍の写真を見ると、全くの緊張感のなさにあくびが出て来る。たまには墨を擦って書をかかねばならない。
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