酌を交わしながら話が弾むことは楽しいが、お互い、あるいは他の同席者の間で話題が通じればいいが、筆者の場合、ほとんどそのようなことはない。音楽好き、美術好きと対話しても、好みは違うから、どちらかがもっぱら聞き役になる。それで筆者は話し相手がまともにいないこともあってこうしてブログに好き勝手を書く。これは独酌と同じだが、酒の味はひとりで飲んでも変わらない。それに、独酌しながら興味のある対象と心の中で話し合うことは、意見の合わない者と飲むよりはるかに楽しい。さて、アレシンスキー展の続きを書く。筆者にとって見慣れない画家の魅力の根源をあれこれと探るためだ。絵は一瞬見ればわかると言われるが、アレシンスキーの作品は難解と言おうか、どこがよいのかさっぱりわからない人が多いのではないだろうか。筆者はその口だ。それで展覧会を見ても無視して何も書かなければいいのだが、せっかく『自在の輪』を読み、また日本初の大規模展を見たからには何か書いておきたい。それが「迫力があった」の一言では子ども並みであるから、高齢の筆者はもう少し言葉を費やす。正直に言えば、そうして書いた文章を誰かに読んでもらいたいという思いはない。自分のこだわり、けじめとして、また何かを見出すために書くのであって、書くからには形を整えたい。と言いながらいつも筆者は思いつくまま即興で書く。アレシンスキーも即興で描くようだが、その即興ということに筆者は関心を抱き続けている。即興とは何か。自分の文章でのそれはそれなりに定義出来そうだが、アレシンスキーの絵の場合はわからない。それで絵を見て感じ、考えるしかない。先日『自在の輪』の感想を2回に分けてそれぞれ10段落すなわち原稿用紙30枚ずつを書き、昨日の『ピエール・アレシンスキー展』も10段落の30枚を書いた。今日はその続きとしてまた10段落を予定しているが、一画家についてこれほど多くの文章を費やすことは初めてだ。それほどに魅力のある画家という理由からではない。相変わらず筆者はアレシンスキーの絵を美しいとは思わない。しかし絶対に無視出来ない何かがあることをこうして文章を綴るごとに思い知り、筆者と通ずる精神とまでは言わないが、アレシンスキーの絵画の個性はそれなりにわかるようになっている。ただし、どの作品も手放しでよいとは思わない。本展図録の年譜の1975年の項目に、「気に入らない作品200点余りを焼却。」とあって、48歳までに描いた作品のうち、否定したいものがあったことがわかる。48歳は画家としてもうスタイルを確定し、後はそれをより広く大きく展開するだけと言ってよい。そういう将来への見通しを漠然と思った時、過去の未熟な作品が気になり、それをなかったことにしたい気持ちはよくわかる。しかし200点は少なくない量だ。あるいはアレシンスキーは当時2000や2万点は描いていたのかもしれない。
今日の最初の写真は59年の油彩画「新聞雑報」だ。図録の図版を順に見て行くと、この作品で目が離せなくなる。迫力を伝えるためにページの見開きに印刷されるのはいいが、写真では折り目が写り込む。描かれた59年は筆者8歳であった。当時小学生の筆者がこの絵を見ればどう思ったことか。今見てもその激しい画面に動悸が高まるほどで、古さを感じない。アレシンスキーより13歳年下で絵も描いたビーフハートの作はこの絵を思わせつつ、まだ穏やかに見える。「新聞雑報」という題名の原題はフランス語の「Fates Divers」だ。これは「三面記事」という意味があるが、「雑報」の「雑」は騒々しい画面をうまく形容する。また「雑」は最初期の職業人シリーズの銅版画のそれなりに整った、言い換えれば何を描いているかわかる画面と比べてのことで、ここでは一転して筆使いは荒々しく、色合いは内臓をぶち撒けたような、つまり凄惨な事故現場写真の趣がある。文字らしき記号が割合整然と密に描かれた「夜」と同じ画家が描いたとは一見思えないが、静謐とは言い切れない「夜」の画面に響きわたる雑音がここでは白日の下に晒されている。牛の腹を切り開いた様子を描くスーチンの絵の影響もあると思うが、人間界の愚かさを暴くというより、絶えることのない喧噪を的確に描いた作で、『絵画の嵐・1950年代』展のその50年代のアレシンスキーにおける嵐を思わせる代表作と言ってよく、見るほどに目が離せなくなる。そうか、筆者はこの絵が描かれた頃、絵画の嵐が世界的に吹き荒れる頃に幼少年期を過ごしたのか。となればやはりアレシンスキーの作品についてもっと知るべきではないか。絵画の嵐はその後過ぎ去ったのかと言えば、筆者の母より2歳年長のアレシンスキーが意欲的に描き続けていることからして、嵐は過ぎ去っておらず、表現者はその嵐の中に常に身を置くべしと思う。この絵の右端に両足を広げて立つ人物らしき像は口を大きく開く横顔などが確認出来そうだが、曲線が絡み合って解けそうになく、そのことが絵画の印象の基盤を成している。ところで、『自在の輪』の「補遺と異文」に「腐蝕画法をめぐるノート」(Notes sur une morsure)と題する節があって、その最初は≪出発点≫と題し、「数本の、久しい以前の引いた描線から出発する。波の形がひとつ、頭蓋がひとつ、もうひとつ頭蓋がある。いや、さらにもう一個だ。作中人物とその分身、というわけか。」と書かれる。次の項目の≪モデル≫では、「友人のレーヌードが剥いてくれた、オレンジの皮が一と抱え、これがモデルだ。…」とある。となれば「新聞雑報」もオレンジの皮に源がありそうだが、『自在の輪』ではアレシンスキーが撮ったオレンジの皮を剥くレーヌードの手元の写真とそのオレンジの皮から発想して描かれたアレシンスキーの墨の素描があり、前者は70年、後者は62年の作だ。
本展図録の年譜の1960年の項目に、「約10年にわたり、ラ・ボスの廃校になった小学校を彫刻家のレインハウト・ダーズと共同でアトリエにする。」とある。そのレインハウト(Reinhoud)が先のレーヌードだ。『自在の輪』の原書によれば彼はアレシンスキーより1歳年下で、本展図録には「アレシンスキーは、パリで彫刻家のレインハウトとアトリエを共有していた頃、螺旋状に切り取られたオレンジの皮を描き始めるが、それは彫刻家からもたらされた唯一のものであった。…」との説明があって、本展図録掲載の作品図版を見る限り、遅くて62年にはアレシンスキーはオレンジの皮を画題にしていることがわかる。つまり「新聞雑報」が描かれた頃にオレンジの皮はまだ見出されていなかったと考えてよさそうだが、アレシンスキーの意識の中で「細長く続く物」がすでにあったと見てよい。そしてそれは日本の書の影響が大きい。話を戻して、「腐蝕画法をめぐるノート」の挿入図版の最初は、切れ目なしに剥いた大量のオレンジの皮の写真だ。これは前述したレーヌードの手元の写真と呼応するが、手元写真と併せて載せられた素描とは違って、「腐蝕画法をめぐるノート」では大量のオレンジの皮の写真の次に、それを元にした10点のアレシンスキーの単色エッチングが紹介される。今日の2枚目の写真の4点はいずれも本展出品の62年の作で、上2点は「オレンジの死後」と「知られざるオレンジ」、下2点は「ソファの上の皮」と「オレンジとその分身」で、どれもオレンジの皮を描く。となれば『自在の輪』に載るレーヌードがオレンジの皮を剥く写真は、アレシンスキーが撮影するために少なくても8年後にレーヌードに再演させたもので、そこにオレンジの剥いた皮へのアレシンスキーのこだわりが見える。曲がりくねったような道は人生にたとえられることが多いが、試行錯誤していたアレシンスキーはたまたま友人がオレンジの皮を切れ目なしに剥く様子に目を留め、その剥かれた皮がたまたまピカソが浜辺で拾った竹の根のように、人体その他に変容可能なオブジェであることに気づいた。その萌芽の最初の大きな実りが「新聞雑報」と見ることは正しいだろう。ところで、アレシンスキーは「新聞雑報」をどこからどう描いたかと言えば、褐色の線描を仕上げた後、ベージュや肌色、肉色を置いて行ったのだろう。そこには色をどう扱うかという問題がある。「腐蝕画法をめぐるノート」の腐蝕は、エッチングやアクアチントなどの銅版画の技法を指し、それで同節にアレシンスキーは前述の10点のエッチング図版を掲げるが、その連作の考えは、ある画題はピカソの「フランコの嘘と夢」のようにひとつの画面に固定されるものではないことの影響を受けたものだろう。そして後述するように大画面を取り巻く額縁状や大画面下部のプレデッラの小画面の考えを導く。
「腐蝕画法をめぐるノート」でもうひとつ重要なことは、紫、青、緑、赤、白色についての思いが書かれることだ。その後に、仙厓の「〇△□」に着想を得た多色刷りの銅版画図版がある。アレシンスキーの色への思いが、本展では「夜」に次いで取り上げられた油彩の大作「新聞雑報」に反映しているかとなれば、紫、青、緑、赤、白色についての記述はさほど特異ではなく、たとえば赤は「生気だ。快楽以外の何ものも意味しない徴。」とされ、赤が支配的である「新聞雑報」が三面記事的に賑やかであると見ることは全く正しい。また言い換えれば、三面記事とは一言すれば漫画的であって、アレシンスキーは猥雑さを描き切ることに成功している。本展図録の「新聞雑報」の説明から引く。「アレシンスキーがポロックを発見したのは、ブリュッセル王立美術館にて1951年のことであった。ポロックをヨルンの側に位置づける、表現の拡大という身体の重要性を復活させる意図的なオートマティズムの仕草があるが、「自発的抽象」という独自のアイデアを展開して以来、マックス・エルンストを参照し続けつつも、このアメリカ人画家との関係が緊密となる。」また、「マンハッタンとコペンハーゲン、それぞれの地域に孤立していたジャクソン・ポロックとアスガー・ヨルンの二人の40年代には、同類のような雰囲気があった。…」とも書かれる。ポロックは1912年生まれで、ヨルンより2歳年上だ。前者の生誕100年展は2011年11月中旬から翌年1月下旬まで愛知県美術館で開催され、筆者は見に行き、
その感想を本ブログに投稿した。同展の図録を入手したのは最近で、それを参考に今ならもっと違うことを本格的に書くが、ここではアレシンスキーがらみで今日の3枚目の写真の上下の作品を同展図録から選んで図版を載せることに留める。上の横長の作品は50年の「無題」で、キャンバスに黒のエナメル塗料で描かれた。左から右へと舞うように書かれた前衛書と言ってよく、漢字を参考にしたかに思える。またポロックは即興で描いたこの作品の一部を白で塗り潰し、形体の美に厳密であったと言ってよい。下の作品は同じく黒一色で描かれた「ナンバー8,1951」で、「無題」でもいいように思うが、描いた日付を作品名にした。アレシンスキーが51年にブリュッセル王立美術館で見た作品はこれではないはずだが、この作品は多色であることを除けば「新聞雑報」とそっくりで、楷書的な「夜」から一転して草書的な画風に変わったことの理由がわかるようでもある。次に後者のヨルンだが、『絵画の嵐』展の図録から採った2点の油彩画の図版を今日の4枚目として掲げる。左は49年の「人物」で、右の63年の「真夏の夜の夢」は「新聞雑報」より一回り大きく、畳2枚分ほどの大作だ。これは「新聞雑報」に似た構図だが、北欧的な静謐さがあり、また整った印象が強い。
ヨルンは10代半ばから描き始め、21歳で抽象画に達したとされるが、ポロックの絵画を40年代に知ったのかどうかはわからない。それはポロックの側にも言える。当時おそらく互いの作品を知らずに似た絵を描いていたのだろう。アレシンスキーはコブラでは最年少で、コブラ解散前後にポロックの作品をブリュッセル王立美術館で見たが、当時ポロックはアメリカ最高の画家として有名で、その評判から同館がポロックの作品を展示したか、購入したのだろう。ところで、ブリュッセル王立美術館はベルギー王立美術館のことだと思うが、アレシンスキーが51年にポロックの作品を見た時はブリュッセル王立美術館と呼ばれていたのかもしれない。アレシンスキーのような全く新しい画風を追求する画家が王立美術館に足を運ぶことを奇異に思う人がいるかもしれないが、新しさは評価が定まった過去を充分に知らねば生まれない。つまり前衛が新たな伝統になるにはそれまでの伝統を視野に収める必要がある。アレシンスキーの作品がベルギー王立美術館に収蔵されていることはベルギーの絵画の伝統上にあるからだ。本展図録の年譜の60年代の項目の最初に「≪アンソールへのオマージュ≫(1956年)がニューヨークのホールマーク賞受賞」とある。同作の図版は本展図録にないものの、「新聞雑報」に近い画風であろう。そのことよりもアレシンスキーが同じ国の先達に敬意を表していることが面白い。ピカソや最先端の画家のポロック、それに画風は大いに異なるものの、ベルギーないしフランドル、あるいはネーデルランドと言ってもよいが、同じ地域人の精神性を共有する思いからアレシンスキーはアンソールも視野に入れた。それゆえ、「新聞雑報」にはアンソールの絵画に通じる風刺性、諧謔性が濃厚に見える。そして同作はポロックの作品に感銘を受けながら、単なる模倣ではなく、アレシンスキーの個性がよく表われていて、先の引用文の「身体の重要性」や「意図的なオートマティズム」、「自発的抽象」の言葉に納得が行く。さて、今日の5枚目の上の写真は「新聞雑報」によく似た60年の「誕生する緑」で、色彩は「新聞雑報」と補色関係にあり、筆致の荒々しさは減じている。それが手馴れによるものかどうかはこの二作と画風を共有する他の作があるのかどうか、またあるとすればそれらを見ないことにはわからないが、本作は題名が示すように、画面中央に緑色に塗られた縦方向の隙間があって、その隙間を取り囲む杏の実の形は女陰に見え、本作の解説の最後に書かれる「ギリシア悲劇に範を得た「現代の神話」の模索と結びついている。」という言葉は読み解きの参考になる。5枚目の下の写真は64年の「ある日トリノにて」だ。画面中央に血糊のような赤があり、トリノでの事件か事故に題材を得たのではないだろうか。図録に説明がないのが惜しい。
本展図録にはこの作品の直前にオレンジの皮を髑髏に変容させた墨による64年の素描「メルモス」の図版がある。「メルモス」は長寿と引き換えに魂を売る放浪学者の名前で、アイルランドの小説の題名だが、同素描は「ある日トリノにて」に描かれるアンソール風の髑髏や仮面のような顔に通じ、「ある日トリノにて」は「誕生する緑」とは違って凄惨さが露わだ。64年にトリノ市であった事件か事故を扱った作品であるとすれば、この作品は「新聞雑報」とつながっていることにもなる。またその出来事が政治に絡むのであれば、アレシンスキーには珍しい政治的な作品になるが、残念ながら図録に説明がない。年譜によればアレシンスキーは64年にパリを離れてイヴリーヌ県のブージヴァルに移住したが、フランス北部の同地からフランスに近いイタリア北西のトリノに旅行したのかもしれない。図録での「ある日トリノにて」の説明はアンソールを引き合いに出しつつ、この作品全体のイメージを、「…アレシンスキーの作品を横断する死の表徴をその消失点のうちに捉えながら、破滅への道を開く問題提起である」とし、「過去を背負いながら、しかし未来を持たないその線は、疑問に震えている。そして、この疑問は根本的な両義性を示すものである。アレシンスキーは、彼が好む可逆性という効果―それは彼の作品における鏡の重要性からも分かる―によって、すべての形体を疑問へと変容させる。この手法によって、怪物にも偉人にもなり得るという人間の二つの特性を示すのである。…」この説明は理解しやすいようだが、アレシンスキーの作品全体を貫く鍵と読み取ることは無理な気がする。アレシンスキーのアンソールへの思慕はこの60年代半ばに限るように思えるからだが、小説『メルモス』がどのように影響を及ぼしたかを探る必要はある。つまり本展図録はアレシンスキーの絵画への理解の鍵を多く提供しながら、日本の美術ファンには敷居が高い画家と見られるだろう。ともかく、「ある日トリノにて」は「新聞雑報」とは違った血生臭いグロテスクさが顕著で、見て楽しい作品ではない。ついでに書くと「新聞雑報」はいわき市立美術館、「ある日トリノにて」は姫路市立美術館が蔵し、日本に代表作がままあることは日本における評価の高さがわかる。話を「誕生する緑」に戻すと、同作から3年後の63年に書かれた「腐蝕画法をめぐるノート」では、緑は「動いている波の、その波がしら。総縁。」と説明される。この言葉の最初の「dans le mouvement」(動いている)は重要だ。波頭は動いているのがあたりまえで、それをわざわざ「動いている」と形容するところに、アレシンスキーが本作を激しく動きながら描いたことを強調したい思いが覗く。またこの緑に対する思いは、波頭や画面全体の色合いからして北斎の「神奈川沖浪裏」が念頭にあったものではないか。
ただしアレシンスキーは静止したような「神奈川沖浪裏」を念頭に置きつつ、ギリシア神話にも引きずられ、画面を流動させ、混沌性を表現する。ただし混沌に終わらず、画面中央に緑の目立つ隙間を設け、その隙間はもっと細い緑の帯によって画面上部から下部とへ連なる。その蛇行する川のような流れは、オレンジの剥いた皮のスケッチからもたらされたものだろう。そのように単純な記号性にさまざまな思いを付与し、画面に複雑さと奥行きを示すのが本作だ。先の緑に対するアレシンスキーの思いの最後の言葉「総縁」(Les franges)は複数形であるのでそう訳されたようだが、これを「神奈川沖浪裏」の高浪の波がしらの連なりと思えば視覚されやすいとしても、「総縁」では意味がよくわからない。緑は青と黄の中間にあってその二色を支える「縁の下の力持ち」という意味ではないか。一方で「総縁」は画面全体を取り囲む何か、あるいは額縁を連想させるが、アレシンスキーが60年代半ばに完成させた、中心となる大作の周囲を小品で取り囲む額縁のような画風と緑色が深い関係にあると限ることは無理だ。ともかく、そうした新たな技法の記念碑的な65年の「セントラルパーク」が今日の6枚目の上で、本展に出品されなかったが、モノクロの参考図版が図録に掲載される。紙に墨とアクリル絵具で描かれ、キャンバスに貼られた作品だ。以降アレシンスキーは同様の技法で大作を次々に描いて行く。『自在の輪』についての投稿時に墨で描かれた68年の「天体と天災」の図版を載せた。同作には中心となる大画面の作はないが、複数画面で一作を構成する画法は最初期の銅版画による職業人シリーズにあったものと言ってよく、またピカソの「フランコの夢と嘘」からの影響もある。「セントラルパーク」は中央画面はオレンジの剥いた皮による人の顔に見えるが、ニューヨークのセントラルパークを描いたものだ。それはおそらく緑色が支配的で、60年の「誕生する緑」から誕生した、そしてより写生に基づき、もっと整った画面となっている。記号的戯画と言えばいいか、アンソールの作品を漫画的にしたと言ってよい画風で、ポロックがその後に進んだ方向から離れて独自の境地を見出したことは明らかだ。だが、「セントラルパーク」の中央画面は、たとえばオレンジの連なる皮に嵌め込んだような人体や人の顔を描く方法と、対象をそれなりに忠実に素描する態度の双方が見え、記号性をどこまで徹するかの迷いないし曖昧さが感じられる。記号性に徹すれば漢字のような単純な抽象性に行き着くが、アレシンスキーはそこまでは欲せず、対象に接した時の斬新な視覚の驚きを忘れない態度がある。その驚きを率直に描くには核心部分を抽出する必要があり、漫画に近づきながら意味の限定から遠ざかることをアレシンスキーは望む。それが鑑賞者に謎めくのは当然で、そこに読み解き切れない面白さがある。
昨日の最初の画像のチケットに印刷される82年の「至る所から」は、中央のモノクロの人の顔をカラフルな額縁状の画面が取り巻く。解説に「原点と変転、暴力と情熱、現実と超現実を混ぜ合わせる…未来と過去は同じ平行線に置かれ…」とあるが、鑑賞者はどう読み解くべきか戸惑い、中央の白黒写真のような驚く正面顔に釘づけされる。今日の6枚目の写真の下は69年の「写真に対抗して」で、上の「セントラルパーク」とは違って大画面の下にプレデッラと呼ばれる小画面が3段にわたって連なる。解説によれば、「対抗して」は「寄り添って」の意味があるが、そもそも最上部の大画面が何を描くのかわからず、プレデッラの各画面も大画面をどう補足するのか定かではない。撮影者の意図にしばし反して本来あまり重要でないものも写ってしまう写真に対して、アレシンスキーは最小限の線と色で描きたいものだけを盛るが、題名なしでは何を意図して描いたのかわからない。ピカソの「フランコの夢と嘘」は写真では表現不可能な内容の作で、その延長上にアレシンスキーは写真では読み取りが曖昧になることを描こうとする。写真では表現不可能な視覚性はある。それゆえ絵画が生まれ、抽象ないし記号的表現がある。本作の中心画面はアレシンスキーには珍しく赤と黒で描かれ、激しく踊る人々か、格闘場面かもしれない。ところで、筆者がコミック漫画を読む気がしないのは、登場人物の記号的表情によってある特定の意思を読み取ることを強いられ、そのことが物語とともに特定の感動に導くことが意図されているからだ。一方、漫画やアニメの実写版の存在を思えば、本作を写真的すなわちレアリスム絵画に変容可能かどうかが気になる。漫画の実写版は単純化された線描である漫画以外の要素をふんだんに用いるが、演じる俳優は漫画と同じように記号的な、つまり喜怒哀楽の紋切り型の表情をわかりやすく演じ、もっぱら物語性に見どころがある。「写真に対抗して」を実写的に描き直せば鑑賞者は何を描いた絵であるかがわかるが、アレシンスキーは記憶に頼って本作を描いた。その中で描かれる対象はいくつもの場面、しかも断片と一体化していて、漫画の複数のコマのようにそれらを充分に描き揃えることで記憶は迫真性を帯びるのだろう。ただしそれはアレシンスキーの内部での落とし前であって、相変わらず鑑賞者には具体的に何を描いたかはわからない。たぶんそのことは必要でなく、人それぞれに強く記憶されることが、写真的でありながら写真に撮ることが不可能であることを示したいのかもしれない。本作は題名が全く別のものであり得るかという疑問は置いて、プレデッラの2段目のオレンジの皮の変奏や最下段の人物の対話の記号化など、アレシンスキーでしかあり得ない画風は圧倒的だ。またそうした記号的画題は他の作でも共有され、アレシンスキーの作品はアニメのコマのように相互につながって行く。
筆者がアレシンスキーの絵画に注目するのは、よく理解出来るからではない。その反対で正直なところ好みの絵ではない。だが、図録巻頭に両手で同時に書かれた「MERCI」の鏡像文字を見て、筆者の左右対称の漢字の名前や以前盛んに作った左右対称の切り絵における記号的表現との共通性に親しみが湧く。今日の7枚目の写真は68年に和紙に墨で描かれたヴェネツィアの「パラッツォ・グラッシ」だ。画面上半分はその建物の正面玄関、下半分はそれが水に映える様子で、上下対称の眺めに着目する作だ。上下対称はこの作のように水面を題材にするしかなく、筆者も切り絵で同様の水面を題材にしたことがある。「パラッツォ・グラッシ」はアレシンスキーにすればわかりやすい作だが、同じように何を描いたか鑑賞者によくわかる絵をなぜアレシンスキーがもっと描かないかと言えば、本作は鏡像 に関心があってのもので、これも案外北斎の「富嶽三十六景」の富士山を描いた作から着想したものではないだろうか。画面の下半分の鏡像は、オレンジの皮のような水面の波がアレシンスキー独自の記号性が表現され、玄関の三連のアーチの奥の陰りやアーチ前の何かわからない置物など、謎を保ちながら楽しい絵になっている。今日の8枚目の写真はどれも使用済みの古紙に描いた作だ。上左の「間接税の会計」は「1711年度の間接税」の手書きの記述がある紙に寝る男が墨で描き足された61年の作で、『自在の輪』でも紹介された。上右は70年の「言葉であり、網目であり」で、紙の裏に1739年7月22日の消印のある手紙が使われた。下は左右とも78年の作で郵便物に水彩で描かれた。左は1841年12月6日、右は1928年1月22日のそれぞれ消印があり、その後も同様の作が描かれた。アレシンスキーはしばしば古紙を買い、そこに書かれる言葉や印刷される文字に呼応した絵を描くようになった。それは他人の言葉と自作の絵との共作で、アレシンスキーに絵を描かせるために友人が特別に文字を書いた紙を提供したこともある。50年前ならともかく、1700年代の紙となればそれなりに値が張るはずだが、そうした古紙に描くのは白紙に描く場合以上の緊張を強いる。しかし、見知らぬ人が書いた文字にふさわしい絵を考える楽しみがあり、それは却って描きやすい場合をもたらす。となればアレシンスキーの絵画は題名が重要で、言葉に出来ないことを描くとは言え、題名の言葉が絵の読み解きに大いに役立つ。ついでながら筆者はアレシンスキーのこの技法の絵画を知らずに、自作の左右対称の切り絵に単色の色紙を使わずに、何かが印刷された紙を使ったことがある。それを思い出すと、大事に取ってある昔の手紙で切り絵以外の表現に使ってみる気になる。そのような作品化を経ると、古い手紙は別の命を得て、より長生きしそうではないか。
図録の図版をもとに書き進めているが、87年以降、アレシンスキーはニューヨークやローマなどでマンホールの蓋をフロッタージュし、そこに描き足す画法を始める。フロッタージュはエルンストの影響があろう。それに東洋の拓本が念頭にあったかもしれない。また前述の郵便物に捺される丸い消印からも連なっているが、『自在の輪』の車輪からの継続した考えにもよるだろう。そしてマンホールの拓本は本展に出品された2008年の巨大なレコード盤状の円形絵画「デルフトとその郊外」やその後の円形絵画につながり、「デルフトと…」の大車輪は『自在の輪』の「車輪類従」で図版が紹介されたボッシュの「乾草の車」とも結ばれている。「デルフトと…」は街の景色らしきものが青一色で描かれるが、その青はデルフト焼きの釉薬に触発されたものだ。今日の最後の写真は、本展最大の作で会場を圧倒していた縦長の4コマ漫画風の画面8点組の青一色で描かれた作「ボキャブラリー」だが、そこにも同心円の何かを拓本した表現が混じる。しかも樹木や波、滝や煙、城壁や階段など、おおむね何を描いたかがわかる各画面ではあるものの、4コマの各縦長画面が何を意味し、計8作全体で物語を構成しているかどうかは不明だ。ただし、題名からしてアレシンスキーが他の作でも用いる記号的語彙集の役割も込めたのだろう。読めない言語を伴なう漫画を見るような気分にされつつ、言葉のない本作は宇宙人が自分の楽しみのために描いたような趣があり、謎めきが留まり続けるところに面白味があるとしか言えないような作だ。そのことは68年の「天体と天災」ですでにあったことで、同作からは「ボキャブラリー」の右から2列目の上3コマに描かれる逆三角形が生物の顔を表していることがわかるし、またアレシンスキーが自ら生み出した記号的形体をより単純化し、さらに記号性を高めたことも把握出来る。ボキャブラリーは何かを表現するためのものだが、アレシンスキーの詩のような絵画は超現実主義的なものとして、意味が解読出来ないまでも作品全体から伝わるものをただ感じ取ればよい。宇宙は根源的なわずかな仕組から出来ているに相違ないとロジェ・カイヨワは考えた。アレシンスキーはその宇宙を独自の視覚的語彙で表現するが、その語彙によって組み立てられた表現がただただ意味不明であれば、カイヨワはそれを無責任と思ったであろう。カイヨワもアレシンスキーもブルトンと関係を持ち、シュルレアリスムから出発した。アレシンスキーを超現実主義的漫画家と評すれば当たらずとも遠からずではないだろうか。もちろん日本では漫画は部数が売れてなんぼで、アレシンスキーのようなほとんど意味不明の絵では広くは歓迎されない。そこでボッシュの「乾草の車」を想起すれば、金の奪い合いに血眼の現世に対するアレシンスキーの醒めた眼差しが見える気がする。では円形絵画は硬貨のたとえでもあるか。
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