疱瘡の痕が顔全体にある人は筆者が子どもの頃はたまにいた。小学校で種痘が義務づけられ、今や天然痘は絶滅したと思うが、間違った自由主義思想から種痘を打たせない親がいると、そういう親の子どもだけは天然痘に罹るかもしれない。そうした自由主義は種痘を左上腕部には打たせないという意思表示ですでに筆者の子ども時代にはあった。左腕の外側にいくつかの種痘痕があれば、女子では美しさが台無しになるとの考えだ。それで臀部に打ってもらうことを主張すると聞いたが、今ではそれはあたりまえになっているかもしれない。筆者は子ども心ながらに、尻に種痘痕があれば、彼女とベッドインした恋人がそれを目撃した時、気分が萎えるのではないかと心配した。美しくあるべき臀部に種痘痕というのは、筆者なら嫌だ。それより左上腕部にあるほうがまだいい。それはさておき、左上腕部への種痘は当時決まりであったと思う。たいていの子どもは右利きであるからだ。それで教室はどこも黒板に向かって左側に外部に面する窓があり、右が廊下だ。これを先ほどの自由主義を唱える親の子どもが左利きの場合、学校に対して文句を言わないのだろうか。「わたしの子どもだけ黒板とは反対に教室の後方に向かって授業を受けさせます。」それでは黒板が見られないかと言えば、今はデジタルの大型画面が使える。男女平等を唱えるのであれば、左利きの子どもを右利きに矯正させずにそのままでよいとすべきで、たぶん今は筆者の子ども時代ほどには左利きが右利きに無理やり強いられないのではないか。以前に書いたことがあるが、筆者が小学5,6年生の頃、学校で選ばれた児童が集まっての習字の練習があった。その中に小学2,3年生のひとりのかわいい女子が左利きで筆を操って半紙に漢字を書いていた。見回っていた先生の中で最年長の、いかにも戦前の軍隊を思わせる年配の男性教師はその彼女の左利きを見るや、舌打ちしながら「なんでこんなぎっちょに習字を教えなあかんのや?」と言い捨てた。60数年前のその出来事を今も鮮明に覚えている。当時左利きは親が右利きに直すことが常識とされていた。左利きでは教室で鉛筆を握ると帳面に左手の影が落ちて見にくいが、左利きの本人はそのことをさして不自由とは思わないだろう。しかし文字は漢字も平仮名も左上に起点があって、右利きが書きやすいように成り立っている。英文などの横書きであれば、左利きでは書いたしりから左手が文字の上を擦り、インクで書いた場合は手が汚れる可能性が大きい。ともかく世の中は右利きが圧倒的に多く、右利きに便利なように仕組まれている。だが、事故で右手が不自由になった時、左手で文字が書ける人は便利だ。右利きが左手も使いこなせるように義務教育することはないだろうが、左手を右手と同様に使えるように訓練することは新たな何かを見出す契機になりそうな気がする。
先日アレシンスキーの『自在の輪』について投稿したのは、3月15日に大阪の国立国際美術館で見たピエール・アレシンスキー展(本展)の感想を書くためだ。本展は同館でのクラーナハ展と会期がほぼ同じで、筆者と家内は地下3階でクラーナハ展を見た後に地下2階に上がって本展を見た。入場料は別で、画家の知名度が全然違うためもあって、クラーナハ展を見た人がついでに本展も見ることは少なかったのではないだろうか。それはともかく、最近図録を手に入れたので本展について書く気分が湧き、まず『自在の輪』を再読することにした。本展の図録は文章がかなり多く、またいつものように翻訳がわかりにくい箇所がままあるが、『自在』の投稿直後から図録の文章を全部読み、気分を新たにアレシンスキーについて書く。『自在』の投稿で触れなかったことが気になっていることと、また本展では『自在』が上梓されて以降のアレシンスキーの画業が披露されたから、今日の投稿は「『自在の輪』続き」のさらなる続きとなる。たぶん10段落は超えるだろう。以下いつものように思いつくまま書く。まず図録の表紙をめくると、『自在』で馴染みのアレシンスキーの手書き文字がある。フランス語の「MERCI」を両手で同時に鏡像として書いたもので、左右対称のその筆跡はアレシンスキーが左利きでありながら右利きに矯正された事実を思い起させる。右利きの筆者でも両手を同時に動かして同様の文字を書くことは出来るが、アレシンスキーが主張したかったのは左右対称の文字だろう。筆者はこのブログを始める少し前から15センチ角の色紙を使った左右対称の切り絵を作り始めた。裏向けになった「MERCI」の文字はそれだけでは即座に何を意味しているかわからず、筆者は自作の左右対称の切り絵では反転しても誰でも読める文字しか表現しない。そのことをアレシンスキーが知ればどう思うだろう。アルファベットではそういう芸当は不可能だが、漢字であれば筆者の名前のように左右対称の文字を含むので両手で同時に鏡像文字を書いたところでそれは同じものが左右にふたつ並ぶだけでさして面白くない。それはともかく、「MERCI」という感謝の言葉をアレシンスキーが本展のために特別に書いて図録の最初に載せたことは、いろいろと詮索したくなる。筆者はロジェ・カイヨワの著作『反対称―右と左の弁証法』を思い出すが、アレシンスキーはカイヨワと交友があったようで、本展図録に掲げられる年譜ではスキラ社版の『自在の輪』が発刊された71年にカイヨワはアレシンスキーの作品に対する賛辞を寄せている。ついでに書くと、カイヨワの最晩年の著作は森田子龍とのコラボレーションであり、その遠因にアレシンスキーの介在があったと考えて間違いないだろう。そのことに筆者は半世紀ぶりに気づき、その意味でもアレシンスキーは無視出来ない。
アレシンスキーは1927年生まれで、カイヨワは10歳年長だ。アレシンスキーと同年生まれの画家を調べると、今年2月に亡くなったディック・ブルーナがいる。ブルーナはオランダ人で、ベルギー生まれのアレシンスキーとは同郷人としてよい。ブルーナが生んだ記号的キャラクターはアレシンスキーの絵画における記号性と共通するが、日本ではブルーナが生んだミッフィーが女性や子どもを中心に大人気を博しているのに対し、芸術家アレシンスキーは美術愛好家からもあまり知られているとは言い難い。これはブルーナの記号性が「かわいい」という言葉がふさわしく、世界共通にわかりやすく、親しみやすいのに対し、アレシンスキーが創造する記号性はわかりやすいものとは限らず、また即興表現でもあって雑に見えるからとも言える。ブルーナのキャラクターはごく単純な線で成り立ち、1,2分で描けるように思われるが、TVで紹介された作画の様子からは、一本の線引きにきわめて時間を要し、緊張の連続がよくわかった。それでブルーナのキャラクターの輪郭線を改めてみると、線の幅の両側に微細な滲みが多く、その滲みがペンをじっくりと動かす際に生じたものであることを知る。そのような作画方法をアレシンスキーは採らない。アレシンスキーの線描はどれも猛速度で一気に引いたもので、即興の言葉がふさわしい。それはさておき、アレシンスキーは名前からしてフランドルやフランスではなく、ロシアそのものだが、図録の年譜の76年の項目に、アレシンスキーが同年に出版した本に「1892年、ロシアに生まれた父はウクライナでの自衛軍の抑圧を逃れるため、20代でベルギー の亡命、医学の道を目指し、ジェルメーヌ・デュランと結婚、彼女も医師であった。」とあり、またアレシンスキーがひとりっ子として生まれたことが書かれる。また年譜からは筆者が『自在の輪』で触れた同著の献辞「pour Micky」のミッキーはアレシンスキーの妻の愛称で、アレシンスキーは彼女ミシェル・ダンダルと21歳で出会い、翌年結婚したことがわかる。55年の来日に妻を伴い、年譜には撮影を見守る彼女を捉えた写真がある。年譜ではその後に彼女のことは書かれないが、本展開催時のアレシンスキー89歳の時点で妻は存命と考えてよく、金婚式をはるかに越えて夫婦仲はいいのだろう。52年に後に小説家となる女子、58年に後に彫刻家となる男子が生まれ、画才と文才のあるアレシンスキーを再認識させる。ついでながら年譜には73年に父、92年に母死去とある。また知り合いの画家などの逝去も記され、アレシンスキーが長命を保ちながら画風を開花させて行く様子を本展図録は多くの図版で紹介し、日本ではアレシンスキーを知る唯一かつ代表的な本となっている。新潮社版『自在の輪』の出版以降、東京の画廊での個展や美術館でのグループ展でも作品が展示され、やがて本展につながった。
本展で最初に展示されたのははがき大の銅版画9点のシリーズ作品で、図録では原寸大で図版が掲げられている。後年大画面が中心となるアレシンスキーにしては珍しい作で、9点とも道具を扱う職業人の「漁師」「美容師」「自動車整備士」「樵」「神父」「兵士」「消防士」「ファッション・デザイナー」「音楽家」を、黒一色によって半抽象的かつ左右対称気味、そして漫画的に表現し、ユーモアがある。48年、まだコブラに加入する以前の21歳の作としてこの銅版画シリーズは後年の即興的描画とは大いに異なるものの、対称を記号的に見てどう捉えるかの着眼において後年の方向性を示している。たとえば「樵」は顔が材木の集積で、アルチンボルドの画風を彷彿とさせるが、物の集積をきわめて写実的に描写するアルチンボルドとは違って、描かれる「物」は題名と照らすことで推察され得る点において、ほとんど何かわからないほどまでに記号化する手法への好みが伝わる。「兵士」では顔は髑髏、両手は鉄条網を模し、画鋲状の車輪らしき両足にも鉄条網らしき線が描かれ、砲弾型の胴体中央に十字型の勲章がひとつぶら下がる。また空間には雲丹のような黒い破裂模様が2か所描かれ、地面は草原か荒野を等高線のように表現される。この作はオットー・ディックスの「戦争」シリーズの銅版画とは違っていかにも戦後の明るさがあり、それがまた冷笑や哄笑ではなく、反戦主義でもないところにアレシンスキーの政治に対する距離感が伝わる。ともかく対象を記号化することに徹し、しかもこのシリーズの画題に「銅版画家」ないし「画家」を含めなかったところにアレシンスキーが自己を記号化することに迷い、あるいは記号化され得ないところに存在価値があると考えていた節がある。つまり常に自由を求めて表現とその方法を変えて行く覚悟が早くも見える。その意思があったので鉄条網に捕らわれて無残に死ぬ「兵士」を表現し、そこにアプレ・ゲールへの謳歌が感じられる。銅版画は手間のかかる技法で、また作品は左右が反転した状態で仕上がるが、右利きに矯正されながらも左手で描いたアレシンスキーにすれば、版画はイメージの固定がたやすかったであろう。また前述したように、職業シリーズの9点はおおむね左右対称で、そこにも左利きと右利きの両方を操れたことの意識が反映している気もする。アレシンスキーはその後も積極的に銅版画を手がけ、600点ほど収録したカタログが存在する。晩年には多色の石版画も手がけ、版画と一点制作の絵画とで記号的図像を共有するが、当然版画にはそれ独自の持ち味があって、画家と版画家のアレシンスキーは左右対称のような関係になっている。また版画においては伝統的な手法に頼らず、独自に編み出した技法を駆使し、その意味でも先の職業シリーズの銅版画の1点として、版画家アレシンスキー像を含むことは難しい。
本展のチケット画像を除けば今日の最初の画像は、上がピカソが37年に制作した銅版画「フランコの夢と嘘」のうち第1作だ。同じ題名で第2作があって、どちらもはがき大の縦3面、横3面の小作品がつながっている。両作合わせての全18図を切り離して売る予定であったのが、ピカソはつながったままが面白いという意見にしたがって両作を販売した。このピカソの銅版画はアレシンスキーに大きな影響を与えたようだ。今日の最初の画像の下はアレシンスキーの「根と脇根」で、紙に水彩と墨で描かれた。本展図録の説明に、「「ポロックと≪ゲルニカ≫」と題する文章の中で、アレシンスキーは南仏の砂浜で拾った竹の根が、1937年1月8日にピカソの制作した≪フランコの夢想と妄想≫の出発点だとしている。…」とあって、アレシンスキーは言葉遊びも援用して52年に「根と脇根」を描き、ピカソの「フランコの夢と嘘」と縁結びさせている。ピカソは同作の第1作で軍事独裁家フランコの顔を竹の根で表現した。奇妙な形の竹の根からフランコの頭部を連想したピカソは風刺の思いがあったのだろうか。後年ピカソは玩具の自動車をマントヒヒの顔に使って彫刻を作るので、竹の根で人物の顔をなぞらえることはたやすかったが、自動車が動物に見えることは自動車の機能からして当然で、竹の根のフランコと自動車のマントヒヒとでは前者が圧倒的に奇妙で面白い。奇妙な形の竹の根を見つけたピカソは、フランコをドンキホーテになぞらえつつ、馬からやがて豚に股がらせる。その痛烈な風刺の「フランコの夢と嘘」はその後の大作『ゲルニカ』と相まってピカソを祖国スペインから遠ざける。戦後では必要がなかったからか、アレシンスキーにはそういう政治的な作品はない。「根と脇根」は5図から成り、右下の最も大きな絵はおそらく実物の竹の根にかなり忠実で、足がムカデのように多い馬として描かれている。またその長い後方部は細い根が上方に伸びて出血しているようにも見えるが、アレシンスキーもこうした奇妙な形の竹の根を入手したのだろう。他4図は半ば抽象化され、右下の最大図の変奏曲として機能している。このひとつの画面に多くの独立した絵を集める手法は後年のアレシンスキーの大きな特徴となるが、ある意味ではそれも「フランコの夢と嘘」から学んだことに思える。「フランコの夢と嘘」は画面上部の文字が反転状態だが、右利きのピカソは当然銅版上では右上の画面となるものを最初に、次にその隣り、そして左上図と描き進んだはずで、第1作はコマが続く漫画のように見て行けばいいかもしれない。だが、アレシンスキーの多画面の作は見る順序が定まっておらず、それは左利きでありながら右手でも描けたことによるのではないか。ついでながら「フランコの夢と嘘」の上から2段目は扇を持つ女性が中央コマでは戦争の寓意である猛牛に襲われ、3コマ目では鉄条網に体が絡まる。
アレシンスキーの「ポロックと≪ゲルニカ≫」の全文がどこで紹介されたか、またその日本語訳があるのかどうか、本展の図録には注釈がないが、ポロックとピカソを取り上げていることは絵画の影響を知るうえで大いに役立つ。それに『自在の輪』からはポロックからの影響は予想されるが、ピカソからのそれはわからず、改めてピカソの偉大さがわかる。ピカソはたまたま浜辺で見つけた竹の根をフランコの頭部になぞらえることで得た表現の様式を『ゲルニカ』でさらに開花させるが、同作で描かれる人物たちの顔が竹の根やその他の実在する物を変容させたものと言うより、たとえば「泣く女」の顔のように、幾何学的かつ装飾過多に見える線の多用による独特な表現様式を見出したと言ってよい。あるいはその「泣く女」の顔も竹の根の節が密集する様子からの着想と見るならば、ピカソは自然の中からごく自然に抽象表現を導いたと言える。いずれにしろ、「フランコの夢と嘘」の根底に竹の根があったことをアレシンスキーは知り、そのことが大きな啓示となった。『自在』に書かれるように、アレシンスキーは友人画家が切れ目なしにオレンジの皮をナイフで剥く様子に注目し、そうして剥かれた多くの皮に黴が生じても写生を続けた。そうした長い皮にアレシンスキーがピカソの竹の根に倣って人の顔を見たかと言えば、そのように思える図版が『自在』に載るが、同書掲載の図版を改めて見ると、ブルトンの書斎の壁に紐状の線が曲線を描いて絡まる絵画がある。またブルトンの書斎のオブジェにユーゲント・シュティール様式の、オレンジの剥いた皮の絡まりに見えるブロンズ製のインク壺があり、その写真図版とそれを描いたアレシンスキーの素描が対置され、オレンジの剥いた皮が多くの他のものに変容することを示唆している。ついでに言えば、オレンジの皮の曲線の絡まり状のインク壺は、北斎の浮世絵から影響を受けたような大きな蛸と人の絡まりで、その大蛸がカイヨワの73年の著書『蛸』に多少なりとも影響を及ぼすことに思いが至る。カイヨワがアレシンスキーから受けた最大の影響は日本の前衛書道だが、戦後になってヨーロッパの画家や思想家が日本に強い関心を抱いたのでは全くなく、前述のユーゲント・シュティールのように明治の半ばから日本の造形を大いに歓迎した。しかし船に乗って来日したアレシンスキーは日本以外のアジアの国にも立ち寄っており、日本や仙厓に関心を抱いたのはヨーロッパで流行したジャポニスムを知ったからではなく、『自在の輪』で多くのページを割いて紹介された友人画家のウォラス・ティンに出会ったことの影響が大きい。ウォラス・ティン(丁)の画風はネット上の作品画像からある程度はわかるが、『自在の輪』で紹介される作品は同じくカラフルながら、ポロック風に絵具の飛沫が目立ち、また記号的作品だ。
ウォレス・ティンは「Walasse Ting」と綴り、ワラッセ・ティンとも読むようだ。ネットで見られるのは若い女性をカラフルに描いた版画がもっぱらで、女性の顔は東洋的、春画的で、『自在の輪』で紹介されるティンのアトリエの壁に密集状態で貼られる女性のヌード写真群の意味がわかる。艶めかしい女性像はキース・ヴァン・ドンゲンの影響を思わせるが、水彩絵具で中国や日本の筆を用いて素早く描いたような画風は中国の清時代の絵に連なりながら、岡本一平に続く日本の漫画の技法と通ずる。本展図録の年譜の55年の項目に、「ウォレス・ティンより、床に大きな紙を置き、墨壺を手に持ち、全身を動かして描くスタイルを学ぶ。」とあり、次の行に「ティンの助言もあり…来日」とあって、アレシンスキーがパリに出たことの意味は大きかった。また年譜の同じ年度に「田淵安一の父が経営する銀座のナビス画廊にて個展開催。」、「すでにパリで知り合っていた岡本太郎と再会…」ともあって、岡本との出会いは53年で、同年岡本はパリに行ったようだ。ともかく55年に東京で再会し、その10年か15年後に岡本がアレシンスキーに、岡本の父の一平が生涯使用した大型の硯をプレゼントしたことが本展図録に硯の写真とともに紹介される。岡本はアレシンスキーが日本の墨や筆を使って漫画的な画面を作り上げる画風を見て、そこに一平に通ずる何かを思ったのだろう。アレシンスキーの作品を漫画という文脈で見るならば、仙厓、岡本一平、そしてコマ割りのコミックという連なりに置くことが出来るが、そのいずれの模倣でもないところに特質がある。それは東洋を完全模倣する才能がないと否定的に見る人もあろうが、そもそも模倣が念頭になく、たとえて言えばウォレス・ティンのようにきわめてわかりやすい絵でもないところが面白い。岡本一平の話ついでに書いておく。一平より2歳年長で1887年に山梨で生まれた近藤浩一路は、漫画家として一平と双璧とみなされたが、一平より長生きしたにもかかわらず、現在は一平ほどに有名ではない。筆者は近藤の画風に横山大観と小川芋銭の折衷風を思うが、芋銭は1868年生まれで、近藤より9歳年長だ。芋銭は川端龍子らとともに1915年に「珊瑚会」を結成した。同会に所属しなかった近藤だが、龍子の画風に影響を受けた。WIKIPEDIAによれば近藤は31年にパリに行って個展を開催、マルローがそれを見て近藤と親交し、マルローの『人間の条件』に近藤がモデルになった人物が登場するという。そうした戦前の日本とフランスの交流の延長上にアレシンスキーと岡本太郎の交友があった。だが、アレシンスキーの来日は「日本の書」と題する映画撮影が目的で、日本の絵画よりも書に関心が強かった。そしてその書についてウォレス・ティンから教えられることが大きかったことは『自在の輪』に書かれる。
今日の2枚目の写真は『自在の輪』についての投稿で触れた大原美術館蔵の「夜」で、52年の油彩画だ。アレシンスキーは49年にコブラに参加し、当時の代表作のひとつだ。真っ黒な画面に白で漢字のような文字的記号を密集させた作で、図録にこう書かれる。「コブラの時代の作品の特徴は書かれた文字が作品を活気づけていることである。版画を手がけていたことが、白地に黒から黒字に白へ自由に移行できるこうした文字の出現を促していた。」コブラの作品を筆者が初めて見たのは85年秋の『絵画の嵐』展だ。その図録の巻頭論文にこうある。「コブラ・グループは1948年11月から1951年11月にかけての短期間に存在した。革命的にシュルレアリスムから分裂してパリで誕生したこのグループには、主に、デンマーク、ベルギー、オランダの美術家ならびに詩人が結集した。コブラCOBRAという名称は、クリスチャン・ドートルモンの発案によるもので、コペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダムの頭文字から作られた頭字語(アクロニム)である。」ベルギー人のドートルモンについては、『自在の輪』の「補遺と異文」ではウォレス・ティンの次に作品とともに画家の言葉を紹介し、アレシンスキーに決定的な影響を及ぼしたことがわかる。アレシンスキーはドートルモンが命名した書のような作品のロゴグラムについて書きながら、一方でアンリ・ミショーの同様の作品の図版も載せるが、書のような絵画と言えば『自在』に図版が載るティンによる「龍」の文字にひとつの源流がある。アレシンスキーはティンにドートルモンのロゴグラムを見せ、ティンが的確な表現をしたことをも『自在』は書く。次に同書からドートルモンの50年の「コブラ」第7号の文章を引く。「印刷されてしまうと、私の文章は、さながら町の地図のようなものになる。藪も、木立も、家並みも、私たち自身までが姿を消してしまうのだ。自分の肉筆の文章を、あらためて筆写してみるとよくわかる。これはつまりおのれの自然な筆跡の偽造をやってのけるわけで、このとき私の文章は、はやくも濃厚な艶を失くしてしまうのだ。…」これは『自在』の序における「…活字の公園の、道という道をきれいに搔きならした美景には、私のそうした放浪はさっぱり跡をとどめない。」というアレシンスキーの言葉に呼応する。またこのドートルモンの言葉に対してアレシンスキーはこう続ける。「…彼は肉筆というものの知られざる一面を覗き見たのだ。ドートルモンの肉筆に成る『蒙古の汽車』の書き出し部分は、横書きのものが、まず縦書きの形にされ、上から下へ水のように流れ落ちる態となった上で、紙の裏側から透かして見られることになった。その結果、中国や日本の書体に似たもの、つまり、雅趣に充ちていながら、解読不能のものが出現したのである。これは私には奇跡にひとしいことだった。」
先の続きに「四年後、私は、日本の書家たちをフィルムに収めようというので、長い船旅に出たほどである。…」とあって、アレシンスキーはティンと出会う以前にドートルモンのロゴグラムから強い感化を受けた。「夜」はそうしたことを示す好例で、この題名は描かれた画面と相まって悪夢も含めて夜に満ちる風情をうまく表現する。先の引用に続いてアレシンスキーは『自在の輪』でこう書く。「だが、ドートルモンにしてみれば、純白のページこそが≪極地≫なのだ。彼は東洋風を気取るのをきびしく避けてきた。東洋の表意文字の猿真似をする画家はいくらでもいる。「バタ臭いね」と日本人ならいうだろう。時には立派な首尾を収めることもないではない。クラインなどはその一例である。だがドートルモンはちょっと特別だ。彼は書きつつ描く。「白き紙に黒き墨の雪ぞ降る」という風情だ。」今日の3枚目の写真は『自在』に載るドートルモンの書のような絵「グロリア」で、同書にドートルモンのグロリアに対する詩のような文章が載る。その一部に「…グロリアを誘惑しようというので/日に八時間も仕事している/グロリア宛てに書くために/下書きをする/清書をする…でも時にはわたしでも暇をもらう/一年ももらうことがある/グロリアにわたしの手紙が届かぬよう/さてその時 わたしはロゴグラムを書く…わたしの夢は/ロゴグラム自体でグロリアを誘惑すること…」とあって、グロリア宛てに「グロリア」を送ったと読めそうだが、その箇所は原書では「J’ouvre une letter de Dotremont.」 とあって、新潮社版で訳者の出口裕弘は「ドートルモンの手紙を開封してみる。」と訳す。これではドートルモンがアレシンスキーに「グロリア」の手紙を送ったことになるが、アレシンスキーは「ドートルモンからの手紙」とは書いておらず、「開封」は単に「開く」、「読む」の意味で、ドートルモンがグロリアに送りながら戻って来た手紙をアレシンスキーに譲ったことも考えられる。それはともかく、「グロリア」は東洋の表意文字かアラビア文字か、国籍不明の文字に見えつつ、その記号性は物体を単純化したもののようでもあり、そこにアレシンスキーの「夜」を対峙させれば、コブラ時代そしてドートルモンとの出会いの大きさがわかる。『自在の輪』にはティンがアレシンスキーから見せられたドートルモンの「グロリア」に対して意見する言葉が書かれる。「「これ、新しい。見たこと、ないよ。海だね。海とグリーンの草(グラース)だね。」丁はドートルモンの手紙の意味を、一字また一字と追っていって、ついに捉えたようだ。「ドートルモン、大詩人。どんどん、かたち変る。雲みたい」」。ティンは「グロリア」が中国の書とは違って文字的形象が意味を成さないことを知りながら、作品全体から浮かび上がる詩情に触れた。それはドートルモンが詩人でもあるからで、文字を書くことに意味や意義を認めていることによる。
『絵画の嵐』展ではドートルモンの作は3点紹介される。いずれもモノクロ図版が図録に載り、58年ないし62年の作だ。同展図録には、22年生まれで31年から39年にかけて「アカデミーでデッサンを学んだこともあるが、主に詩や小説を書く」とあり、40年に書いた長編詩「古代の永遠」によってマグリットに出会ったとされる。また41、2年にパリのシュルレアリスム運動に参加し、エリュアール、ピカソ、バシュラール、コクトー、ジャコメッティらに会い、51年には奨学金を得てバイキングの美術、民芸を研究し、63年に表語文字(ロゴグラム)を始めるとあって、ロゴグラムは日本の墨象の影響があるのではないか。ドートルモンは79年に57歳で死んだこともあって、また『絵画の嵐』展の出品作も小品と呼ぶにふさわしいため、日本ではアレシンスキーほどに有名ではない。『自在』の後半でドートルモンとティンについて図版入りで紹介するのは、アレシンスキーにとっての道標を示してくれた存在であるからだろう。そして次に仙厓についての記述があるが、アレシンスキーがいつ頃仙厓の作品に出会ったのかはわからない。仙厓の絵は必ず自賛を伴なうが、アレシンスキーは仙厓の絵はひとまずおいて賛の筆跡に着目したのか、『日本の書』と題する映画を撮った。それが『日本の墨絵』とならなかったのは、油彩画「夜」を画面のどこからどのように描いたかに関係することであるからだろう。絵の場合、どの部分から描き始め、どこで描き終えたかは正確にはわからない。縦書きの毛筆の書は必ず右上から下、そして左へと書き進める。その定まった書き方向はヨーロッパの文字にもあるが、油彩画「夜」はおそらく左上隅から右へと書かれ始めたのに対し、版画にもあるとされる同じ題名の「夜」では、摺り上がった画面の右上隅から左へと画面を見るべきだろう。だが、両手を同じように扱えるアレシンスキーでは、文字のような絵画作品は、描かれたであろう方向性はあまり重要でないのかもしれない。さて、『日本の書』を撮ったアレシンスキーはその後「夜」のような文字的作品を深化させずに、見た「物」を記号的に描く方向に進む。それは最初期の銅版画の職業シリーズにあったことだが、緻密に銅板上で作業するより、ほとんど落書きのような速筆で紙やキャンバスに直接描く。そこに日本の書からの学びが見られないかと言えばそうではない。日本の書道家やティンの作画と同様、体全体を使って画面に挑むことを学び、そのことはその後の活動においても変わらない。版画は相変わらず積極的に制作するが、職業シリーズとは違って記号性はより強まり、時に何を記号化したのかわからない。そこに文章もよくするアレシンスキーが自作の解説をしてくれるとよいのだが、彼は『自在の輪』の序で言葉で説明出来ないことを絵にすると描いている。
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