箔を貼るべきであったかどうか悩み続けている自作がある。裏庭で咲いた白牡丹の花を染めた友禅額絵だ。夕暮れ時を意図したためもあって背景を青にし、画面右上に満月を白く染め抜いた。割合気に入っている構図で、考えるにアンリ・ルソーの「眠るジプシー女」の影響を受けている。同作も画面右上に満月を描き、また空は青色であるからだが、満月や青空は普遍的なもので、古今東西、誰でも知る。そこにある記号性、特に満月の輪郭の正円は太陽のそれと同じく、人間に物事を単純に考えさせる効力があると思える。幼ない子どもの絵では人間は丸や三角、四角、それに両手両足を表わす線によって表現されることが普通だ。そのことはまだ事物を正しく描く能力がないことを意味する一方、満月や太陽の単純な形からの影響と捉えることも可能だ。つまり人間は幼児の頃に事物を記号的に捉える能力をまず身につける。そう考えると、子どもが漫画を好むことの理由がわかる。日本の漫画の登場人物の顔の表情はどれも漫画家独自の喜怒哀楽のパターン化であり、記号性の集積によって登場人物の個性を作ると同時に物語も構成する。この喜怒哀楽の表情、つまり描き方のパターンは先行する漫画家を規範としたヴァリエーションであるから、漫画の読者はそのヴァリエーションの新しさを楽しむが、その新しさは人間の表現に限れば無限にあるとは言い難く、写実により傾くか、逆に簡略することでより記号性をわかりやすくするかのどちらかを採るしかない。かくて漫画の記号性は読者に対して強烈なメッセージ性を持つ一方、精神的奥行きの乏しいものとなりやすい。それゆえ子どもに歓迎されやすいのだが、精神的奥行きに関しては作者の問題であって、月並みでない漫画家であればそれに応じた表現となる。話を戻して、ルソーの「眠るジプシー女」は油彩画で、画面すべてが油絵具で描かれ、画面右上の満月はそこだけが穴が開いたような違和感がない。ルソーは満月を白い絵具を中心として他の部分と同じく絵具を「盛って」いるからだ。言い換えればマチエールが均質だ。ところが前述の筆者の額絵は友禅染の技法で絹地に染めたもので、満月の部分を白地のままとして牡丹と同じ胡粉を塗らなかった。そのため、そこだけが穴が開いたような未完成かつ空虚な感じがあって、たぶんその思いは鑑賞者に伝わる。そこで満月の部分に銀箔を貼ろうかと一時は考えたが、そうなると画面の中で最も目立つのがその満月となって具合が悪い。「眠るジプシー女」も満月が画題の中心ではない。それは舞台装置にひとつで、中心画題は眠る女とその様子を間近でうかがうライオンだ。筆者の白牡丹と満月を染めた額絵はLPジャケットより小さな画面で、牡丹を中心画題にしながら、左右の上部に出来た余白に何かほしいと思って満月を思い浮かんだのだが、もっと大画面であれば満月のあしらい方も変わった。
幼ない子どもは人間を〇や△、□の組み合わせで描くことを不思議がらないのに、大人の絵を見る機会が増えるとそうした表現を恥じ、写実的に描こうとする。ところが正円の満月はそれ以上に複雑な形に描くことは出来ない。レアリスム絵画は解剖学や遠近法を学ぶべきと師匠や学校が教えるが、満月を描くのに解剖学も遠近法もない。それで飾り的要素のように扱われ、日本画では銀箔を貼られることもある。それはともかく、満月や太陽が普遍的に存在することで、絵画では抽象の道が最初から用意されていた。写実絵画は概して満月や太陽をあまり描かないが、それは人物を解剖学的に正確に描く労力に比し、子どもでも描ける正円の満月や太陽は、画家の才能を誇示するにはなるべく無視したいものであるからではないか。したがって画家が太陽や満月を描く場合、単なる円形ではなく、そこに別の何かを詰め込む。その装飾的行為は正円として存在している天体を崇める思いと、表現者としてその単純さに耐えられない思いが同居している。さて、このブログの毎月の満月すなわちムーンゴッタの写真の投稿や、「〇か〇か」のシリーズ投稿は、今回投稿するアレシンスキーの『自在の輪』の影響がある。昨日書いたように筆者は画家アレシンスキーと本書の存在を20代半ばで知った。アレシンスキーの絵の実物を初めて見たのは85年開催の『絵画の嵐・1950年代 アンフォルメル・具体美術・コブラ』に出品された大原美術館蔵の「夜」と題する油彩画だが、当時同作はほとんど印象に残らなかった。漢字とアルファベットを崩したような文字的記号を黒地に白で描いて埋め尽くした作で、ほとんど中国古代の漢字を記した石板の拓本に見える。このことはアレシンスキーの作品を理解する重要事だが、本書ではそうした作品をアレシンスキーは全く取り上げない。アレシンスキーは本書で最新作の図版を紹介する一方、最新の思想を展開している。詳しく言えば69年3月から70年11月までの42,3歳の日記をもとにした内容で、画風も思想も完成の域にあったと見てよい。本書は多くの断面を提示していて、読みやすいながらも理解しやすいとは言い難い。アレシンスキーの絵画の魅力がわかりやすいとは言えないからだ。それがどういう理由によるのかが筆者は気になり続けている。その気がかりを少しでも減らす意味で、本書そしてアレシンスキーの絵画の読み解きの必要性を思うが、長文を費やす割には相変わらず謎めきがなくならない気がしている。同じ人間が作るからには、どのような作品でも対峙すれば本質がわかるかと言えば、そう思いたいところだが、断言する自信はない。無限に芸術作品があるからには個人が生涯に出会える作品や作者の数はたかが知れている。それが数十万であっても無限に比べると微々たるもので、気に入る作品との出会いは奇跡に近い幸運な縁で、それは円にたとえられる。
無限に存在する芸術作品をすべて知る必要があるかとなれば、時間的限界のある人生で出会いの縁のないものは無視するしかない。一方、ほとんどの人は立派と評される芸術作品に無関心のままで生涯を終えるが、そうした人々が芸術愛好家に比べて損したとは言い切れない。芸術はなくてはならないものとは言えず、そのことは芸術愛好家においても言い得る。レアリスム絵画の好きな人は抽象画を下位に置くか無視するだろうし、ましてや日本でほとんど知られないアレシンスキーとなると、その名前から画風を想起出来る美術愛好家は少数派であろう。ではなぜ本書が『叢書 創造の小径』の1冊となり、日本語版が出版されたのか。そういう疑問や関心を持つ人は本書を手にするが、一歩進んで書かれたことの理解となるとまた話は別だ。20代半ばの筆者は未知の美術作品を知ることに貪欲的で、本書が『創造の小径』に含まれることにヨーロッパ絵画におけるアレシンスキーの高評価ぶりを知り、『自在の輪』という題名にも魅せられた。それは後述するように禅僧の円相画や仙厓の作品の紹介もあるからで、日本の読者には近づきやすい事柄が書かれていることにもよる。ただし、知ることと愛することは別だ。筆者はこれまで多くの展覧会で多くの作家と作品を知って来たが、現在も変わらず関心が強いものとなれば数は少ない。それは音楽でも文学でも同様で、知ったからにはそれなりのよさを認めたいと思いはしても、どうにも魅力の本質がわからない場合もある。そのことは未知の作者や作品があっても何ら生活に困らない事実を示しているが、そうであるから積極的に未知の作品に出合う必要はないということではない。ただしロジェ・カイヨワのように、高齢になれば人が創った絵画にもはや関心を抱かなくなることはあり得る。筆者は相変わらず無限に広がっている未知の芸術作品の存在に気づきつつ、かつてかすかにあった縁をたぐって関心を抱くことで知的な若さを保つことを半ば無意識で行なっている。そのことを自覚すると、何らかの出会いという限定的出来事が関心の契機になっていることを知り、自己の思考範囲の小ささをつくづく思う。筆者にとってその最初の美術の限定的かつ決定的出来事は小中学校時の美術の教科書ないし副読本で、今日の2枚目の写真のように、美術の副教科書のほとんど巻末に掲げられた、たとえばキリコの「街の神秘と憂愁」はその題名も含めて12,3歳の筆者に絵画の興味深さを決定的に教えた。筆者は今でもその当時80円の売価の薄い冊子を保管しているが、改めて掲載図版を見ると西洋の美術史がとてもうまく紹介されていて、各図版からそれこそ無数の同時代の作品がつながっていることを知る。そしてキリコや未来派のバッラ、そしてモンドリアンやルオーの作品は紹介されるのに、当然と言えばそうだが、アレシンスキーの名前はない。
昨日書いたように、筆者は中学校を卒業しておよそ10年後に『創造の小径』の内容見本を書店で見つけ、そこにアレシンスキーの名前を認めた。その縁を深めるかどうかは人によりけりで、美術の先生であっても現代美術に関心のない人は無視する。筆者は当時美術とは無関係の仕事をしていたが、休日は京都に出て美術鑑賞をひとつの趣味にしていたので、『創造の小径』にたちまち魅せられた。それが現在まで続きながら、読み終えたのは全巻の半分ほどであるのは、知的関心が音楽その他に広がって来たからだが、現在さらに思うことは、全巻を熟読しても創造行為の秘密がすべて判明するのでは全くないことだ。創造は自己から生まれ、他者の創造は反面教師的なことも含めて参考に留まるしかない。ただし、自己の確立と表現に鏡のような存在となる他者の芸術は必要だ。鏡が眩し過ぎる場合は自己を見失い、また鏡の数が多いほどに迷路に深く入り込むが、鏡的存在は自己確認に役立ち、自意識が強化される。もちろんその鏡の、つまり他者の作品の数は多いほどによいとは言えるものの、運命的と思える出会いは限定的で、年齢を重ねるほどに決定的出会いは減少する。筆者が20代半ばで本書の存在を知ったことは時間的にはほとんど最後に近い縁のひとつであったと言ってよく、40数年後にようやく本書を吟味する機会が訪れた。それは縁として明確に認識しての行為だが、月日を開けて本書を二度読んでなおアレシンスキーの魅力がわかったとは言えない。そうであればこうして本書について書く意味が乏しいと言うべきだが、そうは断定出来ないところを多々感じていて、そのことを長文で吟味することが今回の目的だ。本書はアレシンスキーの文章と彼が興味を抱いた作品や自作の図版が満載で、双方を個々に、また絡めて楽しめるが、文章は図版の読み解きとして機能しているとは限らず、図版は説明なしでしばしば配される。そしてそうした図版からは当然文章とは別の多くの意味が浮上する。これはアレシンスキーの意図を超えた読み取りがなされ得ることを意味しているが、そもそもアレシンスキーが意図を正しく他者に伝えたいと願ったのかどうかはわからない。これはレアリスム絵画でも言え、作品は作者の手を離れて他者にいわば作者の意図以外のことも含めて勝手に解釈される。アレシンスキーの作品はその傾向が強い。その意味できわめて難解と言ってよいが、そのことが本書の随所にも立ち現れている。難解ということは自由に解釈してよいとの意味でもあり、作品に接した際の直観を重視すべきだ。ところがアレシンスキーの作品は同じく漫画的であるとしても、前述した美術の副教科書におけるキリコの「街の神秘と憂愁」の左隣りに掲げられる、バッラが描くダックスフントの駆ける速さを示すために脚をいくつも重ね描きする表現のようにはわかりやすくはなく、微笑ましくもない。
10月2日にザッパのLP『アブソルートリー・フリー』について本ブログに投稿した際、本書(出口裕之訳)の序について触れた。その序でアレシンスキーは、「あなたの絵をちょっと説明してくれませんか」と言われることに対し、「口で伝えられるくらいなら、絵に描いたりはいたしません」と答え、続けてこう書く。『私は画家だが、また物書きでもあり、…絵筆の世界では、私はほぼ自在に振舞える…。文筆となるとそうはいかない。たちまち難問続出のていとなるのだ。観念や着想の変転につれ、ページの進行につれて、私は文章を手直ししたり削ったりするが、活字の公園の、道という道をきれいに搔きならした美景には、私のそうした放浪はさっぱり跡をとどめない。』この下りは本書読了後はなおのこと印象深く、アレシンスキーの作画の本質の即興性がわかる。つまり一発勝負であって、描き直しをしないが、文章では何度も推敲を重ね、本書は推敲の跡が見えずに舗装された道となっているとたとえる。またそのことをあまりよしとは思っておらず、本書の行間を読み取り、何度も脱線して派生する事柄について考えることを強いる。序の最後は『この書物の主題はあくまでも車輪であり、車輪の輻(スポーク)に秘められたさまざまな世界解釈だ。ところで、≪硝子細工(ヴェルリー)』通りでは、≪硝子(ヴェール)≫が車輪に引っくり返され、たちまち≪夢(レーヴ)≫に転じたという。』とあって、語呂合わせで締めくくられ、「夢」の言葉を持ち出すところにシュルレアリスムへの関心が滲み出ている。実際序の後に、アンドレ・ブルトンが死んで2年半ほど経っていた69年2月下旬、妻エリザが管理していたブルトンの書斎を訪れ、ブルトンが収集したアフリカなどの民芸品を片っ端から写生することが語られる。そしてその写生の対象となった実物写真とスケッチ図版を並置する。つまり本書は初期作やコブラ時代の作品を除外し、壮年の完成した画風によってブルトンを賛える。先の語呂合わせもブルトンに倣ったシュルレアリスム風の詩と言ってよく、スキラ社はアレシンスキーへの執筆依頼の数年前にブルトンを指名する予定があったかと想像させる。そしてブルトンは書く気力がもうなかったのでアレシンスキーが代わって引き受けたのかもしれない。そう考えると序に続いて70年の没後2年半経った頃のブルトンの書斎訪問時に撮影された今日の3枚目の右ページのカラー写真が掲載されていることに納得が行く。また少し後のページでは今日の4枚目の図版のように、見開きページで同じ書斎の55年撮影の写真を掲げ、アレシンスキーは読者に比較させたかったのだろう。アレシンスキーは最後のシュルレアリスムの画家であったとみなし得るが、実際はそう単純に収まらない。それはどんどん変転して行く本書を読めばわかるが、その脈絡ぶりを「自在の輪」にたとえているのだろう。
筆者は前述の序の最後の語呂合わせの行を読んで原文を確認することにした。今日の最初の写真は右がスキラ版の初版で、左は新潮社版でこれはカヴァーつきの箱入りでハードカヴァーになっている。表紙中央の人の顔らしき円形内の栗鼠が描かれるオブジェは市販のクッキーで、12個のピスタチオが時計のように周囲に埋め込まれている。車輪に魅せられていたアレシンスキーはそうしたクッキーも含めて円形のオブジェ写真を収集し、本書はそれらの図版をまとめて「車輪類従」として紹介する。本書の原題「ROUE LIBRE」は自転車の後輪を指し、当初は「遊動輪」と訳され、出版時によりわかりやすい「自在の輪」となった。アレシンスキーは狭い意味での車輪にこだわらず、禅僧の円相図のように単純な円形も車輪に含めた。そのことは前述したキリコの「街の神秘と憂愁」に印象深く描かれる輪回しをする少女からも妥当で、「車輪類従」にも輪回し少女の図版がある。となるとアレシンスキーはレコード盤や映画フィルムのリールも車輪に含めたはずだが、本書にはそれらの図版はない。しかしアレシンスキーは音楽好きで、フルートを吹き、その演奏写真は本書の見開きページに登場する。また映像への強い関心は20代半ばの55年に来日して日本の書のドキュメンタリー短編映画を撮ったことから明らかだ。話を戻す。本書の序は原書では表紙裏の幅の狭い折り返しに小さな活字で印刷される。装丁が異なる新潮社版では、その文章は本文に組み込まれて冒頭に置かれた。先の語呂合わせの原文「Rue de la Verrerie,une roue renverse un verre:le voilà Rêve.」は、新潮社版から予想したとおり、RとVを中心とした言葉遊びだ。日本語に訳すとリズム感が失せるが、「『硝子細工通り』の言葉では車輪が硝子をひっくり返して夢が出る」といった意味で、序に続く本文ではパリに実在する「硝子細工通り」の古地図やそこを訪れた時に撮られた写真が載る。そして「硝子細工通り」の言葉はアポリネールの詩に登場することが紹介され、話は夢のように込み入りながらつながって行く。またラジオからビートルズの曲が流れて来るといった描写からは時代を映す生々しさが加味され、ブルトン亡き後のシュルレアリスムの余波の味わいが濃厚で、ブルトンが愛した偶然の一致の出来事が散りばめられる。つまり「『硝子細工通り』では車輪が硝子をひっくり返せば夢が出る」を地で行く経験をアレシンスキーがエリザとの交友で得たことを写真と文章で綴るのだが、原文は日本語に移し代えられない独特の韻文らしさがあるだろう。それは文章が車輪のようにリズミカルに転がって行くには必要な技巧で、エリザ相手の洒落言葉も含めて、アレシンスキーは本書の冒頭でブルトンに最大限の敬愛を示す。
ブルトンはエリザと出会う43年の8年前にジャクリーヌ・ランバと結婚し、翌年に娘オーヴが生まれた。WIKIPEDIAには2003年にオーヴがブルトンの書斎の絵画やオブジェを競売にかけたことが書かれる。当時彼女は67歳で、エリザは2000年に亡くなっていたので、唯一の遺産相続人であったのだろう。それはともかく、先に書いたように70年に撮影された今日の3枚目の写真右と、55年撮影である4枚目の写真の中央部を比較すると、並べられるオブジェにいくつかの違いがある。ブルトン没後にエリザやオーヴがそれらを動かした可能性があるが、晩年のブルトンがそうしたかもしれない。ともかくこの書斎の眺めは現存せず、再現され得ないので、オブジェ群の壮麗な眺めは本書のひとつの魅力になっている。また4枚目の見開きページの次のページに、アフリカのいくつかの彫刻を前にしたおそらく最晩年のブルトンの正面写真が載る。そのことにもブルトンへの崇拝ぶりが伝わるが、そこには並外れた活力を持つ男への共感も感じられる。ブルトンの若い頃の写真は闘争好きの性格が滲み出ている。方向は違えども、アレシンスキーの作品も男が持ち得る格闘の本能と言ってよい活力がみなぎっている。そのことは本書の後半からはよくわかる。本書でアレシンスキーは20歳そこそこの年齢でブルトンを見かけ、近づき難かったことを書くが、シュルレアリスムに参加する以前はコブラを結成してその一員であり、そのことの作品への影響は決定的なものであった。本書の一見まとまりのなさのようなことからアレシンスキーの本性が見えにくくなっているが、シュルレアリスムの強い影響を受けつつ作品はコブラ的と断じると、アレシンスキーの作品の読み取りはたやすくなりそうで、アクション・ペインティング風の即興性すなわち本書の後半でコブラ風の激しい制作風景の写真を紹介することからもそれは言える。昨日の投稿の3枚目の写真左下がアレシンスキーの制作現場だ。本書ではそれが見開きのカラー印刷で載る。床も壁も赤を中心とした絵具の飛沫まみれで、床に置いた紙に向かってアレシンスキーが拷問あるいは派手に射精している趣がある。立てたキャンバスに向かって筆で絵具を少しずつ置いて行く制作をアレシンスキーは拒み、床に置いた紙に日本の筆を用いて描き直しが利かない手法を採った。その即興性に片足を置き、もう片方の足を夢の不可思議性に置きながら、独自の言語的記号性で表現された作品は、異国というより異星人の絵画のような謎めきがある。しかも火山のような圧倒的なパワーが横溢し、緻密で写実的なたとえばダリやマグリットのような絵画とは対極に位置する。このように結論づけるとアレシンスキーの作品を理解したような気になるが、個々の作品は固有の読み取りを強い、相変わらず謎として立ちはだかる。
本書は読み解きのための鍵を随所で提供しているが、読者がそう思うだけでアレシンスキーは断言していない。またこれが鍵だと断言しているとしても、読者の自由解釈は許されるから、その鍵は自在と言ってよい。さて、エリザ相手にアレシンスキーは次のように言う。『エリザはこうしたことを残らず私に語り、私は私で月並み洒落をいった。「君のその中庭の話ってのは奇蹟めいているね……まるで奇蹟の庭じゃないか」』この部分は原書では「Elisa ma racontait tout cela,je formulai une banalitè:≪Miraculeuse ton his toire de cour…la Cour des Miracles!≫」となっていて、これを筆者が訳すと、『エリザがすっかり言い終えた後、私は平凡に言いまとめた。「その歴史的な中庭の奇蹟的だ…奇蹟の庭だ!」』となるが、「奇蹟の庭」は訳注があって、「ヨーロッパの大都市にあった、浮浪者、犯罪者の溜まり場」と書かれる。エリザが語ったのは「硝子細工通り」の言葉が出て来るアポリネールの詩にフルート吹きが登場し、しかもあちこちの横丁から出てきた女たちがそのフルート吹きの男の後について行ったことだ。これは多くの子どもたちが笛吹き男について行って姿をくらました『ハーメルンの笛吹き男』を元にしているはずで、笛吹き男に多くの子どもがついて行く写真図版も後に出て来るが、横丁から出て来た女たちは貧しく、彼女らが行方不明になったところでほとんど誰も悲しまないことが匂わされている。アレシンスキーはフルート吹きについて行った女たちを想像させる意味から、狭い横丁に立つ正面向きの3人の若い女を撮影した古絵はがきの写真を載せる。彼女たちは「奇蹟の庭」の住民と思ってよい。右端の女はアコーディン弾きで、フルート吹きの男の後をついて行っても不思議ではない。原書ではこの絵はがきの写真の次のページをめくるとその最上段にエリザの作品図版がある。いかにもシュルレアリスムで、甲烏賊の骨をナイフで削って作った人の目玉か女陰を思わせるが、映画『アンダルシアの犬』で目玉をナイフで切れ目を入れる場面を連想する人は多いだろう。アレシンスキーがこの作品の写真を採用したのは、横長の作品の中央に彫られる目玉が車輪にたとえられるからだ。そのことは少し後に図版つきで詳しく紹介されるジャコメティの彫刻やその元になった素描に関連させる意味もあってのことだ。ジャコメッティは女の目玉の片方をスポークのある車輪のように表現し、また針金のように細い女の立像がふたつの固定された大きな車輪の上にある彫刻を作った。そうしたジャコメッティの作品における車輪の紹介は、エリザとの会話以降に展開され、読者は深く意識しないままにアレシンスキーが転がす車輪によって次々に変容して行く車輪に注目することになる。
エリザの作品は先の1点しか紹介されないが、ブルトンが愛した女性は芸術の霊感を持っていることが条件であったことがわかる。それは当然とは言えない。芸術家は時に全く芸術に無理解な女性と一緒になる。ブルトンはそうではなかった。アレシンスキーがブルトンの書斎を訪れ、アポリネールの詩などを挟みながら対話した時、打てば響くエリザの感性に感心したはずだ。そういう打ち解けがなければエリザはアレシンスキーを書斎に招き入れ、部屋の写真を撮らせなかったであろう。エリザがアポリネールの詩に「硝子細工通り」の言葉が登場することを思い出した時の描写に、アレシンスキーはさりげなく、その詩がカリグラムにあったことを書く。ここは重要で、アレシンスキーの本書以前のいわば初期作がカリグラムを意識したものであったことを想起する必要がある。またエリザがアポリネールの詩を持ち出すのは、ブルトンがシュルレアリスムの概念を作ったアポリネールに多くを負い、「硝子細工通り」の詩に出て来る中庭についても直接話を聞いていたからだ。ブルトンやその周辺のことに詳しい人は本書を読んで脳裏に去来することはもっと多いはずで、したがって本書は一度読むだけではたいていの人には半分も楽しめない。話を戻して、80年9月5日、29歳になったばかりの筆者は大阪でアポリネール生誕100年記念の『アポリネールとその仲間達展』を見て、図録も買った。今日の5,6枚目の写真はその図録から選んだ。5枚目左はアポリネールの書斎で、本以外にオブジェがたくさん見え、ブルトンの書斎はそれをもっと拡張したものであったことを想像させる。アポリネールは38歳で死ぬが、この写真における書斎の本の居並びは、波乱の人生からして多い部類に入ると筆者には思える。写真右は「窓」と題する1919年の没年の水彩画で、以前に親しく交流したマリー・ローランサンの画風を彷彿とさせる。6枚目の上下がアポリネールの有名なカリグラムだ。アポリネールのカリグラムは、自作の詩の文字を人物やエッフェル塔、花束などを象って並べたものだ。アレシンスキーは文章を書き、語呂合わせの洒落を発しはするが、アポリネールのような詩人ではない。それで前述した『絵画の嵐・1950年代』に出品された「夜」のような、カリグラム風ではあるが、画面全体に文字のような記号を密集させた絵を描いた。「描く」と言うより「書く」と言うのがふさわしく、そこにはアポリネールのカリグラムの影響が覗く。しかしアレシンスキーは文学的な意味を排除する絵画を目指し、文学的なことは本書のように文章に委ねる。そういう態度を採りながら意表文字やそれを濃厚に思わせる記号を絵画に持ち込み、やがてそうした文字的記号性を孕みながら、より具象に接近した独自の絵画的記号を生み出す。いきなりまた結論めいたことを書いたが、本書から思うことはまだまだ多い。
本書巻末の訳者による解説は懇切丁寧をきわめ、理解に大いに役立つ。それは熟読すれば誰しも思い至ることでもあって、解説には書かれないことがあれこれ思い浮かんで来る。本投稿はその解説の足りない部分を埋めることが主な目的だが、それは筆者なりにアレシンスキーの作品を読み解いて理解したいからだ。アレシンスキーの作品を知らずとも人生は全く影響なしだが、最初の小さな縁が長年の気がかりとなり、ついにそれに取り組むことは自己を知る手立てになる。ところで、筆者はブログの文章をほとんど即興で書き、読み直さずに投稿することが多い。読み直すにしても一度で、その意味でアレシンスキーが本書をたとえる舗装された道とは言い難く、あちこち凸凹が目立つ。本書について思うことは多く、それらをどの順序で書けばいいのか整理がつきにくいこともあって、今回は段落ごとに書きたいことをまず1行でまとめ、それが20行ほどになった。これは2日に分けて投稿する文章量だが、書き始めたところ、最初の3段落までは予定どおりに思いを吐き出したのに、それ以降本段落まではほとんど予定していなかった内容になった。つまり、せっかく書くべき内容を頭の中で用意しても結局即興性が勝ち、予想どおりの文章にならない。それがよくないかと言えば話は逆だ。勢いに乗って予想しなかったことがいわば自動的に綴られることは快感だ。それはシュルレアリスムの芸術行為の大きな特徴でもある。本書の序の最後でアレシンスキーが言う「夢」はそういうことではないか。即興的に描くからには文章もそうなるはずで、書き始めた頃は予定していたことでページが埋まるが、本書半ば以降は予想外のことが思い浮かび、それを書かずにはいられなかったと想像する。本書最後にアレシンスキーが他の10人の画家に依頼した10ページ分の「車輪についての自由回答」である絵がピンク色の紙に印刷される。その後に「補遺と異文」と題する文章が25ページほどあって、本としてはまとまりのなさを露呈している。「補遺と異文」は一旦脱稿した後に思い浮かんだか、あるいは最初からどこかに埋め込むつもりであったのかはわからないが、題名からして前者と後者が混じっていると考えてよく、結果的にきれいに舗装された道のように本書を上梓しなかったところにアレシンスキーの思惑が達せられていると見るべきだ。本書のどこかまとまりのなさと言えばいいか、多面的、多様性と好意的に言うべきか、いずれにせよアレシンスキーの絵のあり方は本書が形容していると見てよい。それを本書の訳者は本書を「コラージュ風エッセイ」と評するが、「補遺と異文」はそう言ってよいとしても、元来どの書物もコラージュの側面は持つから、本書についてはあまり妥当な形容とは思えない。アレシンスキーの絵には単にコラージュと言い切れない個性があるからだ。続きは明日、同じ10段落で書く。
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