巫女は「神を祀り神に仕え、神意を世俗の人々に伝えることを役割とする人々を指す」とWIKIPEDIAにあり、「巫」の象形文字は両手で神降ろしの儀式をする際の道具を表わすとされる。フォートリエが「神の仕業」を思って制作したとすれば、フォートリエの筆と絵具が「巫」に相当し、また粘土や紙も含まれる。本展図録に、厚塗り画面のマチエール作りは「水彩絵具とフレスコ、またデトランプとグワッシュから成るもので、細かく砕かれたパステルは油絵具と混ざり合い、インクは油と混ざり合う。それらは分厚い紙に素早く塗られ、カンヴァスの上で地塗り塗料がこの紙に貼り付いている。そこにおいては曖昧さはいわば主題を放棄する。曖昧さが絵画を作り出す」と書かれる。最後の箇所は少々わかりにくいが、曖昧さというのは紙にフォートリエが絵具を厚塗りしてこれでよいと思った時点の画面がアンフォルメルの状態であることを指す。その地塗りが前述したピザやお好み焼きの土台のようなもので、料理としては半分しか終わっていない。その下地にピザやお好み焼きのトッピングのようにフォートリエは筆でわずかな素描をし、あるいはペインティング・ナイフで線を刻み込む。フォートリエの戦後の油彩画を料理にたとえるのは筆者が初めてではないだろうが、料理、調理の言葉は人に対しての刃物を使う拷問や殺戮にも使い得る。第一次世界大戦に従軍し、第二次大戦に遭遇したフォートリエはディックスと同じく、戦争で画風が決定された画家と言ってよいが、兵士の惨たらしい死体を写実的かつ風刺の笑いも時の込めて描いたディックスと違って、絵画が与え得る美の体験は戦争の惨禍が過ぎ去った後でも存続すると思っていたのだろう。これはディックスの絵画が平和時に鑑賞する意味がないということではない。兵士の腐敗した死体や骸骨はいつの時代の誰が見てもそれとわかるが、フォートリエはそうした主題を描きとめるのではなく、題名がなければ何を描いたのかわからない曖昧さの方向に舵を切った。となれば題名は重要な意味を持つ。題名によって鑑賞者は非定形の絵具の厚塗りに題名が示すものを見ようとするからだ。これは画家の無責任であろうか。フォートリエの「人質」と題される絵画は、ドイツ兵の人質となったフランス国民を描いたもので、フランス人はそこに描かれる人の顔に悲しさや絶望を読み取って歯ぎしりするだろうが、それでは戦後の平和な時代になってもドイツに対する敵愾心が残る。そうであってもかまわないとフォートリエは考えたかもしれないが、平和な時代に「人質」を見ると、戦争の残酷さもだが、自分がその立場あるいは加害者になるかもしれない、つまり「神の仕業」としての運命の不思議も思う。つまり「人質」の題名があったところで、鑑賞者は画面を見つめ、そこにあるさまざまな情報を読み取って想像を広げる。
情報は厚塗りの画面であればより濃密になる。フォートリエは画面のマチエールをそう捉えたはずで、『地獄篇』のリトグラフも色数はごく限られるが、濃色をさらに重ねることで色に奥行をもたらしている。それゆえ絵具の盛り上げがなくても独特の画面の肌触りのようなものが視覚に訴える。「人質」に戻ると、白っぽい絵具を厚塗りして人の顔の地らしきものを構築し、そこに筆で目鼻などを描き加えることは、完成行為である一方、その目鼻などの線描は拷問の痕を示す場合があって、作り上げた顔の地を傷つけることで絵画を完成させている。これは単純化して言えば生と死の同居だ。「人質」に描かれる無力な人の顔は死に瀕している一方で生を希求している。それは類例のない厚塗り画面であるゆえに迫真性を持つ。フォートリエがキャンバスではなく、厚紙に描き、それをキャンバスに貼ったことは、厚塗り画面が感じさせる剥離感の危うさと同時に作品全体としての脆弱性も抱え込んだが、その表面的な強固さとは裏腹のはかなさと言ってよい味わいは「人質」ではなおさら効果的だ。そこにフォートリエがキャンバスに直に描かず、厚紙に描いた理由があると思うが、資力が乏しく、厚紙で実験的に大量に描く必要があったためでもある気がする。さて、本展では第2章「厚塗りから「人質」へ(1938-1945年)」のうち、油彩画の「人質」シリーズの展示は厚い黒のカーテンをくぐって入る特別仕立ての部屋が作られていた。フォートリエの代表作ゆえにそうした扱いをしたというより、フォートリエが目の当たりにした虐殺された人質を画題にしたことが理由になっている。「ヨーロッパで開戦が布告されると、フォートリエの顧客たちは山を下り、そして画家はといえばマルセイユ、エクス、ボルドーへと移動する。…やがて生活費も尽き、結局パリに戻ってきたフォートリエは、そこで初めて1940年の6月にはパリがドイツ軍に占領されていたことを知る。しばらくホテルに、次いでシルク街のジャンヌ・カステル宅に滞在していたが、新しい技法に取り組み始めたいという欲求に突き動かされるようにして、ラスバイユ街にアトリエを構えることになる。…1942年以降、彼の作品は絵画的にしだいに充溢したものになる。…マチエールは異常なほどに密度を増していく。1943年はフォートリエにとって転換点となった年であった。ルネ・ドュルーアン画廊では新たな技法による作品を、かつての絵画とともに展示したが、この最初の回顧展はしかしなかなか理解されず、批評家たちはフォートリエの作品のこの急激な変化を嘆き、またそれを把握できなかった。いっぽう、この年の1月からドイツ軍が彼のアトリエの戸を叩くようになっていた。交友関係や外出の目的、その相手について答えるように強要されたフォートリエは、ついにゲシュタポに捕らえられ、4日間拘留される。」
以上の引用は本展図録に載るエティエンヌ・ダヴィッドの文章で、訳者はわからない。引用を続ける。「精神的に傷を負った彼は解放された後、アルプスのコル・デュ・プラリオンに引きこもった。2カ月後、フォートリエはパリのラスバイユ大通りに戻るのだが、またしてもドイツ軍が捜査にかかると、今度は逃亡し、ジャン・ポーランの助けを借りて、パリ郊外のシャトネ=マラブリーの精神科の診療所に身を落ち着けることになった。反ナチスのル・サブルー医師が運営するこの診療所の上階の小部屋で、フォートリエは再び芸術家としての仕事に取り組み始める。小さな離れ―ヴェレダ塔―を借りてもらい、画家はそこで制作を展開し、後に「人質」と呼ばれる新たな連作に取り組む…」今日の最初の図版左は43年の「無題」で、紙に油彩したものを板に貼りつけている。左官屋が壁に白い土を盛ったような画面で、59年の「黒の青」や「雨」と構図は同じながら、ペインティング・ナイフによる斜線の切り込みはない。前記の引用文からはこの「無題」はゲシュタポに捕らえられる直前の作と見てよい。最初の図版右は43から45年の「銃殺された男」で、「無題」と同じ材料、技法により、画面中央の肉色の形態は崩れた人体を連想させる。この軟体動物のような形が縦方向になり、そして時に目鼻のようなものが仕上げのタッチで暗示されるか、あるいは明らかに目鼻とわかる作が「人質」の連作となる。となればゲシュタポによる銃殺などの殺戮行為に触れなくてもフォートリエは少しずつ絵画を完成させて行ったと言ってよいが、「人質」の連作は命がいつ消えるかという瀬戸際に自らを置きながらこれ以上はない残虐さを目の当たりにして描いた歴史画でもある。同じ作例は当時のフランスではなかったであろう。ゲシュタポはフォートリエが画家であることを知ったかどうか。彼らは当時のフォートリエの作品を見たとして意味不明の奇妙な絵を描く狂人とは思っても、理解出来たはずはない。「人質」という題名を知っても、その絵がゲシュタポを非難する直接的な画題とは思えず、そう考えるとフォートリエはナチスを嫌悪し、反戦の思いを込めたとは言い難いのではないか。つまりさほどパルチザンらしくなく、画家であればもっと直截的にナチスを嘲笑した絵を描くべきと思われかねない。ディックスはドイツ人でありながらヒトラーを風刺し、戯画化したが、ここでもフォートリエはそうしたあからさまな意味を作品に込めない。厚塗りの「人質」シリーズは人質の無力さや哀れさを伝えはするが、それは戦争があればいつでもどこでも現われることであって、普遍的なものだ。そういう人間の避け得ない運命を凝視し、愛おしさも込めてフォートリエは描いた。その愛おしさは厚塗りのマチエール画面から伝わり、愛おしさは美しさと接している。そしてもちろん醜さや残虐性を裏腹になっている。

今日の最初の図版は42年と43年の彫刻で、前者は「悲劇的な頭部(大)」で高さ35センチ、後者は「人質の頭部」と題し、高さ43センチだ。前者は題名からも、また当時のシリーズ絵画の題名「人質」からも何を表現したかは明らかで、顔の半分が縦方向に削り取られている。この作は粘土での造形後、櫛状の用具で筋目を入れて粘土を掻き落としたものだ。一旦作り上げた「地」としての頭部に傷を負わせて完成させたところに見どころがあり、「黒の青」や「雨」と同じ考えに基づく。その表現行為は拷問を受けた人質の姿を暗示し、美を表現する意識からは遠いと思われるかもしれない。ディックスは第一次世界大戦に従軍して同僚兵士の死体や恐怖から発狂した人、傷病兵などを目の当たりにし、それをありのままに描いた銅版画シリーズ『戦争』を制作した。フォートリエのこの彫刻は虐待される無力で無名の人々を想像させることに主眼がある。その無力と無名は屠られる家畜と同じで、戦争と平和に関係なく存在しているが、人が犠牲になる戦時下で初めて人は「殺す、殺される」ことを強く意識する。となると、フォートリエはこの彫刻に反戦の意味を込めたように思いたくなるが、もちろんそれもあったろうが、人間は動物と同じように肉体を持ち、いつかそれは朽ちるという意識が強いように思える。死を強く意識した状況に自らを置き、また置かれたので、かつて「皮を剥がれた猪」や「開腹された男」を描いたことの記憶が蘇り、さらに死や人間の物体性を強く確信したのだろう。繰り返しになるが、人間はどのように生きようが土に戻る。フォートリエはその人間の生と死の本質を考えるほどに、またそれを絵画で表現しようとするほどに、レリーフのような絵具の盛り上げを必要と感じるようになった。彫刻では粘土を使うので最初からより直截的であって問題はない。筆者はフォートリエの「人質」期の彫刻からはチョコレートで作る造形菓子やケーキを想う。それらはせっかくきれいに作り上げるのに崩して食される。フォートリエも仕上げた作品の一部を傷つけることで完成作とする。そうした生成と破壊を持つ作品性は美術史では似たものとして縄文土偶がある。それは一部が欠けた状態で発掘される。縄文人は土偶の一部を欠損させる行為で神に祈った。フォートリエの作品はそれに近い。すなわち作品を神の依り代と考える立場だ。そうであればディックスの絵画とはやはりかなり質が違う。図版右の43年の彫刻は人間の頭部とは思えない。それほどまでに破壊された頭部を目撃したためだろうか。筆者は胡桃の実を連想する。胡桃の実は固い殻を割らねば中身が見えない。拷問によって頭が割られれば胡桃の実と似た脳が覗く。その寸前まで拷問され、あるいや焼かれた頭部を思っての作か。悲惨さや残酷さと同時にこの彫刻には強固さがある。

本展図録に46年10月から翌月にかけてルネ・ドゥルーアン画廊で開催されたフォートリエの個展会場内部の写真がある。この2年ぶりの同じ画廊で展示された46点の絵画と3点の彫刻をマルローが見て文章を寄せた。『新曲・地獄篇』で気まずい思いをしたフォートリエだが、マルローはフランスを代表する美術評論家の大御所だ。本展図録のエティエンヌ・ダヴィッドの文章から引く。「たとえばアンドレ・マルローは「ほとんど優美と言ってよいこのバラ色やこの緑色、これは鑑賞者に媚びているものではないか」と語る。…「フォートリエは今日の人間の残酷さを美へと転じている」と、親しい友人であったフランシス・ポンジュは書き、次のように続けている。「人間が人間を拷問する。人間自身の手によって人間の肉体や顔がぐちゃぐちゃにされる。―こういう堪えきれない考えには何かを対置しなければならなかった。恐怖を確認して、それに烙印を押し、永遠化しなければならなかった。」2枚目の図版は左が44年の油彩画「人質(人質の頭部No.9)」で、横顔は月を連想させ、悲しみが漂う。右は上下とも44年の銅版画で、上が「黒の上の人質たち」、下が「虐殺された人々」と題し、左の油彩画と同じく横顔を描くが、「黒の上…」では横顔の輪郭がスキーのシュプールのように記号化している。この2点の版画は戦時下で彫刻や絵画のかたわら版画にも手を染めていたことを伝える一方、版画では画題がより記号化が進んでいたことがわかる。この記号化された顔からは香月泰男が復員後に盛んに描いたシベリアに抑留された男の正面顔が連想される。その顔は痩せて上を向き、陰影が誇張されて木版画の趣があるが、どれも判で押したように同じだ。その顔は抑留生活から脱することを希求し、上空の光を見つめているのに対し、フォートリエのこれらの版画の人質たちの顔は生死不明で、絶望も感じられず、ほとんど夢の中でまどろんでいる。香月は生き延びて平和裡において記憶をたどって抑留生活の悲惨さを描いた。フォートリエは体を切り刻まれて死んで行く人々と隣り合い、隠れて制作を続けた。香月ら日本兵は強制労働に駆り立てられはしたが、顔を焼かれ、手足を切り取られるといった拷問死を目撃しなかった。香月はフォートリエの作品を知っていたであろう。そして戦争の惨禍を描く画家はたとえば大空襲を経験した人や原爆の被害に遭った人が描くのでなければ実情を伝えられないと考えていたと想像する。広島出身の丸木位里は原爆投下直後に関東から現地入りし、数年後に「原爆の図」を妻とともに描き始めたが、戦争の悲惨さを他者にわかりやすく伝えるには写実が最適と思っていたようだ。「原爆の図」はフォートリエのようにフランスの伝統絵画のレアリスムから出発して非定形に到達し、その非定形がそのまま拷問された人質の顔や体であるという表現とは対照的だ。

丸木夫妻の「原爆の図」とフォートリエの「人質」のどちらが芸術的に優れているかは比較出来ない問題だ。フォートリエは原爆の惨禍を目の当たりにせず、丸木夫妻は人質となって無残に殺された人々を身近に目撃しなかったし、一歩間違えば自分もそのように殺されたかもしれない経験をしなかった。画家それぞれの経験と思いから作品は生まれる。フォートリエにすれば人質という存在がトラウマになり、それを克服するためにも人質を画題にする必要があった。これは以前に書いたことがあるが、昔TVで日本の女性画家によるどれも人体を切り刻んだ部分を半ば写実的に描いた油絵が紹介された。彼女は満州からの引き揚げのどさくさに際して食料に困り、ある町で大量に売られていた肉を買って食べた。うすうすそれが人肉であることを感じたが、空腹は我慢出来ない。ところが帰国後にその思い出がトラウマとなり、それを払拭するために積み上げられた人体の部分を何度も描くようになった。筆者はその絵をTV画面で見ながら、そういう絵に囲まれると却ってトラウマが強化される気がしたが、当の画家としては忘れられない経験で、どうにかして思いを吐き出さねばならなかった。フォートリエの「人質」も同じではなかったか。それがアンフォルメルの絵画になったのは、正視出来ないほどに残虐行為を加えられた人体であったからで、一瞬の記憶を留め、それを再現するには一気呵成に刃物を筆やペインティング・ナイフに代えて自ら作った下地的画面に殴り書きするしかなかった。「人質」の連作は多様で、正面顔としての縦長楕円の下地に両眼が複数、場合によっては縦に5つも連続して描かれる。そのような顔は存在せず、人質たちの視線を羅列したと思うしかないが、「人質」と題されなければ、アフリカの仮面でも同様のものがなく、読み取りの不能性が増す。この抽象性を基本としながら具象を混ぜるフォートリエの手法はレアリスムから出発したためもあるだろうが、具象部分は記号として機能し、その記号にどういう意味をフォートリエが込めたかを読み取る必要がある。その記号が先の複数描かれる両眼のような場合、あるいは「雨」のように雨を斜線で表現する場合はまだいいとして、今日の3枚目上の図版の「無題」のように何を描いたのか判然としない場合がある。それゆえそのような題名にしたことと考え合わせると、下地だけの段階で筆が止まった作品と見るべきだが、仕上げの線描を加えずに下地絵としたことは、画面の厚塗り具合を味わってほしいとの思いによるだろう。それはピザかケーキ職人のような手作りの労働による自己主張で、生活感が伝わる。また占領下で描く生活感を最大限に表現するのに、「人質」は自分しか描けない課題との自負があったろう。またピザやケーキ職人では一旦作ったものに手を加えて破壊の痕跡を示す商品は売り得ない。

戦争から解放されると世の空気は一変し、フォートリエはそれに呼応して別の画題を別な方法で描かねばならない。この世の動きに敏感に対応する行為はダンスホールでジャズのレコードをかけていたことの、つまり即興演奏の影響はあるだろう。臨機応変に対応して自己表現する。ピザやケーキ職人でなく、画家であれば当然だ。だが、人質を目の当たりにした経験から平和な世界に戻されると、おおむね作品の内容もその空気に応じるし、それを肯定的に見るべきだろう。今日の4枚目の写真は47年の銅版画で、上左が「少女」、右が「紫の小さなトルソ」、下左が「トルソ」、右が「女のトルソ(大)」と題され、筆者は本展でこれらの版画が最も印象深かった。当然絵具の厚塗りはなく、どの作品も曲線のみである物体を描く。「紫の小さなトルソ」と「女のトルソ(大)」は左右反転すればほぼ同じ形だ。これは今日の3枚目の図版下の「銃殺された男」とよく似た形で、アンフォルメルながら形の定まりがある。それを記号と言ってよく、トルソの題名からして、レアリスムから次第に導いた単純化した形だ。だが「紫の小さなトルソ」は虐殺されて手足や首が切り離された胴体ではなく、別の完全な形を思わせる。「少女」はほとんどバナナの皮を半分丸めた形で、「紫のトルソ」は丸まった芋虫だ。これらの形は縄文時代の勾玉に発想が近い。破壊された人体を描いた時代から平和が訪れ、新しいものが登場する気風を感じたフォートリエは、以前の画題とその表現を引き継ぎつつ、死の絶望から新生の形を求めた。今日の4枚目の4点の版画はその有機的な形からどこか不気味だが、色合いはどれも明るく、かわいらしくもある。この戦後初のフォートリエの画風は独自の記号的形態を生み出している点でアンフォルメル美術とは言い得ず、またこの独自の記号的形象を画業の初期から盛んに手がけた裸婦像から導き出したことは他の画家に例がない。そこで筆者が思い浮かべるのは漢字だ。「女」という文字は両手を前に交差して座る女性を象ったものだ。古代の中国人は具象を極限まで単純化しながら元の具象がわかる記号としての漢字を作った。フォートリエもそれと同じで、「人質」シリーズを経て思い至った。拷問死した人々の死体を通じながら、一方では女に内在する体も心も汲み取った根本的な特質を表現しようとした結果で、フォートリエは生の本質により近づいた。5枚目の図版は48年の作で、右下の芋虫状の女性が他の3点の横たわる裸婦像と並置されている。この芋虫状の裸婦ないしトルソはフォートリエの画業中では最も印象的な非定形らしくはありながら、存在感を持った明確な形で、生命の誕生を思わせる。つまり人質のトラウマから逃れ得た。もちろん戦争が終わって平和になったとてトラウマはそう簡単に消えない。それに培った技法が満足の行くものであるほどにさらに完全なものへと磨きをかけたくなる。

戦後のフォートリエの油彩画は厚塗りを保ちながら戦前にはなかった叙情性を醸す画題に変わる。それが「黒の青」や「雨」だが、本展では「オブジェ(1947-1955)」として「人質」の頭部のような、また4,5枚目の図版のような、人体ではなく、果物、コーヒー挽き、糸巻き、鍵、籠、空のグラスなどの画題がつけられ、下地上の線描もそれらの物体を半具象で表現する。「人質」の連作から10年後、フォートリエはそうした日用品を描く36点の絵画で個展を開く。これらの静物画は先の芋虫状のトルソから見れば物体の根源性を表現する思いで共通するものの、レアリスムから少しずつ変化してこれ以上はたどり着けない記号性を獲得した画題とは言い難い。「コーヒー挽き」は立方体のコーヒー挽きを半ばそのまま線描した作で、女の謎めいた存在性を芋虫に見える形で謎めいて表現したこととは落差があり過ぎる。これは「コーヒー挽き」という道具に普遍的な構造や謎めきがあるかという問題に還元出来もする。今日の5枚目の図版は横たわる裸婦が位相幾何学(トポロジー)的に芋虫になることを絵解きしていると言ってよい。では同じように「コーヒー挽き」はもっと大きく変化させ、なおかつコーヒー挽きであることを鑑賞者にわからせるように描くべきではないか。物体の具象性を抽象化しながらその物体の本質をより鮮烈に伝えることはどのような物体を画題にしても可能だろうか。フォートリエは戦前から静物画をよく描き、30年代半ばに梨や葡萄をほとんど記号のように扱った。そうした作品と「コーヒー挽き」を比べると、厚塗り画面は同じながら、後者では画題を扱い慣れておらず、抽象性は中途半端に見える。ただし、『アンドレ・マルローとフランス画壇の…』の図録におそらく同じ頃に描かれた「胡椒挽き」の図版があって、何かを粉にする道具に関心があったようだ。ピザやケーキ職人などの料理人は道具が必要だ。それを扱うことで巫女のように神に通じる存在になり得るとフォートリエは考えたのであろう。本展図録から引く。「(先述の36点の絵画の)展覧会中に作品は一点も売れることがなかったにもかかわらず、当時まだ知ら得ていなかったひとりの批評家が、フォートリエの絵画に強い関心を示した。(その)ベルヌ=ジョフロワは以下のように述べている。「彼こそが、もはや箱の概念が存在しないかのように箱を描いてみせるのである。そしてむしろ彼が描くオブジェとは、夢とマチエールのあいだの論争であり、可能性と現実が接触するような不確実な領域において「箱」へと向かう試行錯誤である。…フォートリエが最近描いた絵画において示してみせたのは、人間のみならず小さなオブジェの、本質に先立つ存在なのである。故にフォートリエにとっては、あらゆるグラスに入った水、あらゆるボビン、あらゆる箱は、新たな価値を見出されるべきものなのだ。」
羽化前の芋虫のような女のトルソは、本質に先立つ存在と言える。となればその後に描かれた日用品を画題とする静物画もそう言えるが、物を収納する箱や粉砕して一時保存するコーヒー挽き、あるいは水を入れる容器の本質に先立つ存在が何かとなれば、羽化前の芋虫のようには具体的に思い浮かばない。芋虫状の女のトルソは、本質に先立つと言うより、やがて成長する本質の核となるものを夢想したゆえに把握出来た記号性と思えば納得が行く。つまりさまざまな日用品のその用途の本質を捉えようとしたのだが、その本質は安価な日用品であればそのままの形でたいていは現われている。コーヒー挽きの場合、そこに付与されている装飾性がある場合はそれを無視すれば、回転する大きなネジ式の臼とそこで挽かれた豆をため込む箱のふたつの要素から成り、フォートリエはそのふたつの要素がわかるように描いている。それが本質に先立つ存在に見えるかどうかだが、フォートリエが描いた日用品はみな生活の道具で、手で扱うものであることに留意したい。そこにやはり道具を扱う画家ならではの眼差しがある。一方でそうした日用品を使う人間が、両手で神降ろしの儀式をする際の道具を表わすとされる象形文字の「巫」を必要としたことが理解出来る気もする。本展図録にはベルヌ=ジョフロワの引用文に続き、美術史家であったパルマ・ブカレッリの60年に文章が一部紹介される。そこにはこうある。「(黒の時代)以後、フォートリエは、外部にあり、目的となり、不動である何かを生み出すようなかたちの不十分さ、限界、解決不可能性を体験し、それを認識したのである。したがってフォートリエが取り組んでいるのは、限りなく広がっていくと同時に存在の深層に結びつけられるようなイメージの世界なのだ。…完全な有機体として再構成されることのできないものであり、完成されたかたちとして具体化されることのできない不確定のものである。それはかたちではないのであり、これからかたちなることもないものである。」この引用文を紹介する論文はジャン=ポール・アリームが書いたもので、彼はこう説明する。「フォートリエとイメージとの出会いは、ブカレッリが「不明瞭さ」と呼ぶところのものであり、…それはかたちの構造的な制限から解き放たれたときに生じるもののイメージである。この「不明瞭さ」はまた、現在・過去・未来が結びつくような意識が横たわる知覚のある一瞬に結びついている。」フォートリエの厚塗りの絵画がピザやケーキ作りに似ているならば、フォートリエが59年の美術雑誌からの質問に対して、「驚かせるための手段だけを抽出するような追随者は放っておこう。錯乱状態の絵画―すなわち本能のままの身振り、マチエールのでたらめな混ぜ合わせ、15分で仕上がる絵画は、商売やプロパガンダのためのものでしかない」と答えたように、安易な模倣者が出て来るのはわかる。

当時そうした画家がどれほどいたのか知らないが、フォートリエだけが残った。あるいはプロパガンダが利いて大家と称される者がいるかもしれず、今後生まれる可能性もある。本展図録に、フォートリエは詩を好んだとある。そのことが作品に表われているのは事実だ。内面に抱えているものが作品に立ち現れる。『アンドレ・マルローとフランス画壇…』の図録ではフォートリエを紹介する部分の冒頭にこう書かれる。「フォートリエは幾度かかなり有名になり、そのつど忘れ去られた。彼の作品は時代の様式と傾向に逆らっている。」確かに同展図録に登場する12人の巨匠のうち、フォートリエは最も日本で知られないひとりと言ってよい。それは美術雑誌や全集などに含まず、つまりは商売上のプロパガンダに載せられないからだ。何かで読んだことがあるが、森村泰昌は美術史を見つめながらどうすれば美術界で有名になれるかを考えた。フォートリエがそうであったように、新たな絵画を作り出すのに過去の大家に学ぶことは欠かせない。フォートリエはそのように出発しながら時代に翻弄され、またそのことを逆手に取る形で独自の画風を見出した。それは積極的に過酷さに自己を放り込むことで、あくなき創作への意欲だ。その意欲が創作者を生き長らえさせる。森村は自身が名画に成り切る写真で有名になり、フォートリエの作も取り上げたかもしれない。そうであれば「人質」シリーズの横顔を描いた作しかないだろう。だが森村がその人質に成り切った厚塗りの化粧をして写真を撮っても、完成した写真はマチエールが無機質でなきに等しい。そうした一種のお遊び的思いつきによる名画の成り切りは、フォートリエの命を賭けて描いた「人質」に匹敵するはずがない。森村にすればフォートリエを取り上げることでその名声に貢献する思いが湧くかもしれないが、フォートリエへのオマージュはフォートリエと同じように思慮深く、大胆に未見の領域に踏み込む画家でなければ、却ってフォートリエを誤解し、その名声を貶める。ところで、筆者はフォートリエの「人質」からシェーンベルクの曲「月あに憑かれたピエロ」を想う。絵も巧みであったシェーンベルクはレアリスム本位で、フォートリエのアンフォルメル絵画を認めなかったかもしれないが、詩情において通底するものがある。それは戦争の経験が裏打ちされていることだ。今日の最後、6枚目の画像は、上が56年の「裸体」、下は58年の油彩画「永遠の幸福」で、スキーのシュプールを連想させる。後者は大阪市が所蔵し、いずれ出来る近代美術館に展示されるだろう。後者はフランス・パンを2本交差させたように見え、やはりフォートリエは料理人に近いか。題名「永遠の幸福」は戦後の明るい新時代にふさわしく、またフォートリエは女性の裸体に健康美を見ている。ついでに写し込んだのは市販のクッキーで、この記号性にフォートリエは微笑むだろう。
※