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●『ジャン・フォートリエ展』アゲイン
●『ジャン・フォートリエ展』アゲイン_b0419387_11194671.jpgの始皇帝の真の思考を呈する兵馬俑と言えば異論噴出だろうが、70年代半ばに発見された兵馬俑は現在も発掘が続き、最終的に何体の俑が発見されるのか、その壮大な規模から始皇帝の権力の絶大さが想像出来る。日本でも古墳時代に殉死させずに埴輪で代用するようになったが、埴輪と秦の兵馬俑を比較すると国柄がわかると同時に具象造形に表現幅があり、埴輪は兵馬俑の写実性に比して「ゆるキャラ」に近い省略と誇張が顕著で、記号性が露わになっている。兵馬俑は一体ずつ兵士の表情が違うとされ、おそらく当時実在した兵士を見ながら象ったのであろう。最晩年のマルローは兵馬俑発見のニュースに接してどう思ったのか、そのことについて書かれた何かがあるのか気になるが、中国では地下に埋もれている造形物はまだまだあるはずで、古代中国の美術を漏れなく網羅紹介する画集ははるか先のことになるだろう。それはさておき、今日は2014年12月6日の土曜日に家内と国立国際美術館で見たジャン・フォートリエ展について3年ぶりに改めて書く。例外的な長文を予定し、明日も投稿する。当時会場で買わなかった図録をその後入手したからで、そこに載る解説を全部読んだうえで詳しく書きたかった。しかし読んでも思いは変わらない。それほどに生の作品群がもたらした印象は強烈で、これからも考えさせられる気がしている。有名な「人質」シリーズのうち、横顔を描いた油彩画を図版で見た最初がいつであったかを忘れたが、美術好きであればフォートリエの名前と作品は10代半ばで知る。この半世紀でフォートリエはより広く知られたのか、それとも忘れ去られ気味であったのか、それは義務教育の美術の教科書で紹介されているかどうかにも関係する。本展の図録は初期から晩年までの作品を網羅し、現在日本で唯一のまとまった画集として機能している。多岐にわたることを考えさせる点でフォートリエの作品は面白いが、今回は図録から作品図版を選び、それらを制作順に並べて書くことにする。まず今日の最初の画像のチケットに載る作品は1959年の「黒の青」と題され、図録では次に大原美術館蔵の「雨」が紹介される。双方はよく似た絵で、題名を取り替えてもさほど違和感はない。「雨」は「黒い雨」や「夜の雨」と題したい作で、中央の黒い区画に斜線が激しい調子で何本も引かれる。斜線の角度は違うものの、「黒の青」でもそれは同様で、こちらはより落書きに近い。「雨」の前に立つと題名の影響もあって、叙情性を感じて心地よかった。作者の意図がよく伝わると思えたのだが、雨は心地よいとは限らない。原爆投下後の黒い雨を連想する人もあるはずで、「雨」の題名は「黒の青」と同じく、特に叙情性を盛りたかった作とは言い切れない。だが不思議にも筆者は他の出品作では最も心地よさを感じた。
 批評家のミシェル・タピエによってフォートリエの絵画は「アンフォルメル」(非定形の意)と定義された。「黒の青」を見る限りはその言葉は正しい。ただし、「雨」は非定型と言ってよい雨を画題にするからには非定形な絵画にならざるを得ないと言えるし、雨を具象的に描いた作ともみなせる。ところで筆者は大原美術館を訪れた時を含めて本展以前に「雨」を何度か見ている。最初は茨木の万博公園内に国立国際美術館があった頃の1985年に見た企画展『絵画の荒し・1950年代』であったかもしれない。同展は北欧の「コブラ」という画家グループを紹介したことで記憶に強く、副題は「アンフォルメル・具体美術・コブラ」とされ、3つの特色あるグループを紹介し、フォートリエの作は「雨」のみが出品された。時代を反映して図録の図版前半は原色印刷、後半は白黒で、「雨」は後者の扱いだ。これはよく知られる作品であることを思ってのことだろう。白黒図版で「雨」を見るとそれこそ原爆の「黒い雨」のようで爽やかな春雨の印象はないが、本展で見た時には筆者は大地に潤いを与える雨を想った。それは画面中央の暗い区画が畑の土に思えたからかもしれず、また下地の絵具の厚塗りがなおさらそのことを感じさせたからだ。フォートリエが絵具を塗り重ねた下地画面は農夫の土の耕しや整地と同じく肉体労働と言ってよい。そうして作った下地画面にフォートリエはペインティング・ナイフで斜線を何本も連続して引く。それはルチオ・フォンタナによるキャンバス画面に切れ目を入れる絵画に通じる気がするが、下地画面に鋭い斜線を何本も引く行為は、整っている形に傷を負わせる虐待行為ともみなせる。虐待行為やその場面は凄惨な印象をもたらすが、人間は勝手なもので、人間同士では惨たらしいと思うのに、他の動物、たとえば牛や豚、魚に対しては平気でそうした行為をする。食するためには当然でもあるが、そのように殺される動物に愛着があれば、とても自分では出来ない行為と考える。フォートリエがその矛盾を感じたかどうかだが、動物は内臓を持つ一種の容器であることを認識し、また人の命がいとも簡単に、つまり家畜と同様に消される、あるいは拷問にかけられることを実感したことは、ふたつの戦争を経験したことからは当然と言ってよい。原爆によらずとも、爆撃で人体は簡単に「アンフォルメル」の状態となり、またたとえばナチスの拷問によって切り刻まれもしたから、フォートリエの「雨」から原爆の黒い雨や人体への虐待行為を読み取っても間違いではない。ところが「雨」は、凄惨さよりかは爽やかさを感じさせる。その矛盾するような両面性を内蔵することにフォートリエの作品の面白さがある。美術作品がある一定の思いのみを鑑賞者に伝えるものであれば価値は乏しい。ただし、曖昧な印象を与えるということで批判する人も多いだろう。
 フォートリエが自作にどういう思いを込めたかは書かれた文章がないのでわからず、題名から判断するしかない。「雨」から何を想うかは鑑賞者の自由で、フォートリエは制限していない。それは無責任か。フォートリエは原爆の黒い雨も耕地の慈雨も念頭に置きつつ、明暗で整えた二重の枠内にペインティング・ナイフで何本も鋭い斜線を施したであろう。そこには自己の絵画行為を神の仕業に匹敵するとみなした思いがあったように筆者は想像する。神は原爆の後であろうが農耕作業のためであろうが、ともかく雨を降らせる。フォートリエはそう思ったのではないか。これは運命を受け入れることであると同時に運命に抵抗することでもある。その抵抗の激しさがフォートリエのこの時期の、つまり戦後の絵画にはある。抵抗は問いでもある。その答えはフォートリエにも鑑賞者にもわからないか、あるいは自由に考えてよい余地が常にある。それゆえフォートリエの作品は謎を孕みながら見ていて心地よいと思っても間違いではあり得ない。わかったようで永遠にわからない何かがあることを知ることの楽しさと言えばいいか、とにかく激しく手を動かした痕跡を前にして鑑賞者は内面に振動が起こることを覚える。そうなればもうどのような解説も必要はなく、作品は深く記憶され、ことあるごとに想起される。そして思い起こしながら、相変らず謎があることを知るが、それは人生が謎めいていることと同じであって、それも含めてフォートリエは表現したように感じる。そのことは鑑賞者が好感を抱くどのような作品にでも胚胎しているとも言えるが、フォートリエの作品は特に画集からは醍醐味がわかりにくい。紙にインクで印刷された図版は表面がつるりとしており、フォートリエが腐心して到達した画面のマチエールを表現し得ないからだ。エンボス加工を施してその油彩画の凹凸を表現する印刷が昔からあるが、紙の凹凸は油彩絵具のそれとは全然違う視覚の味わいをもたらす。フランス語のマチエール(matiere)は英語のmaterialで、物質、材料を意味する。そして油彩画においてマチエールは重視されて来た。レアリスム以降はゴッホのように絵具を盛り上げて描くことが普通になって行き、そこには表現主義絵画へ通じる道があった。油絵具でたとえば人物の滑らかな肌を描く場合、薄く溶いた絵具を何度も重ねて描く行為が必要となるが、そのような職人的技巧に頼らず、絵具を盛り上げて短時間に描くことでも絵画が成立することを印象派の画家は気づいた。外光下で対象を前に直接キャンバスに描く場合は速筆にならざるを得ない。そうなれば絵具を混ぜて複雑な色を作り出す手間をかけることもしにくくなる。そうして絵具は色であり物質でもあるという考えが顕著になって行き、戦後のフォートリエの時代には絵具の物質面が重視され、描かれた表面は凹凸が目立つものが増えて行く。
 日本の具体美術の作品は絵具のそうした物としての面を意識した作品が多い。それはタピエが唱えたアンフォルメルの影響ではなく、戦後の日本でもフランスやアメリカと同時的にマチエールの新しい個性にこだわったためだ。同じことはコブラにも見られ、それで前述の『絵画の嵐』展が企画されたと言ってよい。この「嵐」は嵐のような戦争の後に勃興した絵画をたとえるにはふさわしい。またそれほどに激烈な表現主義とたとえてもよいが、1920年代のドイツで興った新即物主義の絵画は表現主義に対して冷徹に対象を描くもので、またフォートリエを表現主義と捉えては特質を見誤る。そして、タピエがアンフォルメルとみなした画家はみな思いが一致していたとは言えず、それぞれの画家に個性がある。出自や経験が違えば主義が異なり、作品も質を違えることは当然だが、同じ時代の同じフランス人画家であればそれなりに通ずる点があって、タピエの提唱したアンフォルメルによって画家がより有名になった。ここで寄り道をしておく。『絵画の嵐』の図録にパリ市立近代美術館学芸員のシルヴァン・ルコンブルが書いた「アンフォルメルとその周辺」という論文がある。その中に次のような下りがある。「オスカー・ドミンゲスとヴォルフガン・バーレンのどちらの方法も、一見するとヴォルスのそれに近いように思えるが、しかし、これらの機械的な手法はアンドレ・ブルトンが好んだ創造の手段と深く結びついており、それは、より直接的な接触、マチエールのさらなる緊密さ、描くという行為の中へのより完全な没入を志向する抒情的抽象からは遠ざかっていくものなのである。……このためタピエはジョルジュ・マチウのような純粋抽象の画家と、とりわけジャン・デュビュッフェやフォートリエのように現実の中に契機を求め続ける画家たちとを結びつけることによって、この運動を戦後において最も独自的なものとして認められるまでに拡張しようと望んだのであった。これらの作家たちが再び結集した「アンフォルメルの意味するもの」と題された展覧会においてタピエは具象と非具象の区別について何も想起させないような表現を用い、さらにこの拡張された運動の中に二つの主要な趣向が内在していることも示した。一つはシーニュと身ぶりの画家ジョルジュ・マチウによって典型的に代表されるものであり、もう一方は精密で量感あるマチエールの画家たちによって示されている。この西洋の書家マチウはもう一方の傾向を認めようはしなかった。彼は逆に物質からの解放に向かい、やがてはいわゆる抒情的抽象の代表者たらんと望むようになった。しかしミシェル・タピエは画家の外見の背後には、新しい方式に従って絵画体験を実践しようとする共通の要求が存していたことを正確に見抜いていたのである。(尾崎信一郎 訳)」この引用の前半はシュルレアリスムとアンフォルメルの違いを示す。
●『ジャン・フォートリエ展』アゲイン_b0419387_11200718.jpg 先の引用の後半はマチウとデュビュッフェ、フォートリエとの間に大きな差があり、前者の純粋抽象のマチウが後者の抒情的抽象の代表格を望んだことを書く。マチウを「西洋の書家」と形容するのは興味深い。純粋抽象が抒情的抽象になり得るとマチウが考えたことも論ずるべき問題だが、今日はマチウについては触れない。タピエは1952年の著作『別の芸術』でアンフォルメルの先駆的画家としてデビュッフェやヴォルスを紹介した。どの画家も強烈な個性があって作品から受ける印象は全く違う。それにデュビュッフェは非定形にこだわらず、彼ならではの形を生み出した。ヴォルスもフォートリエも同様で、アンフォルメルの言葉にあまり囚われないほうがよく、フォートリエもそう呼ばれることを好まなかった。森田子龍は雑誌『墨美』を51年に発刊し、翌年に墨象の会を発足したから、タピエが子龍の作品を知ったのは『別の芸術』を上梓して以降と思うが、マチウを「西洋の書家」とするタピエは日本の前衛書道に関心が深く、そのことと具体美術やコブラとの関連もあって、アンフォルメルは日本の書道、しかも戦後の前衛と切り離せない面がある。フォートリエはその点をどう思っていたかとなれば、59年に来日したものの、晩年の画風を確立済みで、前衛書道ないし日本の現代美術の影響を受けたと思わせる点はない。当時の日本でフォートリエは大いに受け入れられたと言ってよい。それはマチエールが日本の陶器などの表面の自肌、あるいはその下地の上に施される記号的線描が、つまり「雨」のような作品が、抒情的であるとしてわかりやすいと思われたからだろう。だが、西洋絵画におけるマチエールの歴史の先端に位置するフォートリエの作品を日本美術との近似性で味わうことは誤解が混じる。一方、作品はどのようにも解釈される余地があって、日本では日本らしい鑑識眼があってよく、それが間違いとは言い切れない。混じる誤解というのは、フォートリエは日本美術を参照せずに独自に新しいマチエールを生み出したのであって、その生涯を賭けた格闘に対して、日本の陶器の肌に似たようなものが昔からあると言ってしまうことは、美術史を無視することにもなり、フォートリエの作品を誤解することに留まりかねない。それはともかく、具体美術の動きからしてもフォートリエのマチエールは当時の日本でも充分正確に味わえたもので、1940年代の日本の前衛絵画は西洋に追い着き、対等のものとなったと言ってよい。この成熟は具体美術を生んだ関西に顕著なものと言ってよいが、具体以後に関西の美術が日本を代表しているかどうか、筆者にはわからない。話を戻して、フォートリエは戦後の40年代半ばに画風を一変させ、「黒の青」や「雨」のように厚塗り画面の抽象画を描くようになった。そして戦前の自己の作品を否定したが、本展では最初期の作品がまとまって展示された。
●『ジャン・フォートリエ展』アゲイン_b0419387_11202612.jpg
 本展はフォートリエが1924年から56年までに開催した6回の個展を基本とし、画題が戦前から戦後へとつながっていることを伝える。レアリスムからアンフォルメルへと変化して行く様子がよくわかり、また56年以降の作品も展示した。ただし、初期の個展は目録に出品作の題名が記されるだけで作品の同定が出来ず、同じ時代から作品が選ばれた。今日の2枚目に掲げる画像は22年頃の「管理人の肖像」だ。会場の最初にあったこの作品は24歳の写実の実力を示す代表作なのだろう。この絵の前に立った時の衝撃は図版からは伝わらない。マチエールが生々しかったからだ。油彩画の表面が油で輝くのは当然として、この絵のそれは老婆の皮膚の表現が肉感的でしかも哀しくもあり醜くもある。女性を迫真的に描くのであれば若い美女のほうが歓迎されると言いたいところだが、そのあたりまえさに迎合することをフォートリエは拒否した。そもそもフォートリエは一般に美しいと思われる対象を美しく描くことに興味がなかった。「管理人の肖像」は新即物主義のオットー・ディックスの作品を思い起こさせる。ディックスはフォートリエより7歳年長で、フォートリエはディックスの油彩画を眼にした可能性は当然あるが、ディックスと同様、人物を冷徹に客観視しながらディックスの作品に濃厚な風刺、戯画的な点が「管理人の肖像」にはない。フォートリエはフランスの伝統絵画の延長上のレアリスムを求めて描いた。そのことは3枚目左の画像からもわかる。これは27年の「皮を剥がれた猪」で、人の背丈ほどの画面いっぱいに、内臓を空にされて吊るされる猪を描く。レンブラントに同じ画題の作があり、また本作の2年前にスーチンがそのレンブラントの作品を思わせる「皮を剥がれた牛」を描いており、画題としては伝統的なものであった。ところが「皮を剥がれた猪」はほとんど黒とわずかな赤で描かれ、レンブラントやスーチンのような明るい色合いから遠い。このフォートリエの陰鬱さは、エコール・ド・パリの画家とされる表現主義的なスーチン以降の新しさを主張すると同時に、ディックスと同じく第一次世界大戦を経験したことの心的影響を物語っているだろう。「管理人の肖像」で示した写実の技術を同じような絵でどれほど繰り返したかはわからないが、本展では次の作品として胸の膨らみが描かれなければ男性に見える「エデュアール夫人の肖像習作」が展示され、そのアンドレ・ドラン風のフォーヴィスム的表現にフォートリエの試行錯誤が伝わる。24年には「娼家の裸婦」を初め、風景画や静物画を描くが、「娼家の裸婦」もディックスが得意とした画題ながら、フォートリエはヴラマンク調で描く。20年代のフォートリエの作はフランスのそうした先達に学びながら卓抜な技術を見せるものの、まだ独特の個性を獲得しているとは言い難い。
●『ジャン・フォートリエ展』アゲイン_b0419387_11204113.jpg
 初期のフォートリエのレアリスム絵画は美術館に買い上げもされたことがあるにもかかわらず、フォートリエは画風に満足せず、作品を次々に破壊し、また行方不明になったものもある。「管理人の肖像」は1980年に再発見されて美術館に入った。本展で面白かったのは最もよく描かれたはずの裸婦像の変化だ。その説明の前に今日の4枚目右の29年の油彩画「開腹された男」について述べよう。これは「皮を剥がれた猪」の人間版でありつつ、前者のレアリスムから一変して男も開腹状態もそこに覗く内臓もみな記号的に描かれて、「猪」と同じ画家の作品とは思えない。ただし画面の暗さは共通し、第二次世界大戦を予感していたかと思わせられる。この絵の興味深い点は開腹状態が実際の解剖の写生ではなく、画面のほぼ中央で奧が覗ける状態として縦長楕円の穴が描かれ、そこに内臓がスキーのシュプール痕のように簡略的に引かれることだ。「黒の青」や「雨」までほんの一歩という位置にある作だ。つまりフォートリエは戦前のレアリスム時代に戦後のアンフォルメルに半ば至っていた。「猪」から「開腹」への2年間にどういう変化があったのか。それは本展で紹介された裸婦を描いた作品から知り得る。24,5年頃は量感豊かな裸婦を陰影顕著に描き、本展で「黒の時代」と称される26年には裸婦から個性が消え、亡霊のような姿となって暗い空間で影のように佇む。それらの作品はアフリカの黒人彫刻との出会いがひとつの契機となったもので、フォートリエは後年になって価値を認めていない。3枚目右の図版の裸婦像は「猪」と同じ27年の作とされ、まだ写実性は認められる。この時期のどの裸婦像もふくよかな体や乳房から女性像とわかるものの、モデルの特徴は無視され、裸婦ないし女の本質さえ描ければよいと思っていた節がある。同じ時期の女の頭部のみ描く作品もフォルムは丸みを帯び、匿名性を帯びて目鼻に個性はない。記憶に頼って描いたと想像するが、モデルを雇う費用がなかったことと、現実の裸婦の肉体の生々しさから絵具の生々しさにより関心を抱いたからではないか。裸婦の現実感を描き切るにはレアリスムでは駄目で、女性の本質、核心を描きたい欲求に囚われたのだろう。だが人間の本質はどう把握出来るか。人は自分のことも明確にわからないと言ってよく、また男は女の本質をどうあがいても知り得ない。男におそらく共通してあるものは、女の全存在的感覚だ。それはもちろん化粧を施した顔にあるものではなく、先の「開腹」のように肉体の内部を覗き込んで獲得出来るものでもない。画家としては裸婦をあらゆる形で描き進みながら核心に近づくしか方法はない。その試行錯誤が20年代の裸婦像やそれに隣接する作品から伝わり、主に裸婦像によって新しい自分だけの絵画を猛烈に探求していたことがわかる。
 フォートリエは裸婦ないし女のエッセンスに関心があり、男にとって永遠に謎めいている女をその謎めきのままに捉え尽くしている。それは謎めいた画面で女という謎の本質をほのめかす手法で、鑑賞者は作品の前で感得するしかない。そのきわめて微妙な表現にフォートリエは邁進した。しかしフォートリエのレアリスム作品はよくわかるが、「黒の時代」はさっぱり面白くないと思う人はあるだろう。本展は同じ画家が写実から大きく変貌を遂げて行く過程を提示し、多くのことを考えさせる点が面白い。先に「神の仕業」としての絵画行為と書いた。人が泥から生まれて泥に還ることを思えば、絵画よりも彫刻がより「神の仕業」に近いかもしれない。フォートリエは彫刻や版画も手がけ、素描も含めて本展でそれらの作品が展示された。4枚目左の画像は兵庫県立美術館が所蔵する女性のトルソで、手足を省いて乳房を誇張し、縄文時代の土偶を思わせる。「黒の時代」の女性像とともに女性の量感の表現に関心があったことがわかるが、この彫刻では指の痕と言えばいいか、表面の凹凸が著しい。それは彫刻のマチエールを考えての行為かもしれない。また全体として男根を連想させ、生そして性の根源の表現に関心があったように見受けられる。一方ではたるんだ肉を持った初老の女性を念頭に置き、その意味ではディックスが描く醜い売春婦とのつながりがある。とはいえ、フォートリエの作品は即物主義ではなく、物を介在させて立ち現われる根源的イメージを捉えることに関心があったと言ってよい。そうなれば前述の「シーニュと身ぶりの画家ジョルジュ・マチウ」云々が想起されるが、マチウのシーニュ(記号)とフォートリエのそれは本質が違う。フォートリエのシーニュは油彩の裸婦像を見る限り、マチエールを通して到達、獲得されたものだ。そのマチエールは画家が手を動かす「身振り」があってのもので、先の引用文はマチウとフォートリエがアンフォルメルの画家としてひとくくりにされることの理由を説明してもいる。タピエが書くように、マチウと「精密で量感のあるマチエール」の画家であるフォートリエはアンフォルメルの画家として対立していた。「精密で量感のある」という形容は、本展での裸婦像を見る限り、「量感」は誰しも納得するのに対し、「精密」はレアリスム絵画やディックスの絵画にはふさわしくても、フォートリエには「管理人の肖像」を除けば当てはまりにくい。ところがフォートリエは「管理人の肖像」と同じかそれ以上の技術を駆使することで、たとえば「黒の時代」以降の裸婦像を描いたと自負したはずだ。そこにはマチエール重視の思惑があった。印刷図版ではなく、実物の画面に接した時にのみ感得可能なマチエールによって独創を表現する考えは、フォートリエが彫刻を手がけたことからもわかる。では油彩画のマチエールを表現し得ないドローイングや版画はどう考えるべきか。
 そうした作品にもそれなりのマチエールはある。フォートリエは1927年にアンドレ・マルローと出会った。本展の図録に、フォートリエはサロンや画廊で作品を展示する間に有名な画商のポール・ギヨームに出会い、ギヨームの妻の友人であった画廊主のジャンヌ・カステルがフォートリエの作品に関心を寄せ、作品を借り受けたと書かれる。そしてフォートリエはジャンヌの邸宅でマルローと出会い、マルローはガリマール社から出版するダンテの『神曲・地獄篇』の挿絵を依頼した。それはリトグラフで印刷されて出版される予定であったのに、マルローとガリマールは出来上がった作品に困惑し、出版を見送った。「判読できるかたちよりも色彩やマチエールが強い」ためで、そこにダンテの詩文を絵解きするような具象のイメージは乏しいと判断されたのだろう。このリトグラフは本展に出品されなかったが、98年秋に東京の出光美術館で開催された『アンドレ。マルローとフランス画壇の12人の巨匠たち』展に22点が出品され、同展図録にその原色図版が載る。その解説文にこうある。「34篇の詩は、縁ぎりぎりまで自由に「濃い青の上に暗い赤」を用いた色彩豊かなリトグラフ34点となったが、出版社はこの大胆な表現が理解不能だとして挿絵の採用を拒否してしまう。石版は抹消、校了紙だけが残り、これをフォートリエはマルローに贈る。」22点はマドレーヌ・マルローの所蔵で、残り12点はどこにあるのかわからないが、本展図録にその12点のうちの1点のみが個人蔵として白黒の参考図版が掲げられる。ついでに書いておくと、『…12人の巨匠たち』はマルローと交友した比較的珍しい作家を含み、フォートリエの作品は『地獄篇』以外に油彩画21点が出品され、うち2点のみが本展の出品作とだぶる。話を戻す。『地獄篇』のリトグラフは基本的には「黒の時代」の裸婦立像をひとりないし複数描き、それを赤や黒で荒々しい縁取りを施している。ガリマールはボッティチェリ並みのよく判読出来る人物像の線描を期待したのかもしれないが、仕事を引き受けたフォートリエは当時最も関心のあった画題と技法に頼ったことは当然で、どういう作品が仕上がるかはマルローも予想がついたのではないか。それに「黒の時代」の作品に地獄的で陰鬱な裸婦が描かれていることを見て仕事を依頼したはずで、フォートリエはレアリスムから独自のマチエールを持つ記号的裸婦、あるいは性別不能の人体像の油彩画を、『地獄篇』の詩に応じて紙に刷るリトグラフにどう移し代えるかに格闘した。したがってインクの凹凸のない版画ではあるが、インクの滲みを多用して印象深く、また力強い作品に仕上がっている。出版されなかったのは惜しいが、32点が現存しているのであれば、写真で複製して印刷することは可能だ。ただし元のリトグラフの絵面の重量感すなわちマチエールの再現はほとんど無理だろう。
●『ジャン・フォートリエ展』アゲイン_b0419387_11205932.jpg
 29年11月にフォートリエは『地獄篇』のリトグラフの予備習作のグワッシュに取りかかり、30年にガリマール社と正式に契約して、32年に取りやめの憂き目に遭う。『…12人の巨匠たち』の図録によれば、「このひどい精神的打撃に経済的危機が追い打ちをかける。資金が底をつき、フォートリエは1934年にパリを離れ、絵画制作を断念するが、対独宣戦布告の報を聞いて制作を再開する」とある。パリからアルプス地方に転居し、スキーの教師となる一方でホテルの支配人となり、やがてフォートリエの最も魅力的な作品が生まれる時代が訪れる。出版の見送りに対して仲介役のマルローはどのようにフォートリエに声をかけたのか。マルローがガリマールに勧めても、本が売れなければ意味はない。ガリマールは周囲の人の意見も参考にして出版しなかったのだろう。22点の図版を見る限り、変化に乏しい嫌いはあるが、アニメーション化するには最適な絵で、『地獄篇』の詩の連続性になぞらえて絵のムードに一貫性がある。これをたとえばシャガールに依頼すれば人体表現を明瞭にしたはずだが、女性が好みそうな「愛と希望」の多彩な色合いを得意とするシャガールでは『地獄篇』は無理であったかもしれない。フォートリエの『地獄篇』はイヴ・クラインの人体フロッタージュを想起させもして、当時としては先駆的な仕事であった。ともかく30代そこそこのフォートリエはこの仕事に自信を抱いたはずだが、彫刻もやめてしまう。生活苦に陥ってスキーのインストラクターになったことからは、運動能力に優れていたことがわかる。またダンスホールを経営して一晩中ジャズのレコードをかけたというから、ダンスや音楽にも関心があったようだ。前述した「開腹された男」の内臓がスキーのシュプールを思わせると書いた。スキーで滑ることは雪に線の痕跡を加えることだ。それは体全体で自然を相手に絵を描く行為と言い換えてよく、日本の具体美術を連想させもする。スキー板による鋭いシュプールが「黒の青」や「雨」の連続した斜線に影響を及ぼしたと考えるのは早計だが、「皮を剥がれた猪」や「開腹された男」は刃物による加虐の印象を背後に抱え、それが戦争における残虐な行為に重なる一方、フォートリエは「猪」や「開腹」のようにサディスティックな行為を直接連想させる画題から離れても、作品に対してさまざまな手法で手を加えた。また絵具を厚く盛ることはピザやお好み焼きのような料理を鑑賞者に思わせ、その画面は「神の仕業」のように、つまり平面上に泥を捏ね上げて事象を浮かび上がらせることとなる。そうして作った地の画面に線描を加える行為はスキーのシュプールでもあり、動物や人体への加虐行為でもある。そう考えるとフォートリエはいかにも肉食を主とする西洋の画家で、日本での知名度が少ないことは当然か。さて、ここで一息入れて明日は後半を投稿する。

by uuuzen | 2017-08-15 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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