「
儘ならぬ 天気に添いて 息をして 意気軒高や ママは逞し」、「目的を 問われて窮す ホームレス ただ生きること 何が悪いか」、「光には 陰がありての 麗しさ 生に伴なう 死を想うべし」、「シャボン玉 高く長らく 浮かびたし 風風吹けよ 遠くに飛ばせ」
3日前の16日に家内と泉屋博古館の展覧会に出かけた。本展はまず去年5月21日から7月31日にかけて泉屋博古館東京で開催された。今回の京都では3月14日から5月21日までの会期で、2枚のチラシを見比べると細部が違う。モネの「モンソー公園」とジャン¬=ポール・ローランスによる「マルソー将軍の遺体の前のオーストリアの参謀たち」の図版を上下に配するのは同じでも、裏面に載る6点の作品図版は4点のみが共通し、東京と大阪とでは展示作品に違いがあった。また副題が東京展では「モネからはじまる住友洋画コレクション」、京都展では「近代日本最初の洋画コレクション」とされ、チラシ表の周囲の白黒の縁取りは東京と京都とでは反転し、デザイナーは本展の題名に因んだ工夫を施している。泉屋博古館の企画展は京都に次いで東京で展示されるのが常であった気がするが、本展は東京の建物がリニューアルオープンしたことに因み、先に東京で開催された。日本の洋画の歴史を語るうえで東京と京都は双璧を成す。そのことを意識して東京と京都での展示作品を若干変更したのであろう。二会場での本展を見比べることで浮かび上がる問題は明治から論じられて来たことで、その決着は明確にはついていないと言ってよい。そもそも絵画の意味が決着することはなく、時代が変われば新たな読み取りがなされる。そのことを思っての本展であろうし、題名の「光陰礼賛」は含蓄がある。チラシでの扱いからして、モネの「モンソー公園」は「光」で、ローランスの「マルソー将軍」は「陰」の扱いであることは明らかだが、「マルソー将軍」では画面右の普仏戦争で死んだフランスのマルソー将軍が「陰」で、右手のオーストリア軍は「光」の扱いで描かれ、全体として「陰」的な作品にも「光」と「陰」が同居している。それはともかく、「モンソー公園」は1876年、「マルソー将軍」は1877年に描かれ、1年違いで同じフランスでこの対照的な印象派と古典派の油絵が描かれたことを当時の日本の画家がどのように受け入れ、自作の方向づけをして行ったかが本展の趣旨と言ってよい。また2点とも住友家が購入し、副題の「モネから始まる住友洋画コレクション」は日本の洋画に力添えをした自負がよく表われている。本館は以前大阪の画家上島鳳山の展覧会を開催したことがあるが、筆者はこのブログに感想を書かなかった。財閥が芸術家を援助して日本の文化発展に寄与することは確かとしても、当主の好みが援助する才能を見極めると言ってよく、時代が移って画家の評価も変わることの現実を鳳山の例からも思う。
それは住友吉左衛門(春翠)から任されて「マルソー将軍」を4万フランで購入した鹿子木孟郎にも言える。鹿子木は春翠の援助でフランスに行き、ローランスに写実絵画を学んだ。鹿子木の没後50年展が1990年に開催された時、会場は三重、鎌倉、京都、岡山で、東京では展覧されなかったが、そのことは鹿子木の評価の実情を示している。つまり黒田清輝の東京勢に対して関西の画家として重視されて来なかったことを反映している。本展では「マルソー将軍」を初め、鹿子木の代表作としてよい大画面の「ノルマンディーの浜」と「加茂の競馬」が展示されたが、生誕150年に当たる来年や17年後に没後100年展が開催されるだろうか。とはいえ絵画は個人が好きに見ればよいもので、定まったような評価も普遍ではなく、作品はいつでも新たに思考され得る。だが、名作と呼ばれるものは素人なりにかすかにでも感じる圧倒的な何かを内蔵しているもので、その言葉に出来ない何かは時代を通じて伝わり、名作は自ずとその評価を保ち続ける。ただし名作であるゆえんは作家が持っている情熱がそれにふさわしい表現技術と相まったところにあり、技術の優劣が問題となり得るが、作家はその技術は素人にはわからないものという考えを持ちやすい。素人は見所として技術の優劣を言われてもさして興味がないであろうし、いい絵と思える作品が1、2点でもあれば展覧会に足を運んだことを喜ぶ。筆者はそのタイプで、その点から言えば本展は「マルソー将軍」も「ノルマンディーの浜」もさほど名作とは思えず、印象の薄い展覧会であったことになるが、購入時の4万フランの現在の価格がわからないままに非常な高額を支払って住友家が購入したことや、またそのために動いた鹿子木の思いを想像すると、つまらない展覧会と一蹴する気になれず、再評価とまでは言わないが、明治の日本の洋画の一端を改めて考えるにはよい機会と思える。それはローランスや鹿子木の作品を反面教師として捉える意味でも、また新たな価値を見出すという立場でもなく、百年経っても日本は相変わらず同じような状態で、永遠に西欧化出来ない何かを残すであろうことと、そのことがいいのかそうでないかの判断も百年前のまま決着がついていないことを再確認する。つまり、鹿子木の作品はその意味で今日的で多くの問題をつき突けている。そうでなければ何の役にも立たない絵画となってこの世から失われても惜しむ人はいない。ほとんどの作品はそうであるが、そうした作品でも触れた瞬間に作家の思いが放たれ、見る者の心に何かを喚起させる。その意味で鹿子木の大作も同じであって、彼が住友春翠の支援を受けながら描いた作品はそれ相応の責務を果たし、またまっさらな目で眺められることを欲したものであったはずで、本展の意義は日本の洋画の歴史を垣間見ることにある。
わが家の2階のトイレの壁に1985年に兵庫県立近代美術館で開催された展覧会『19世紀ドイツ絵画の名作展』のポスターを長年貼り続けている。フリードリヒの有名な風景画「孤独な木」が中央に印刷され、その右手に先の展覧会名、左に「ロマン主義からレアリスムの系譜」の副題がある。この副題は芸術の傾向が変わったことを意味するが、ヨーロッパでは年月のずれはあってもみなそのように芸術の「流行」が変遷した。20世紀に入るとレアリスムからまた別の顕著な動きが出て来て流派は目まぐるしく勃興、そして衰退して行ったが、そのことはどの分野にも言えることで、どの流派が最も普遍的で価値があるとは誰にも言い切れない。つまり「モンソー公園」か「マルソー将軍」のどちらが名画かという問いにどう答えても間違いではない。ただしこの2作以降、フランスの絵画がどのように変化して行ったかの歴史があり、よく知られるのは印象主義のモネであり、ローランスを知る人は稀であろう。つまり「マルソー将軍」の暗い画面から「モンソー公園」の外光溢れる画面が好まれるようになった。このことは日本の洋画の歴史に反映し、その一端を本展は紹介するが、師の画風の感化を受ける一方、フランスと日本の風土、風俗の違いから画家は光の扱いに悩みつつ、日本的な油絵の確立を目指した。その「日本的」という要素は強く意識しなければ持てないものか、意識せずとも自ずと滲み出るのかという問題があるが、国家が国粋主義を掲揚する時代では画家は意識して国家独自の何かを積極的にするであろうし、戦後のように親米が広く浸透すると自由主義がさらに幅を利かせるようになり、画家は時代の影響を強く受ける。その意味ではモネもローランスも同じであったが、どちらが後世により影響を及ぼしたかとなれば断然モネで、レアリスムから印象主義へと系譜が移ったことになる。ただしレアリスムがすっかり消滅したのではなく、迫真的に対象を描く思いは人間にあり続けるはずで、前述した素人なりに感じる絵画の圧倒性は写実絵画に最も多いだろう。逆に言えば、印象主義風や抽象絵画風の絵は素人でも描けると思われやすく、レアリスム以降の絵画は専門家以外に間口を広げたことに功績があったとも言える。鹿子木は油彩画が絵画では最高位にあり、そこに至るにはデッサンを繰り返し、下絵をいくつも描く段階を踏み、習練を重ねる必要があると思っていた。それはヨーロッパ絵画のルネサンス以降の伝統であり、そこからはみ出るものは「妖画」であるとの考えで、印象主義を認めなかった。ところが1900年以降三度のフランス行きの間にフランスの絵画は変化し続け、鹿子木の学んだ画風は時代遅れとなって行った。そのことは「マルソー将軍」からも明らかだ。この絵は敵国の将軍の死を悼み、その葬儀に参列する騎士道精神を描くが、第1、2次世界大戦を経た現在それはあまりに非現実的だ。
それででもないが、筆者は第1次世界対戦に従軍して兵士の惨たらしい死を目の当たりにしたオットー・ディックスの戦争画を好むが、鹿子木はディックスの絵画を見ても全く評価しなかったであろう。鹿子木のように師の画風を守り続けることは美談だが、時代は確実に変わる。そのことを鹿子木は知っていて、水彩画の流行を批判しながら後にその技法で描きもしたし、また印象主義以降の野獣派の画風を思わせる作品もある。そのことに鹿子木の仕事の焦点が合わせられることは少ないと思うが、レアリスムの画家と目されながらも鹿子木は時流を読み、それに応じた絵を描く必要を感じていたはずで、その意味での再評価は今後なされる可能性がある。画家になるにはアカデミーで学ぶことが重要であると晩年の猪熊弦一郎は言ったが、彼のマティス風および漫画風の絵を見れば、アカデミーで何を学んだのかがわからず、簡単に模倣出来ると思う人は少なくないのではないか。話を戻して、鹿子木は明治3,40年代に日本で流行した水彩画に対して批判を展開した。そこにはレオナルド・ダ・ヴィンチらのルネサンス絵画から続く解剖学や遠近法の習得が画家に欠かせないと考えていたからでもあって、レアリスム絵画を目指すのであればそうした絵画の伝統技術を学ぶためにカデミーで学ぶことは必須とされていた時代でもあった。ただしフランス人以外は国立美術学校には入れず、「サロン」に出品しても入選は困難で、それで「サロン」で受賞した有名画家が教授となっていた市井の「アカデミー」に学んだ。それは「サロン」に入選するための近道で、ローランスに学んだ鹿子木も師と同じくやがて「サロン」に入選するが、そのことが現地でどれほどの意味、意義があったのか、鹿子木は大いに悩んだのではないか。フランスに帰化して現地で描き続けることは考えず、日本に帰って後進を指導しながら日本においてアカデミーを構築することがそもそもの目標であったろうし、そこに新たな水彩画のブームに対する権威主義の誇示もあったと思うが、フランスでは「サロン」に落選した画家たちが集まって印象派を旗揚げしたことを知っていた鹿子木は、「サロン」という国家の権威やレアリスムが絶対不変ではないことを薄々感じながらも、日本においてフランスの「サロン」と同じようなアカデミーの存在を求めることに疑問を抱かなかったに違いない。水彩画論争で双方の考えは平行線をたどり、また画家は好きな画材で好きなように描けばよいということに世間の思いは動いて行ったが、現在鹿子木の作品が本展のように展示される機会があるのに、明治時代の水彩画の寵児たちの作品展が戦後にあった話は聞かず、その意味では鹿子木が言ったように、油彩は水彩画の上位に立ち、水彩画専門の画家はアカデミーから外れた存在ということになりそうだ。
しかし日本の水墨画の歴史の長さのその延長線上に水彩画はよく馴染み、日本の絵画を考えた場合、油彩の下位に水彩画が甘んじると頑なに考えるのもおかしい。それに鹿子木は水彩画をよく描き、そうした作品のみで個展も開催した。そこにはローランス譲りのレアリスムを墨守し続けたという頑迷な画家像ではなく、いろいろと試行錯誤しながら描き続けた苦闘の痕跡が見え、それを正直と見るか、優柔不断であったと見るかで評価は分かれるだろう。ただし、筆者は図録で鹿子木の作品を一点ずつ吟味しながら、対象の前でそれをどう捉えればよいかと呻吟した鹿子木の姿を思い浮かべ、ともかく描いている時が一番幸福であったに違いないという当然のことを感じ、それゆえ世間の評価がどうであれ、好きなものを好きなように描いた自由人であったと納得する。そのことは日本のアカデミーや画会同士の論争などに嫌気を指してフランスで描いた浅井忠に共通しているが、浅井の作品が重文指定され、義務教育の美術の教科書に載り、切手の図案として採用されて来たのに、鹿子木の作品はよほどの日本の洋画好きの間でしか評価されていない現実がある。そのことの最大の理由が何かと言えば、名作であると多くの人が感じる作品がないからであろう。大作はあっても記念碑的名作がないのはどの分野の作家でも致命傷的なところがあって、世間での人気は得にくい。では鹿子木の大作はなぜ名作として小中学校の教科書で紹介されないのか。本展の「ノルマンディーの浜」はローランスの別荘があったノルマンディーの有名な観光地で構想から素描、本画と数か月を要して制作されたもので、フランス人が見て即座にノルマンディーの浜辺での親子を描いた作であることがわかるが、日本人画家ではなくても描ける風俗画であって、鹿子木にすればヨーロッパの画家並みの技術を持っていることを誇示したかったのであろうが、日本人であることを思い返せばこの作品にどれほどの意義があるのかと自問することがなかったとは言い切れない。そこで本展で展示された同じような大画面で5年後の作である「加茂の競馬」を見ると、画題は白や赤、そして模様入りの狩衣を着た男8人と馬二頭で、馬よりも動きある男性たちに目が奪われる。習作として神馬のみを同じ場所に置いた油彩画があるが、本画では狩衣姿を重視した。鹿子木はフランスでたとえばジェリコーなどの馬の絵画を見たと想像するが、「加茂の競馬」では陽射しの中の神馬と男たちが地面に落とす影の濃さが暑さを連想させつつ、ほとんどスナップ写真のような構図に競馬の荒々しさを伝えたかったのだろう。そう思って「ノルマンディーの浜」とその下絵の素描を見ると、人々の一瞬の動きを捉えることに関心があったことがわかる。そのことは「マルソー将軍」に通じ、鹿子木が師匠から学んだことであったと言ってよい。
しかし「ノルマンディーの浜」の大人の男女はアンソールが描く仮面をつけた夫婦像を連想させ、ふたりの会話がどこかよそよそしさがある。そうしたことは浜にびっしりと埋まる玉石のごつごつとした見事な表現からも感じられる。この男女や子どもたちはモデルを使って描いたもので、当初は父親が子どもを抱き上げる場面を構想し、習作を描いたが、主題は座る男と立つ女性の会話に移された。それもあってこの絵で何を描きたかったのかがよくわからない。素描や下絵段階では映画の一場面のように動きの一瞬を描こうとしていたことがわかるが、本番ではその動きを極力削って夫婦の心理描写に関心が移った。また陸揚げされた二艘の船が画面の半分を占め、海景はほとんど遮られていることからなおさら夫婦に目が行くが、光陰で言えば座っている夫が白い服を着て横顔に光が当たって画面中では最も目立っているのに対して、妻の衣服や抱える大きな籠はどれも船と同じ黒褐色で、顔も逆光で描かれて暗い。その対比に男尊女卑の考えが滲み出ているとまでは言わないが、 ノルマンディーにまで行ってこの絵を描いた鹿子木には船に乗ることで家族を支える夫に同情する思いが強かったのであろう。だがさらに深読みすると、この絵の夫は浜辺に座って網を繕っており、それは仕事でありながら休息の感もあって、鹿子木が住友家から援助を受けて留学していることの浮き世離れした画家という職業をどこかで恥じていたのかと思わせもする。だがそうであればなおさら真面目にかつ真剣に作画に勤しむべしとの思いが強かったはずで、その力みが本画ではどこか裏目に出ている。またそれは多くの素描を重ね、いくつもの下絵を作って本画への準備を入念にする間に当初の描きたかった霊感が微妙に改変されて行くことも作用し、油彩画の大画面作が常に名画とはなり得ないことを感じさせもする。となれば印象派のように、あるいは日本で流行した水彩画家のように、現場で本画をさっさと仕上げることのほうにより名画が生まれやすいのではないかと思わせ、それはアカデミー教育を受けることが必ずしも名画家になる条件ではないことを突きつけもする。だがやはり霊感、直感を他者に作品で伝えるためには技術は必要で、それはさまざまな方法を学ぶことでもある。それは自己流で獲得出来るが、そうする人にも敬愛する先輩画家がいるはずで、彼らは全くの素人として終始したのではないはずで、ある程度の基本的なアカデミックな学びを通過する必要はある。「加茂の競馬」では男性たちは解剖学が不要なほどにその時代衣装はたっぷりとして体の輪郭を隠しているが、それでも一瞬の動きを捉える技量は裸体モデルを何度も写生した学びの成果で、ここでは単なる記号以上の迫真性が露わだ。それがレアリスム絵画の見どころで、「加茂の競馬」はその現場やまたその祭りを知っている者にとっては印象深い作品であろう。
だがきわめて迫真的ながらそれが過剰と言えばいいか、見ていてあまり心地よくはない。千年も続く祭りであることの貫禄ぶりを5月の明るい日差しを描くところは日本の伝統重視と印象派の外光重視性を取り込んだ意欲を感じさせはするが、もっと爽やかな風がほしい。それを情緒と言ってもよいが、鹿子木は情緒に溺れるような絵を嫌ったのだろう。それは「あざとい」という言葉が似合い、大衆はそういうものをいつの時代でも歓迎する。黒田清輝の有名な「湖畔」は切手図案に採用され、後に重文にもなったが、モデルの女性は芸者であることを割り引いても顔は理想化がなされているはずだ。あるいは筆者は興福寺の阿修羅像の顔にどこか似ていると思うが、それがこの絵の人気の源泉であるかもしれない。ともかく、理想的美人を浴衣姿にして湖畔に置けばそこに甘美なそよ風が吹いて鑑賞者は喜ぶと黒田が考えたことの巧緻さがうかがえる。絵は作りもので、作為は意図せずとも入り込む。それがいやらしく見えないぎりぎりのところで名画は生まれるのだろう。「湖畔」はコランの画風を日本に置き換えて成功した最大の作と言ってよいが、鹿子木はこの作品を見たのかどうか、同作が描かれた1897年に結婚した。そして黒田より8歳年下の彼は同作から四半世紀後の1921年に「画家の妻」という室内での横顔の裸体の座像を描く。同年には「和装の女」があり、これも妻を描いたものだが、結婚当時妻が仮に18歳として「画家の妻」は42歳の像となる。それが不自然ではない裸体で、豊満とは言えない乳房にどこか痛々しさを感じるが、写実に徹する鹿子木には「あざとい」理想化は拒否すべきものであったのだろう。それに「和装の女」での妻の表情は「湖畔」の女性のような色気がない代わりに真摯な眼差しは好感が持てる。妻の理想像と言えばいいか、家をしっかり守るという落ち着きが露わだ。それに「湖畔」の女性のように国籍不明なところはなく、日本の代表的な面貌と言ってよい。だが世間は「湖畔」は明治屈指の作と持ち上げるのに、鹿子木の妻の像はほとんど展示の機会もない。鹿子木はなぜ「画家の妻」を描いたのか。当時は妻の裸を人の眼に晒すことは勇気が必要であったろう。そこで座像として腰を布で覆い、横顔として妻は鑑賞者と目を合さない。これは黒田の1893年の「朝妝」や1899年の「智・感・情」での陰部を隠さない女性像とは大違いだが、その後鹿子木はルーヴルでアングルの「泉」を模写しており、黒田の一種勇気ある裸婦像の源泉を知ったが、前面を見せる女性の全裸像を昭和になって描き、さらにそこには色気を売りにする「あざとさ」はない。それは黒田に先を越され、またコランを初めフランスにはいくらでも全裸の女性を描いた油彩画があることを知り、それを黒田とは違った日本流の画題にする方策を練り続けたためかもしれない。
筆者は黒田と鹿子木の顔写真を見比べながら前者は政治家にありがちな好色の曲者で、後者は住友家の援助を受けたので世渡り上手であったとは思うが、真面目な頑固者に思える。黒田の絵が過大評価されているとまでは言わないが、鹿子木の作品はもっと顧みられてよい気はする。黒田は一般受けすることが何であるかを、つまり時流を読むことに長けていた。就く師匠によって画風が違ったことはやむを得ず、鹿子木がローランスから学んだ画風はアカデミーに厳格に立脚していたのに、解剖学や遠近法をことさら重視せず、印影を強調しなかった黒田の方向性が後の日本のアカデミーとなって行く。コランの展覧会は四半世紀ほど前に東京で開催されたが、ローランスのそれはおそらく今後もないだろう。どちらも「サロン」で受賞し、勲章をもらった画家だが、コランの作品ははるかに爽やかで色気があり、そのわかりやすさから大いに人気を博したことがわかる。ローランスは田舎者と言ってよく、その分律儀で時流に乗ることをあまり考えないところがあるように思われるが、そういう点も鹿子木は学んだであろう。以上は鹿子木没後50年展の図録を参考に書いたもので、題名を見なければフランスか京都か場所がわからない作品もままあるものの、掲載図版からは京都で写生した風景画は糺の森や御所など、鹿子木の行動範囲がわかるようで面白い。大阪の豪商であった住友家は今は東京に本拠を移し、それもあって泉屋博古館東京がオープンしたと思うが、京都の館で本展を見ることは鹿子木の作品を中心に見ることかと言えば、本展では浅井忠の作品が4点出品され、取り上げられた画家では最多であった。これは京都を意識した展示のはずで、東京展では浅井忠の作品は少なかったのではないか。あるいは会場の大きさは京都より広く、京都展は東京展を縮小したかもしれない。浅井忠に関して書くとまた長くなるので今回はやめておくが、東京生まれの彼は1900年のパリ万博で圧倒的な画家の多様性と実力を目の当たりにし、日本の絵画の卑小性に気づかされる。アカデミーらしきものはあっても実力の伴わない画家らだけであることを思い、そして吹っ切れたように好きな絵を好きなように描くに至る。もちろんそれは技術に裏付けされた油彩画で、その意味では鹿子木と同様だが、見る者の心に素直に沁み通る画風と言えばいいか、個性が際立っている。アカデミーや伝統、物の見方にこだわらず、ひとりの画家として個性をどう表出するかが最も大事なことであると考えていたゆえで、それは明治中期のどの画家もそうであったと言える反面、やはり作品を通じての画家の個性の見え方には差があって、鹿子木は「陰」の印象が強い。それが明治時代の空気感と言ってしまえばそうではあろうが、重苦しい雰囲気は大きな人気を得にくい。ただし画風の多様性はどういう心境の変化に由来するのか、一考すべき問題であろう。
本展は第1章「光と陰の時代―印象派と古典派」、第2章「関西美術院と太平洋画会の画家たち」、第3章「東京美術学校派と官展の画家」から構成され、第2章は浅井忠を中心とする美術教育機関と画会で、鹿子木は太平洋画会に所属した。同会は東京の黒田清輝が中心となった白馬会とよく比較され、またその勢力に敗れて解散した。第3章では藤島武二や岡田三郎助、和田栄作といった有名どころ以外にさほど知られない画家の作品があって、それは第2章でも同じであった。また京都展では東京展チラシに図版が印刷される岸田劉生やルノワールの作品がなく、両展で出品作の異動があった。全作品が住友の所蔵かどうか、東京展での「住友洋画コレクション」の副題は貫禄を伝える。財閥が画家を援助し、フランスの「サロン」で受賞した作品を購入するといったことはこれからの日本ではもうあり得ないだろう。代わって自治体が作品を購入する時代になったとはいえ、それもこれからの日本を思えば心もとない。それで大作はさておき、画家の小品は市民が積極的に購入して家に飾って楽しむのがよいが、それには美術のある生活の豊かさを広く伝えねばならない。ところが芸術が皆目わからない政治家が大手を振る。また大金持ちはいつの時代もいるが、「モネからはじまる住友洋画コレクション」のそのモネの絵を購入した慧眼ぶりに匹敵することは起こり得ないのではないか。先物買いはいつの時代もあるとして、大半の先物である現代美術作品はどこがどのように購入し、しかるべき企画展を開催し、評論家が美術史にどう結びつけることが出来るか。今はフランスに行かずともよき画集はふんだんにあり、美大がアカデミー教育を施す場として機能しているとしても学生に学ぶ意欲が貪欲にあるかどうかは疑問でもある。それはいつの時代でも言えることで、才能や努力もさることながら、作品によって名を残す者は運も作用し、万にひとつの確率と言ってよい。しかも形ある作品はそのままで保存され得るとは限らず、戦争や災害で破壊されることも多い。本展では絵画の展示室の外に今日の2枚目の写真のように須磨にあった住友春翠の邸宅の模型がガラスケース内にあった。その内部に春翠は鹿子木の絵画や彼にフランスなどで購入させた作品を飾ったが、建物は戦争で被災し、建物跡は神戸市に寄贈されて後に公園となった。同じ展示室に油彩画と区別のつかないほどに古城址を精緻に表現するモザイク画があった。これは須磨の邸宅にあったもので、多彩に色づけされたガラス管をびっしりと横方向に埋め込んで風景を表現した作品だ。江戸時代の柳沢淇園が素麺で同じような作品が作られたことを書いているが、お土産絵として盛んに作られたのだろう。ステンドグラスの伝統のある国では色づけしたガラスでモザイク画を構成することは20世紀になっても行なわれ、たとえばルイス・ティファニーには大画面の作品がある。
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