「
祟りかと 思いつ拒む 霊や神 幸も不幸も 考え次第」、「ヒトが消え モノが残るの 不可思議を ヒトは知るゆえ モノに念込め」、「大切に すること学ぶ 大切さ 安物買いは 軽んじられて」、「見返りは 自己の満足 ほかになし よき時過ごし 次の挑戦」
いつもは阪急の大山崎駅から大山崎山荘美術館まで歩くが、雨では無料送迎のマイクロ・バスがよい。これはJRの山崎駅でも客を拾うので、大山崎駅前から歩くコースとは違ってやや遠回りになる。しかしそれは歩くのが億劫な場合は特にJRの踏切を越えてからの山の坂道を上ることを思えば気にはならない。バスの乗客は筆者ら以外に40代後半から50代前半らしきカップルがいた。美術館の敷地前で降りた時、相変わらず傘は必要で、またそこから美術館の建物までは山道を5分ほど上る必要がある。バスを降りて筆者はそのカップルの女性に声をかけた。彼女らは初めての同館で、枚方に住むとのことであった。枚方市役所ではたまに美術展が開催されるが、淀川対岸の高槻市ほどには文化度が高い認識が筆者にはない。失礼を承知で「枚方には何か見るべきものがありますか」と訊くと、「枚方パーク」と返された。子どもがいればありがたい施設だが、そうでなければ今では菊人形もほとんど作られなくなり、筆者は枚方パークに行く気がない。そう言えばそのカップルは子どもがいない雰囲気があった。身なりはとても地味で慎ましく、人のよさそうな夫婦といった感じだ。眼鏡をかけた長身のご主人は終始無言で、筆者らをどう見積もったかと思う。昨日書いたように筆者らは帽子屋と間違われるほどに格好が目立ち、年齢に似合わずにとてもカラフルな服装の筆者は一体何者かと思われたであろう。山荘の玄関まで筆者は彼女にいろいろと説明し、館内に入ってからはさっさと知り尽くした部屋の展示を見て回り、家内の姿を見失った。一緒に館内に入った先のカップルの姿も見えず、どこに消えたかと思いながらひとりで山荘の1、2階を二度巡った後、ようやくそのカップルが1階の「山本記念展示室」に入って来た。彼女は筆者の姿を認めて笑顔になったが、筆者は家内がどこに行ったのかわからず、相変わらずうろうろし続けた。そこで急に思い出した。この美術館に何度か前に来た時、筆者は展示室のひとつを見忘れた。帰り道にどうもおかしいことに気づいたのだ。チラシに載っている写真の作品がなく、会期中に展示替えがあったのかと思いながら実はそうではなく、「夢の箱」と命名される「山手館」に足を運ばなかったのだ。「地中の宝石箱」と名づけられる「地中館」はモネの水蓮の絵が見られる円形の鉄筋コンクリートの建物で、これは安藤忠雄が設計し、筆者は毎回この美術館を訪れると見る。ところが「地中館」とはちょうど反対方向にある「山手館」は比較的新しい建物で、開館当初から通い慣れている筆者はその建物に何となく馴染みがない。
今日の2枚目の写真は最初の展示室のテラスに出て撮った。その後に隣接する「山本記念展示室」に行き、そこでの展示を見て2階に上がった。そうして撮ったのが3枚目の写真で、2枚目の写真では見えない白い羊のつがいの彫刻が左手に垣間見えたのが面白かった。2枚目の写真は睡蓮のある池が見物だが、雨では飛び石を歩くことは出来ない。またそれは禁止されている。この写真の右手に山手方向に伸びる廊下があり、その突き当りに「山手館」がある。そのことを思い出したのでそこに向かい始めると家内と出会った。「山手館」は鑑賞順路としてはテラスのある展示室に次いで2番目だ。本来はそこを訪れた後、テラスのある展示室1に戻り、そして「山本記念展示室」を見る。枚方のカップルは順路表示にしたがって「山手館」を見た後、筆者が家内を探していた「山本記念館」にやって来たのだ。そのことを知ったのは2枚目の写真を撮り、さらに2階に上がって3枚目の写真を撮った後で、家内と出かけなければ筆者は「山手館」を見ることなく帰っていた。「山手館」の展示は本展の目玉で、最も充実していた。それはさておき、雨天にもかかわらず、会期の最終日のためか、館内はどの部屋も多くの人がいた。家内と合流して「山手館」を見た後、筆者らは帰ることにしたが、雨はほとんど上がり、バスを待つことなく歩いて阪急の駅前に出て喫茶店で休憩した。そこから5時をちょうど過ぎた頃まで送迎バスが客を二度下ろす様子を目撃したが、枚方のカップルの姿を見なかった。彼らは閉館までいて筆者らと同じように歩いて下山したのだろうか。あるいは往路とは違ってJRの山崎駅を利用することにしてそこでバスを降りたかもしれない。本展に関係のないことを長々と書いている。黒田辰秋展は以前京都駅ビルの美術館で見て感想を書いた。本展は同展とは作品がほとんどだぶらないはずだが、筆者は辰秋の作品展であれば何度でも見たい。それはまだ彼の作品の全貌を知らないからでもあるが、本展は没後40年展であるので、10年後には大規模な回顧展があるかもしれない。辰秋の作品は特に人柄がよく滲み出ている感があり、大柄で朴訥とした風貌に木工作家らしさを思う。それはいかにも民藝の精神にかなうようで、柳宗悦の思想のもとから出た作家として今後ますます渋い輝きを得て行くだろう。大塚家具は高級品で名を売ったが、現在の無名あるいは名のある家具職人の中で辰秋の評判はどうなのか。たとえば辰秋の作品と同じような趣の家具をほしい人はいるはずで、そういう要望に応えられる才能は当然あるはずだが、模倣では面白くないから、辰秋の雰囲気を残しながら新しさを盛った家具がどのように現在の日本で展開されているのか、筆者はそのことが気になりながら、一方ではIKEAやニトリの安価な家具のブームから辰秋の作品をほしいとも思わない人が増えているのではないかと案ずる。
辰秋の代表作は20代半ばに作られ、それらが本展の目玉になったが、100年前と現在とでは日本の建築が大きく変貌した。夏目漱石はイギリスに留学してロンドンの大きな邸宅を見ながら羨ましがり、それと同じような建物が日本にほしいと思った。日本が戦後の高度成長を経て金持ち国になり、どのような建築物でも建てられるようになった結果、日本の庶民が暮らす家屋がどうなったかと言えば、大型のプラモデルと同じように工場製品の画一化が進み、大工や左官の職人を不要とするものになった。おまけに昔はどのような小さな家にもあった庭がなくなり、つまりは街から緑が大幅に減った。田畑が団地や新興の住宅地に変わり、一方東京では実験的な建築がバブル期以降急増し、しかもそれらの寿命は万博のパヴィリオン並みにとても短い。ロンドンではそのようなことはあまりないだろう。どちらがいいのかわからないが、緑が少なく、小さな家が密集する日本の街では地震でどうなるのかと思う以前に、真夏の暑さは昭和3,40年代とは違って地獄的で、とにかく風通しがよくない。日本の建売住宅の味気ないデザインと仮設建築のように最新デザインで建て替わって行く東京のお洒落な店舗やビルとがどのように関係しているのか筆者にはわからないが、住居用の建物の内部には家具が必要で、黒田辰秋の家具は100年前の木造住宅の日本にふさわしいものであったことを思うと、今は今なりにIKEAやニトリの安価な家具の時代で、家と同じように数十年使うことを考慮していない消耗品扱いだ。当然そういう家に住む人間も同じで、「味のある」といった人はほとんどいない。先に辰秋の風貌のことを書いたが、昭和半ばまでなら彼に似たたとえば伊藤雄之助のような男優がいたのに今は絶無だ。「味のある」人が求められないうえに、そもそもそういう人は生まれようがない。今は今の味があって、現在を代表する「味のある」人が有名人に含まれていると言うことも出来るはずだが、筆者の思いは少し違う。前述したように大工や左官が携わった建築は設計者が誰であっても手作りの味わいが自ずと出る。建材その他が工場で規格品として作られる現在、どの家も似たものとなり、手作りの個性が出る場面がない。となれば内部に住む人もそれに応じ、みな似た考えで生活を送り、没個性となる。そこで稀にそのことに抵抗して個性的に生きる人があって、画一化された住宅を苦々しく思うが、それはほとんど無駄な抵抗であること知ったうえでの趣味への埋没だ。もちろん大金持ちであれば奈良の東大寺の大仏殿のような建築物を建て、そこに住むことも出来るが、そのような桁外れの大物を日本は生み得ず、またいたとしてもその大家屋の中をどのような家具調度で満たすかという別の大きな問題がある。大仏殿並みは非現実的として、金持ちはいつの時代でもまず家にこだわり、次に家具を吟味する。
そのような金持ちは設計士と相談しながらたとえば東京の土地価格が高いところに斬新なデザインのものを建てることが今ではごく普通になっているが、家具は大塚家具から買うか、外国の高級家具を入手するにしても、辰秋の作品のように作家に任せて誂えることはさほど多くはないだろう。つまり家具職人はいても家具作家と呼べる人は存在が難しいと想像するが、金持ち相手の若手の建築家はそれなりに多くいるはずであるから、家具作家もいないはずはないだろう。ただし金持ちにも種類があって、ただのブランド好きの成金から作家の才能に惚れ込んで製作費にほとんど糸目をつけずに製作を一任するパトロン的金持ちまでいて、後者は現在の日本では100年前に比べて少なくなっている気がする。筆者の周囲に金持ちはいるが、趣味のない成金ばかりだ。また作家への援助を惜しまない人がいても財力がない。そう思うと辰秋は若い頃に柳に出会い、一方では柳の思想に共鳴した大金持ちが作家に作品を注文し、そうした幸福な人と人との出会いが辰秋の作品を世に残す最大の原因になった。現在の大金持ちの審美眼にかなう作品を提供する美術作家がいるのは当然として、そこに辰秋風と言えば語弊があるが、重厚でしかも優しく、華麗な雰囲気をたたえた作品を作り得る家具作家は望めるのだろうか。また辰秋の家具が似合う建物が新たに設計され得るのか。建物の素材やデザインとその内部空間にふさわしい家具調度を筆者はあまりに狭く考えているのかもしれない。これは以前に書いたと思うが、TVの番組で40歳前後の主婦が自宅内部を紹介していて、それは茶色の太い木材を梁や柱に使用した重厚な雰囲気で、その壁面の一部にウィリアム・モリスの壁紙を貼っているのが自慢であった。柳は若い頃にモリスの作品を知り、本まで書いたので日本の民藝とモリスの作品は隣接しているが、それでも筆者はそのTV番組で見た若い主婦の趣味が中途半端に思えた。彼女は本当はイギリスの19世紀風の建物に住み、その内部をモリスの壁紙で埋め尽くしたいのだろう。それがかなわないのでその一部を模した空間を作ったのだが、日本の古民家のほうがよほど味わいがあるように思えた。だがそういう家屋を東京の都心に移築することはよほどの経済力がなければ無理だ。日本の家は耐久年数がほとんど望めないとして、家具調度は大事にしさえすれば何百年でも古びない。辰秋がそう考えたかとなれば1982年まで生きたのできっとそうだろう。大工や左官の腕のある人が作った家屋の大半は消えたが、家具ならその憂き目には合わない。これが正しいかと言えばそうとは限らない。古い家具をただ同然の価格で入手した詐欺同然の商人がヨーロッパにもいて、情報や知識に疎い田舎者は何世代も使って来た家具をデコラ張りの安物と交換することを何とも思わなかった。
さて、本展チラシに次のような説明がある。「京都の塗師屋(ぬしや)に生まれた黒田辰秋は、早くから木漆工芸の制作過程における分業制に疑問を抱き、一人で素地から塗りや加飾、仕上げまでを行う一貫制作を志します。柳宗悦や河井寛次郎の知遇を得たことで民藝運動と関わり、1927年「上加茂民藝協団」を結成して志を同じくする青年らと共同制作を送りながら制作に邁進しました。」ここにはふたつの注目すべき点がある。まず塗師の家柄に生まれて分業制度を拒否したことだ。工程の多さは友禅染と同じで、全工程を作家ひとりがこなすことは京都では珍しい。柳はそういう名のある作家を否定し、無名の職人による逞しい造形を民藝として賞賛したが、一方で柳の周囲には天才的な工芸作家が集まり、民藝の精神はそうした作家の名声とともにより拡大した。無名の職人による分業作品のすべてが健康であると思うのは考えが浅い。腕のない職人はいつの時代でもごまんといて、彼らの作る作品は見るに堪えない場合が多々ある。友禅染で筆者はさんざんそういう作品を見て来た。そのことを柳も知っていたであろう。民藝と呼んでよい作品も質はさまざまで、後世にほとんど残す意味のないものは多い。時代を経ればそうした作品でもそれなりの味わいが出て愛玩者も出て来るだろうが、それはまた別の文脈で語るべきことであって、柳の考えた民藝と同時代の民藝的作家は日本独自のひとつの芸術の流派と呼べるべきものとして現在まで伝わっている。また柳は琉球や朝鮮の民藝にも視野を広げ、作品も精力的に収集紹介したので、民藝的作家はその柳の影響を強く受け、辰秋の作品も日本の木漆工芸に留まらず、朝鮮の木工芸に感化されたものがあることは当然でもある。本展のチケットやチラシに紹介された「貝象嵌色字筥」は辰秋が24歳頃に作ったもので、貝による螺鈿細工は朝鮮の同様の作品からの影響が強いことを思わせる。またそうした緻密な細工が出来るのは塗師の家柄に生まれたからには当然として、素地の箱や蓋の中心にある「色」の一字のデザインなど、辰秋がさまざまな方向の美の表現に巧みであったことを思わせる。通常なら箱を職人に作らせ、そこに作家が螺鈿を施すが、木材の選定と加工から螺鈿までを辰秋が仕上げたと知ると、その作業に要する時間や才能に誰でも驚くだろう。またこうした比較的小さい作品であれば木工はさほど困難ではないと思うが、「山手館」で展示された同じ年の制作になる楕円形のテーブルと2種計6脚の椅子を見ると、テーブルの脚部や椅子の背もたれにほどこされた「井」の文字をデザインした透かし彫りなどを含めて頑丈かつ端正に作られた様にほとんどの人はプロの仕事とはどういうものかを突きつけられた気になる。作品が大がかりであっても掌サイズであっても辰秋は同じように力を込めた。そして前者の作品は器用な人が趣味で作り得るものではとうていない。
次に「上加茂民藝協団」は、「山本記念展示室」内の説明パネルを一読して筆者は書き留めなかったが、幸いWIKIPEDIAに簡単な説明がある。京都にいた柳宗悦に傾倒した青田五良という染織家によって辰秋も柳のもとに通うことになり、やがて工芸家が集まって上賀茂の屋敷を借りて共同生活を営むことになった。青田七良は五良の弟か、金工の作家で、それに鈴木実という染色家もいたが、家賃などを賄うために設けた会費の捻出に辰秋は苦労したと説明パネルにあった。広い屋敷なので家賃は嵩み、一方で若手の工芸品は辰秋のものしかほとんど売れなかったようで、同会は2年で解散した。辰秋は後に人間国宝になったが、同協団の他の作家は名前も作品もほとんど紹介されたことがないだろう。関係者は大事にしていると思うので、染織や染色の作品を筆者は見たいが、辰秋のように個人で全工程を手がけるとなるとおおよそどういう作品かは想像がつく。それに柳の思想に共鳴したのであれば友禅染のような繊細な作品ではあり得ず、大きな模様をざっくりと蝋や糊で防染したものだろう。そうした作品はデザイン力が勝負で、技術的には素人でも作り得るから、京都ではなかなか売れなかったと思う。辰秋の作品は「山手館」で展示されたテーブルや椅子のように金持ち向きに高額で、所蔵者は大事に使う。その点ほとんど消耗品と言ってよい、材質的に脆弱な染めや織りの作品は不利だ。金工の作品は陶磁と違ってそのままの形で長持ちしやすいが、日本の現代生活の中で金工の美術工芸品を使う場面は乏しく、柳のもとに集まった若手からも作家を輩出しなかったであろう。上加茂民藝協団が解散になって辰秋は制作の場所をどこに確保したのか知らないが、工芸作家は画家以上に広い制作の場所を必要とするから、辰秋が別の場所に移ったとしても収入につながる作品を次々に制作する必要はあった。ただしそれは発注者がいての話で、同協団時代にそれなりに売れ始めていたことが幸運を招いたと言ってよい。チラシの説明によれば、同協団解散の翌年、「1928年、御大礼記念国産振興東京博覧会に出品されたパビリオン「民藝館」で、初期の代表作である欅拭漆のテーブルセットをはじめ多くの家具什器を手がけました。」この欅拭漆のテーブルセットが前述の「山手館」に展示された作品で、これは大山崎山荘美術館が蔵する。というのは「民藝館は、運動の支援者であったアサヒビール初代社長山本爲三郎が建物と什器を買い取り、博覧会終了後に大阪・三国の自邸に移築し、「三國荘」とよばれるようになります」とチラシの説明が続くように、現在の同館をアサヒビールの会社が所有するからだ。山荘を建てたのは実業家の加賀正太郎で、彼は山本爲三郎と交友があり、同館は民藝作品の展示目的が当初からあったのではないが、それが似合う内部のしつらえになっている。
「三國荘」は写真だけが伝わる。阪急の三国駅はサラリーマン時代の会社が地下鉄の東三国駅から近かったこともあっておおよそどこかはわかるが、ずっと後年に三国駅で下車して駅前の革島商店街を歩いた時の雰囲気からして、実業家で成功した山本爲三郎が三国のどこに住んでいたのかと思う。宅地跡に小さな石碑でもあればわかるが、たぶんそれはない。写真で見る三國荘は和風で、内部は欅拭漆のテーブルセットが置かれても違和感がないように造られたようだ。本展では山本の子どもか孫か、小さな机と椅子も展示された。とても頑丈に見え、そういうものを使う子どもはどのような将来を夢想するのかと筆者は思った。というのは子どもの頃に筆者はミカン箱を机代わりに使っていたからでもあるが、昭和30年代初頭まではそういう子どものほうが多かったのではないか。小学校の机と椅子はぱっと見は辰秋の先の子ども用のものとよく似てどちらも直線ばかりの立方体的で、もちろん漆は使われずにあちこち傷だらけの古びた白木で、また乾燥し過ぎてか、子ども心にも軽くて扱いやすかった。それはそれのよさはあった。掃除の際に移動しやすくなければ子どもは困るからでもある。その点辰秋が作った子ども用の机は頻繁に動かすことを前提としていないように見える。中学校では鉄パイプと木材を使った椅子や机で、それは現在まで続いている。木材製よりも頑丈ではあるが、木のぬくもりはなくなった。辰秋の初期の代表作が無傷の状態で保存され、現在の木工職人に影響を与えているとして、現在の大金持ちがそのような重厚な家具をほしがるだろうか。大金持ちの品位がまず変化したように思うし、ましてや新興の芸術的運動を支える気概はないだろう。金だけ儲けても名前は決して後世に伝わらない。いかに金を使ったかであって、才能のある者を援助した場合は長く記憶される。だが金持ちの質が変わって来たとすれば才能のある者のその才能も時代につれて変質して来たと見るべきで、今は辰秋のようにひとりで木を切り削って漆を塗るという作家の出番はほとんどないだろう。人間国宝でも辰秋以降に同じ分野での指定はないと思う。辰秋の作品は京都市内では二か所で今もいつでも誰でも目の当たりに出来る。ひとつは百万遍にある進々堂の喫茶店で、店内に分厚いテーブルは表面が傷だらけだが今も使われている。もうひとつは八坂神社前の鍵善の玄関の装飾扉だ。全体を赤く塗り、また透かし文様が目立つ。それは八坂神社前にはふさわしい華やかさだが、店内では同じく辰秋が作った螺鈿の器が今も使われていると思う。筆者は20代で家内と同店に入ってくずきりを食べて以降、同店を利用したことがないが、店の前を通るたびに辰秋のことを思い出す。京都では民藝作家は河井寛次郎が最も有名だが、彼の木製の壁掛け用の抽象作品は、材木の選定などを辰秋に助言を仰いだのではないだろうか。
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