「
禰宜さんは 願ぎ事受けて ねぎらわれ 九条ネギ得て 苦情聞き入れ」、「さよならと 言われて返す さよかいな ほんならわしも 引き止めはせず」、「噂には 惑わされぬや 窓の僧 美女見て嘘か 気は上の空」、「先のこと 心配せずに 今夢中 こければ起きる だるまさんまる」
買ったまま見ていないDVDがたくさんある中、最近何気なくマーロン・ブランド主演の『サヨナラ』を手に取り、見る気になった。このDVDをどういう経緯で購入したのか記憶にないが、日本でロケされていることに興味を抱いた。時代設定は朝鮮戦争のさなかの1951年で、映画の制作はその6年後だ。日本で公開されたのかどうか知らないが、57年当時筆者は小学1年生で、上映されても見ることはなく、見ても理解出来なかった。DVDのジャケット写真と題名からしてオペラ『蝶々夫人』の焼き直しに思われるが、その面も保ちながら結末はいかにも明るいアメリカ的で、人種差別がまだ強かった当時に作られたことはとても意外な気がする。また当時のアジア諸国で日本が舞台に選ばれたところに戦後の日米の急速な友好関係が垣間見える一方、現在の盛況な外国人観光客の来日の先鞭をつけることになった50年代半ばのアメリカ人による日本旅行ブームに便乗した作品と言え、舞台となった京都市が全面的にロケに協力した様子が想像出来る点が興味深い。筆者は生まれて間もない頃から母の実家のあった京都市を訪れていたが、乳幼児では京都市内の記憶はほとんどなく、また嵐山や東山の名所を訪れなかったので、本作で映し出される市内各地から高度成長期を迎える前の昭和30年代初頭の雰囲気がわかって懐かしい。というのは京都と大阪の違いはあっても、本作に登場する筆者と同世代の子どもたちがほとんど自分の姿かと思えるからだ。そうしたエキストラ出演の子どもたちは今も生きている人がいるはずで、現在本作をどのように回顧しながら見るだろう。本作は作り話ではあるが、街や家の中のたたずまいはセットではない。マーロン・ブランドらの俳優が歩いた道は現存し、その意味できわめて生々しい現実感を覚え、よくぞ本作が制作されたという気持ちになる。とはいえ家並みは変わり、時代の推移は明白で、人や人生が、そして映画が影であることをつくづく思う。マーロン・ブランドの日本での知名度は『ラスト・タンゴ・イン・パリ』や『ゴッド・ファーザー』での中年役で一気に上がったと思うが、本作当時33歳で、『欲望という名の電車』や『波止場』での役柄とは違って茶目っ気を見せ、そして相変わらずの色気をたっぷり振り撒き、筆者はエルヴィス・プレスリーを連想した。つまりアメリカ人男性のセックス・シンボルの代表格だ。それは女性ではマリリン・モンローだが、面白いことに本作ではブランドが彼女の人気ぶりを伝えるセリフを発する。ちなみにモンローはブランドより2歳下、プレスリーは11歳下に相当する。
京都に住む者にとっては本作の見どころは1950年代の京都の代表的観光地が垣間見えることだ。脚本段階でアメリカ人の日本通が協力したか、あるいは日本の旅行代理店か京都市の観光局が撮影に際して多大な便宜を図ったはずだ。伊勢や東京、それに大阪の劇場内の場面がわずかにあるが、大部分は京都市内でロケされ、また京都の有名な場所だけではなく、外国人向けの日本文化の代表的な要素が散りばめられている。歌舞伎、文楽、能、茶の湯、花鳥画の屏風、キモノの美、町屋のしつらえとその内部での風呂や蚊帳などの生活状態の紹介、日本酒とその飲み方など、それに松竹の歌劇団は本作の筋運びでは欠くことに出来ない存在で、ブランドが最前列の座席で彼女らのラインダンスのレヴューを眺める場面では手放しの笑みを浮かべ、それが演技ではなく、本当に喜びながら感心している様子が伝わる。ロケ地を知る者からすれば、全く別の場所でロケした映像、たとえばロサンゼルスと京都で別個に撮影した場面を俳優の演技や光の当たり具合、カメラワークを計算して京都で全部撮ったようにうまくつないでいることに苦笑する。登場人物のうち、来日の必要のある人数を絞ったからで、来日した俳優は一種の日本旅行というご褒美に与かったと言ってよい。本作でブランドはもう二度と日本の土を踏まないだろうと言うが、そのセリフどおりにたぶん本作以降は来日しなかったたと想像する。となればブランドは57年の来日で日本の印象を強く抱いたはずで、日本贔屓と言うほどではないが、本作でのブランドは大いに日本文化を楽しみ、日本に対する蔑視や嫌悪感とは全く無縁のように見える。ネットには本作のロケ地を詳細に調べ上げたサイトがあって、それに筆者が付け足すことはほとんどない。日本にどれほど滞在して撮影したのか知らないが、東山の高台や嵐山の中ノ島公園の松の木に菰が巻かれるので、初冬から2月末頃までに来日したことがわかる。花咲く桜が登場しないので絵的には残念であったが、いかにも観光映画的に風景の美しさを紹介するよりも人間の交流を描き、また衣装や寺の境内の見栄えのよさが次々に登場し、桜や紅葉がなくても満腹感を覚える。前述の巧みなモンタージュ手法からすれば、満開の桜の資料映像を挿入して春の場面を演出出来たかもしれないが、本作は画面の横幅が縦の倍のシネマスコープで、当時の日本の映画会社が同じサイズで日本の満開の桜を撮影していたかどうかだが、まだそういう映画は撮られていなかった気がする。今調べると日本初のシネマスコープは本作と同じ57年だが、本作のテクニカラーの画質に匹敵するカラー映画を日本が独自で開発したのは本作以降ではないだろうか。51年の『カルメン故郷に帰る』は最初期のカラー・テレビのように赤が目立って全体にどぎつい気がするが、本作はいかにも自然な色合いだ。
それはともかく、ロケが桜の季節に実施されなかったことは理由があるとして、その分日本文化の紹介場面を多くし、日本には季節に関係なく外国人が喜ぶよさがあることを示した。さて、ブランドは朝鮮戦争に従軍しているジェット機のパイロットのグルーバー少佐を演じる。飛行戦で二機を落とし、その時の敵のパイロットの顔が脳裏から離れないというセリフがあって、後のヴェトナム戦争に従軍した多くのアメリカ兵が精神を病んだことを想起させるが、本作は戦争の悲惨さをそうした戦闘場面で紹介するものでは全くなく、男女の純愛物語だ。それを知ればもう見る気がしない男性は多いと思うが、現在の日本やアメリカに直結する興味深い問題を扱って社会派的な作品の面が大きい。そのことを知るとまた見る気がしない人が大勢いるはずだが、前述したように日本が世界に誇る文化をコンパクトに紹介し、65年前の日本がその後どういう文化を誇るようになったかの比較をしたい人には大いに役立つ作品となっている。またそのことで思うのは、半世紀後に本作を見る日本人がどういう感慨を抱くかを想像すると面白いような怖いような気持ちになることだ。話を戻して、グルーバーは負傷していないのに将軍から日本の神戸に呼ばれる。将軍の娘アイリーンがブランドと交際していて、その結婚を急がせるためだ。本作は元になったジェームス・A・ミケナーによる小説があり、それがいつ発表されたのか知らないが、51年の物語とされるのでその2、3年後だろうか。敗戦後の日本女性は鬼畜米英から一変して進駐軍兵士に媚びを売り、有閑マダムもその例に漏れなかったことを書く在日米人のドナルド・リチーによる小説『焦土にて』があることを筆者は知りながら、まだその本を入手していないが、いつ頃までそういう状態が続いたかと言えば、進駐軍の撤退は52年だ。本作はその直前までを描き、そのことを知ると本作の理解がより進む。アイリーンはグルーバーに結婚の意思がないことを知り、比較的さっぱりとグルーバーを諦め、来日時に知り合った歌舞伎役者のナカムラと親しくなる。その結末が描かれないのは残念だが、ナカムラはリカルド・モンタルバンが演じる。もちろん英語が流暢で、日本文化や歌舞伎の造詣が深く、グルーバーやアイリーンが見る舞台で女形を披露する。その場面を見れば彼は日本に戦前から住んで歌舞伎界で実際に活躍していたように思えるが、WIKIPEDIAによればメキシコ系のハリウッドの俳優で、本作のために特別に歌舞伎の演技を学んだことになる。その練習期間を考えると本作の他の俳優の誰よりも早く日本入りして専門家から指導を受けたのではないか。またこれは蛇足だが、アイリーンが手にする歌舞伎鑑賞の冊子の表紙に「KUBUKI」と印刷され、「KABUKI」よりも日本語の発音に近いと考えられことがわかる。
ナカムラがグルーバーやアイリーンに歌舞伎について説明する中、歌舞伎が300年の歴史があるとのセリフがある。これは建国以降の歴史の浅いアメリカ人を感嘆させるに充分で、さりげない言葉ながら日本の矜持が込められている。ただし、それはアメリカ人排斥につながる感情と隣り合っていて、本作の最後近くでグルーバーは雇われた荒くれ男たちと格闘する。その理由は今ひとつ詳しく描かれないが、進駐軍は日本人の暮らしの中に割り込んで長らく滞在出来ない存在との見方が、当時の日本では広がっていたことを思ってのことだろう。ここでまた話は脱線する。もう長らくTVで姿を見ないイーデス・ハンソンは60年に来日し、3年後に文楽の人形遣いと結婚して大阪弁を話す女性としてTVの人気者になった。彼女が本作を封切り当時に見たかどうかは定かでないが、50年代の日本は知的なアメリカ人にとって魅力ある文化国に見えていたことは間違いなさそうだ。アジア女性の中で最も結婚するにふさわしいのが日本という一種の定評が流布されるようになったのはいつのことだろう。本作でもそういう言葉が発せられ、アメリカ人男性にとって日本女性は大いに魅力的に映ったことがわかる。つまり本作は日本のさまざまな文化を紹介しながら、その最大の要素は日本女性であると言っていると捉えてよい。それは知性があり、美人で、男に健気に尽くすという、三拍子揃っての美徳だ。これを当時のどの日本人女性でも持っていたかと言えば、進駐軍の兵士が日本で知り合った女性の大半はいわゆるパンパンと呼ばれた売春婦であった。だが、彼女たちが押しなべて知性がなく、また美人でもなくて自分勝手でもあったかと言えばそうとは限らない。敗戦という過酷な国情下ではやむにやまれず売春をするしかなかった女性は多かったはずだ。本作では進駐軍の兵士が日本女性と婚姻届けを出す数を1年に1万人と言うセリフがある。元になった小説はその現状を知ってのことで、本作はその1万人の中から二組のカップルを取り上げる。ひとつはグルーバーと親しい同僚のケリーと日本女性のカツミ、もう一組はグルーバーとハナオギ(花荻)だ。また出会いやその後についてほとんど描かれないが、もう一組としてグルーバーと親しい海軍のベイリー大尉がいる。彼は歌劇団に所属するフミコと恋愛中で、団体行動をする彼女に向かって帽子の内部を見せる場面がある。そこには「11PM」と大書した紙があって、フミコは通り過ぎる際にそれを一瞬見て笑顔になる。歌劇団の仕事が終わった深夜に逢引きする約束を認めたからだ。歌劇団の女性は恋愛禁止で、ましてや進駐軍兵士とそういう関係になることは脱退をよぎなくされるが、ベイリーはグルーバーに対して空軍よりも海軍のほうが信頼は厚く、それで自分は歌劇団の女性に接近することがよりたやすいと言う。しかしその真偽は定かではない。
ともかくグルーバーはベイリーによって歌劇団の女性に興味を抱き、そのトップ・ダンサーのハナオギにすぐに魅せられる。彼女は東北の生まれで生活の困窮から10代で吉原に売られ、その後身請けされて歌劇団に入り、そこで頭角を現わしてトップになった。彼女は敗戦後のアメリカ兵士相手のパンパンではないが、貧しさから身売りしか選択肢がなかった売春婦で、身請けしてくれる男性がいたために美貌と才能を売るスターになれた。この設定はハリウッド女優も一歩間違えばパンパンで終わっていたことを連想させる。国と時代が変わっても女優は売春婦とほぼ接している職業で、違いは前者が金持ちや有名人を相手にするのに対し後者は無名の男の慰みものになることだ。カツミがケリーとどのように出会ったかについては描かれないが、彼女は歌劇団の熱心なファンで、家庭向きの実直な人物だ。ケリーはレッド・バトンズが演じ、彼の風貌はアメリカ映画に欠かせない「軽み」を持っている。ケリーは四度昇格しながら四度降格されるという反骨の兵士で、それだけ純粋な心を持ち、カツミを深く愛し、日本の生活に慣れている。梅木ミヨシ、ハナオギは高美以子(たかみいこ)が演じ、前者は本作によって日本人初のアカデミー賞の助演女優賞を受賞した。またレッド・バトンズも助演男優賞を得て、このふたりは本作ではグルーバーとハナオギのカップルとは陰陽の対照を成し、陰の主役を見事に演じている。その陰が際立つほどグルーバーとハナオギのカップルの陽が輝いて見え、本作のハッピー・エンドぶりはカツミとケリーの不運の上に築かれていることを知って観客は作品の深みを味わう。そうした設定の映画はアメリカでは珍しいのではないだろうか。そう思うのは、カツミとケリーがグルーバーとともに文楽の『曽根崎心中』を見たことがふたりの行く末を暗示していたと観客にわかりやすく伝えるからだ。カツミはケリーから英語を学ぶキモノ姿で生活する女性を演じるが、小樽出身の彼女は戦後間もなく英語を学び、本作を撮影する10年前に進駐軍のキャンプでジャズを歌って人気を博していた。そして音楽を学ぶために55年に渡米し、その2年後に本作に出演した。本作では日本女性らしくたどたどしい英語をしかもごくわずかに話すが、それは演技で、本当はハナオギ並みに流暢であったのではないか。ハナオギは日系米人の2世で、本作ではわずかに日本語を話し、英語はブランド相手にネイティヴのように訛りがない。またブランドもそのことに気分よくしている風で、当時活躍していた日本の女優が起用されなかったのは、映画会社の俳優の囲い込みという問題以前に、ハナオギのように舞台映えしつつ英語のセリフが問題なく話せる人物がいなかったか、オーディションする時間も費用もハリウッド側が惜しんだからでもあろう。
ケリーがグルーバーにカツミのキモノ姿の白黒写真を見せる場面が最初のほうにある。その写真のカツミは西洋人の目からは美人とは言えない。だがグルーバーはその言葉を発せずに「賢く見える」と言う。それは賢明な誉め言葉だ。前述したようにアメリカ人男性が日本女性の求める条件として「知的に見える」は重要であっただろう。もちろんアメリカ人に限らず日本でも世界中でもそれは同じだが、知的でなさそうな女性であれば一時的な交際として男は遊び感覚で付き合う。その極端がパンパンということになって女のほうも男に求めるのは金だけと割り切る場合が多い。とはいえ1951年当時は年に1万人の兵士が日本ないしアジア人女性と婚姻を結び、軍としてはそうしたカップルの処遇に困ったのだろう。それででもないが、兵士をアメリカ本土に送り、婚姻を事実上無効にさせた。なぜなら日本人女性はアメリカ軍の兵士と結婚してアメリカに行くことがまだ法律上許されていなかったからだ。本作で描かれるように、1万人の兵士の中にはそれをいいことに日本女性を棄てた者がかなりの割合でいたようで、軍はその現実を知っていることもあって日本女性と兵士との婚姻を好ましく思わなかった。婚姻した兵士が1万人もいたならば、売春止まりの日本人女性はその十倍から数十倍はいたと考えていい。そういう中にあって本作は二組の純愛カップルを描くが、ケリーとカツミはグルーバーとハナオギに一歩先んじて所帯を持つ。その場所が運河沿いの日本家屋で、撮影のために1軒が丸ごと借りられたのだろう。その場所は三条白川の南の右岸で、すぐ北は白川沿いの道と古川町商店街のY字路になっている。その付近に行者橋と呼ばれる幅のきわめて狭い石橋があり、その左岸側の白い土塀前にグルーバーは車を停めて行者橋をわたってケリーの家に行く場面が二度ある。古川町商店街はたぶん高度成長期にアーケードが出来て本作の撮影時とは雰囲気が違うが、狭い道幅は同じで、筆者は岡崎の美術館に行くと帰りはこの商店街を歩くことは今でもよくある。また三条白川の右岸の道も以前はよく歩いたが、車の通行量が増えてからはもっぱら古川町商店街を南下することになった。今日の2枚目の写真は上がケリーの家の前辺りで、奧の右手が白川沿い、左手が古川町商店街で、ロケのことが広く告知されていなかったのか、ブランドの周囲に注目する通行人が目立つ。下はグーグル・マップの同じ場所で、昭和半ばの雑踏は消え、家並みもきれいにはなったが、面白みが減った。最大の変化は行者橋の上流と下流で友禅流しが行なわれなくなったことだ。本作ではその場面が何度も映る。水深が浅く、反物を洗うにはちょうどよかったのだが、水質汚濁防止法によってこの映画の10数年後には禁止になった。それに本作ではキモノ姿の一般人がちらほら見えるのに、現在は観光客のみが安価な即席和装を楽しむ。
さて、あまり内容を詳しく書くと実際に本作を見る楽しみが失せるので、最後は嵐山のロケ現場について触れておく。今日の3枚目は「上」がグルーバーとハナオギのデート場面で、グルーバーの見つめる方角には伊勢の二見ヶ浦の夫婦岩があるとの設定だ。実際は渡月橋から100メートルほど下流の中ノ島南端近くで、渡月橋上流で使われる観光用の屋形船が中ノ島に陸揚げされ、もう一隻が川面にある。こういう眺めは当時はあったかもしれないが、筆者が知る限り、ここ40年はない。それで撮影のために舟がこの場所に運ばれたかもしれない。グルーバーとハナオギに当たる光からして早朝であることがわかる。当時も観光客はそれなりにいたはずで、早朝でなければ撮影は難しかったろう。写真の「中」は同じ場所で中ノ島に停めたベイリー大尉のジープに向かうグルーバーで、撮影は同じ日になされたはずだ。カメラが設置された場所の特定するために筆者は家からすぐのその現場に行ったが、セメントで固められた大きな石の集合の斜面その後改築されたようで、厳密にはわからない。しかし日中不再戦の石碑付近であることは間違いがない。植えられている松はその後何度か枯れて新たなものになった。ケリー宅を初め東山が本作の最重要のロケ地となったことに異論はないが、わずかでも嵐山も紹介しておくべきと映画監督に助言した人物がいたとして、その嵐山の代表的な場所は渡月橋で、また今日の3枚目の写真の「下」が示すようにお土産店の並ぶ左岸ではなく、右岸の中ノ島が選ばれたことは人目につきにくかったからであろう。今では中ノ島のすぐ近くに「風風の湯」の温泉施設が出来、またマンションも建って57年当時の面影はない。ベイリーの運転するジープは中ノ島を西に進み、渡月橋に出てそれを北上して嵯峨地区に入ったはずで、撮影隊は太秦の映画会社に挨拶をしに行ったかもしれない。話を戻して、ケリー宅でグルーバーはケリー夫婦の計らいでハナオギと初対面し、ハナオギは今回限りの出会いと心情を吐露しつつ、グルーバーがよければ愛してほしいと言う。つまり一夜をともにする。その後ハナオギは東京の劇場勤務を命じられ、グルーバーは彼女を追って結婚を申し込む。彼女は生まれて来る子どもがどうなるかと言うが、グルーバーは当然のごとく、半分は日本人、半分はアメリカ人と答える。混血児が日米ではまだまだ差別されていた時代にグルーバーのセリフは頼もしい。それにアメリカの法改正によって日本人妻は渡米出来るようになった。日本の記者に取り囲まれたグルーバーは人種差別をする人に対して「さよなら」を言いたいと答える。マーロン・ブランドは本作から6年後に日系米人のダンサー、レイコ・佐藤と映画で共演し、ロマンスがあったとされる。ブランドが関係した女性は有色系が目立ち、本作でグルーバーがアイリーンと結婚しなかったことには現実感がある。
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