人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●『チャイコフスキー バレエ「白鳥の湖」』 アドヴェンチャーズ・イン・モーション・ピクチャーズによる
を射る 矢の羽根になし 鶏は 赤か緑に 染めて募金に」、「白鳥は 雌に限らぬ ことを知り バレリーナのみ 思う刷り込み」、「オンドリの 羽根にうっとり メンドリは ホスト遊びと 似て非なるもの」、「美を競う オンドリよりも 劣るヒト 爆撃謗り 素知らぬ顔で」●『チャイコフスキー バレエ「白鳥の湖」』 アドヴェンチャーズ・イン・モーション・ピクチャーズによる_b0419387_00152425.jpg 昔見たイギリス映画『リトル・ダンサー』を久しぶりにTVで見て、去年12月1日に本ブログに感想を投稿した。最も印象的な場面は最後に主人公の少年が筋肉逞しいダンサーとなって顔が画面いっぱいに写り、舞台で跳躍するところだ。そのごくわずかに出演するダンサーが気になってネットで調べると、アダム・クーパーという本物のダンサーで、彼主演のチャイコフスキーの『白鳥の湖』のDVDがあることを知り、早速買って見た。バレエ曲であるのでもちろんセリフはなく、2時間も続く中、理解しにくいところがあり、日を置いて二度目はDVDで見られる各幕の簡単な英語による解説を読んだが、どう考えをまとめてよいやら戸惑い続けている。『リトル・ダンサー』の後にぜひとも見るべき作品で、『リトル…』はこの現代バレエによる『白鳥の湖』の上演があって制作されたものだ。ちなみに『リトル…』は2000年の公開、本作の『白鳥の湖』は1996年であるから、イギリスで『リトル…』を見た人は最後に出演するアダム・クーパーが『白鳥の湖』で踊ったのと同じメーキャップと衣装であることに気づいた。筆者は去年12月にそのことを初めて知り、遅まきながらイギリスのバレエ団の実力に度肝を抜かれている。とはいえ筆者は有名なロイヤル・バレエ団の作品を映像にしろ、見たことがない。本作は全編にわたってある王室を描きつつ、それに対する批判が見えるところ、イギリスのロイヤル・バレエ団に対してパンクの精神を突きつけている面がある。ブックレットの説明によれば「映画の冒険」という意味の「アドヴェンチャーズ・イン・モーション・ピクチャーズ」は「現代舞踊のカンパニー」で、同社が提供する本作はロイヤル・バレエとは関係がない。ただしアダム・クーパーの出演は「コヴェント・ガーデン・ロイヤル・オペラ・ハウス総支配人のご厚意による」とのただし書きがあり、当時のアダムはロイヤル・バレエ団に所属していたのではないか。また「アドヴェンチャーズ・イン・モーション・ピクチャーズが提供する……」というDVDのタイトルからは実際の舞台を撮影したものではなく、映画用に編集した作品に思われがちだが、舞台を数台のカメラで撮影し、カット編集はなさそうだ。たとえばパパラッチの群れの場面では彼らの上半身を画面いっぱいに捉えるが、それも舞台で音楽に合わせて実際にダンサーが演技したもののはずだ。途中でわずかに客席の様子が写り、すべての上演が終わった後のエンドロールでは客席を写し通すので、何度も同じ形で舞台上演された作品であることが想像出来る。
 本作品の監督と振付、脚本はマシュー・ボーンが担当し、ブックレットにインタヴュー形式で本作についての的確な考えを述べている。彼が『白鳥の湖』を現代バレエでしかも白鳥を男性として描くことになったのは、チャイコフスキーのこのバレエ曲の普遍性を認めつつ、それを古びた形式のまま伝えることに疑問を抱いたからだ。断っておくと本作の音楽はチャイコフスキーの原曲そのままで、新たな付け足しなどの改変はない。ところで家内は音楽好きの次兄から10代の初め頃に初めてLPレコードのプレゼントをもらい、それがチャイコフスキーの『眠れる森の美女』と『白鳥の湖』であった。家内はどちらも何度も聴き、60年近く経った今もよく覚えていて、本作を見ながら好きなメロディーに合わせて口ずさむが、家内は『白鳥の湖』のバレエの実演は確か筆者と一度しか見ていないはずだ。筆者のその時の印象は退屈で、見どころがわからなかった。物語が童話のように月並みでもあるからだ。イギリスのロイヤル・バレエ団は今でもたぶん古い形式、つまりチュチュを着た女性が白鳥を演ずる舞台を世界各地で上演しているはずだが、そのことについてマシュー・ボーンは「人の耳は常に同じ視覚イメージを伴なった音楽を聞かなくなってしまう」と批判し、チャイコフスキーの音楽の素晴らしさを伝えるためには新しい振付が必要と感じた。そして初演から百年後の1995年に本作を世に問うた。女性が白鳥を演じる『白鳥の湖』はおおよそ女性が歓迎するものと考えるのは偏見だろうが、そもそも白鳥を女性と捉えることも同じだ。現実に湖に浮かぶ白鳥は雌と雄は同じ数ほどいて、マシューが述べるように実際の白鳥は攻撃的でもあって「女性らしさ」の象徴と考えることは現実的ではない。だが白鳥を男性が演じるとなれば、主人公の王子との関係をどう描くか。誰でも想像するようにそこには同性愛が浮上し、マシューはそう見られることを否定していない。ただし本作で明らかにされているように、王子は最初から男性にしか興味がないのではない。それはさておき、本作はベッドで寝ている少年の王子が夢見ている場面から始まり、彼の夢にアダム・クーパーが演じる白鳥が登場する。最後の場面では同じベッドの上方でアダムが死んだ少年の王子を抱いている様子が浮かび、そのふたつの場面に挟まれる全編は不幸に死んで行く少年王子の夢物語と捉え得る。その夢物語において少年王子が21歳の青年に成長してどういうことが生ずるかが描かれる。立派な青年となった王子の前にまず女性が現われる。彼女は蓮っ葉で、王子の気を惹くために落とし物をし、それを拾った王子は彼女に声をかけ、そこからふたりの関係は発展し、王子は王女に彼女を紹介する。ところが身なりや所作から育ちの悪さは明白で王女は彼女を認めない。一方、無菌状態で育つ王子はどういう女性が蓮っ葉であるか、女性の本質を見抜けない。
 王子が彼女を連れて王女と一緒に舞台劇を見る場面がある。劇中劇だ。そこで上演される劇は背景の書割が古典的で牧歌的な城で、ダンサーの衣装もそれに応じている。チャイコフスキー時代の『白鳥の湖』においてその音楽の場面でどういう物語の展開があるのか知らないが、マシューはその場面の扱いに苦慮すると同時に古典的な上演へのオマージュもあって、そうした劇中劇を挿入したのではないか。ともかく、その劇中劇を上手から王女たちが見ながら、王子が連れて来た女性は落ち着きがなく下品な振る舞いに終始し、決定的に王女に見透かされる。また断っておくと、冒頭の少年王子と21歳の青年王子は別人が演じ、一方の王女は同じ女性のままで、少しも老けていない設定だ。このことは後述するように青年王子にとって幻滅を感じさせる遠因になる。王子の名前はジークフリートで、イギリスとは限定していないが、書割に描かれる王冠はイギリスであることを示している。またダンサーたちの衣装は20世紀で、先述の蓮っ葉な女性はそれに見える赤いミニの派手なデザインのワンピースを着る。女王の光沢が眩いドレスや執事のタキシードなど、衣装によって身分差を示し、ファッションも見物のひとつとなっている。踊りにくいはずのスーツを着て派手に動き回る場面は鍛え挙げられた身体と練習のたまもので、現代バレエが古典のそれを批判するためにただ新奇なものを旨としているのではないことが伝わる。簡単に言えば、古典のバレエを習得したうえでの現代バレエで、そのことは『リトル・ダンサー』でもほのめかされた。同作の主人公の少年は最初は気の向くまま勝手な振り付けで踊っていた。そのことで培った内面の表現力がロイヤル・バレエの審査員たちに認められ、正式に古典バレエを学ぶ機会を与えられる。その少年がアダム・クーパーとして成長したとして、アダムは子どもの頃の強制されていない自我の踊りから正式な古典を学び、やがてまた自我の踊りすなわち創造に目覚めたことになり、才能の大成には教育されない時代における才能の発露が必要という結論が導き出される。しかしその才能が古典の学習を通過しないことには大成はないことも同時に意味し、そこにイギリス流の芸術の「古典的な」見方があると言える。つまり本作は古典の『白鳥の湖』があって登場して来たもので、その意味でパンクだが、オリジナルの『白鳥の湖』の音楽を踏襲しながら、全く別の現在において意味のある新たな物語を提示し、しかも舞踊は現代のあらゆるダンスを飲み込みながら古典のうえに新しいものを造り上げている。これはマシューが本作を新たな古典に仕立て上げたいとの野望を持っていたことを思わせながら、マシュー自身がパンクの態度を見せながら根底に古典主義を持っていることを感じさせる。その貴族趣味のようなものが鼻につくという人はいるかもしれない。
 貴族趣味は舞台の両脇に威圧するように建ち並ぶ神殿風の柱からも伝わる。また記号的扱いで王冠や松明が大きく書割に表示され、舞台の大半が時代と国が変わっても宮殿内での普遍的出来事であることが示される。ところで、パンクに徹するのであればほとんど元の体制を壊すだけでよく、そうして生まれる作品は後に古典になることを目指さないのではないか。つまりパンク主義の作品は人心を逆撫でし、形式美からもほとんど無縁だが、どのような表現でも即座に模倣されるし、また作家自身の自己模倣もあって、パンクは最初の破壊的威力をすぐに失って形骸化することが目に見えている。それでも若さはその模倣の点を真剣に考えずに破壊力のみで作品を生み、またそうしたパンク的作品は表現者ごとにわずかな差異を持ってそれぞれのファンをつかむ。何が言いたいかと言えば、本作を見た別の現代バレエ団はもっと過激に改変した『白鳥の湖』を制作するであろうことだ。そうした半ば無名の団体のパンク的『白鳥の湖』に比して本作は現代を謳っている割に古典的とも思える場面が目立つ。そのことがイギリスの本質である気がする。そもそも劇場に足を運んで本作を見るような人は労働者階級出身の無学ではあり得ないだろう。オリジナルの『白鳥の湖』をよく知ると同時にその延長上の現代バレエにおいてどういう表現がイギリスにおいて可能かを考えている。そうしたバレエ・ファンがいることを知ってのマシューの新演出であって、やはり本作は貴族的な香りが強いが、観客はそれがイギリスの誇るものであることを知りつつ、王室批判のパンク性に喝采を送りもする。そのことは本作においてパンク性が飼い馴らされて無害同然のものに成り下がっていると消極的に見るのではなく、貴族的な属性はすべて高貴な美として認めたうえで同じ程度に王室を批判するパンクさが露わになっていることであって、風刺の伝統を見事に踏襲している。つまり70年代半ばにマルコム・マクラーレンが見出したパンク・ミュージックのセックス・ピストルズがあっての本作というのではなく、前世紀からイギリスでは顕著であった世論風刺の伝統上に本作もセックス・ピストルズも生まれたとの見方で、そう考えると本作もセックス・ピストルズも古典になり得る要素を内蔵していることがわかる。またそのように風刺ないしパンクがイギリスから絶えず生まれて来るのはやはり圧倒的な存在の王室があってのことで、労働者階級はどうあがいてもその階級のまま一生を過ごすという絶望が背景にある。『リトル・ダンサー』では炭鉱町の少年が才能を認められて王立のバレエ学校で学ぶ権利を獲得するが、それは貧しい労働者階級のささやかな夢の限界と言うことが出来る。しかし王権を否定してもイギリスの高貴さは誇るべきものという認識は労働者階級にもあるはずで、そうした思いが『リトル…』は本作に表われている気がする。
 マシューは本作をイギリス王室とは限らず、王子の王室での生きにくさやそれによる王室離脱が昔からあったことを調べ挙げて脚本を書いたが、偶然にしろ、王子と蓮っ葉な女性との出会いはヘンリー王子とメーガン妃との出会いを予告していたと思う人は少なくないだろう。マシューは王室に生まれた者は世間知らずで、そのことがやがて不幸を招くと本作で描くが、王室が頽廃を含んで問題だらけと見る向きは、王室に属する者も同じ人間との思いゆえだ。またそのような物語にしなければ本作のような娯楽作品は広い人気を得られない。筆者は本作から日本の皇室を思ったが、まず本作のような内容の物語を描くことは許されない。イギリスの王室とは基本的に違って日本の皇室は財産を持たないとよく言われるが、では皇室がホームレスと同然かと言えばそうではあり得ない。イギリスのザ・スミスやセックス・ピストルズのようなロック・ミュージシャンが王室をあからさまに批判するようなことも日本ではあり得ず、それだけ皇室は庶民にとってアンタッチャブルな存在であり続けている。そういう日本ではイギリスのような風刺文化の伝統はないか、あっても育たない。そのため本作のような作品も生まれようがない。そこが本作を見て最初に感じる驚嘆部分だが、日本でも同様な現代バレエの集団はあるだろう。だが彼らが逆立ちしても絶対にかなわない伝統と独創性が本作にはあり、その作品の規模は日本のあるミュージシャンがイギリスのロックを模倣するというあまりにささやかな行為からは大きく隔絶していて、そのために本作の価値をどう評価していいのかわからない人がほとんどではないか。もうひとつ言えば、本作がロシアの『白鳥の湖』を絶賛していることだ。イギリスであればイギリス人のバレエ曲を取り上げるべきと言った偏狭さはそこにはない。だが、マシューがヨーロッパの王室の歴史を調べ挙げて本作の脚本を書いたことに日本の皇室を含まれていたとしても、本作に日本の要素は絶無だ。そこで日本の現代バレエ団がマシューの脚本を使って本作を上演するとして、それは可能であってもかなり滑稽で無意味なものになる気がする。なぜなら皇室批判は日本では許されず、またマシューの本作以上に立派な仕上がりは望めないからだ。それはダンサーの体格からも言える。彼と同じように筋肉をつけることは可能として、ファッションも含めて日本人では舞台の見栄えは劣らざるを得ない。そこで日本の現代バレエは日本独自の演目を考えるべきということになるが、そういう作品があり、また本作のように世界中の話題となることが可能性があるだろうか。そこで日本は歌舞伎があるとの意見が出るが、歌舞伎では家柄が重視され、ロイヤル・バレエ団のようには才能主義ではない。アダム・クーパーの出自は知らないが、才能が並外れていたゆえに抜擢されて来たのだろう。
 本作の物語の運びについて話を戻すと、ジークフリートは蓮っ葉な女性と劇中劇を見た後、彼女に連れられて倉庫街のいかがわしいバーに行く。振る舞いの知らない王子は軽くあしらわれると同時に身ぐるみ剥がされ、泥酔して店から放り出される。そして満月の夜の公園に行ってベンチに座ると、酒に酔った挙句の夢の中に白鳥の姿をした男性が現われ、やがて白鳥の群れがベンチのそばで乱舞する。この場面では『白鳥の湖』の例の有名な主題が流れ、10数名の男性ダンサーの踊りは本作最大の見物となっている。もちろん全員が『リトル・ダンサー』の最後でアダム・クーパーが見せた化粧と衣装だが、アダムが最も光っているのは言うまでもない。彼は次の幕では王室で王子の報道秘書の役として黒のスーツ姿で登場し、王子はそのことに驚く。夢で見た男性が現実となって眼前に登場したからだ。そして王子はその報道秘書に接近して語りかけようとするが、母である王女がその秘書に色目を使い、一緒に踊る。王女は本作で終始若いままで、自分の美貌を知る彼女はその気になればどのような男でもものに出来る自信があるとの設定だ。そこに王室の腐敗をにおわすマシューの態度が垣間見えるが、これも日本の皇室ではあり得ないこととして話題にすることさえも退けられている。王子は憧れの男性を奪われると思って母の振る舞いに嫉妬し、やがて拳銃を持ち出して撃とうとすると、秘書はそれを防いで王子を殴打する。そうして場面が変わり、王子は本作の冒頭の場面と同じく、舞台中央に巨大なベッドが置かれ、そこで瀕死の状態となっている。母は泣きながらベッドにすがるが、やがて王子は息を引き取る。次の瞬間、ベッドの上にスポットライトで照らされるアダム演じる白鳥が若き十代の王子を抱きかかえて屹立する。つまり少年王子は青年になってもならなくても死ぬ運命にあり、死へと誘ったのは雄の逞しい白鳥であったということだ。この結末は王室で育てられる男子の不幸さを描きつつ、病弱な王子は世間に出て逞しく生きることを引率してくれる兄のような存在が必要であることを提示している。昭和の半ばまでは日本では近所付き合いが濃く、子どもの悪さを叱る年配者がどこにでもいた。今は子どもにそんなことをすると警察が呼ばれる。そのために本作の少年王子のような男子が増えて来ていると言ってよい。人間的交流が希薄になれば、何が美しいかも知らないことになりかねない。本作の少年王子は逞しい白鳥を美しいと思い、それに包まれることを夢想し、死に際してその望みがかなった。本作は何度見ても新たな発見があるだろう。漱石はロンドンにいた時にロンドンの邸宅を日本で見たいと思った。それは形を模倣すれば精神もそれが可能と思ったからか。バブル期の日本はイギリスから学ぶものはもはやないと言ったが、本作ひとつ見ても何をどう学ぶかの問題は無限にある気がする。
●スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示→→

by uuuzen | 2022-04-16 23:59 | ●その他の映画など
●『京の大家と知られざる大坂画... >> << ●ムーンゴッタ・2022年4月

 最 新 の 投 稿
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2024 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?