「
唆(そそのか)す 手立て見抜いて 難を避け 貯めた大金 使わずに死に」、「高台に 住んで見下ろす 地の底に 高層ビルの こちら向く窓」、「せせこまし 鉢に聳える 蘇鉄には 怯えることは 土の少なさ」、「大都会 うじゃうじゃ人の どっと混み たまに紛れて ドットで目立ち」
今日の第4首の歌は水玉模様の服を着て、周囲から浮き立つであろう筆者の姿を想像したもので、もうしばらくするとその格好で出かけてみよう。帽子も靴も水玉模様にすると、さすがに目立ち過ぎて変な爺に見られるので自粛するが、外出時には白髪隠しもあって帽子を欠かさない筆者は水玉模様のものをほしいと思っている。ところが水玉模様の帽子や靴はほとんどが幼児用か女性用で、どうやら男には可愛い水玉模様は似合わないという認識が昔からあるらしい。それはそうと蘇鉄模様のアロハシャツはいくらでもありそうだが、筆者は派手な柄のシャツはあまり着たいとは思わなくなって来ている。蘇鉄を服地の柄にすればどのような色合いでも派手になる。蘇鉄の葉の広がりが爆弾の破裂を連想させるからだ。その意味で蘇鉄は全体が緑一色ではあるが、遠目に目立つ派手さを持っている。形における派手さは色のそれよりも渋くて格好よい。筆者が好むファッションはそういう類のものだが、形の派手さを追求すると女性ものに行き着く。まあその話はさておき、TVでイタリアなど地中海沿岸の街を紹介する番組を見ていると、その植生に目が行き、蘇鉄や棕櫚に似た植物が必ずあることを知る。アメリカの西海岸もそうだ。そうした熱帯性の植物を見るといかにも外国という気がするが、日本に住みながら蘇鉄を見ると、日本に溶け込みながら異国情緒もあって目立つ。もっとも、この目立つというのはその対象に関心がある人に限ることで、植物に無関心な人はどこへ行ってもどういう植物がそこにあったかを記憶しない。それではもったいないが、知識や関心がなければ仕方のない話であって、当の本人は何ら不自由していない。昔ロンドンに行った時、街中を適当に歩いていると、住宅地の坂道に入り込み、それを下ったところのほとんど四辻の角の家の前庭に、赤紫と白のフクシアの花がたくさん咲いていた。日本でも見かける品種で、ほんの少し立ち止まって見つめていると、家の奧から子どもの笑い声や話し声が小さく聞こえていた。それで筆者はそっと立ち去ったが、たったそれだけのことを何度も繰り返し思い出すのはフクシアの花があまりに鮮やかであったせいだ。その花の名前を知らない人は素通りしたであろうが、そうしたところでどうでもいい断片的な話で、筆者の記憶が貴重とは限らない。ただし、こうして文章にすると誰でも思い当たることがあるはずで、その意味で筆者は孤立してはいるが、誰とでも感動というほどのおおげさなものではないにせよ、思いを共にすることは出来る。そしてそのことにひとつの文章の価値を思っている。
相楽園の蘇鉄群は外国人に珍しがられるだろうか。蘇鉄は南国ではいくらでもあるが、相楽園のものほど手入れされ、ひとまとめに植わるものはおそらくない。文人趣味にかなう蘇鉄であったので近代になっても大金持ちが愛好し、庭に植えたがった。そうして拡大したものが相楽園の蘇鉄で、先人の知識人たちが蘇鉄を好まねば、後の財力のある人も進んで鑑賞しようとはしなかった。つまり蘇鉄が愛でられることには長い歴史があって、それで各地に樹齢200年以上のものがたくさんある。筆者は相楽園のものを見るまでは栗林公園の蘇鉄が最大級であったが、規模の大小よりもどういう場所にどういうように植えられているかで印象に大差が生ずる。もちろん蘇鉄の本数に関係なく、栗林公園のものも相楽園のものも立派さは同じで、どちらも味わい深い。それは大切に世話をされているからだ。植物は世話するほどにそれに応える。それは人間でも言えるが、世話の焼き過ぎで台無しにしてしまうことがままあって、距離の取り方には注意を要する。筆者は隣家の前庭と裏庭に蘇鉄の鉢を置いているが、枯れた葉を見つけると適当な時期に切り、落ち葉が蘇鉄の葉にあれば必ずそれを取り除けるなど、それなりに見守っている。ただし鉢植えでは育つのに限界があり、蘇鉄も窮屈を感じるはずで、相楽園の蘇鉄の地植え状態が羨ましい。あるいは筆者はほとんど羨むことがないので、言葉を変えれば、わが家の蘇鉄が勢いよく育っていながら何となく憐れだ。それはせっかく大きく育つ可能性があるのに、家の経済事情で充分に学べない子どもを見るようで、自分の不甲斐なさを思う。同じことを植物を育てる人はたいてい思うだろう。田舎であれば広い庭はあたりまえに確保出来るとしても、先に述べたロンドンのそこそこ高級住宅地の一軒家の前庭の狭さも思い出す。その家に裏庭があるのかどうかわからないが、フクシアの花が咲く前庭は畳2枚分ほどであった。京都市内でも事情は同じで、大半の住宅は庭らしきものはあっても植物が育つ庭と呼べるものがない。そこに広い場所を占める蘇鉄となると遠目にも目立つので」、筆者は初めて見る鉢植えに気づくたびに内心声を上げる。植物好きの外国人が日本の街を歩くと、蘇鉄の鉢があることを知り、一方で栗林公園や高松の玉藻公園に蘇鉄が大規模に植えられている様子を見ると、日本人がエキゾチシズムを愛好し、その思いを植物にまで広げて珍重していることに感心するだろう。植物好きは世界中にいるが、日本における蘇鉄のように社会の層に応じながら大小で育てられている植物は他にないように思う。フクシアはどこで咲いても草花で、蘇鉄のように樹齢200年といったものにはならない。日本の代表的な花の桜はそうではないが、慎ましいアパート住まいの庶民が桜の鉢植えを楽しむことはなく、そもそもホームセンターで桜の鉢植えは販売されていない。
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