「
庇なき ベレー帽では 眩しけれ サングラスとは 常にセットや」、「昔から 好きな画家は 年取らず 吾は鏡の 白髪見つめ」、「吾ほしき ヴァン・ドンゲンの 油彩画を 女や花を 描きしそれを」、「色使う 仕事に要るは 色気なり 性力用い 名は広まりて」
このカテゴリーでは展覧会を実際に見た感想を書くことにしているが、今日は例外的に入手した図録によって書く。去年7月上旬から9月下旬まで東京でのみヴァン・ドンゲン展が開催された。同展を見るために東京に行くほどの気持ちも経済力もなく、図録入手で我慢した。以前に書いたと思うが、筆者がヴァン・ドンゲンの作品を初めて知ったのは、何の本か忘れたが、図版によってだ。週刊朝日百科『世界の美術』を引っ張り出すと、その絵が原色で紹介されている。筆者は18,9の時にこの「テラスの女」の白黒図版を見てドンゲンの絵の魅力に囚われた。フォーヴあるいは表現主義の画家としても活躍したドンゲンは日本ではさほど有名ではなく、めったに作品に接する機会がないが、スイスのプチ・パレ美術館に「村の広場」と題する風景画があり、それを19歳で筆者は大阪なんばの高島屋で開催された『スイス プチ・パレ美術館 20世紀名画展』で見た。正方形の小型の図録はたぶん500円であったと思う。もちろん買った。今日の最初の写真は上が「テラスの女」、下が「村の広場」で、艶めかしい笑顔の女性を描く画家がこういう静謐な村の風景をも楽し気に描くことに感心する。筆者が次にドンゲンの実物の油彩画を見たのは26歳で、京都高島屋での『ヴァン・ドンゲン展』だ。当然また図録を買った。その後日本ではドンゲン展は開催されず、筆者はネットでよく利用するフランスの古書店でたまにドンゲンの画集を探しながら買わずにいるが、去年夏に東京で44年ぶりにドンゲン展が開催されることを知った。このほぼ半世紀の間に日本におけるドンゲンの人気がさして高まりもせず、また東京一局集中が美術展でも顕著になり、大好きなドンゲンの作品を目の当たりにすることなく、せめて図録だけでも入手することで溜飲を下げるしかない。今日の2枚目の写真は左が78年展、右が去年開催展の図録表紙だ。44年の開きがあるとなれば、もう筆者が生きている間に京阪神でドンゲン展が開催されることはないはずで、今日は長年のドンゲンに対する思いをわずかでも書いておく気になった。日本でドンゲンの人気があまりないのは、「テラスの女」からでも即座にわかるように、女性の肖像画に頽廃性が強く滲み出ているからだろう。だがドンゲンの作品はそれだけが売り物ではない。花瓶に活けた花、風景画も含めてそれぞれに時に可愛げがあって味わい深く、この画家の内面を覗き込む気分になる。そして画家として高名を挙げるには何が必要かを考えさせる。その要件は100年前のパリにおいてだけとは限らない。華やかな社交界があればいつどこでも通ずるものだ。
才能があって作品を生みさえすれば必ず誰かが目に留め、作者の没後であっても有名になることはあり得る。カフカがその一例だが、画家ではゴッホだ。ドンゲンはヘルマン・ヘッセと同じ1877年生まれで、24歳年長のゴッホと同じくオランダで生まれた。やがてゴッホと同じくパリに出るが、ゴッホと違ったのは都会のパリを好み、また交際好きで、次第に上流社会に食い込んで行く。陽気で気さくな人柄であったのだろう。そのことは作品の色合いが示しているが、フォーヴの画家はみな原色を多用し、派手な画面を築く。ドンゲンの初期の作品はゴッホに通ずるような貧しい人々を画題にして社会を告発するようなものがあるが、絵が売れ始めて社交界で名を馳せると、描く女性像は金持ちがもっぱらとなる。そういう女性たちから次々に注文が舞い込むのでそれは致し方がない。またドンゲンは女性を描くことを初期から好み、その女性の階層が上流に変化しただけとも言える。社交界の女性たちの間でドンゲンが有名になるには単に画才だけでは駄目であったはずだ。まず人柄がものを言う。時にはセックスの相手とならねば描いてほしい女性たちは満足しない。動物と何ら変わらない性的魅力の応酬によって世の中が動いているし、また取り巻きの女性にはドンゲンの性的能力がきわめて高いことを認識する直感があった。もちろん性的魅力を感じさせない、表わさない画家や表現者は多くいるが、それはそれとして一方では性の奔放な交歓によって物事は動いて行く。その多くが不倫という形を取るが、そうした性にまつわる秘め事が不幸な結末を招くとは限らない。それはさておいてドンゲンはモデルになった女性と性行為をする一方、画家として作品のあるべき形を考え、その作品が月並みな印象を与えないことに筆者は驚嘆する。それは10代後半で図版の「テラスの女」を見た時から感じたものと言ってよく、女性の官能性を描く一方で、ドンゲンはモデルの肉体に溺れておらず、それどころか彼の冷徹な眼差しを感じさせ、そこに人間の悲哀や歓び、そして高貴ささえもが混じって伝わる。簡単に言えば、描かれた女性たちの若さや性的魅力はすぐに消え去ったが、絵画として刻印され、その絵画を描いたのが自分であるとの矜持がドンゲンにはあったと思う。どの画家ももちろんそうなのだが、ドンゲンには性の魅力を濃厚に湛えた女性を自分以上にうまく描く画家はいないとの自信はあったろう。そしてそういう絵を描くには、女性との性交能力を人並み以上に保持するかたわら、女性の魅力に溺れ切らない醒めた思いが欠かせない。そこがポルノ男優との違いで、文筆家として名を残した女性渉猟家のカサノヴァにも同じ思いはあった。それは性交が目当てでありつつ、それを超えた創作への強い衝動だ。ドンゲンに肖像画を描いてもらおうとした上流社会の女性はドンゲンのそういうところに魅せられたであろう。
小説『トリルビー』やまたアクセル・ムンテの著作にフランスで画家のモデルになる美女の話が登場する。彼女らはみな貧しく、時に画家に妊娠させられ、社会の底に沈んで行く。だが、画家が描いた彼女の姿は高貴さを湛えてどこの貴婦人かと噂される。そうした理想化的表現と違ってドンゲンが描く女性はみな蠱惑的とは限らない。ドンゲンはモデルとなる女性の性格を見抜き、その身分と身なりに応じていかにもそれらしいたたずまいと表情で描く。そこには肉体と服装に対する美意識があって、下半身をひどく引き伸ばした表現が目立ち、洋服のスタイル画のような趣があるが、表現のルーツはそこだけにはなく、ドンゲン以前にフランスの画家にあったオリエントや古代ギリシアに対するエキゾチシズムに求めるべきものだ。1907から1910年に描かれた「テラスの女」は右端の女が顔の3分の1だけを画面に覗かせる大胆な構図で、口元に白い扇、頭に赤い花を描く。中央の女は大きな帽子を被り、笑顔でテラスの下にいる男性に声をかけているのだろう。右下隅のテラスにかけられた布は黒地に金の模様で、この絵に装飾性を付与してエキゾチシズムを増加させながら、女の表情にふさわしい赤を中心とした色彩が女の誘惑を示す。ふたりは踊り子で売春婦と見てよいが、そうした華やかな女性に誘惑されながら、これほどの強固な画面を構成する才能は20世紀初頭ではめったにない。「村の広場」は1906年の作で画面右端に教会、左端に屋根を覗かせる民家を配置し、画面中央の並木の途切れた箇所に教会の屋根と相似形の三角を空け、そこに「VINS」(葡萄酒)の文字を描いて酒場があることを示す。斜めに傾けられた三角形の広場の左端に、花輪のある十字架らしきものを持つひとりの老婦人の背面を描き添え、生と死、俗と聖がごく単純化された画面に盛られる。去年の東京でのドンゲン展は副題「フォーヴィスムからレザネフォル」と題し、20世紀に入ってから1920年代(レザネフォル)までの作品を主に扱い、これは受注する女性の肖像画が型にはまって行く晩年以前がドンゲンの作品の魅力との考えに立つところがあるからだろう。78年展では1958年制作の当時24歳であったブリジット・バルドーの肖像画が出品され、81歳になってもドンゲンの感覚と力量が鈍っていなかったことを伝える。今日の3枚目の写真がその絵で、ドンゲンの戦前の作品の魅力を愛する者からすれば「ブリジット・バルドー」は渋い暗さがなく、何となく物足りない。高齢の画家がセックス・シンボルと言われたフランスの女優をポップの時代に応じたように描いたことは積極的に評価すべきだが、やがて美術界の中心地はアメリカとなり、アンディ・ウォーホルが有名人から肖像画を受注し、その注文主の顔を写真版画で制作することになる。
今日の最初の写真の左すなわち78年展の図録表紙の作は「ルイーズ」と題され、1900年の作とある。この絵の大味なところのどこがよいのかわかりにくいかもしれない。またルイーズが娼婦か上流階級の女性なのかわからないが、横顔の青い目と赤い唇が絵の中心で、目は真正面から描かれ、そのことが強烈な印象を与える。なぜドンゲンはそのように目を描いたか。同展の図録によれば1920年の作として紹介する文献がある。ドンゲンの作は制作年が不明のものが多いようで、1900年と1920年のどちらが正しいかはわからないが、前者とすればドンゲンがパリに住んで間もない頃にすでにエジプト美術に関心があったことになるだろう。エジプトの絵画では横顔であるのに目は正面向きに描かれるからだ。ドンゲンが初のエジプト訪問は1913年で、その成果はすぐに作品に反映される。ドンゲンがエジプトで発見したのは特に彫刻における女性像の輪郭線の美しさだ。エジプトの彫刻は片足を一歩踏み出す立像以外は動きがほとんどない厳格な構成のものがほとんどだが、特に女性像であれば肉体にぴたりと張りついた薄い着衣の下に肉感的な曲線を表現する。それは古代ギリシアの彫刻でも同じで、また古代ギリシアでは「ベルリンの画家」がしばしば描くように、衣服の襞の重なりが下方に垂れる美しさがひとつの不可欠の要素として使用された。後述するように20年代のドンゲンはそうした要素を現代のモードのひとつの特徴として作品に描いている。ドンゲンはあられもない素っ裸の寝姿の女性もしばしば描いたが、下着やドレスをまとった姿でも極端に細長くデフォルメする場合が多い。流線形もしくは魚のようと言えばいいか、そうした姿の女性像がいわゆる「格好よく」見えるのは当然で、そのことからドンゲンがファッションに関心があったことも想像出来る。先の「ブリジット・バルドー」も背景のレモン色に花模様を散らして衣服のような装飾性が強い。ドンゲンは現実にはない色彩の布置を優先すると同時に人物や動物を、またその動きを画面構成のためには極端にデフォルメしてよいと考えた。その意味では写実ではないが、写実に基づきながら画面の細部を味わう楽しみがあるように再構成をした。しかもおそらく緻密に計画して少しずつ描き進んだのではなく、ほとんど即興的に走り描きしたはずで、直感に頼って破綻しておらず、スーパーリアリズムの対極にありながら、絵画本来の尽きせぬ魅力を満載する。それは絵は絵であって現実とは違うもので、描かれる対象は自身も含めて平面上に組み合わせて並べられるものという、華やかな文様のある布地のようなものとの思いだ。その平面的な装飾感覚はエジプトの絵画や古代ギリシアの壺絵などから学び得たが、文様画ではなく、立体である人体を描くには奥行き感は無視出来ず、全身像を描く場合は奥行きを伝えるポーズをさせる必要がある。
その点、上半身のみ描く「ブリジット・バルドー」は静的だ。しかもかなり平板に色を塗る。そこに浮世絵の影響が垣間見え、顔はバルドーの売りとなった口元や目を強調し、ほとんど漫画のような画面になっている。ドンゲンと浮世絵の関係は知らないが、印象派やゴッホが浮世絵に学んだことの後塵を拝する思いがドンゲンにあってしかるべきだろう。去年のドンゲン展の図録表紙の絵は1914年の「楽しみ」で、エジプト旅行の成果が見られる。この作品はドンゲンの絵を左右に2点描き写し、中央に異様に背の高い若い女性を画家としてひとり立たせる。左脇の塗りの小卓には外国旅行で買った象に乗る人物の人形と緑色の小壺を置き、女性以外は大胆な赤褐色を中心に配色する。左右の2点の絵画のうち、右は「マドモアゼル・ミロワール、マドモアゼル・コリエ、マドモアゼル・ソフォ」で、78展に出品され、同図録では1918年から25年の制作とされるが、14年が正しいだろう。題名の3人とも実在したであろう。4枚目の写真の左が78展の図録に載る同作の図版で、全体に褐色の少ない赤味を帯びる。左上の裸婦はほとんどモジリアニの女性像かと思わせる。モジリアニも初期は古代ギリシア彫刻に憧れ、画家に転身してからもその要素を変容した絵を描いた。ドンゲンがモジリアニと交遊したかどうかだが、最初期のモンマルトルに住んだ頃にお互い存在を知っていたことは間違いがないだろう。だがモジリアニは1920年に若死にする。「マドモアゼル・ミロワール…」は3人の女性をそれぞれ違い姿態で描きながら、画面の色合いも単純化した輪郭の人体もアフリカないし古代エジプト風で、左端の鏡を見る下着姿の女性は時代最先端の現代女性でもある。それは画面下方で寝そべる女性も同じで、ドンゲンの女性像の特徴がよく出ている。78年展にはエジプトの王と王妃像と言ってよい、男女の正面裸像を中心画題にしてきわめて平面的に着彩する、全体の色合いが「マドモアゼル・ミロワール…」によく似た作も出品され、1918年頃の制作とされる。それが正しければドンゲンにとって1913年にエジプト旅行はよほど後年まで印象が強かった。ドンゲンは15年後の28年にもエジプトを訪れるが、再訪時の成果を作品化したものの、数は少なかったようだ。それはエジプトに行った同じ1913年にノルマンディーにある海辺の街ドーヴィルを訪れ、同地を気に入ってその後何度も訪れ、多くの画題を得たからでもあろう。またドーヴィルのさまざまな風物を描く作品はデュフィに似た軽妙さと色合いを帯びながら、ドンゲンでしかあり得ない特徴を持つ。デュフィもドンゲンも即興で迅速に描いたようなところに特徴があるが、透明で厚みをあまり感じさせないデュフィの絵に対してドンゲンはおおまかにざくざくと描きつつ物の質感や空間をうまく表現し、油彩画独特の味わいはより強い。
先に触れた「楽しみ」はドンゲン自身の作画に対する思いだろう。中央の女性は実際はドンゲンだが、全体に暑苦しい色彩の画面中央を縦に引き裂く形で白いドレスの女性を描いた。彼女は「マドモアゼル・ミロワール…」の絵に向かってパレットと絵筆を持ち、モデルがいたとすれば「マドモアゼル・ミロワール…」に描かれる3人の誰かであろう。この白い女性は腕の輪郭線にドンゲン特有の緑色を使い、また金髪を描く絵具は画面左上の画面に描かれるふたりの正面向きの女性のうちの左側に使われ、鮮烈な青のハイヒールはその絵の下の象に乗る人物の衣服にも見られる。当然中央の女性が持つパレットには赤褐色が最大の面積を占め、そこに金髪に使われる黄味がかった色、そして青、緑、それに画面下部に多用される焦茶の計5色が置かれる。つまりドンゲンは使用する色をごく限りながら、大部と細部を呼応させ、作品全体を平面的に処理する。そうしたことがわかるとますます細部を凝視する楽しみが湧くが、どこも荒々しく描かれたようで、そのことがまた画家の生々しい手わざの息吹をよく伝える。ドンゲンの作品の魅力は即興で描いたように思わせながら、よく計算された華麗な色彩配置と、描かれる対象を見つめるドンゲンの思い、眼差しが伝わることだ。「楽しみ」は左下の遠近法で描かれる小卓に立体である置物の人形や壺を置き、その小卓の右も同様の遠近法で描きながら室内の奥行をわずかに感じさせながら、画面上部は左右に平面である自作絵画を配する。そしてそれらおおまかに4つの物の中央に流線形の女性を置き、また彼女を画布の白を基調として描き、画面全体にひとつの縦方向の裂け目を作り出している。その白はドンゲンが期待する未来でもあるだろう。ドンゲンは画中画の手法を後年に繰り返す。今日の5枚目の写真は78展に出品された2点で、左の原色図版が1935年頃の「ヴィーナス」でこれはモデルを使ったドンゲンの理想の女性像としてよい。右の作品はその「ヴィーナス」を描くドンゲンの「裸の自画像」だ。同じ35年の制作で、当時ドンゲンは58歳であった。図録には白黒図版しかないのが残念だが、各作品の実寸から2枚の図版の比率を割り出して左右に組み合わせた。「裸の自画像」に描かれる「ヴィーナス」は左の「ヴィーナス」とほとんど同じ大きさながら、わずかに細部は異なる。78年に筆者はこの「裸の自画像」を見ながら、ドンゲンのような勇気を持つ自信がないと思った。全裸の自分の姿を自作絵画とともに描くことは隠すものが何もないという自負に支えられている。裸の女性をさんざん描いて来たドンゲンであるので、裸体に欲情することは次第に減って行ったであろう。実物の女性を描いた「ヴィーナス」を描く自画像は、自らをもヴィーナスのように神格化することであると同時に、絵画の力を絶対的に信ずる思いが伝わる。
「楽しみ」では無名の白い女性を画家になぞらえたのに、それからおよそ20年後の「裸の自画像」では自身を客体化して描き込んでいる。しかもヴィーナスとともに衣服をまとわず、デフォルメなしに男女の性差による肉体美を描く。ところでドンゲンは日本の浮世絵に感化されたのかどうか、男女の性行為を描く素描がたくさんあって、それらはみなドンゲンにすればきわめて写実的で、また欲情をあまりそそらない。そこにもドンゲンの醒めた意識がうかがえるが、それは春画を描いた江戸時代の浮世絵師も同じで、性行為において男は女よりはるかに醒めていることを男は改めて知る。それは性行為中に敵に襲われるかもしれない大昔の危険を思う本能によるだろう。女性は性行為の相手が途中で変わっても生殖の本能が満たされるならば誰でもよい部分が強い。それどころか性行為の最中に男が別の男に殺されても、より強い男がよく、ほとんど気にしないだろう。そういう女の本性を知っている男はなおのこと性行為では女を喜ばせようと頑張るが、その思いの裏には醒めた意識がある。「裸の自画像」を描いたドンゲンは社交性が人一倍あり、女性に大いにもてたはずで、精力的な画才と旺盛な性力によって人気画家として駆け上がって行ったのであろう。そういう自信が「裸の自画像」からは伝わるし、またドンゲンが信じていたのは寄って来る女以上に自分の絵画であった。またそのことを女性が本能的に察知し、ドンゲンに接近したであろう。社交家となったドンゲンは有名人と交友し、その中に服飾デザイナーのポール・ポワレがいた。去年展の図録にはドンゲンとポアレの関係についての論文がある。ドンゲンの描く女性はポアレと親しくなった頃から明らかにポアレのファッション・デザインの感覚を取り入れたものになっているという内容だ。ドンゲンはポアレと親しくなる以前からエジプトに行くなど、エキゾチシズムに強い関心があったし、またフランスにおけるオリエンタリスムの流行は前世紀から盛んで、そういう文脈にドンゲンやポアレを置けば、彼らの新古典主義に対する趣味は古典から連なったもので、突然変異では全くないことを認めねばならない。それはともかく、流行する絵画の流派が同時代のファッションと交差することは当然であろう。その意味では服飾も芸術になり得るし、ヨーロッパでは実際そうだ。だが身にまとう衣服は絵画と違って消耗品でもあって、また流行が過ぎ去れば古臭く見えて処分されがちで、デザイナーの名声は残っても実物の衣服は後世に伝わりにくい。それゆえ古代のエジプト人やギリシア人がどういう身なりをしていたかは伝わる絵でしかわからない。ドンゲンの名前は実作品とともにこれからも長く残り続けるとして、ポアレのデザインした服がどういうものであったかはよほどのコレクターが熱心に収集しない限り、不明な部分が多いだろう。
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