「
疫病で 老いの死増えて 益の国 口笛吹いて 若さ沸かして」、「教育は 四角西瓜に 似たるもの 型に嵌め込み 規格の品に」、「鬼は外 アウトサイドに 福なしか 無頼示して 稼ぐ道あり」、「好きなこと 飽きればほかに 行けばよし 夢中になれる ことを目指して」
久坂葉子の鉄道自殺は久坂がそれまで試みた自殺方法の中で最も凄惨なものだ。おそらく鉄道が開通してからすぐにその車輪の下に飛び込めば簡単に死ねることを思った人、また実行した人がいるだろう。漱石の小説にもそうして自殺した女性の轢死体の描写がある。さて今日は最近相次いで読んだヘルマン・ヘッセの二篇の小説の感想を書く。今は知らないが、半世紀前は中学生でも『車輪の下』は知っていた。筆者は読まなかったがあらすじはわかっていた。それほどに有名であった。70年代は日本の出版社が相次いで文学全集を発刊したことの頂点ではなかったかと思う。高度成長期に合わせて出版社も景気がよかったからで、また世界文学全集、日本文学全集は百科事典やピアノと同様に家庭にあってしかるべきものとの認識があった。それで当時よく売れた4,50冊になるそうした全集を買い揃えたのはいいが、他の娯楽がたくさん増えて来たこと、また勉強や会社の仕事に追われて、数冊を読んで他は一度も開いたことがない状態になった人が筆者の想像では購入者のおそらく95パーセントを占める。まあ筆者もその中に含まれるが、それには別の理由があった。全集は1冊が分厚くて重く、また活字が小さくて読むのに不便だ。それでたとえばヘッセなら学校の図書館でヘッセ全集から読みたい1冊を借りた。大人になってからは文庫本を買い、それなら市バスや電車の移動中に読めるので家には同じ訳者の同じ小説本が複数あるが、たとえば近いうちに読み始めたいトーマス・マンの『魔の山』は分厚い1冊本を家で読むことに決めていて、しかも70年代初頭に新潮社が発刊した世界文学全集の1冊に限る。同全集のチェーホフの巻を数か月前に読み終えたが、活字の大きさや行間など、版組がとてもよい。それはともかく、文学全集を読破したいと思う世代は昭和生まれが最後ではないだろうか。日本の出版社が文学全集を世に出さなくなったのは儲からないからだが、それは読む人が減って来て本が売れなくなったからで、それにいわゆる純文学と呼ばれる作品を今の若者はありがたがらないだろう。そう言えば日本では文学全集が新たに出なくなった頃に漫画本の売り上げが急増し始めた。筆者はそうした70年代以降の漫画には今なおさっぱり関心がない。去年か、週刊漫画をネットにいち早く載せて荒稼ぎした人物が逮捕された事件があったと思うが、『魔の山』が電子本で読めるのだろうか。電子本では分厚い全体のどの辺りを読んでいるのか実感がない。本はやはり紙に限るが、漫画世代は『魔の山』の漫画による翻案を手に取り、文字ばかりの本は忌避するだろう。
『車輪の下』の車輪は教育のことだ。教育に押しつぶされて不幸な末路を迎える少年ハンスが主人公で、かなりの部分、ヘッセ自身が投影されている。ハンスはドイツ南部の町に生まれる。父親は俗物と言ってよく、母はハンスが物心つく前に死んだ。小説の最初はまずハンスの父の描写が1頁半続く。その最後にヘッセはこう書く。高橋健二の訳から引く。「彼のことはこのくらいにしよう。この平板な生活とみずから意識しない悲劇とを叙述することは、深刻な皮肉屋だけのよくするところだろう。」筆者はこの最後の部分にしびれる。ハンスの父のような人物を主人公にした小説や映画、あるいは漫画は少なくないだろう。世の中の人間は9割が俗物で、彼らの性根に合わせた物語が人気を博す。その好例が日本のお笑い芸人と言ってよく、筆者は彼らがTVに出ていると即座に画面を切り替える。ところがどのチャンネルも同種の人間が出ていて、見たい番組がほとんどない。YouTubeも同様かそれ以下であることは容易に想像出来る。それはともかく、俗物は『車輪の下』を読まないし、読んでも理解出来ない。そのことを知ってヘッセはその小説の最初に主人公の父の俗物たる様子を書いたが、本来ならその父を主人公にして徹底的に俗物をこき下ろしてもよかったのに、元来文学書を読まない俗物を主人公にするには、書く時間や本にする費用などがもったいない。どうせ書くならもっと重要なことを優先する。そこで俗物にはより無縁の世界を描くことになり、俗物は読まなくなる。となれば世間の9割の人には無縁の書で、そんなものにお笑い芸人の芸以上の価値があるのかと俗物は思うだろうが、ヘッセが「深刻な皮肉屋だけのよくするところ」と書くように、読んでほしい人に向かってだけ本を書けばよい。そして実際そうなっている。では『車輪の下』は堅苦しくて面白くないか。全7章であるので毎日1章ずつ読めば1週間で読破出来るが、次の展開が気になって読む速度が加速し、たぶん誰でも2,3日で読んでしまう。筆者は各章の簡単なまとめをメモしながら読んだが、わずかに散りばめられた気になる言葉は小説の結末を予想させ、全7章の展開は実に見事だ。29歳でここまで書ける才能は、ハンスと同じく、ごくごく稀に生まれる。父の紹介に続いてヘッセはハンスについてこう書く。「…過去八、九百年のあいだ、有能な町民をこそたくさん出しはしたものの、能才とか天才とかいうものはいまだかつて生んだことのないこの古い小さな町に、神秘な火花が天から落ちて来た…」これはヘッセのことでもあろう。筆者は詩に関心は薄いが、ヘッセは4歳から詩を書いた。そのため『車輪の下』には詩的な描写がふんだんにあり、それがまた読み応えがある。詩から小説に進むのは富士正晴や久坂もで、富士はそのほかにも同例の人物を紹介している。そう言えば三島由紀夫も確か小学生で秀逸な詩を書いた。
ハンスは過去八、九百年遡ってもいないほどの賢い子どもで、そういう人物が俗物の父親から生まれることは不思議でない。たぶん母の血をより多く引いた。それに天才が出現してもその子孫はまた俗物になる場合がほとんどで、親子はよく似るとは限らない。ハンスは自分の賢さを自覚し、勉学に励み、10代前半で州の神学校の入試に2番の成績で合格する。これもヘッセの経験が反映されているだろう。合格後、ハンスは入学までの夏休みに、地元の牧師や校長から神学校で他者より一歩成績が先んじるためと言われ、またハンスも同意してギリシア語やラテン語を個人教授される。また引用する。「…過度の勉強にやせた少年たちが、官費でももって古典語学中心の学問のいろいろの分野をあわただしく修めて、八、九年後には、一生の行路の――たいていの場合はずっと長い――後半にはいるのである。そして国家から受けた恩恵を弁済していくわけである。」 さて、神学校の寄宿生活でハンスはどうなって行くか。数十人の少年はクラス分けされ、ハンスから見て目立つ数人の少年の描写があり、やがてハイルナーという1歳年長の男子と親しくなる。ハイルナーもヘッセが投影されている。あるいはヘッセはハンスからハイルナーになってやがて文学の道で成功した。つまりヘッセはハイルナーのたどった道を進んだが、ハンスのままであれば人生に挫折した。高橋健二が巻末の解説に書くように、ヘッセは10代でピストルを購入し、それで二度自殺を図った。それに困り果てた母親だが、ヘッセを見守り、その母の愛のおかげでヘッセは立ち直った。ハンスは母親がいない設定であるから、ヘッセは母の重要さを描いたとも言える。そこで思い出すのは映画『汚れなき悪戯』だ。そこでは母のいない4,5歳の男子が修道院で育てられて死ぬ。その映画が母親の大切さを描いた点はまさか『車輪の下』やヘッセのことを知ったためではないだろうが、尼僧に育てられる設定にしなかったところに、母性の欠落が少年にどういう影響を与えるかを問うた点ではヘッセの思想と通じている。話を戻す。ハンスはハイルナーと親友になるが、ハイルナーは学校の成績を重視しておらず、人生ではもっと重要なことがあると気づいている。ハイルナーはやがて神学校を脱走し、戻って来ない。残されたハンスはハイルナーのことを思い続け、成績は下がる一方でついに教師たちから見放される。なぜハンスが勉学に身が入らなくなったかの理由は、頭痛が頻繁に起こるなど、精神の病を思えばよい。それは詰め込み教育のせいでもある。成績のよい頃のハンスは学者がどういうことに生涯を捧げて来たかを垣間見て感動するが、ハイルナーが神学校の外に広がる世界の魅力や誘惑をハンスに伝えた。そのひとつは性への目覚めだ。ハンスはハイルナーに対して同性愛的な思いを抱くのに、ハイルナーは女性との現実的な触れ合いをほのめかす。
ハンスももともと魚釣りや森で遊び回ることが好きであった。入試合格後の夏休みはそうした自然との触れ合い遊びで暮らすべきであったのに、周囲の大人、特に教育者はハンスの天才的頭脳を知って早く専門的なことを教え込もうとし、従順なハンスはそれに応えた。そこに落とし穴があった。一方、ハイルナーは神学校の教育や生活に疑問を抱き、逃げるしかないと覚悟を決めた。それはとても正直でまた勇気を必要とする。ハンスはやがてハイルナーを見習ったように、また成績がどん底まで落ちたので、静養が必要とされ、結局自ら退学する。父は落胆し、町の人々は陰で噂をするが、ハンスは首を吊るにはどの木がいいかと探すほどだ。ハンスは実家でいつまでの引き籠ることは許されず、同じ世代のみんなより遅れて職人になる道しかない。それはかつてハンスが見下げた生き方だ。ハンスは自分が誰もが崇めるような人間になると夢想していた。ところが現実は平凡以下の境遇となり、工場の親方に辛辣な言葉を浴びせられながら慣れない工具で歯車を削る。ところがハンスはそうした仕事を通じてこれまで侮っていた職人が頼もしく見え、またそうした肉体労働者にも楽しみもあることに気づく。ここはハンスが少し大人になったことを描く。読者は天才的頭脳の少年が学業につまずき、退学して職工になることを非現実的と思うだろう。天才ではないが、筆者はハンスと同じ年齢の頃、ハンスのような境遇の人物に数人出会った。話が脱線し過ぎるので詳しく書かないが、最大の原因は母親の愛情不足だ。筆者にはそれがあった。筆者と同じ年齢の知り合いは、金持ちで上品、それにクラスを代表するほどの成績優秀であったのに、母が不倫して家を出たことで家庭が崩壊し、中卒で働き始め、17,8歳で呆気なく死んだ。自殺ではない。将来は輝く人生が待っていると嘱望されたハンスが機械工になることはあり得る話だ。ハンスの父は怒りを抑えながらそういうハンスを見守るが、それは俗物の親としても当然のことだ。この小説では第1章からハンスを優しく見守る靴職人の男が登場する。彼はハンスに向かって勉学優秀さを誉めながらも、ひ弱な体格や勉強のし過ぎを心配した。案の定、最後に彼はハンスの父に向かって教育者たちがハンスを殺したとつぶやく。ヘッセが学者になっていればこのような小説やそこに書かれる勉強第一主義に対する不信を表明したであろうか。賢い子は毎年大量に出て来るが、4歳で詩を書く子どもはきわめて珍しいだろう。そういう才能を持ったヘッセが神学校に学んでハンスのように15歳で中退し、職人ではないが平凡な勤め人になったことは、人間の幅を広げた。ただしヘッセが文学の道を諦めず、それに邁進するには経済的な問題も含めて、ハイルナーと同様の困難がつきまとった。ヘッセには、ハンスのように教育の車輪の下になって押しつぶされない覚悟があった。
高橋が書くように、ヘッセは若くしてアウトサイダーになった。詩人になるにはどうすればいいか。音楽や美術は大学で学べるが、詩を教えるところはない。それでヘッセはゲーテやハイネなど、ドイツの古典を読みふけった。それは大学の文学部に入らずとも本さえあれば出来る。だが仕事しながら読書し、その糧を創作に活かし、なおかつ世間の評判になることはそうざらにはない。ヘッセの時代にも三文小説はあり、下卑た文章で手っ取り早く金を稼ぐ道はあったろう。『車輪の下』は天才的頭脳の子どもの末路を残酷に描き、その点では現在でも勉学嫌いから賛辞を得るはずだが、ハイルナーやハンスのような成績優秀でない普通の勉強嫌いは本書を読まない。では前述の靴職人は聖書を信ずる素朴で実直な人物として描かれる。彼もハンスの父と同じく、本書でヘッセが「彼の内的生活は俗人のそれだった。いくらかは持っていた情操らしいものは、とっくにほこりにまみれてしまい、せいぜい因習的な粗野な家庭心とか、むす子自慢とか、貧乏人に対するむら気な喜捨心とかが、その身上だった」と書くような俗物であったかと言えば、そういう部分も持ち合わせながら、より人間的な優しさを自覚しているとヘッセは描きたかったに違いない。学業優秀な者は選抜されて官費で学ぶことが出来るが、本書の別の箇所にヘッセが書くように、国はそういう人物を兵士にもする。「車輪の下」という言葉は校長が一度だけハンスに向かって言う。ヘッセは教育の下敷きになって死ぬ子どもを主人公にしたことによって教育界から大いに批判もされた。一方、現在の日本の義務教育の先生の不祥事は目を覆いたくなるほど多く報告され、教育の質の劣化が垣間見えるが、義務教育に疑問を呈して中学校に行かない日本の「革命少年」は本書を読まず、ハンスの父親のような俗物になることが明らかだ。日本や韓国ではさらに詰め込み教育と歪な入試が行なわれ、かくてどの大学を出たかで人生が決まる。そこにヘッセを持ち出すと、簡単に言えば芸術家すなわちアウトサイダーとしていかに生きるかが描かれる。そのアウトサイダーの範疇に日本のお笑い芸人は当然入り、彼らはいかにTVに多く出て有名になり、金を稼ぐかに最大の関心がある。ヘッセは世界的名声を得て経済力を持ったが、ではヘッセやハンス並みの天才的頭脳を持つ者だけが読むものとして書いたかと言えば、俗世間にはハンスを見守った靴職人がいた。つまりヘッセが本書で言いたかったのは、学校で教わる知識に誰よりも長けることよりも人間らしさや優しさの重要性であった。詰め込み教育レースに勝ち残ってもろくなことをしていない有名人はたくさんいる。世間では彼らの処世術を表向きは讃嘆することもあるが、要領がいいだけの小賢しい才能であることを見抜いてもいる。本書は読むべき人は読むし、読まなくても内容の本質を深く理解出来る人はいる。
次に『知と愛』について。これは53歳で書かれた。全20章で文庫本の厚さは『車輪の下』の倍以上ある。15歳で神学校を逃げ出したヘッセは放浪癖があって、『知と愛』ではその放浪がひとつの大きな主題になっている。また『車輪の下』の神学校やハンスとハイルナーの友愛が形を変えて登場し、2冊を比べるとヘッセが加齢とともにどう変化したかがわかるが、本書では『車輪の下』では扱われなかった大きな問題が姿を現わす。それは芸術についてで、絵も描いたヘッセならではと言ってよい。本書は時代設定が明確ではないが、後半ではペストの流行が主人公のゴルトムント(金の口の意)の放浪にさらなる試練を強いるので、中世の物語とするのが妥当だろう。原題は『ナルチスとゴルトムント』で、高橋健二は前者が知、後者が愛を体現していると読み解き、『知と愛』の邦題をつけた。ナルチスはナルチシズムに由来する。ナルチスは修道院で助教師となっていて、そこに以前から申し込みのあった少年のゴルトムントが新入生としてやって来る。ナルチスは彼の数歳上と書かれる。ふたりは『車輪の下』でのハイルナーとハンスの変形だ。ゴルトムントはやがて修道院を出て放浪する。彼の母はジプシーの踊り子で、彼を捨て去り、育てるのに困った父が修道院に預けることにしたのだが、ゴルトムントは母の血をより強く引いて修道院での学びの生活に耐えられなくなったとの設定だ。『車輪の下』のハイルナーのその後を描けば、あるいはハンスが死なねばどうなったか、またどうなるべきであったかをヘッセは本書で展開する。一方のナルチスは修道院に残って学識をきわめ、やがて院長になって本書の最後辺りでまた登場し、しかも殺される直前にあったゴルトムントを助ける。本書が長い理由のひとつはゴルトムントの放浪生活を書くからだ。それは次々と女と出会い、また一緒に旅することになった同様の放浪男やまた別の男女など、冒険潭としての面白さが満載される。ゴルトムントは乞食同然のその放浪の中にいつ死んでもおかしくないが、若さがあったので出会った女のほとんどは彼と性交し、食事や金を与える。放浪する男もさまざまで、ゴルトムントは詐欺師のような男と知り合ってしばし一緒に旅をする。ある日の夜、森の中でその男はゴルトムントが衣服に高額の金貨を1枚縫いつけていることに気づき、ゴルトムントを殺してそれを奪おうとする。それを察したゴルトムントは男と格闘し、護身用の小刀で男を刺して逃げる。ゴルトムントは良心の呵責に少しは苦しむが、自分が殺されていたかもしれない。その後はもう男は登場せず、そのことは放浪者はたくさんいても、小説の主人公になるのはゴルトムントや『車輪の下』のハンスのように、秀でた知能を持つ者でなければならないとヘッセが考えたからだ。つまり俗物は俗物らしく軽く扱われ、また無残に死んで誰も顧みない。
今でも放浪を好む男はたくさんいるが、彼らの生活の典型をそのまま描いても人々を感動させる小説にはならない。あるいは俗物好きの世間では大いに読まれるが、ヘッセはそのことに関心がない。ナルチスもゴルトムントも知的で、ヘッセがそうした男を主人公として描いたのは、自身を投影するためだ。言い換えれば自分自身のことを書いた。それは俗物ではありたくないからで、ヘッセには俗物丸出しの人物についてはよく知らないと同時に熟知しているとの考えがあって、つまるところ描いても面白くないからだ。森の中でゴルトムントに殺される放浪の男は、ヘッセが実際に出会った考えの浅い、しかもヘッセを揶揄するような俗物が反映されているだろう。取るに足らないそういう男が誰にも看取られずに犬死にするのは今でも現実的だ。ヘッセは男としてどう生きるべきかと突き詰めた結果、そのあるべき姿がナルチスとゴルトムントになった。このふたりは、特にナルチスがゴルトムントに対して同性愛を感じる。立派な修道僧になるためにひたすら勉強しているナルチスは女性とは無縁の生活で、女性には魅力を感じず、野生的で知能に優れたゴルトムントに魅せられるのは自然なことだ。知をきわめる覚悟を疑わないナルチスは、『車輪の下』ではハンスに語学を教えた先生たちになる。ヘッセは『車輪の下』ではそうした教育者、聖職者に対して厳しい告発をしたが、本書ではナルチスの学問に対して理解を示す。本書の最後近くにナルチスとゴルトムントの学問についての問答があり、前者の抽象性と後者の具象性が対立する。ナルチスもゴルトムントもヘッセの分身で、ふたりの対立はヘッセの自己問答だ。そしてヘッセはゴルトムントの芸術は放浪を経て獲得されたもので、一方でナルチスから理解される、すなわち神学に支えられた広大な知に認められる必要性を説く。ゴルトムントが放浪しなければ芸術に目覚めたか。本書は放浪ゆえにゴルトムントに自省が深化し、今までには見えなかった造形の神秘さに気づくとの筋運びで、芸術には放浪というさまざまな経験は欠かせないとする。さて、ゴルトムントはペストの町や村を通過しながら、ある日マリアの古い木造を目にして感動する。母の面影を追っているゴルトムントがそういう経験をすることは不自然ではない。それに各地で宗教彫刻を見ながら、その魅力がよくわからなかったのに、ある日突然夢中になることもそうだ。ともかくゴルトムントはある聖母像に強く打たれ、その作者に会いに生き、弟子にしてもらう。親方は理解があって、弟子になる年齢をとっくに過ぎていたゴルトムントを迎える。そうして木彫の技術をおおよそ習得したゴルトムントだが、親方の職人としての生き方に疑いを抱く。そこには優れた技術による職人芸はあっても芸術性がないと思うからだ。そこにもヘッセの芸術観がある。
職人と芸術家はどう区別されるか。筆者は友禅作家を自称しているが、それは友禅の一部の工程に日々従事する職人とは違うからだ。筆者は白生地を使ってすべてを自分ひとりで制作する。また同じ作品は作らない。職人は型どおりに同じ作品を量産する。だがそこに芸術性がないとも言えない。柳宗悦が唱えた民藝は無名の民衆が量産した生活に供するものに宿る健康な美を称え、手仕事の量産によって獲得される美に着目した。ゴルトムントの師匠の木彫作品はゴルトムントが感動したように芸術性を持っていた。しかし師匠の間近にいて多くの作品を見ると、元来放浪癖のあるゴルトムントは師匠のように落ち着いた暮らしの中での似たり寄ったりのそれらの作品に疑問を抱く。ヘッセが言いたかったのは、そうした職人の作品が人を感動させることは否定しないが、さらに大きな感動はもっと過酷な経験の中からしか生まれないとの思い。ゴルトムントのような過激な生き方が一旦目覚めて造形作品を作ると、そこには柔和な暮らしに埋没している者には真似の出来ない激しい魅力が宿る。これは正しい。芸術にもさまざまあるが、真に偉大な作品は内的な多くの危機を乗り越えた者が命を削るように作ったものにしか生まれない。それは10代で何度か自殺を考え、その後多くの苦労を経験したヘッセの信条で、ゴルトムントが彫った作品はナルチスが院長の、またかつてゴルトムントが学んだ修道院を飾ることになって、いわば永遠に後世に伝わる。ゴルトムントの生き方は現代でも通用するか。ヘッセはそこをどう考えたか。ヘッセの水彩画は時代に応じたもので、ヘッセはどういう絵画が流行しているかを知っていた。そして当時のドイツ表現主義やその後の流派の作品にヘッセのそれを対峙させると、ヘッセの作は素人っぽく、手すさびに描いたことが伝わる。話を戻して、親方はゴルトムントの作品を見てギルドの仲間に加われるように独立を確約する。それはアウトサイダーのゴルトムントがそうではなくなって安定な生活を保障される職人になることだ。筆者は友禅の組合に入らず、しかもキモノと平面作品の双方を創作して来たが、そうしたアウトサイダーの立場では収入が不安定になるのか仕方がない。筆者には放浪癖はないが、同じようなことを文学や音楽などの作品分野で昔から渉猟し続けて来ている。その態度はわずかにナルチスに通じると思っているが、単なる娯楽享受と言ってもよい面がある。それで少しはそうしないためにこのブログを書き続けている。結局のところ、ゴルトムントのような放浪者が造形の精神性に目覚め、形あるものに思いを託す例がどれほど現実的かとなれば、本書に書かれるように大半の放浪者は無名で野垂れ死にする。ゴルトムントは劇的かつ例外的な存在で、それゆえ深い芸術性を秘めた作品を作り得たが、そういう稀有な例を小説にすることで却って読者はその非現実感を楽しむ。
ヘッセは三回結婚した。ヘッセの女性観は『車輪の下』にも本書にも垣間見える。ゴルトムントは性的魅力が旺盛な人物として描かれ、その多くの女性との交渉は男の読者の興味をそそる。一方でナスチスが愛するものは知であり、ヘッセは性の禁欲さをも重視していたと言ってよいが、ナルチスがゴルトムントと出会った時から愛を感じたのは、ヘッセが知的な男性を好んだことから説明出来るだろう。『車輪の下』や本書、『デミアン』その他のヘッセの小説では男性同士の出会いが主題となって、女性はさほど重視されない。母性は憧れの対象になるが、それは手の届かないところにある。本書では女性は子どもを産む能力があることによってたとえば男のようには悩まないと書かれる。そして男はナルチスのように女性を断って知の世界を追求するか、ゴルトムントのように放浪の挙句、芸術家になる。もちろんその双方に無縁の男が9割以上を占めるが、ヘッセの関心はそういう俗人にはない。本書では女性が産む子どもに対して男性が生み出す作品が対峙される。その考えはヘッセが男性であることから致し方がない。ヘッセが想像力を逞しくして女性を主人公にした小説を書くことも出来たかもしれないが、より書きやすく、より真実味がこもるのは男性を主人公にする場合になるほかない。となればヘッセの小説は女性が読んでも面白くなく、また時には女性を性の対象として物語を綴っていることに嫌悪感を催すかもしれない。本書では多くの女性が登場し、ゴルトムントはそれらすべての女性を性行為まで漕ぎつけることが出来るかどうかを判断し、それにしたがって時にはうまくものし、時には対象にせず、また時には命を賭けるほどの危険に自らを曝す。そうして出会った女性の面影をゴルトムントはよく覚えていて、彫刻の師匠を初めとして彼女らの面影を木彫り作品に刻むが、知的な女性は男性から性の対象のみの存在として見られることに憤慨するだろう。そしてヘッセの小説には大きな欠点があると言うかもしれないが、子どもを産むことを拒否する、あるいは産む能力のない女性が、ゴルトムントのように芸術に目覚めてその制作に向かう実例はある。それに芸術制作に男女の差はない。もっと言えば子どもを産んだ女性はそうでない女性より経験豊かで、彼女が芸術に邁進すれば男がかなわない作品を生むだろう。そういう例を男性が小説に書くまでも、女性作家が実践して来ている。ヘッセの小説がことさら男性の読者向きと捉える必要はなく、また女性が本書を読めば知的な男がどのようなことに悩んで人生を費やすのかがわかる。もっと言えば、ゴルトムントは女性遍歴を重ねたおかげで、立派な彫刻を作り出すことが出来た。芸術作品は男だけで作るものではなく、男女の共同によるものとの見方で、ヘッセは女性を肉の存在として軽んじたのではなく、女性がいなければ芸術はないと思っていた。
それでもなお知的な女性読者は本書を不満に思うかもしれない。ナルチスは女性がいない修道院の世界で知を深めたからだ。そういう禁欲的な僧侶の生き方は尼僧にも可能だが、尼僧で学者として名を留めた例は少ないのではないか。それはともかく、ナルチスはゴルトムントの奔放な生き方に理解を示し、羨みもする。そこがナルチスの深い人間性でもある。ゴルトムントも放浪を重ねながらナルチスを敬愛し続け、やがてふたりは再会する。そしてゴルトムントがやるべき仕事を終えた後は別れがあるのは当然で、彫刻群の支払いを求めたゴルトムントに対してナルチスはお金と馬を与える。物語の最後はその後のゴルトムントを描く。彼が修道院を去ったのは、ナルチスから危機一髪のところを助けられた直前に出会った女性に再会するためだ。その女性は総督の愛人で、ゴルトムントは彼女を町中で見つけて以来、彼女に接近し、ついには邸宅の中で逢引きを重ねるまでになったが、愛人の夫に現場を押さえられ、明朝は死刑というところにまで行き着く。ナルチスに助けられ、修道院で彫刻の制作を終えた後、ゴルトムントはその愛人のその後を知るために出かける。ところが彼女は若さがなくなっていたゴルトムントを無視する。そこには若くて強い男にしか関心のない女性の本能が示される。放浪中のゴルトムントが女性に不自由しなかったのは野生味が溢れていたからだ。しかし男女ともに齢を重ねると死が近づくだけのことで、女は子どもを育て、男は知を深めるか、芸術作品を残すしかない。もちろん大多数の男女はただ生きて死ぬだけだが、彼らがごく一部の知識人や芸術家と無縁とは限らない。人間は意外なところでつながっているからで、またすぐ近くに才能の溢れる人がいても気づかない。興味のないことは年々そうなるものだ。たとえばヘッセが生きていて電車の中で隣り合っても、そのことに気づかない人の方がはるかに多い。話を戻して、ふたたび放浪の旅に出たゴルトムントは思いがかなわず、また体力を減じていたために川の中で落馬事故に遭い、それが原因で死ぬ。主人公の死は『車輪の下』と同じだが、同作からほぼ四半世紀経っての本書では主人公は芸術作品を残して死ぬ。ハンスが生きて機械工にならずにゴルトムントのように木彫り職人に師事すれば、彼も芸術に目覚めたかもしれない。この世に職人はなくてはならないものだが、芸術はどうか。芸術は人を感動させてこそだ。それには作者が感動を源泉とする必要がある。しかし表現力の貧しさから他者の笑いものになることは多い。したがって芸術を自称するものはほとんどがゴミかそうなる運命にある。俗世間を放浪しつつ女への感謝を蓄積し、そして聖なる表現に目覚めて芸術を志すゴルトムントのような男がどれほどいるだろう。多くはゴルトムントに刺殺された口先だけの怠け者だが、得てして彼らは世間をうまく泳ぎわたって人気者になる。
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