1時間ほど無駄に過ごしてしまった。またチラシが出て来なかったからだ。先日『ニキ・ド・サンファル展』のチラシがないと書いたが、その後国立博物館の売店でたくさんあったので1枚もらって来た。

ところが、さきほど今日採り上げる展覧会のチラシを探している時に同じものが出て来た。チラシは今は大体A4サイズだが、ニキ展のはB5で、ひとまわり小さいために大きなものの間に挟まって探しにくかったようだ。チラシがなくても書くには困らないが、習慣になっているのでなければ落ち着かない。この『李朝菓子型展』のチラシはカラー刷りとは別に青い紙に黒1色て刷ったものもあったが、裏表とも全く同じ内容なので先日捨てた。チラシを片っ端からもらって来るとよくだぶる。そんな時は1枚を新聞と一緒に古紙に出す。だがこれは考えものだ。2枚が別々のところにあれば探しやすい。そうなれば同じチラシがもっとあればいいことになるが、チラシで部屋がいっぱいになる。そう言えば部屋に漫画本を溜め込み過ぎて床が抜けた事件もあった。チラシも積極的に集めている人は案外いるだろう。たまにネット・オークションで展覧会チラシを数百枚といった分量で出品している人がいるからだ。図録とは違って消耗品のチラシは残りにくいが、2、30年前のものと種々の意味で資料的価値があるはずで、そんなチラシ、あるいはチケットばかりを集めた本も出るかもしれない。チラシは会期終了近くなってもまだ大量にあちこちに残っている場合がよくあり、たぶん展覧会入場者の100倍程度は印刷している。大体何事もそのようなものだ。有名の度合いにもよるが、宣伝する割りには人は集まらない。高麗美術館も1年に4回の企画展を開催しているはずだが、いつ行ってもほとんど人が来ていない。落ち着いて鑑賞出来るのはありがたいが、経営が心配になる。近くには喫茶店がないので、館内に茶で一服させる場所があれば言うことなしだが、場所の問題よりも訪問者が少ないではそれも難しい。展覧会が「菓子」をテーマにするから、お茶と菓子を連想してしまったが、近年はめったに喫茶店に入らなくなった。喫茶店でケーキつきのコーヒーなど頼むと1000円近くかかる場合が普通で、食事と同じかむしろ高くつく。ならば菓子を買って帰って自宅でゆっくりする方がいい。
京都の繁華なところの喫茶店はもうほとんど入ったことがあるが、昔三条河原町西の針で有名なみすやの向かいに駿河屋だったろうか、和菓子屋があった。その2階が和風喫茶店になっていて、もなかつきの茶をよく注文した。内容の割りには安く、またちゃらちゃらした若者が入って来ないので落ち着いた雰囲気であった。いかにも京都らしい喫茶店であったのに、一等地であればもっと売り上げがなくてはならず、そうした店はどんどん消えて、どの都市にもあるチェーン店ばかりが増える。何でもお金で買えるという感覚はよくないと言いつつも、結局はお金の原理にしたがって店が潰れてどんどん新しいのが建つ。先月にも書いたが、高麗美術館を開館した鄭詔文氏もパチンコ経営などで儲けた資金があったからこそ多くの朝鮮美術の品々を収集することが出来た。つまり、まずはお金であって、筆者も昔はよくこう言われた。「好きなことをするには金を先に儲けて中年以降に趣味でやればよい」。実際そのようにして中年から始めた作家活動によって名を残している人はいくらでもいる。それゆえ、お金にも無縁、しかも無名のままの筆者は昔忠告してくれた人からすれば物笑いのタネだ。話は「もなか」につなげるつもりだった。もなかは最中と書く。何かの最中に最中を食べたりしたのでこんな漢字を当てることになったのかなとかアホらしいことを思ってしまうが、最中で一番美味しいと思うのは、先日いただいた博多の仙厓もなかのような漉し餡入りのものではなく、粒餡の仙太郎最中だ。高いのでめったに買わないが。話の最中で脱線ばかりする。朝鮮半島の伝統菓子には最中はない。今は最中でも羊羹でも何でもあるが、菓子はやはり日本があらゆるものが昔からあった気がする。特に干菓子の工芸的な美しさは他国には例がなく、同じ菓子型でも日本のものはきわめて精巧に出来ている。これも前に書いたが、3000円ほどから骨董店で売っているこの干菓子の木型を使って、砂糖の代わりに和紙の材料を流し込んで紙のオブジェを作って売っている人がある。昔の木型をそのまま使用していて、その点は全く物足りないが、筆者ならまず自分でオリジナルの木型を作ることを目指す。

日本の菓子型の精巧さと朝鮮半島のそれを比較してどちらが美術的に優れているかを論じて結論づけるのは簡単なようだが、同じ菓子型の点で比較出来そうでありつつ、日本と朝鮮の菓子とで素材や作り方が異なるのであれば、そもそも比較は無茶だ。それでも精巧な工芸菓子を頂点に持つ日本の菓子とそういうものはない朝鮮半島の菓子とでは、人々の美の捉え方がかなり異なっているとは言える。どちらが優れているかどうかの問題ではない。それは視点を変えればいくらでも逆転する。何事もきちんと整った造形に最上の美が宿るとは言えないし、これは一見落書きに見える仙厓の絵が筆者にはほとんど日本の最高の美術に思えることからもわかる。その意味で言えば朝鮮の美には仙厓に近い自由自在の精神の溢れるものが少なくなく、たとえば李朝の15、6世紀の粉青沙器に見られる線刻模様はマティスの線描を越えているものがよく見られる。そうした粉青沙器における線描の装飾によく表われている感覚がたとえば菓子の模様にも見られるのは当然と言えるだろう。日本の菓子型のようなかっちりときれいに彫ったものもあるが、直線が歪んでいたり、模様も不揃いになっているものが目立つ。よく言えばおおらか、悪くいえば雑なのだが、これは菓子の種類がそうさせてもいることを考えねばならない。食べ物は、陶器のようなある程度の耐久性を持った道具類とは違ってすぐに腹の中に消えてしまうものであるので、長らく飾っておきたくなるような精巧な工芸品のようなものは、儀式に用いる以外は本来はあまり必要とはされない。ある程度保存が利き、しかも季節感を重視する日本の干菓子は茶道という儀式文化の中で洗練されて行った造形であり、同じように婚礼には鯛をかたどった砂糖菓子などが各地にあって、これらは日本の瑞祥模様の文化とつながって生み出されて来た。この瑞祥模様は中国や朝鮮でもある程度は共通するが、儒教国であった李朝においては、日本とは違う一種禁欲的でしかも限定的と言おうか、模様の氾濫というには多様なものが展開しなかったようだ。「ようだ」と書くのは、今回の展覧会のわずかな展示を見ただけであるからだ。華やかな花や蝶、魚、家屋などの模様があるのは当然で、「義」「忠」「富」「貴」「福」「寿」など漢字をそのまま用いたものや平行線で埋め尽くした抽象的な模様のものは日本には見られないものだ。
展示されていた菓子型は「餅型」「薬菓板」「茶食板」の3種で、いずれも19世紀以降のものだ。消耗品に近いものなのであまり古いものは残っていないのだろう。また、おそらく同じような型がずっと繰り返し再生産されて来たはずで、19世紀のものでも充分古いものを代表しているに違いない。「餅型」は文字どおり餅に用いる施文型で、トックサルと呼ぶ。朝鮮では餅の種類は多い。また餅に模様をつける行為は日本とは違っている。糯米(もちごめ)、粳米(うるちまい)、小麦、蕎麦などの穀物から作るものをトックやピョンと呼び、「蒸、搗、焼(揚)、茹」の4つの作り方がある。トックサルには単体のものと一面に数種の文様を一度に施す並列形がある。単体は陰刻を施した白磁が多いが、逆に陽刻を施したものも稀にある。もちろん陰刻の形を使用すると、餅の表面の線模様は凸状に表われる。白磁のほかに飴釉の陶製や木製もある。この単体のトックサルは日本の茶人が釜の蓋置きに使用する場合がよくあるという。並列形もスタンプの原理を使用する点で変わりはない。蒸して搗いた餅の生地を平らに伸ばし、その表面に押しつけた後、餅を切り分ける。台所の壁に引っかけられるように細長い板の端に穴が開けられている。次に「薬菓板」。これは伝統菓子ヤックァの型で、4、5個のさまざまな模様を一本の細長い木に彫ってある。ヤックァは小麦粉に胡麻油、蜂蜜、酒、生姜汁などを混ぜ合わせて型に入れて押し固め、油で揚げた後に表面に蜂蜜を塗って作る。「茶食板」も伝統菓子用の型だ。「薬菓板」と同じように30センチから60センチほどの長さがある。茶食(タクシ)は白胡麻、黒胡麻、緑豆、松の花、片栗に蜂蜜を加えて捏ね、型に詰め入れて押し出して成形する。日本の落雁と似ているのでそう訳されることもある。「餅型」「薬菓板」は日本にはない菓子と言ってよく、たとえば伸縮する餅であれば、日本の干菓子のような精巧な型は不要だ。日本の干菓子に近いものは茶食で、これは会場に実物を型に詰めて押し出したものが展示されていた。日本の干菓子とほとんど同じ仕組みで作る。
この茶食の実物を見ていて連想したのは、日本の土メンコだ。子どもが遊ぶメンコは通常は長方形の紙製だが、伏見人形にも例があるように、江戸時代は土で出来ていた。直径は2、3センチほどの円形で、表面にさまざまな模様がある。これは土を型に入れて押し出し、素焼きして作るが、本格的な窯がなくても七輪で充分作れる。どうせ子どもが壊して遊ぶものであるので多少雑に出来ていてもかまわない。伏見人形では今はきれいな色を塗ってもっぱら飾りものとして作るが、土のうえでの遊び道具であれば素焼きのままでもかまわない。茶食はこの土メンコと形も大きさもほとんど同じだ。伝統菓子とあるからには朝鮮にも民衆が通常に食べる菓子があったはずだが、それらは日本の駄菓子のように、形に工夫を凝らして美を表現するものではないだろう。駄菓子で思い出した。話はまた脱線する。筆者がまだ小学1、2年生の頃、家のすぐ近くに駄菓子屋があった。ある日10円で糸のくじを引くと、1等が当たった。上位3等までが大きな砂糖菓子であった。食紅を使って派手に染めた鯛が2等で、1等はその倍ほどもある抽象的な変形の四角い形をしたものであった。筆者は迷わず2等の鯛をもらった。優しそうなおじさんはそれでいいのかいといった表情をしていた。1等であるから大きいものを選べばいいものを、その時分から筆者は実質よりも美的な何かの方が好きであった。また子ども心ながら「めでたい」の鯛であることをよく知っていた。砂糖の固まりの鯛を持って帰って妹ふたりに示しながら、数日は食べずにそのまま飾っていた。尾鰭を曲げていかにも威勢のよい形をしていたが、鱗の1枚ずつまではっきりと見えるそのレリーフの裏側を見ると、全体が上げ底になっていて、どの部分も数ミリ程度の厚みしかない。そのため壊れやすかったが、今にして思うとそんな菓子をどこかで誰かが毎日型を使ってせっせと作っていたわけで、その見栄えをよく見せる技術に感心する。それに昭和30年代の駄菓子屋は、まだそんな伝統的な菓子型を使った砂糖菓子を一部に置いていたのだ。
菓子型以外に「女性の身のまわり」の品々の展示もあった。面白いものとしてはまずシルベという糸巻きがあった。朝鮮では男性の文具四友(墨、筆、紙、硯)に相当するものとして女性の閨房七友と呼ぶものがあり、その中のひとつが糸巻きだ。日本にはない大きさと形をしていて、どれも平らな木製で左右対称、中間部がくぼんだ形をしている。丸みを帯びたものや直線の集合で出来たものなど、4点ほど出ていたが、どれも形が違ってしかも逞しい美しさがあり、いい色艶はかなり使い込まれたことを示す。糸を巻く以外に使い道があれば面白いが、菓子型のように本来の使い方をされる時が最も輝くであろう。後は裁縫時に使用する彩り豊かな布製の指貫やポジャギ、女性の婚礼衣裳などで、この美術館の収蔵品の豊かさをよく示していた。19世紀の「螺鈿吉祥文字文箱」は大人がひとりで抱えるのにようやくといった大きさをしていたが、箱全体を埋める螺鈿の豪華な輝きには驚いた。不揃いな形にカットした貝をほぼ隙間なくランダムに全面を埋め尽くしているため、見る角度によっての光沢の変化は著しい。そして箱の蓋と身の各側面中央には直径10数センチの円形が1個かたどられて、その内部は焦茶色の漆地に漢字一文字を同じく貝の螺鈿細工で表現していた。漢字は全部で8つある計算だが、背後に回って鑑賞出来ないため、向こう側のふたつは見えず、「富」「貴」「多」「男」「昌」「成」の6文字だけがわかった。それでもこの6文字から、いかに男児を多く生むことが家の反映にはよいとされたかがわかる。今の中国は特にまだそんな社会だが、日本でもかなりの部分はそれは同じだろう。