「
磔の 花の枯れ色 血の乾き 聖の徴の 標本無残」、「朝に散る ハート花弁の 牡丹かな はらりはらりと はかなき命」、「くしゃくしゃと 折り畳まれし 花びらを 押し広げるや 命継ぐため」、「折り紙を くしゃくしゃ丸め ぽい捨てる 創造主の 失敗作や」
今年もわが家の裏庭の白い牡丹が満開になった。2月に誤って新芽のついた細い枝を一本折ってしまったが、花の数は去年とおそらく同じく12個で、せせこましい場所でしかもトイカメラでの撮影でもあって、全体を1枚の写真に収めることが難しい。それで適当に部分を撮ったが、本当は写生するのが一番よい。そう思いながら昔にたくさん描き、それらをほとんど作品制作のために使用していないことに思いが至る。そこでまた連想するのは村上華岳の水墨による牡丹図だ。彼はそれらの絵を牡丹の開花を写生し、それを元に画室で描いたのだろうか。そうとは思えない。応挙や北斎のような写生に基づいた精密さはないからだ。写生はたくさんしたはずだが、紙に向かって筆で墨の汁を落とす時、写生や観察を通じて抱いた牡丹の花に対する思いを想起しながら、傍らに置く写生は参考程度にしたに過ぎないのではないか。筆者もそれに倣って和紙を買い込み、牡丹の墨絵を描きたい思いが昔からあるが、一方で書にも興味があり、結局思うだけで実行に移さない。筆者は何事に対してもそうだ。実際に事に当たればすぐに作業を終えるのに、その事に当たるまでの時間が場合によっては何年もかかる。そうして気がかりをたくさん作り続けることがいいのかどうかわからない。気がかりの大半はやがて忘れてしまうから、本能的に精神衛生の悪化については操作しているはずで、筆者は楽天家と思っている。華岳の牡丹図に話を戻すと、華岳はとにかくたくさん描き、気に入った作に署名をしたはずだが、その気に入りの判断は常に狂いがないとは言えず、若干の迷いがある場合もあったはずだ。それを証明するのが、華岳はかつて描いた作品を回収し、別の作品と交換し続けた行為だ。それだけ正直であった。自分に対して、そして作品を買った人に対して。人手にわたった作品を記憶しながら、気に入らない箇所が気になり続け、やがてその作品はこの世に残ってはならないと考える。そして別に新たに描き、これならと納得出来る作品と交換したのだが、その行為は終わりがない。華岳は生涯に2万点ほど描いたと『画論』に書いている。それほど描けば気に入らない箇所のある絵が混じっても当然で、それらを回収したい気持ちはわかる。しかしそれを徹底すれば満足の行く作品はごく少数になる。実際そうであったはずだが、さして高額でない画料に見合う作品となると、牡丹の水墨画の小品のように数分で描いたような作品になるのは仕方がない。そういう小品でももちろん気に食わない箇所が混じれば人手にわたることが我慢出来ない。
その判断は華岳にしかわからなかったが、絵心のある人には通ずる。そうでなければ作品行為は全くの無駄骨となる。人間が作品を作るのは個人の欲求によるが、そうして生まれた作は何らかの形で必ず人の心に響く。その響き方は作者の意図と相いれない場合があるが、共鳴はもちろんあって、その場合は作者と鑑賞者の心が一致したことになる。それがあるので名作と呼ばれるものが生まれ得る。華岳が気に入らない自作を回収し続けたのは、そうした他者の目の意識を重んじたからではない。自分の目で見て許せない箇所が気になり続け、それを消し去りたい思いによる。なぜならそういう箇所に必ず気づく人が存在することを知っているからだ。これは当然のことで、自分に正直であらねば、その不誠実さにかすかにでも気づく人はいる。華岳の水墨画の小品を見ながら、筆者はどれもさすが華岳とは思えないことがある。そうした作は華岳が回収したかったのにそれがかなわなかったものかもしれないが、前述のように気に入らない箇所は気にし始めるときりがない。そのことは華岳も知っていたはずで、厳しく見れば瑕疵と言えるかもしれない部分、すなわち迷いの箇所を抱え込みながら全体としてまあ許せるかという小品を量産したと想像する。全体として許せることはとても大事なことだ。それは一見したところによる迫力があることで、華岳の作にはほとんど必ずそれがある。それを手応えと言ってもよい。その手応えは他者に伝わる。そして瑕疵らしき点をもちろん含むが、場合によってはそれを含むことで却って真実味があると感じる。人間と同じで、瑕疵のないものは存在しない。あるいはそういう見方をすることのおおらかさを華岳の作品は伝える。「玉に瑕」という言葉があるが、無傷の玉は理想ながら、おそらく人間が作るものにはそれは存在しない。そして傷と思えるわずかな箇所を含みながら全体が神々しい作品こそが理想と言ってよい。筆者が華岳の絵を見ていつも感じるのはそのことだ。つまり人間的なのだ。弱い箇所、迷いの部分を含みながら全体が美しい。それは語義矛盾のようだが、駄目な部分にも味わいを認めるべきなのだ。またその量が全体に対して気にならないほどごくわずかであれば、ひとつの特質、個性として認めるのがよい。人は誰でも個性が異なるから、いかに絵画好きであっても世間で名作とされるもののすべてのよさを理解し、惚れることはあり得ないだろう。華岳の牡丹の墨絵にしてもそうで、筆者はどの作も手放しで賛辞を贈らない。それで自分でも描いてみようという気になるが、筆者が最も好きな牡丹の状態は蕾に燃えるような赤っぽい色と形で小さな葉が天を向かって群れ出て来ている様子で、毎年その頃になるとそわそわする。だがそういう状態の牡丹を華岳だけではなく、どのような画家も描いたことはないだろう。
華岳の牡丹図も必ず大輪の花を中心に描き、蕾や半開きを添えものにする。その考えは月並みで筆者には面白くないが、牡丹の花の見どころは大きく開花した様子にあるのであって、どのような色の花が咲くのかわからない蕾状態では絵にならないか、なってもそれを喜ぶ人はほとんどいない。牡丹の花は綿密に写生するのはかなり面倒で、それほどに皺の多い花弁がたくさん花芯を取り巻いている。それは風で揺れ、すぐに形を変えるのでなおさら精密な写生に意味があるとは思いにくい。ただし全開の牡丹の優美さを知るには何度かはそうした写生をする必要はある。問題はその先だ。素描を元に本画を描くとして、華岳は精密な写生を元にしたような作は描かなかった。それよりももっと手軽な、瞬時に勝負が決まる水墨画を選んだ。その技法では花弁の1枚ずつを精密に描くことは無理で、開花全体をたらし込みの技法で一気に捉えることになりやすく、華岳の牡丹図はみなそうしている。その技法であれば真似をしやすい。葉をどう描くかの問題が残るが、絵の中心は構図の大部分を占める花だ。その迫力さえ表現出来れば葉はほとんど添えものとして描けばよい。もちろん華岳の牡丹図は花も葉もさまざまに変化を持たせ、定型に陥らない工夫の跡を示している。それは華岳に迷いがあったためか。その部分もありながら、牡丹の開花を前に毎かい新鮮な思いにかられ、その思いに忠実にしたがうと、以前描いた方法は消し飛び、結果的に新たな牡丹図が生まれた。筆者は毎年牡丹の花を見ながら毎年同じ感慨を覚えるかと言えば、牡丹は変わらずともそれを前にしている筆者は年々老いているので、おそらく毎年わずかに違う思いを抱いている。そしてはっきり言えることは自分の寿命を考えると、もう何十回も開花を目の当たりにすることは不可能で、焦燥に駆られるような気分が年々増す気がする。そのことを華岳に重ねもする。華岳は病弱で、苦痛にもがきながら描き続けた。その労苦は健康な人にはわからない。そしてそんな華岳がどのような気持ちで牡丹の開花を見つめたかと思う。さて、筆者が毎年微笑みながら裏庭の牡丹の開花を見るのは、花芯に必ず黄金虫が花粉まみれになって寝そべっている様子だ。それを描いた絵は筆者が知る限りないが、牡丹の花の中心に黄金虫を添えることはあまり絵画的ではない。そこで虫から見た牡丹という大きな白い部屋とその外に見える筆者の姿を想像するが、それはアニメでは表現出来ても、もはや一幅の絵画の題材ではない。筆者はその黄金虫の気分になってみる。白いシーツとカーテンに囲まれた牡丹部屋の中心に甘い蜜があり、黄色い花粉が取り巻いている。一期一会として黄金虫は牡丹のベッドにしばし眠るが、その驚きを伴なった喜びは生涯で最良の思い出のひとつだろう。そして牡丹も黄金虫も毎年新たな命を繰り返す。
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