「
陪席を つきあいでする 薄き仲 賛辞飛び交い 作り笑いし」、「嫌われる わけがわからぬ 愚か者 気に入る人に 優しさを見せ」、「老いるほど 人は子どもの ままと知る 賢き子でも 学成り難し」、「ミニマルの 暮らし実践 ホームレス ミニマル命 死ぬまで惜しみ」

今月8日に京都国立近代美術館と京都文化博物館に出かけ、後者では予期せぬ形で原派の絵画展を見た。同展のみ見る場合、入場料は500円だが、昨日感想を書いた『知の冒険』展を見る人は無料で本展開催の3階の展示室にも入ることが出来る。この3階にはフィルム・シアターがあって日本の古い映画が上映されている。昔はよく見たものであるのに、同館そのものにめったに訪れなくなった。本展はチラシによれば2022年度の総合展示と題され、1年に一度の同館のみでの企画展示のようだが、2月18日から4月9日までの会期でさほど長くない。本来なら京都国立博物館辺りで開催されるべき内容で、原派の展覧会としては未発表作品を多く含む初めてのまとまった内容であったと思う。ただし原派は江戸時代中期以降の京都の画派としては円山四条派や若冲、蕭白の人気に隠れて印象は全く強くない。そうであるところに京都独特の「はんなり」の言葉にふさわしい画風で、京都本来の性質を代表しているように思う。ただし原派の絵画は見る機会に乏しく、創始者の原在中にしてもたまに展覧会でいくつかの作品に触れる機会はあるものの、代表作が何かがわからず、そのことは本展でも感じた。一方、原在中の掛軸を競売会などで見てその筆力に驚くことはあって、さすが名だたる派を築いたと納得させられるが、そうした力の入った作品にしても若冲や蕭白のような奇抜な個性はなく、署名がなければさてどの画家の作かと首をひねる。それは筆者が原在中の作品をほとんど知らず、したがって特徴的な画風を把握していないためでもあるが、きわめて洗練された画力は確かによく伝わり、改めて江戸時代の京都の画家の才能の広がりを思う。それは若冲や蕭白、応挙や呉春の絵画だけ見ていては決してわからない京都らしさで、しかもその実態が作品を通じておぼろげにわかるだけであるので、たとえば原派の作品を本展のようにまとめて接することは、江戸時代の京都の絵師がどのように画風を展開していたかを知るうえで欠かせない。当日本展は4つ目の展覧会でしかも夕刻であったので20分ほどでそそくさと見終えたが、そこには別の理由もある。それはどの作品も個性が強いとは言えず、琳派を含めさまざまな画風の総合でしかも若冲や蕭白の奇想性や応挙の写生性を省いた無難な室内装飾画と言ってよく、その目立つ個性を主張しないところに見どころがあると感じたからだ。そういう作品は江戸時代でも平凡と認識されたはずだが、世間には平凡な人や平凡さを愛する人が圧倒的多数を占め、平凡で無難な作品の需要のほうが圧倒的に多かったに違いない。
「はんなり」の意味は京都に住めば何によって手っ取り早く知るかと言えば、キモノがその代表だ。皇族が着用するキモノはすべて「はんなり」とした色と柄行きで、自己主張が全く強くないところにこそ自己主張性がある。遠目に目立つ濃い地色を絶対に使わず、全体に花が咲いたような明るい色を使い、遠目には何がどう染められているのか判然としない。皇族は洋服でも素っ気ないデザインのものを着用するが、そこには目立ってはならず、また成金が好むような派手さは全く必要がない身分であることの主張性がある。その目立たないがきわめて上品というファッション性は皇族には必須の基本で、キモノでは「はんなり」の言葉にふさわしい色と文様のものが選ばれている。キモノ作家である筆者からすればそうしたキモノは古典柄を得意とする作家であれば誰でも簡単に作り得るものに見えるが、友禅を基本に刺繍や箔を併用し、多くの職人の分業によって作られたものだけに個人のキモノ作家には物足りないながら、ひとりでは作り得ない。皇族がたとえば人間国宝の個性の強いキモノを着用することは特定の作家の支持とみなされ、決して許されない。そうしたキモノは芸能人か無名の大金持ちが購入する。彼らの社会では目立つことが自慢であり生き甲斐であるからだ。皇族は衣装でことさら目立つ必要はなく、また衣装の目立ちは下品とみなされる。したがって繰り返せば、キモノは上品な色柄、すなわち個性のないところに強い個性が逆に感じられるものが選ばれる。その伝統は皇族が存在し続ける限り変化しないはずで、彼らは紅型や個性の強い作家ものを着用しない。無個性はすべて上品ではんなりかと言えばそんなことはない。きわめて安価な洋服とぱっと見は大差がないようでも、生地や縫製など、手に取ってみれば歴然とした差がありながらさほど目立たない服があることは誰でも知っている。上品でありながら個性をことさら主張しないことは人物にも言え、その代表が皇族と思えばよい。そしてはんなりしたキモノがどの身分の女性にも似合うかと言えば、そんなことはなく、顔立ちが目立つ美人は個性的な作家ものが最も似合うであろうし、沖縄の女性なら紅型がやはり顔映りがよいだろう。ところが皇族は皇族という最も強い「肩書」によって皇族全体を象徴するような色や柄のキモノを一種制服の用に着用することが暗黙の鉄則になっている。彼らはそのことに不自由を感じず、またそのことで皇族たり得ることを熟知している。原派の絵画は現代の皇族女性が公式場面で着用するキモノのようなもので、はんなりとした味わいに特徴がある。それは誰が見ても上品ではあるが、印象に薄い。また印象に薄いゆえに上品さを保っている。そういう絵画が江戸時代に愛好されたことは想像に難くない。奇抜な若冲画よりも無難で華やかな絵のほうが客を迎えるには理想的で、飾る場に上品さをもたらす。
本展は「はんなり」の代わりに「典雅」という言葉で原派の絵画を形容している。典雅は「手本となる正しき雅びさ」の意味であるから、天皇が住まう京都らしい誇りの言葉だ。それを原派が代表していたと見る向きは、流行画派の円山四条派やそこから外れた若冲や蕭白、また文人画の大雅や蕪村の画風を思い出せばわかりやすい。鶴沢派の創始者の鶴沢探山は原在中より1世紀ほど前の生まれで、また同じ頃に土佐光起がやまと絵の土佐派を再興し、狩野派から分かれた個性的な画派が京都には次々に出現したが、歴史の浅い江戸とは違って江戸期の京都では、月並みな言葉で言えば百花繚乱の画風が花開いた。それゆえ現在から見てどういう画風が江戸時代の京都を代表したのかを正しく知ることは難しく、個人の好みに応じた画風、画家が特別大きな存在に見えるが、それが江戸時代において正しかったかどうかはわかりにくい。また江戸時代に書かれた文章による評判からすれば圧倒的に応挙が偉大な存在であることは間違いがないが、その人気は斬新な筆法が流行に乗じたものと言ってよく、それだけに応挙の弟子筋の作品は個性が乏しいものと目され、明治まで流派として生き残りはしても技術を伝えるだけのものとなって行った感がある。それを言えば原派もそうだが、どういう顧客を得てどういうところにもっぱら描くかという棲み分けが絵師にはあって、原在中は若冲や蕭白のような前衛ではなく、逆に古典に準拠し、その雅さを失わずに普遍的な個性を表現して行く方向性にあった。それは前述したキモノで言えば伝統的な文様を華やかに染めるものを思えばいいが、そうした悪く言えば月並みな作品でも作り手が変われば雰囲気は変化し、安っぽく見えるものもあれば典雅の極致を示すものがあり、皇族が着用するのは後者であるのは言うまでもない。つまり原派が長らく続いたのは、絵がほとんどわからない人が見ても何となく上品さが伝わるものであったからで、絵を飾る場の空気を奇妙に高揚させるものではなく、後で思い返しても細部まではよく思い出せないものと言ってよい。つまり若冲や蕭白の絵とは対極にあるが、それだけに飽きが来ない。芸術の世界は評価としては奇抜な画風を確立した画家の連なりによって構築されるが、それに対して傍流という言葉はふさわしくない一種「用の美」に徹した画家、画派の系譜がある。「用の美」という表現はふさわしくないが、ある特定の場にはそこにふさわしい装飾の絵画が必要だ。たとえば狩野派のようにそうした絵画を受け持つ流派があって、原派は絵の受注が途切れることのない方策を採った。それは現代で言えば会社のような組織を持ち、ある団体の専属になることで、本展チラシの説明文に「春日大社の絵所職を株として購入し、門外不出の絵手本を手に入れた……」とある。
子孫まで続く家業として絵を描くのであれば他の商売と同じように安定を求めて当然で、また他者より抜きん出る方策を採る必要がある。つまり原派の絵画は大工や塗師、その他の職人と大差なかったと言える。それで一代で終わった若冲や蕭白のように一級の芸術とはみなしにくいが、若冲や蕭白にはない典雅さを個性として保ったのであればそれだけ多くの人に画風が歓迎されたことでもある。皇族が着用する上品ではあるが、無難で印象にほとんど残らないキモノと同じで、移り代わりが激しい世間の流行とは一線を画しながら、しぶとくいつまでも基本の代名詞のように残って行く。ただしやはり現在の審美眼からすれば、人々が見慣れているのは個性の強い絵画で、本展を筆者が20分で見終えたことは、典雅さは充分承知しながら、やはり物足らない、印象に残りにくいからだ。ただし、若冲や蕭白のような一代限りの絵画はその代で主張すべきことは言い尽くしたものであって、彼らの絵画から新たな個性は生まれにくい、あるいは生まれ得ない。そのことは歴史が証明している。それで現代の画家は案外原派のような古典の基本に立脚した絵画から自由にさまざまなものを汲むことが出来るのではないか。ただしその結果は若冲や蕭白がたどった道になりやすい。そうであってもその基本として味も素気もない原派の絵画を学ぶ必要はあろう。30代の筆者が染色工房を主宰していた頃、外注として10歳ほど年長のローケツ染め作家が出入りしていた。彼は美大を卒業して食べるために染色の道に入ったが、友禅の文様や染織が伝統的に扱って来た文様などの知識は皆無で、それゆえ染める帯やキモノは蝋を実験的に使ったいわば前衛的なものばかりであった。そうした作品は市場では珍しいのでわずかに需要はあったが、不況になると売れ行きが鈍る。筆者は友禅の前衛を目指しながらも古典文様の写しは怠らず、伝統的文様がどのように構成されているのかを探りながら写生を通じて独自の文様を構成した。伝統無視はそれはそれでひとつの方策で、誰も見たことのないような作品を生むが、帯やキモノは「用の美」であって前衛絵画ではない。古典を学ぶことは欠かせず、そのうえに新たな文様が開花する。ただし、古典を崇拝するあまり、無個性に近い作品ばかりを作ることになる可能性は大きい。それでもそうした作品が大多数を占めるのが呉服業界であり、どの作家、職人も暗黙の了解の中で古典の焼き直しを続けながら、わずかな個性の差を示す。またそうしたことが許される業界でもあったが、特にバブル以降は色の好みが激変し、古典文様とは無関係な柄行きのものが占める割合が大きくなったように思う。それでもなお、あるいはそうであるからこそ、皇族が好むような典雅な、悪く言えば昔から少し変わらないキモノや帯が作り続けられる。
キモノや帯を芸術とみなさなければそれでもよいが、一方では強い個性を主張し、これまでになかった文様や配色のキモノを作りたい者が輩出し続ける。原派は有職故実を学び、ついには正倉院の宝物を描き写すことまで許されて、過去から汲む資料はどの流派よりも豊富に持っていたと言ってよい。逆に言えば古典にがんじがらめになるあまり、斬新な画風を築けなかったが、その必要を感じなかったとも言える。どういう客層を相手にするかは芸術家にとって死活問題だ。より多くの客を得るには多くの人が歓迎するものが何かを把握する必要がある。芸術家や芸術を愛好する人はいつの時代でもごく少数派であり、そういう人が時代を画する芸術を後世に伝えるが、一方ではそういうことにさほど関心がなく、作品行為を家業として代々継いで行くことを最優先に考える者がいる。また原派が活躍した時代は写真印刷技術がなく、絵を描く仕事は豊富にあった。ところで日本を代表する絵画としてたとえば北斎の「神奈川沖浪裏」があるが、その縮小印刷版画を外国人を招いて日本文化を紹介する一般人が部屋に飾っている場面をTVで見たことがある。外国人にも知れわたっている有名な作品であるのでサービスのつもりもあってそうしているのだろうが、筆者はこう考えた。たとえばヨーロッパの同じような場所に行った時、その部屋の壁にフェルメールやゴッホの名画の印刷が目立つように飾られていれば、筆者はその人の芸術性のなさにがっかりする。ところが有名ではないが、明らかに18世紀以前とわかる肖像や風景の油彩画がさりげなく飾られていると、さすがに歴史の重みがあると感じる。それと同じく、前述の日本人は北斎の印刷画ではなく、ほとんど無名であっても江戸時代の本物の絵画を飾るべきで、そのひとつとして原派がよい。外国人はその絵の作者が有名かどうかは知らないままに、明らかに江戸時代のものであり、また北斎の絵にはない典雅さを感じる。そう考えると原派の作品は時代遅れになったものではなく、いつでもひとつの戻るべき拠り所として捉え得る。そう思いながら筆者はやはり本展によって原派の魅力を堪能したとは言い難い。それは若冲は蕭白のように一瞬で目から脳へと見どころがわかりやすく入って来ないからだが、それは言い変えればどの絵のどの部分もどこかで見慣れたもので、全体をぼんやりと眺めるだけでわかった気になるからだ。またそうした見方は正しいのであって、鑑賞者の意識をざわつかせず、気づけばそこに何となく落ち着く絵が飾られていることに思い至る。ただしその思いは原在中の代表作を含めて何度か見て行く間に変わる可能性がある。そのためにも研究家たちが代表作と認める作品を市場から掘り起こし、それを網羅した企画展が京都国立博物館で開催されることが望まれるが、本展がその契機になるかもしれない。
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