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●『知の大冒険 未来のために残すもの―東洋文庫 名品の煌めき―』
覗き 空色写し 水臭き 何度も潜り 深き藍知る」、「知らぬこと 知りたきは湧く 滝の水 多岐にわたりて 知る時間なし」、「知らぬまま 心騒がず 年重ね ああ知ったこと 次々忘れ」、「少しでも 心残りを 減らそうと 本を取り出す 勇気忘れず」●『知の大冒険 未来のために残すもの―東洋文庫 名品の煌めき―』_b0419387_00282500.jpg 今月8日は京都国立近代美術館で甲斐荘の展覧会を見た後、久しぶりに京都文化博物館に行き、9日まで開催されていた企画展を見た。今日はそのことについて書く。天理大学附属図書館は150万冊の蔵書がある。本展で紹介された東京文京区にある東洋文庫は100万冊で、国宝と重文の数は天理大学が6点と82点、東洋文庫が5点と7点で、ひとまず天理大学のほうが重要な本が多いとみなしてよい。東洋文庫は東洋学に関する図書を専門に集めるアジア最大の研究図書館とされる。蔵書の最初の核となったのは三菱財閥3代目の岩崎久彌が中華民国総統府顧問のジョージ・アーネスト・モリソンが収集していた中国に関する蔵書で、それを岩崎が一括購入し、後に日本を含めアジア全域の図書を収集し、1924年に東洋文庫を設立した。本展で写真を使って紹介されたが、戦時中はモリソンから購入した蔵書を東北に疎開させ、村人たちが本を収納していた蔵を守った。本は戦災で焼けること以外に豪雨で水に浸かっても駄目になるから、稀覯本は金額に換算不能なほど貴重と言える。そうした本の価値がわかる人がいつの時代にもいて、本展の副題「未来のために残すもの」として次世代に伝達して行く。形あるものは必ずこの世から消える運命にあるので、脆弱な紙の本は数千年も保存されるかどうかは疑わしい。その間に人間は何度も戦争し、本を疎開させても爆撃に遭う可能性はある。本展で展示された130点ほどの本は、目録を見ると最も古いものが10世紀から12世紀の平安時代に書写された『文選集注』で、国宝になっている。それは例外的に古く、大半は2、300年前、古くても400年ほど前の本で、紙の発明、活版印刷の歴史が浅いという理由もあるが、紀元前のギリシア時代の彫刻や壺がたくさん残っていることと違って本は物理的に残りにくい。当然古いものほどそうで、文字のみの本では何度も書き写すか、出版し直されて来ている。それら古典は同じ内容のものが現在文庫本などの安価な本で読める状態にあり、物理的に本は消えても人類が存在する限り、古典は読み継がれて行くと考えてよい。そうした古典本の最も古い刊行本を手にしたいのは人情で、初版がこの世に存在しないとなれば、その後の刊行の古いものほど珍重される。書写本の場合も同じで、古いものほど最初のものに内容が近いとみなしてよく、遡り得る限り古いものは国宝や重文に指定される。それらは同じ内容が文庫本で読めるのであれば単なる骨董品かと言えば、そうとは言い切れない。本は印刷ないし書写される文字だけのものではないからだ。そしてその文字も古い時代のものは今とは違う。
 紙質や造本の方法、活字の体裁や読者による書き込みなど、1冊の本は文字では伝えられない情報を多く含み、実物全体に価値がある。それは本好きには自明のことで、人間が物理的な物である限り、物そのものに価値を認める意識はなくならない。ところが現代人がいくら本を愛しても入手可能な本はよほど裕福な古本マニアでない限り、100年以上前の本を集めることは難しい。それで蔵書は新刊本が主体になるか、お気に入りの作家の初版本を集める程度のことになるが、そうした本はかなり多くの部数が存在し、よほどの有名人でもない限り、個人の蔵書は本人の没後は古本市場を漂う。それはまだましで、ベストセラー本は99パーセント以上が溶かされるかゴミ焼却されてこの世から消える。5,6年前に桑原武夫の蔵書が右京図書館で大量に処分されたニュースがあったが、館長の言い分は珍しい本はないということで、金さえ出せば古書でいくらでも買えるものであった。桑原武夫ですらそのような扱いを受けるからには一般の愛書家が所有する本は「未来のために残す」必要がないと断言してよい。それで天理大学が所有する150万冊や東洋文庫の100万冊の中身が気になる。それらの多くが稀覯本であるはずはないからだ。ベストセラー本はいくらでも世間にあるから、図書館の蔵書とする価値がないと言っていいと思うが、先の桑原の蔵書のように今は他にいくらでもあると思っていると、100年経つともうほとんどどこにも残っていないことになりかねない。たくさん売れた安価な本ほど、みんなはすぐにそれをごく一時期の流行とみなして処分するから、案外100年後には物理的に残っていないことになりかねない。そう考えるので図書館はどのような本でもとにかく集めておこうとするかと言えば、桑原の蔵書が処分されたように公立図書館は本を長く保存し続けるとは限らず、借り手が一定の年月途絶えると廃棄処分とする。次々と新刊本が登場するからで、公立図書館は書店代わりに利用される場合が多い。筆者は昔は図書館に2週間に一度通って本を借り続けたが、気になる本は結局手元に置きたいので古本で購入し、その数が自分でわからないほどになっている。ところがどの本も古書で容易に入手可能なので、筆者が死ねばゴミとされるし、そうなっても惜しくないものが大部分だが、中には珍しい本もあって、どこかに寄贈可能であれば今から本気でそれを考えておかねばならない。しかし筆者と同じように思っている人は無数にいて、彼らの本の大部分はこの世に残らずに消えて行く。そう考えると虚しくなるので本を集めないでおこうという気になるかと言えば、そうではない。いつ死ぬかわからないので、いつまでも買い集める。それを生への執着として見苦しいと揶揄されそうだが、本を集めることに生き甲斐を見出して元気であれば本の効用があるというべきだ。
 筆者の周囲には読書好きがいない。家に1冊も本がない大金持ちすなわち成金はいるが、筆者は彼らの前で本の話は絶対にしない。彼らは本あるいは読書好きに対して大きなコンプレックスがあり、興味のないこと、あっても敷居がきわめて高いことの話題が持ち出されることに強い嫌悪感を示す。それで読書好きを否定するという愚かさを示して恥じないが、そこには孤独が裏打ちされていて、なおさら筆者は近づきたくない。そういう自分の観念に凝り固まっている人物はいつの時代でも蔓延していて、筆者はそのことに本の運命のはかなさを懸念する。たとえば東洋文庫の貴重な蔵書を何とも思わない政治家が出て来ると、ヒトラー時代の有名な焚書ではないが、本をゴミのように扱って破却することに快感を覚える場合も起きる。天災で本が失われるよりも人間があえて滅却させる場合のほうが多いはずで、知の宝庫である本が存在することは、その知を何とも思わないどころかむしろ嫌悪する人間も同時にいることであって、その意味でも貴重な古典は安価な文庫本として大量にこの世に送り続けるか、ネットに載せておくのがよい。実際そのようにされていて、物理的に本をこの世から消滅させようと思っても古典とみなされている文字情報は消えない。そして1冊しか存在しないような本は国宝指定するなりにして無学な者が近寄れない手筈を採っておく必要がある。さて、読書の楽しみは単なるひとつの趣味に過ぎず、「知」という言葉をわざわざ出す必要はないと筆者は思う。前言を繰り返すと、読書に無関心な者は筆者が本の話をすると疎外感を覚え、知識人ぶっていると思うだろう。筆者は自分のことを無知と思っているし、そうであるから気になる本を少しずつ読破したいし、現にそういう生活をしているが、残念ながら人生はあまりに短く、詠みたい本のたぶん百分の一も読めないままとなる。そうれがわかっているならなぜ読書などするのかと、読書に無縁の者は思うだろう。上田秋成の時代でも紙の束に過ぎない本になぜ金を出し、時間を費やして読むのかその理由がわからない人物がいたことが書かれる。読書の時間があれば体を動かして働け、そして本を買う金は貯金しろということなのだが、読書が楽しく、そのことによって時間を有意義に使ったと思えるのであれば、読書の効用はある。だが、読書によって少しは賢くなったとは思わないことだ。読書するほどに人は無知を自覚するのは事実であって、それは謙虚からではなく、あまりに本が膨大にあり、本の迷路のどこをどうさまよっているのかわからなくなるのが事実であるからだ。それで図書館では棚に並べるのに本に分類法を適用しているが、ある本がその分類のどこかひとつに収まるとは限らず、ある本は全く畑違いのある本と容易に結びつき、分類法を超えて本の世界が広がっていることに面白さを見出すのが読書好きだ。
 また本好きは著者に共鳴して人生を慰められる。これは他にかけがえのないことで、筆者が読書するのは現実には出会えない才能や思考の著者と出会えるからだ。ここで筆者のブログについて書いておくと、ネットで無料で自分の創作が披露出来る時代になって筆者は若い頃から続けていた文章綴りをブログですることに一種賭けたと言ってよい。無料で書くのはプロのすることではないが、プロでも素人でも同じ言葉を操って文章を書き、素人なりにネットで読者が得られる。その数はプロの数万分の一であっても、文章を書く楽しみはある。誰かに読んでもらえることが確認出来てしかもたまには読者と言葉をやり取りする楽しみがなくてはブログに綴る気がしないという人は多数派と思うが、筆者はその境地を脱している。誰がどう読もうと、あるいは無反応であってもそのことと筆者が書きたい思いとは無関係で、筆者は書くこと自体にひとつの生き甲斐を見出している。またそういう境地に至らねば真に面白い文章は書けない。経験と考えるため、そして書くための多大な時間を費やしてブログに投稿し、それが無料ゆえに誰からも注目されないのは傍目には愚か者の権化に見えることは承知している。そういう愚か者でも文章を綴る楽しみを知っていることは人間の不思議でもあり、それ相応の何らかの価値はあると信じるが、ブログを続けていることはまあせいぜい数人の気まぐれな読者が笑って読む程度が当然で、筆者は身の程を自覚している。したがって自分を無知と思い続けて当然で、ゆえに絶えず湧いて来る気がかりな本は少しでも多く読みたいのだが、他人の文章を読むこととこうして好き勝手に書き散らすことのどちらを重要と思っているかとなれば、判断は難しい。ブログは音楽家の練習のように自己に課した義務であって、いわば本番に対する練習の場と捉えている。そして練習はそれなりに面白さが内蔵されると考えているのでこうして書くことが出来る。その面白さは自惚れに過ぎないが、自己表現はすべて自惚れということを誰もが知っている。市井の読書好きがブログに何をどう書いても重視されないが、駄文の代表にはなれる。ブログという媒体は駄文の巣窟だが、その中でも若干は光る存在になりたいと誰しも思っている。翡翠のような貴石ではなく、せいぜい色鮮やかなプラスティックの破片だが、そういう物にもそれなりの美しさはあり、それを自覚するのとしないとでは文章に差は出て来る。筆者のブログは運営会社がつぶれない限りは当分残るだろう。数年前に市川団十郎など有名人のブログが永久保存されることになったニュースを読み、有名人の価値の凄みを実感させられたが、正直な思いを書けばそうした有名人のブログを読む気は一切湧かず、またろくでもないものばかりだろう。つまりブログが駄文の巣窟という前提に立ってこそ、永久保存され得るという奇妙なことがブログの本質だ。
 貴重な本は背表紙を眺めているだけで心が満たされる。筆者にはそういう本があるし、何十年もそれらの背表紙を見るたびに心が引締まる気がして来た。それでなおさら本に無関心な人は面白くないが、読書しない人からすれば読書家は酒飲みや女買い、賭博好きと同じく、ひとつの趣味、性癖に過ぎず、褒められることではない。本が「知」を代表するとして、その「知」を何かの役に立てることがなければそれは極道だ。つまり「知」は嘲笑の対象になりやすく、「知」を少しでも標榜する者は馬鹿とみなされやすい。それで本は黙って読み、読んだことを公言しないのがよい。それでは「知」は「未来のために残すもの」とどうして成り得るかだが、そこは心配無用で大学の先生たちが継いで行く。さて本展の感想を書く。稀覯本の勢揃いで、ある頁が開かれた状態の展示であるから、本の表紙、重さも含めてある本の状態がわずかにわかるに過ぎない。実際に手に取るのが理想だが、稀覯本は何度も頁を閉じたり開いたりすることが阻まれる。その一方で虫干しの必要もあり、それで本展は本の保存にはいい側面もある。白井晟一の『無窓』には白井がヨーロッパの古い本を買い集めていたことが書かれ、ドイツの古書店で未製本のフォリオ状態でゲーテの初版を見せられた時、それをどのように製本するかという具体的なことを想像して購入を断念したという。それは大金を費やして製本職人に製本させてもいいが、すでに同様の本は有名図書館の蔵書となっており、また日本の洋書の製本家に依頼しても質の高い造本は期待出来ず、しかも戦災でこれまで貴重な蔵書を灰にして来たことを思い返してのことで、蔵書家の哀愁が漂っていた。ジョージ・アーネスト・モリソンのような蔵書家がヨーロッパにはどれほどいるのか知らないが、革で装丁された本が居並ぶ書斎の光景は「知」を愛する人にとっては憧れの最たるもので、経済力が伴なえば稀覯本の収集に乗り出す人はいつの時代にもいるだろう。またそうした貴重な本を扱う古書店はあって、本はその内容とは別に骨董品的価値を持って取り引きされる。そうした本を見る機会はたいていの人にはなく、たとえば東洋文庫のような名だたる機関が所有するのでますます世間からは遠い存在になるが、見慣れないあまり、そうした本が眼前にあっても真の価値がわからない。本展で感じたことはそれで、分類法にしたがって系統的に所蔵されたものでないはずで、何が含まれるかわからない雑然とした面白みがあるようにも感じた。つまり本展で展示された本をすべて目を通しても「知」の体系が頭の中に出来ることはなく、1冊ずつが独立して、つまり他の本とは無関係に「知」を誇示し、ジグソーパズルのピースを埋めて行くように本は出版されず、またよほどの読者も持ち得る「知」には偏りが大きく、それゆえ今後もあらゆる本が出版される可能性がある。
 展示目録を1部もらって来たのでそれを以下におおまかに紹介するが、その前に本展のチラシ裏面について書く。「中央アジア・東アジアにおける文字のはじまり」として1894年にロンドンで刊行された中国雲南省に現在も生きている象形文字のトンパ文字について紹介した本の内容の一部が図版で紹介される。また本展のワークショップでは「トンパ文字スタンプをつくろう!」という企画があって、アジアには見知らぬ文字があることを知る機会となった。その下の図版は1613から19年にアムステルダムで刊行された「東インド諸島地図」で、銅板印刷の後に手彩色で色鮮やかに塗り分けられている。こうした古地図は日本がどのように示されているかに面白みがあって、現在の精確な地図からすれば間違いが多いが、当時の人々の精一杯の探索の証となっている点で資料的価値が大きい。その左の図版は「日本昔噺ドイツ語版」で、「ドイツ語で読まれた桃太郎」のキャプションがあって「ちりめん本」と称される有名な日本の本で、これまでにも展覧会で展示されたことがある。1885年から9年にかけての刊行で、今でも古書として入手可能だろう。以上3冊はみなイラスト主体と言ってよく、視覚的な楽しさがある。それでチラシで紹介された。本展は『プロローグ』として「アジア図」や「大地図帳」、ハムラビ法典」、「ヒエログリフ辞典」、「クルアーン(コーラン)」などが紹介され、第1章『東洋の美』は(1)中国―悠久の歴史を彩る人々―、(2)朝鮮―東アジアの交流―、(3)東南アジア―航海の結節点―、(4)インド―人々を魅了し続ける文明―、(5)イスラーム世界―世界に広がる規範と文化―の5分野に分け、ロンドン刊の「万里の長城」や王義之の「蘭亭序」、「高麗史」や「李朝実録」、「朝鮮風俗図」、「東方諸国記」、「東インド航海記」、「ジャワ誌」、「インド昆虫記』、「オスマン帝国史」、「エジプトの習慣と風俗」などの珍しい本が紹介され、どれも現在からは奇妙に見える挿絵に見どころがあった。第2章『西洋と東洋 交わる世界』では「東方見聞録」や「トルコ史」、「シベリア旅行記」、「中国の刑罰」、「ナポレオン辞典」、「インド反乱の歴史」などの本、第3章『世界の中の日本』は(1)「日本」を見つける、では「論語集解」や「文選集注」、「万葉集」など、(2)西洋との出会い、は「ザビエルの生涯」、「天正遣欧使節記」、大槻玄沢による「重訂解体新書」など、(3)描かれた日本、は「大日本全図」と「蝦夷国全図」、(4)世界の中の幕末、では伊能忠敬編の「大日本沿海実測録」、「アヘン戦争図」や「ペリー提督日本遠征記」など、(5)翻訳された日本文化、は前述のちりめん本など、そして『エピローグ』ではモリソン文庫の蔵書票や製本道具、そして東洋文庫が疎開した際の記録などが紹介された。改めて眺めるとよく考えられた展示内容だ。
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by uuuzen | 2023-04-26 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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