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●『甲斐荘楠音の全貌』
で茄子を もっと食わせろ 妻に言い 面倒こらえ 一度は出るも」、「腹減らず 食べ飽きたかな 何もかも 炊き立て飯に 生卵割り」、「子種なし 秀吉ひどし みな殺し 身内跡継ぎ 畜生塚に」、「大物の 条件ひとつ 人殺し 平気なほどに 喝采を浴び」●『甲斐荘楠音の全貌』_b0419387_21370305.jpg1997年に同じ京都国立近代美術館で甲斐庄(甲斐荘)楠音展が開催された。それからもう四半世紀も経った。同展で印象に強かったのは未完成の「畜生塚」で、楠音は大正15年(1916)に描き、ほとんど素描のままで手を入れなかった。今月8日に見た本展では修復のうえ、四曲一双子屏風として出品されたが、前回見た時より未完成度が減少している気がした。左右隻併せて21人の裸婦を描き、着衣像としなかったので、鑑賞者にすれば題名は別として時代が特定出来ない群像となって、作品として重みが増したように思う。また裸婦像であれば女性の悲しみ、苦しみはより直截的に伝わり、未完成作とはされているが、楠音の代表作とみなしてよい。正直に言えば筆者は四半世紀ぶりにこの大作を目の当たりにして本展を見た甲斐があった。もうひとつの大きな収穫を言えば、97年展では調査が不十分であったことも手伝って楠音の戦後の代表的仕事であった東映の時代劇における「時代考証」の役割が紹介されたことだ。筆者は1階からエレベーターで4階の展示室に入ったが、すぐ眼前に楠音のデザインした『旗本退屈男シリーズ』の市川歌右衛門が着たキモノの現物がポスターとともに50点ほどか、勢揃いしている様子に出くわし、とても驚いた。映画で主人公が着るので華やかさはもちろん必要だが、女物のキモノではなく、主人公が毎回殺陣を行なうのであるから、裾が広がった時の見栄え、そしてアップになった時の襟や胸元が印象的な文様とその配置であることと、関係者にすればそのキモノを見ただけでどの映画かがわかるような毎回の工夫がほしい。楠音はそれらを見事にデザインし、しかも東映の衣装部は京都の職人を駆使して手抜きのない仕事をした。本展では東映の衣装部が保存していたそれらのキモノが発見されたことをひとつの契機とするが、これらのキモノは一度映画で使われると用済みであり、処分されても不思議ではなかったのに、ごく一部のキモノは片袖が切り取られている場合もあったが、ほとんどは汚れも目立たず、横に展示されるポスターとじっくり見比べることが出来た。その結果を言えば、ポスターとわずかに文様やその配置が違うキモノがあって、たぶん2,3点同じ柄で作られた場合があったと想像する。また当時のポスターは色の悪いカラーで、断然現物のキモノのほうが色合いがよく、金駒刺繍など立体感が目立った。男物のキモノとしてこれらは現代演歌歌手くらいしか着ることのない派手な柄行きだが、映画の主役の色気を最大限に演出することを考慮し、ほとんどのキモノは最少の量の文様配置となっていた。
 現在でもNHKを初め時代劇は作られているが、筆者は全く見ない。まず俳優の顔がまるで駄目で、次に女性のキモノの柄も出鱈目で、時代考証などろくに考えられていない。そのことが顕著になり始めたのは、名前は忘れたが有名な女性衣装デザイナーが何かの時代劇でキモノすべてのデザインを引き受け、そのことが当時大いに話題になり、また彼女は大きな賞を受賞したが、筆者はさっぱり感心しなかった。時代考証はそれなりにしたつもりなのだろうが、どれも江戸時代にない色と文様で、それらのキモノを作ったのは京都の職人であったとしても、二三流以下の江戸時代の染色とはどういうものかを理解しない金儲け集団であったことは一目瞭然だ。それでも映画で見栄えがよければいいと鑑賞者は思うし、デザインを任されたその女性衣装デザイナーも映画はしょせん作りものであるので、時代考証など二の次でよいと軽く考えたに違いない。彼女ですらそうであれば、その後の制作費の安い時代劇の衣装がどれほど目も当てられないものかは想像に難くない。しかし江戸時代の小袖を一から再現するとなると衣装代のみで映画の製作費の半分は消えるだろう。それで今ならパソコンを使ってプリントという便利な手法があって、ぱっと見は江戸時代だが、よく見れば、つまり本展のように実物のキモノを目の当たりにする機会があれば、やはりまた直視に堪えない醜悪なキモノになることは間違いない。ただし、それでも大多数の人は江戸時代の染色についての知識がなく、なぜそられが醜悪なのかがわからない。かくて時代劇はますます醜悪になり、もうまともなものは作ることは無理だ。その黄金時代に楠音は映画の衣装を担当し、しかもどれも当時の職人は手を抜かずにそのデザインを具現化した。時代劇の終焉ととともにそうした時代衣装をデザインする人、実際に染めたり刺繍したりする人も消え、かくて東映の衣装部の資料室に眠り続け、本展で全貌の一端が紹介されることになった。筆者の近くに70代後半の男女数人がじっくりとキモノを鑑賞しながらため息をついていた。その気持ちはよくわかる。これらのキモノはどれも再現困難ではないが、映画に合わせて作られたという事実が重い。簡単に言えば、衣装がこれほどの出来栄えであれば、俳優の演技も含めて映画全体の質がそれに倣う。そしてそういう映画が毎週のように制作された。楠音のその仕事量に驚く。ただし当時のキモノの染色に詳しい人がやはりどれも実際に江戸時代の浪人が着るようなものではなく、映画向きに派手にデザインされたことを思って白けたかもしれない。そのことも踏まえながら楠音は見世物の映画として無理のない、妥当な文様と色合いにデザインした。つまり明らかに昭和の作り物だが、文様も色も染色技法も江戸時代にあっておかしくないものだ。そこに時代考証家としての面目があり、知識がるのとないのとでは天地の開きがある。
 前回にはなかった展示として、楠音が女性に扮した白黒写真が数多く展示されたことだ。それらの写真は絵の構図を決めることの参考になったが、歌舞伎好きであった楠音が女装するのは彼が描く女性像への理解に役立つだろうか。LGBTが話題にされる昨今、その意味でも楠音の絵をこれまでとはいささか違う別の面から見つめることの重要性を思うが、そのことは筆者の手にあまる。筆者は女装趣味はなく、また同性愛者ではないので、楠音の女装趣味がわからない。そして彼が描くいわゆる「穢い絵」すなわち女性の内面の赤裸々さを描き切ったような絵とそれがどう関係しているのかは想像の埒外にある。それは楠音もそうではなかったかと思う。同性愛者であった楠音が女性の本性を理解したかは誰にもわからない。体は男で心が女という人は女の心がわかるとして、男根を持ったまま心が女という人の場合、女心のわかる度合いはどうなるのか。また女だけが持ち得る女心なるものが存在することが真実かどうか、それも誰が正しく答えられよう。それで97年展の時と同じように楠音が描く「穢い」女性像は相変わらず同じように筆者の眼前に展示されるし、またそれらの女性像が男の同性愛者が描いたものというその証拠のようなものは見出せない。楠音が男しか愛せないのであったならば、なぜ女性ばかりを描き続けたのだろう。理想の男こそ描きたかったのではないか。そこで考えるし、そういう理想の男性は楠音にはなく、あったのは自分の内部の女性性で、それをどのように描き切るかについて格闘し続けたのではないか。それは他者としての女性ではなく、自画像であって、「穢い」と土田麦僊に評されてその言葉を生涯楠音が恨んだのは、女性像すなわち自画像が、つまり自己の内面が「穢い」と他者に映っていることに対して怒りの持って行きようがなかったからだろう。楠音にすれば自己に沈潜してその内面を覗き込むほどにそこには女性としての意識があり、それを描き切ることは女性の本質を知れば知るほどにグロテスクなものに傾斜して行く。男しか愛せないとすれば女に関心がないということになりそうだが、楠音は男でありながら女のようない愛情で男に対峙したかったのだろう。つまり女の本性を想像するのだが、男であるのでその想像が正しいかどうか確信は持てない。そういうジレンマを抱えると、今度は女の内面に入り込み、その本性を暴こうという気になりやすいのではないか。それに楠音は女装写真を撮って理解したが、女な化粧で表面と内面をごまかせる。その「ごまかし」には「穢い」本質が隠れてもいる。つまり楠音は早々と女の美しさとは別の本性を知った。そして女を深く理解することは女にはなり得ない自己を理解することと同じで、画家として女性を描くことで楠音は自己を描いた。そこに女性画家の島成園との本質的な違いがある。
 楠音は村上華岳に認められた。華岳は楠音より8歳年長で、楠音の「横櫛」を絶賛した。「横櫛」は大正5年(1916)の作で、どことなく一回りほど年配の北野恒富が描く同じ時代の女性像と共通する頽廃性がある。恒富にとってそうした画風は一時期のものであったが、楠音は写真を参考にしたせいもあってか、立体感に対する執着が強く、陰影を強く施して恒富のような装飾性よりも写実に傾斜した。前述のようにキモノのデザインにおいても巧みな才能を発揮したので、装飾性はよく理解していていたが、装飾の一段上に肉感性を求めた。つまり絵画におけるキモノやその文様は女性の肉感性を表現するための道具になっていて、楠音のとって何よりも重要であったのは絵の中の女性が絵という中でのみ「美しく」存在していることではなく、むしろ絵を通じて立ち上って来る女性の本性そのものであった。それはどのようにすれば描けるか。写真を頼りに楠音が描く場合、写真を越えられないものと思った節はない。写真は全体の形の参考にはなっても絵画のように背景も含めて自分の好きなような形や色として構成することは出来ない。それよりは描くほうが早いからでもあるし、顔や体の陰影を強調するには絵のほうがはるかによい。さてここで脱線しておく。現在超写実主義の女性像を描く日本の洋画家が何人もいて、たまにTVで紹介もされる。彼らの描く女性はどれもいわゆる美人で、モデルのように澄まし、顔つきに欠点がない。つまり特徴がない。そのため絵のわからない人には人気がある。いわゆる現代の美人で、彼女らが時には数か月という制作日数を費やして克明に絵具で写実される。そういう絵を筆者は少しも美しいと思わないどころか、見ていて気味が悪くて仕方がない。実際それらを描く画家もみな揃って馬鹿面をしているのがおかしいが、絵とは本物そっくりに、しかも特徴のない美人を描くことでは全くない。彼らはスマホで撮った写真を拡大しながら細部を模写するが、彼らは楠音の「穢い絵」に勝利していると自惚れているだろう。そこに面白い逆説がある。「穢い」の楠音の絵が真実味があり、美女をそのまま美女として写真のように描く絵に真のグロテスクさのみが内在化する。それでも画家も鑑賞者も勝手であるから、そうした現代の美を装ったグロテスクの権化のような美人画は需要があり、壁に飾って自慢する人もいる。絵とは何かなどという難しいことはどうでもよく、写真以上に写実的なような、そして現代の典型的な、すなわち無名性の、したがってロボットか整形美女のような顔を描く絵画を愛好する一部の人たちがいる。彼らは女をペットのように考えていて、整形美女であっても誰が見ても平均よりはるかに美しければそれでよいと思っている。そういう人に華岳や恒富、楠音が描く女性像の魅力はわからない。
 絵は虚構であるから元来真実は宿らないと主張する人があるだろう。それを言えば映画や演劇もそうで、先に書いたように現在の時代劇は俳優の顔が平成で、土台江戸時代や戦前を演じることに無理がある。戦後は日本人の骨相に急激な変化があったのだろう。味のある、一度見れば忘れられない顔が芸能界に減少した気がする。ジャニーズや女性アイドルは押しなべて論外で、映画やドラマの作り事がそのまま味気ない作りものめいて作品を見る前から白ける。「旗本退屈男」のシリーズからある一遍のごく一部がキモノが勢揃いする部屋の奧の壁に上映されていたが、主人公を中心とする集団による殺陣は無駄な動きが一切なく、それをカメラが切れ目なしに撮影していた。また別の場面では当時の悪役の代表格がふたり出ていて、筆者のように70代以上の人ならそれらの顔に馴染みがあるが、60年も経って見るに、脇役たちがみなしかるべき役をしっかりと演じ、歌舞伎と同じように大げさな身振りという「型」を当時のどの映画も演じていたのだが、それら金太郎飴のような大同小異の内容の映画でありながら、それぞれに明白な違いもまたあって、東映の時代劇はひとつの大きな完成したジャンルであった。そういう世界の一翼を担った楠音が自分の絵画をどう考えていたかとなれば、映画のように虚構でありながら完成度が高く、また「型」の美を見せるものと捉えていたのではないか。その「型」が麦僊により「穢い」と評されたことは心外ではあったが、それもひとつの「型」となったのであれば楠音の絵画は誰も真似の出来ない完成の域に達したものであった。また「穢い」という言葉は間違っているとは言えず、笑顔の花魁を描いたほとんど「お化け」に見える作品をこの美術館の常設展で見ると、たいていの人は楠音に悪意があるのかと訝るだろう。だが一度見てしまうと生涯忘れられない絵で、また思い出すたびに「穢い」との思いよりもその他の画家の絵にはまずない迫力にただただ恐れ入る。楠音はその作で花魁ないし女性の何を描きたかったのだろう。女性が常に男にとって美しい存在かと言えば、そんなことはあり得ない。たいていは醜で、その度合いは男が年齢を重ねるほどに思いが強まる。元来女性は醜であるゆえに化粧でごまかし、男を引き寄せようとする。そのように楠音は思ったかもしれず、また同じように考える男は少なくないはずだ。醜や悪を本質的に内蔵するのが女で、一旦そのように見定めると、そういう部分を抱え込むのが人間としての憐れさでもあって、そういうものを含んだ全存在として女を受け入れるしかない気がする。あるいは女嫌いになるかだ。楠音が女嫌いであったとして、したがって醜悪の権化のような花魁を描いたのかと言えば、そうではない。女に無関心としても、それは性的な意味においてで、同じ人間として男にはない女のサガというものには大いに関心があったはずだ。
 そのサガのひとつは男よりもおそらく多い「演じる」ということではないか。化粧すること自体がそうだ。それに男の気を惹くために女な常に真剣に演じる用意がある。男もその点は同じと言えるが、男はすべきことが他に多く、女よりも巧みに演じることは出来ない。つまり男は女よりも単純で、そこに楠音は幻滅したのではないか。そして描くのは女に限るが、その本質をさまざまに描くとなると、醜の側面も見逃せない。ところが「畜生塚」では女であるゆえの悲しみが主題になる。畜生塚は秀吉が姉の長男秀次に家督を譲ったのに、秀頼が生まれたことで秀吉は秀次やその子ども、側室、家臣らを打ち首にし、それらの遺骸をまとめて「畜生塚」と命名した。秀吉時代の鴨川は現在の3倍ほどの川幅があって、三条大橋付近で秀次らは打ち首にされ、後に舟運のための高瀬川が整備され、その打ち首場所すなわち畜生塚があった場所が現在の京都三条木屋町にある瑞泉寺境内となった。楠音が描くのは秀吉によって殺されることがわかった時の秀次の妻や側室たちの慟哭だ。秀次が秀吉の反感を買う直接のきっかけがどういうものであったにせよ、実の甥とその一族をみな殺しにするというのはいかに自分の子が出来たとはいえ、狂気以外の何物でもない。しかもその自分の子というのは大いに怪しく、秀吉は子種がなかったとする説が今は主流になっている。血を分けた間柄であっても平気で殺すことの出来る人物が天下人となるのであって、血も涙もないほどにいわゆる歴史上の「偉い人」になる。楠男がそのことをどう思ったのかは「畜生塚」からはわからない。理不尽に殺されることになり得る立場にあるのは女も男も同じとして、秀吉の跡継ぎの側室として一生安泰であったはずの暮らしが、まさか殺されることになるとは女の運命ははかない。側室として秀次に気に入られることがなければ市井の人として人生をまっとうしたものを、衆人の見守る中、次々と打ち首にされ、そして「畜生」と呼ばれた。彼女らには演じる思いは絶無で、その慟哭には他に代えられない真実味があった。その極限性を楠音は描こうとした。そしてそのことは不可能と言ってよい。モデルを使い、写真を何枚も参考にし、それでも彼女らは演じることになる。その演じ方にいかに真実味があっても、今殺されようとしている側室たちの極限状態そのものとは遠いだろう。それで楠音は未完成に留めるしかなかったのではないか。ただし一方で絵画が真実を象徴出来るものとは思っていたに違いなく、その象徴性を鑑賞者が感得し、女性ないし人間の極限の悲哀を想像出来るとも考えたろう。似た絵として丸木夫妻による「原爆の図」を思うが、被爆した人々ではなく、これから殺されるという女性たちの群像は描くのにさらに困難ではないか。参考にすべき図がなく、側室たちの無念の思いに同調することは平和に暮らす者には想像を絶する。
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by uuuzen | 2023-04-24 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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