「
帝国と 聞いてホテルを 思いつつ 縁のありしは 明治村のみ」、「大阪に 大を冠して 一世紀 御用芸人 大手振る今」、「大阪の 祭り描いて 名は不滅 生田花朝の 心写して」、「嫌なこと 気にして描き 絵は汚れ せめて理想は 作に盛るべし」
3月末、天理から京都に戻らずに大阪に出た。中之島美術館で本展『大阪の日本画』を見るためだ。以前書いたように大和郡山駅で下車して城のさくらまつりを楽しもうかとも思ったが、展覧会を駆け足で見る羽目になる可能性がある。ここ2,3年、筆者は腕時計をせず、駅に着いても時計をほとんど見ないので美術館に着いたのが何時であったか記憶にないが、梅田からよりは早いと考え、近鉄鶴橋から環状線の福島駅まで行き、そこから歩いた。展覧会を見終えたのは5時10分ほど前で、やはり大和郡山駅で途中下車せずによかった。この美術館で以前から気になっているのは、今日の最初の写真にあるように、車道を挟んで建つ国立国際美術館との連絡通路だ。写真左上の黒い部分が中之島美術館で、その下部から水平に黒い陸橋が写真中央に延び、写真の中央に白い壁面の舞台のような場所があってそこに3,4人の子が立っている。橋の床面までは2メートルほどか、その白い壁部分にその高さ分の階段を設けると中之島美術館との往来は便利になるのに、開館当時から放置されている。2枚目の写真はその連絡橋を関電ビル前の交差点から撮った。陸橋を使わない場合はその橋の地上からの高さ分をいちいち上り下りする必要がある。無用の長物となっているこの陸橋は国際美術館側に階段を設ければすぐに使えるのに、大阪市では市民から疑問の声が上がっていないのだろうか。1年経ってそのままではたぶん数年後も同じだろう。天王寺の大阪市立美術館は中之島美術館の建設費の一部を利用して売店などを増設工事中で、まさかこの階段設置の工事費が捻出出来ないことはないだろう。さて本展は撮影自由な場所がいくつか用意され、筆者はそのことに会場の最後近くで気づき、撮りたい絵に向けてシャッターを押していると係員が飛んで来て注意された。帰宅して調べると写っていなかった。写っていてもブログに使えないのでちょうどよかった。3枚目の写真は長いエスカレーターで一気に展示階まで上る途中に見える本展用垂れ幕で、これは北野恒富の「宝恵籠」で1931年頃の作だ。作品は縦60,横70センチほどだが、巨大アップに耐える細密ぶりで女性のキモノや簪、籠の飾り物などを描く。20年前の滋賀県立美術館で開催された恒富展の図録表紙にも採用され、代表作としてよい。同展には同じ構図でキモノの文様と色合いが異なる作品も出品され、解説には「同じ構図で……作品が何点も残されている」とあって、昭和40年代だと記憶するが、京都の有名古美術商が刊行する売立目録に同じ構図の1点が掲載されたことがある。価格は覚えていないが数千万円であったと思う。
「宝恵籠」はもちろん大阪の今宮えびすで芸妓が乗る籠で、大阪のお祭りを題材にしている点でも、「大阪の日本画」と題する本展のメイン作とするにふさわしい。本展出品作は中之島図書館蔵とされ、いつ同館に入ったのか、名品をよくぞ入手した。大阪市立美術館に上村松園の有名な美人画があり、それはそれでいいのだが、大阪が誇るとなると大阪で暮らして描いた作家の作が好ましい。恒富は金沢の生まれだが、18で大阪に出て22歳で所帯を持った。本展は全6章構成で第1章は「ひとを描く―北野恒富とその門下」、第2章は「文化を描く―菅楯彦、生田花朝」とされ、異論のないところだが、筆者は菅楯彦の作品を目の当たりにした機会はごくわずかしかなく、代表作が何かを知らない。大阪を代表する超有名画家とされながら、大規模な展覧会は大阪を初め関西では開催されたことがなく、謎めいている。それで今回は代表作として18点が展示されたが、会期前半で展示替えがあり、筆者は10点ほどしか見ていない。何年か前に大阪の知り合いの画商が所蔵する楯彦の絵画をまとめて見る機会があったが、その時と同じく、筆者は即座に夢中になれる何かに遭遇出来なかった。生田花朝の師であるので画風に通ずるところがあるのはもちろんだが、筆者は花朝の作品は初めて見た瞬間に夢中になり、彼女を憧れの、女性画家では最高の人物と評価するに至ったのに、楯彦の作品はたとえば構図が吟味尽くされた恒富の「宝恵籠」のような強固性を感じさせず、また恒富の作に濃厚な女性の色気もなく、楯彦の魅力がよくわからない。それはともかく、楯彦は恒富より2歳上で、鳥取生まれだ。つまり大阪の日本画を代表するふたりの男はどちらも大阪生まれではない。楯彦は生前「最も大阪らしい画家」と評され、現在没後60年も経つのにこれまで大規模回顧展が一度もないというのはいかにも芸術に冷淡な大阪らしいが、本展を機に中之島美術館でいつか大規模な楯彦展が開催されるだろう。そうした機会があるとないとでは一般的な認知度は大きな開きが出て来る。ただしそのことを言えば本展でもようやく中之島美術館が出来たゆえの大宣伝による企画展であって、百年前の作品を今頃再評価している。本展は今月15日から東京で開催され、チラシは別のデザインとなっているが、人気のほどは期待出来ないだろう。開催場所は「東京ステーションギャラリー」で、東京都美術館といったもっと有名なところで開催されればと思うが、「大阪の日本画」の知名度からして限界がある。それに京都人もおそらく無関心で、菅楯彦の大規模展があっても楯彦人気が京都で高まることはほとんどない気がする。楯彦が明治のよき大阪を描いたとしても、現在の大阪にはそのよさはもうほとんどどこにもなく、楯彦の絵を愛する人はその惜しさをせめて楯彦の眼差しによって穴埋めする気でいるのではないか。
今日の4枚目の写真はロビーに展示された楯彦の「浪花三大橋緞帳」で、筆者は一度だけ館内で食事したことがある大阪倶楽部の所蔵だ。もちろん右が上流で、毛馬の閘門から南に分かれて流れる大川に架かる橋で、右から順に天満橋、天神橋、なにわ橋を描く。若冲の「乗興舟」の最終場面は天満橋で、その延長を楯彦は描いたことになるが、北に太陽を描くのはまあ仕方がない。ところで、「風風の湯」の常連85Mさんの奧さんが本展をいち早く見に行ったと聞いた。その理由のひとつが、楯彦の親類の知り合いの女性から紙を入れる筒と筆、皿、絵具をもらったとのことで、奧さんは楯彦の作品を知るよい機会とばかりに出かけたそうだ。85Mさん夫婦は5,6年前に嵐山に引っ越して来る前は大阪の阿波座に長年住んでいて、楯彦の親類の女性も同じ地域にいたのだろう。大阪を代表する有名画家であっても一般人が知らないのはごく普通で、たいていの人はツイッターのフォロワーが何百万もあることを自慢するお笑い芸人を有名人の代表と思っている。ところが百年後にそのお笑い芸人の芸を覚えている人はゼロに近い。一方、百年経って名画は新鮮な息吹で鑑賞者の目に飛び込む。そういうことをわかっていて、またどうにかそういう芸術作品を後世に残そうとする人でしかも権威を持つ人がごくわずかに大阪にも伝統的に居続けているためにようやく中之島美術館が建ち、本展が開催される。「大阪の日本画」という題名は「大阪の洋画」に対立させられるもので、後者はまたいずれ大規模展がこの美術館で開催されるはずだが、商都としての大阪にふさわしい絵画となれば、新興の経営者が購入しやすい「洋画」で、それがやがて「具体」の登場につながるが、「日本画」となると、その言葉は「洋画」に対抗して生み出されたものと言ってよく、「洋画」のない時代の江戸時代の日本の絵画は「日本画」とは基本的には呼ばない。それで本展が扱う画家は自ずと限定されるのだが、大阪で「日本画」が盛んに描かれる以前に洋画ではない絵画はあったから、そういう先人の作品と本展の出品作家とのつながりを示す展覧会もいずれ必要になる。ただしそうした展覧会はないわけではなく、これまで単発で開催されて来ている。7,8年前か、京都の泉屋博古館で岡山出身で大阪で活躍した上島鳳山の展覧会が開催され、筆者は見たがその感想をブログに書かなかった。恒富と同時代人であるのに、女性像に古臭さを感じたからだ。また恒富の女性は特別のモデルを感じさせるのに鳳山の女性像はモデルを写生せずにひとつの典型を繰り返し描いたようなところがあって印象に残りにくい。住友が大阪で活躍する鳳山を贔屓にし、作品をたくさん買い込んだことは郷土の画家を称える意味で見上げたことで、そういう太い客を持たねば画家は経済的に自立しにくく、ゆえに大作をあまり描くことが出来ず、大成しにくい。
住友が鳳山の作品を集中して買い集めた百年前の大阪における「日本画」を知るには、どうしても本展のような総花的内容のものを見ておくべきで、鳳山展を見るのであれば本展の後が望ましい。本展には鳳山の作品は第6章「新しい表現の探求と女性画家の飛躍」の筆頭格扱いで7点展示された。この第6章は画家数と出品数が最大で、まとめようがなかったので目ぼしい画家をここに詰め込んで紹介しておこうという印象が強そうだが、他の章で紹介された楯彦や島成園の作も含み、まとまり感が乏しい。これは一方でそもそも画家や作品が何かひとつの特徴で代表されないことを示している。それにしても「新しい表現」と「女性画家の飛躍」という言葉の前者はかなり曖昧で、その筆頭に鳳山が取り上げられるのはよくわからない。鳳山の大阪画壇における位置づけとして楯彦や恒富以上に今後は顕彰に努めたい思惑が関係者にあるのかもしれないが、文人画家の系譜を除いたうえで以前の画家と比べれば鳳山が「新しい表現」を担ったのは当然で、その新しさを再認識してほしいとの意味合いはわかる。ただし鳳山が今度恒富ないし楯彦以上の人気を得るかとなれば「新しい表現」に関しては恒富のほうに軍配が上がり、一定以上の再評価はないように思う。そのようにかつて筆者は感じたので前述のように展覧会を見た後に感想を書かなかった。「女性画家の飛躍」に関しては本美術館で今年の年末から来年2月末頃までに『女性画家たちの大阪』展が開催予定で、そのチラシはすでに作成されているが、同展の予告編として本展第6章が位置づけられていると見てよい。大阪の女性画家の筆頭の島成園についてはこれまで展覧会で何度か作品がまとめて展示され、本展でも馴染みの作品に再会出来たが、筆者は手放しで感心しないことに気づいた。有名な大作「祭りのよそおい」は画面右半分に貧しい家の幼ない女児を描き、左半分に金持ちの着飾った同世代の子ども3人を描くが、この絵で成園な何が言いたかったのだろう。3人の裕福な子は鑑賞者を向いて別段勝ち誇った風でもなく、画家の風刺の眼差しはない。一方貧しい子は頭に髪留め代わりに野菊を挿し、彼女ら3人の方に身を向け、仲間に入れてもらえない気後れを感じながらその場に立ちすくむ。この状況を大人は貧しい子どもが憐れだと見、続いて残酷とも思うが、貧富の差を子どもの頃に感じるのは金持ち以外は誰しもで、その子どもが敗北感を抱えたまま大人になり、ひねくれた性質となると考えるのはあまりに単純な思想で、現実は金持ちであった子が家の没落によって不幸になったり、貧乏人の子が経済的に成功したりすることはいくらでも例があって、子ども時代のごく一時の貧富の差を気にすることなどは何もないのだが、そう考えられる大人が成園のこの絵を見ると、何となく嫌味たらしく、画家がわざわざ何を言いたかったのかとの疑問が去らない。
つまり絵にすべき内容ではないように思える。金持ちの子も親がそのような身なりをさせるからしているに過ぎず、貧しい子に対する自慢を描いたものではないだろう。ではこの絵は何を目的とするのか。祭りの日の場面として日常の貧富の差を子どもを使って強調するのは悪趣味と筆者は感じる。その点同じように大阪の祭りを生涯の主題にした生田花朝はもっぱら群像を描いて曼荼羅ないし絵巻的楽しさを表現したが、本展では似た構図ながら何点もの出品があって堪能出来た。本展の半分ほどは蒹葭堂や岡田米山人の文人画のその後を紹介するもので、第3章「新たなる山水を描く―矢野橋村と新南画」、第4章「文人画―街に息づく中国趣味」は田能村直入以外ほとんど筆者の知らない画家の作品が並んだが、面白さを感じなかった。新しい南画は古い南画の革新において生き残ったのではなく、全く別の日本画に生まれ変わり、大阪の南画は米山人で終わったと思う。その息子の半江の作品はかつては父の作以上の高価で取り引きされたと言われるが、現在は大幅に暴落している。第5章「船場波―画家の床の間を飾る絵」も地味な画家の名前が並ぶが、森一鳳、上田耕甫、西山芳園、深田直城、須磨対水の名前を目にしたことのある人は多くても画風が即座に目に浮かぶ人は稀ではないか。かつて金持ちの床の間を飾ったこれらの大家の絵は床の間があっても飾るにはふさわしい時代ではなくなり、上記の個人は今度大規模展が開催される見込みもほとんどないように思う。「新しい表現」であったはずのものが急速に古びたものとなることは絵画に限らないが、一方でほとんどの人が注目しなかったのに現代人に新鮮に見える作品が描かれることがある。本展のチラシは数種類が用意されたが、その1枚に幼ない女児を抱く日本髪の母親を芙蓉の花ととともに描く「秋の一日」を印刷するものがある。女性画家の三露千秋が大正15年に描いた作で、こちらを向く女児がとてもかわいらしい。色彩感覚もよく、これがほとんど百年前の絵とは思えないが、驚くのは三露が20代半ばで世を去ったことだ。この絵は個人蔵だが、大切に保管されて来た結果、多くの人の目に留まることになった。夭折したので島成園や生田花朝のように作品は多くないが、この1点で実力はわかる。そしてとても現代的で、そのように企画者も考えたのでわざわざチラシのひとつのデザインとして取り上げられもした。三露本人はまさか百年後に自作が注目を浴びるとは想像しなかったろうが、画家はその時その時に真剣な仕事をしていると、そのことが作品に凝固し、時空を超えて人の心を打つ。三露がどこに住んでどういう顔をしていたかは関係がなく、ただ眼前に「秋の一日」と題する絵がある。本展で一番意外な出会いであったのは彼女の作品だ。近代の大阪ではよほど女性画家の活躍が目覚ましかった。
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