「
剽窃の 原理で成るや AIは つまるところは つまらなきもの」、「田が消えて 力のみなる 男には 金力よりも 体力知力」、「道端に 背を向けたるや 祠あり 前に広がる 田は今はなし」、「千年を 超えて伝わる 社には 確かに神の 気配充ちたり」

昨日の続き。公園を出た後、車道を横切って西側の歩道に移った。「神田神社」の小さな看板が目についたからだ。そこで歩道をやや外れて今日の最初の写真を撮り、すぐに歩道に戻って同神社の祠を背後から撮った。それが2枚目の写真で、落ち葉と樹木に囲まれて陰気臭い。グーグル・マップには「石上神宮末社」と括弧書きされ、また「神田」という名前からして神社が所有する田がこの祠の西に広がっていたのだろう。現在は田畑や駐車場で、それらは個人の所有と想像する。そして神社は撤去されずに現在に至っている。石上神宮は山手にあり、そこから西に向かって下り坂で、神田神社の祠は歩道と同じくやや小高いところに位置し、祠の前面が低いことが写真からもわかる。つまり田の中から東を見るとやや高く祠があり、その背後の小高い山の中に石上神宮がある。南北に走る天理環状線が末社と神宮を断絶しているが、この車道は戦後に田畑の中に新たに通され、西側の天理大学への交通の便はよくなったが、石上神宮の参道の西半分が消えた。現在その西半分は天理教の土地になっている気がする。つまり天理環状線によって天理教の諸施設が囲われた。昨日筆者はその道路から山手に延びる参道の坂を上る気がしなかったのは、新しく出来た道路に面していきなり現われたからだ。戦前は道路がなく、道路を越えて西に下り坂の参道が続いていた。今はないその西側の参道からでは、山に向かってなだらかな坂を上って行けば神宮があるという期待感が徐々に高まったであろう。石上神宮境内から南に延びる「山辺の道」はほぼそのまま残り、現在は「東海自然歩道」と名づけられるが、天理環状線とそれに続く道路を車で南下すると桜井まで20分ほどだ。忙しい人は車、古代情緒を味わいたい人は「山辺の道」というように、古いものを残しながら新しいものを造ることが奈良のこの地域でも見られる。大正11年の地図によれば現在のような「おやさとやかた」は当然なく、田畑の中に「天理教校」がぽつんとまとまっているだけで、ここ百年の間に布留川の整備とともに天理教の神殿や「おやさとやかた」群を建てるために土地が大改造されたことがわかる。その都市計画は今後も続けられるのかどうかだが、中心部は完成しており、後は周辺部の整備だろう。また天理教本部の区域は石上神宮の真西にあり、それがたまたまなのかどうか、神社から派生した宗教とみなされる、またそのことを矜持として天理教が持っているとの想像が出来る。大本教が弾圧された時に天理教も危うい立場になったが、大本教とは違って戦後は建物群がひとつの国のように威容を誇る。

●スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示→→