「
瞳には 人見る力 育まれ 目は口ほどに もの言うとされ」、「参考に ならぬものなし 気づくたび 少し大人に なったと思い」、「ハイドンの ボックスセット 半ば聴き 75枚 残し気になり」、「気がかりを 減らす意欲を 失わず 気がかり増すや 老い追われて」
平成4年(1992)の春に大阪市立美術館で『天理秘蔵名品展』で開催され、家内と見に行った。その時に買った図録に天理参考館の外観写真が載っている記憶があったが、今調べるとない。会場の説明パネルにはあったはずで、またその時の天理参考館は昨日の2枚目の上の写真とほぼ同じであったと記憶する。3月2日に初めて天理市を訪れ、「おやさとやかた」群を目の当たりにしてその規模に驚愕したが、部屋数が全部でどれほどあるのか想像を絶する。大半は空き室と思うが、天理参考館にいかに所蔵作品が多くても容易に保管場所はある。天理参考館は天理図書館とともに天理大学の附属で、「図書館」の名称はいいとして、「参考館」は何を意味するかわかりにくい。それで前述の展覧会の題名も『秘蔵名品展』と銘打たれたのだろうが、同展は参考館からだけではなく、図書館からも出品された。参考館は図書以外の品物で、民藝品と考古品に大別される。前者は茨木市の国立民族学博物館(みんぱく)のはるか先駆の収集で、梅棹忠雄がどのように思っていたか気になるところだ。みんぱくの発足は1970年の万博を契機とするが、天理参考館は戦前に布教がらみで中国その他の国で民族資料を収集した。それらはみんぱくにないものがかなり多いはずで、『秘蔵名品展』はそれらを概観する貴重な機会であった。今回およそ30年ぶりにそれら名品を目の当たりにしたが、展示作品は『秘蔵名品展』とほぼ同じながら、その後に収集されたとおぼしきものもあった。ところで、江戸時代に興った天理教を新興宗教と呼んでいいのかどうか疑問だが、他の有名な新興の宗教はどこも美術品の収集を行なっている。大本教はそうではないが、そもそも王仁三郎その他教団を率いた人物たちが書画の創造を嗜む美術家であった。大本から出た岡田茂吉は世界救世教を率いて「真善美」を唱え、人間は心身ともに健康であるべきで、心の健康は美術品に触れて培われると考え、やがて国宝指定の美術品を所蔵するまでになった。また世界救世教から分かれた神慈秀明会は信楽にMIHO MUSEUMを建て、世界中の美術品を収集している。創価学会は八王子に東京富士美術館を持ち、若冲ブームには早速その優品を購入し、潤沢な経済力を見せる。天理参考館はそうした美術品に目を向けず、たとえば江戸時代の有名絵師の絵画を所蔵しないが、図書館には当時やもっと古い書籍があって、美術鑑賞よりは資料的価値のあるものを集める態度が見られる。その点でみんぱくと双璧を成すが、みんぱくには天理図書館のような貴重書を含む膨大な図書はない。
参考館は「おやさとやかた」の一部を成していると思うが、天理大学も外観は同じで、「おやさとやかた」のどの部分がどういう施設かは信者でなければわからない。参考館のみは大きな看板があって初めて訪れる人でもそれとわかるが、隣接する同じ形の建物群が何であるかの疑問が湧き、天理教が迷宮めいた、悪く言えば他者を寄せつけない雰囲気がある。今日の最初の写真は上が参考館の前辺りから東を向いた眺めで、たぶん天理大学と思うが、その表示は間近に行かねばわからないのだろう。下の写真は参考館の玄関で、1階から3階までが展示室となっている。建物はたぶん5階建てで、参考館の4,5階は収蔵個になっているのだろうか。玄関を入ってすぐ左手にチケット売り場とその横にこれまで参考館が開催した企画展の冊子のバックナンバーの見本が置かれている。染織関係のものを買おうかと思いながら見るだけにした。先月2日に図書館を訪れた時も同館の企画展の冊子が20種ほどあって、蕪村や秋成関係のものを買って帰ろうと思いつつ、調べものに忙しくそのままになった。参考館の収蔵品を端的に知るには前述の『秘蔵名品展』の図録が最適だが、それは売られていなかった。参考館独自で同様の分厚い図録を作成しても売れ行きはあまり見込めないか。そうであればまた『秘蔵名品展』を大阪や京都の大きな美術館で開催するのはどうか。前回から30年では時期尚早かもしれないが、20年後では世代がすっかり変わって大丈夫だろう。参考館の1階は展示室の扉の際に高さ2メートルほどか、巨大なオルメカ像頭部の複製があり、それを収蔵することになった由来については書かれていなかったと思うが、現在の参考館が出来るまでは別の展示室にあって、その白黒写真が像の背後に展示されていた。現在地に移動するに際して修復されたとあって、写真と見比べるとより新しくなった気がする。複製では価値は乏しいようだが、実物大で質感も模倣され、古代アメリカにこういう石像文化があったことを知るにはよい。またこの巨大な像が複製であるために展示室の外にあるとも考えられる。つまり展示室にあるものはすべて本物で、作品保存の意味合いから照明がかなり落とされているが、展示状態は一流の美術館やみんぱくと変わらず、また撮影可能であるので筆者はほとんどみんぱくの館内にいるかと錯覚した。持参したのはトイカメラで、照明が乏しい作品はみなまともに写らなかった。照明の乏しさはたとえば戦前の中国で収集された店の看板や家具、朝鮮の仮面など、材料が脆弱で彩色があるものでは仕方がない。『秘蔵名品展』に展示されなかった豪華な家具では彩色の一部が剥離して浮き上がっているものがあって、湿度の管理を万全にしても購入時と同じ状態を保つことは困難だ。収集当時は中国や朝鮮で誰も見向きもしなかったそうした民藝品や民具は今では参考館にしかないものが多いだろう。
前言を繰り返すことになるが、『秘蔵名品展』の図録に天理教真柱の中山善衞が次のように書く。「……天理図書館も天理参考館も、もともとは「陽気ぐらし」の世界実現を目指して世界で布教伝道に活躍する人材を養成する目的で設立された、天理大学の前身、天理外国語学校の附属施設として創設された……。日本にいて世界各地の日常生活に馴染める民族資料を中心として、しだいに考古学関係の資料も充実してきました……」 中山善衞は3代目で、2代目の正善が中山みきの孫で、天理外国語学校を創設し、また参考館に展示される北京の多くの看板を収集した。収集はその最初が肝心で、礎が出来ると後は加速度的に収集品の数は増える。『秘蔵名品展』によれば、天理図書館は最初2万6千冊から始まって現在150万冊を蔵し、参考館では整理済み資料が海外民族資料2万5千点、日本民俗資料2万5千点、考古学資料1万5千点とのことで、その後新たに整理が終わった資料は購入資料があるはずで、みんぱくに匹敵するかそれ以上ではないだろうか。みんぱくは国立だが、参考館は天理教の信者の尽力によるもので、中山みき以降の代々の真柱がいかに信念を持続させながらその拡大に努めているかがわかる。これは蛇足だが、天理図書館の蔵書150万冊はまだすべてネットで検索出来ない。司書が1冊ずつ画面に入力し続けているのだが、150万冊では数人がかりでも何年も要する。日本民俗資料はたとえば京都府立総合資料館にもかなりあって、それらが歴彩館にどのように移され、今後企画展で紹介されるかとなれば、気の長い話で、天理参考館でも同様の問題があろうが、前述したように定期的に企画展を開催し、その出品作を冊子図録にまとめている。収蔵品が豊富にあればさまざまな切り口での企画展が無限に可能だが、参考館での企画展は3階のロビーの傍らで行なわれ、展示数はさほど多くない。さて、もらって来た三つ折りのリーフレットを頼りに書くと、1階の展示は、1「北の大地が育む手技―アイヌ」、2「伝統社会の道しるべ―朝鮮半島」、3「福禄寿―中国・台湾」、4「祖霊と共に生きる―台湾の先住民」、5「村落空間に満ちる祈り―バリ」、6「熱帯雨林を彩る伝統の美―ボルネオ」、7「ヒンズー社会の原風景―インド」、8「水辺に生きる―アジアの海・川」、9「母から娘へつなぐ織り―メキシコ・グアテマラ」、10「精霊たちの森―パプアニューギニア」で、ところ狭しと展示品が密集し、迷路をさまよう気分になる。暇そうな女性係員3,4人以外は筆者のみで、各コーナーは時間が許す限りじっくり見たいと思わせた。2階の展示は1階と同じ面積ながら趣が違い、11「移民と伝道―日本から南北アメリカへ9、12「庶民のくらし―日本」、13「くらしの中の交通」の3つのコーナーに分かれていた。そして3階は『世界の考古美術』の展示で、今日の2,3枚目の写真はそこで撮った。
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