「
戎さん 戒め足りず 成らぬのは 戍(まも)る家来の 戌(いぬ)知らぬため」、「今ここで ともに過ごして 生の花 思い交わせば 話に花が」、「集まって やがて散り散り コレクション 今もどこかで 埃を被り」、「物言わぬ 蘇鉄相手に 水をやり 夜から雨が 降って無駄骨」
相国寺の承天閣美術館の玄関前に蘇鉄の庭があることに気づいたのは2年前の10月19日で、それ以前にあったかどうか記憶にない。美術館が建ったと同時に庭も整備されるであろうから、筆者が気づかなかっただけでもっと以前からあったのだろう。あるいは空き地のまま、それとも岩のみが置かれていたかもしれない。どうも後者の気がするが、いずれにせよさまざまな形の蘇鉄が配置され、眺めはよい。ただし美術館の玄関に通じる通路からしか眺め得ず、しかもそれでは建物が接近して見えるのでややせせこましさを感じさせる。またこの蘇鉄の庭は通路から、あるいは美術館に入ってすぐ左手の靴脱ぎ場の窓からしか見ることが出来ず、作庭家は主にその方向から、つまり庭の東側か北東側から見て最も面白い眺望が得られることを念頭に置いたであろう。そうなると庭の西端に歩いて行ってそこから東を眺めわたしたい気になるが、想像力が逞しければ昨日と今日の最初の2枚の写真からでも立体の配置を思い描くことは出来るだろう。筆者は同じ蘇鉄を別の角度からなるべく撮影せず、最も美しく見えるはずの向きから各株を撮ったが、庭の全景を1枚に収め得ず、ばらばらに撮った写真を頭の中で合成して立体的な蘇鉄の配置を思い描くには少し無理がある。それは今日の2枚目の左の蘇鉄のように、ひとつだけやや離れて植えられるものがあって、それも含めてすべての蘇鉄は有機的に配置されているのだろうが、写真からわかるように庭はL字型をしていて、そのことが複雑な印象を与える原因にもなっている。これらの蘇鉄が今後どのように大きくなるのか、そうなった場合の眺めを知りたいものだが、筆者の残りの寿命では全く無理な話で、現状で満足するしかない。こうした京都を代表する禅寺の庭であれば個人の家の庭よりもはるかに長く保たれ、よほどのことがない限り、この蘇鉄は安泰だ。さて昨日の冒頭の歌の3首目は2月3日に撮った今日の3枚目の写真を念頭に詠んだ。この菰被りの蘇鉄は嵯峨の通称アビー・ロード沿いの家にあり、
「その14」に全景写真を載せた。個人の家としてはこれほど見事な蘇鉄は珍しく、冬場の寒さ凌ぎに植木屋に菰を被せさせるほどの庭、そして蘇鉄への愛があり、またもちろん経済力もある。このように大きく育った蘇鉄は今後数百年は成長し続けるはずだが、その間に家の建物は何度も建て替える必要がある。それほど代が続くにはよほど商売がうまく行くか豊富な資産が必要だ。それはたぶん充分万全ではなく、いずれかの代でこの庭を占める蘇鉄を鬱陶しく思う人が出て来る可能性もある。
そんな心配をしてもどうにもならないが、禅寺の庭の蘇鉄とたとえばわが家の鉢植え蘇鉄の中間の存在として、こうした金持ちが所有する大きな蘇鉄の群れの将来は気にはなる。所有者が飽きれば植木屋に処分を頼み、植木屋は幹を切り刻まずにどこかへ移植出来るように大事に扱って撤去するだろう。そうしてたとえばどこかの寺に引き取られるかもしれず、やはり筆者の心配には及ばない。問題はわが家の蘇鉄のように大人ひとりでは移動出来ないほどに重くなった蘇鉄の鉢だ。筆者が死ねば誰が大事に育ててくれるかと少しは気にしている。これは犬や猫などのペットを飼う人の悩みでもあるだろう。飼っている間にだいたいペットのほうが先に死ぬのでさほど問題はないと思うが、蘇鉄は強靭で人間より長生きする。そういう蘇鉄が筆者の心配を想像していないと誰が決めつけられるか。ほぼ毎日筆者はわが家の蘇鉄に対面しているが、そうなると蘇鉄は筆者を感知しているはずで、筆者が思い始めている将来の懸念に勘づいているのではないか。そうなると動物のペットと同じで、無闇に処分出来るはずがない。それで筆者よりも大事に見守ってくれる人のもとに行ってほしいが、それにはたとえばネット・オークションに出品してお金が介在するほうがいいかもしれない。とはいえ筆者は生きている間は手放さなさず、息子に委ねることになるが、植木に無関心な息子はたぶん切り刻むなりしてゴミ処分する。これは以前に書いたが、多くの盆栽を育てていたある人は死期を悟った時、自らの手でそれらすべてを焼却した。その気持ちはわからないでもない。大事にされた植物たちも主の死に伴って殉死するほうが幸福と思うかもしれない。これが動物や植物ではなく、たとえば本やレコードなどの無機質のコレクションであれば業者を呼んでほとんど無料同然で引き取ってもらうのがよい。一昨日書いたYさんは近年大量のコレクションをほぼすべてそうして手放した。聞くところによるとジュークボックスを一時は倉庫を借りて100台近く所有し、また美空ひばりのSPレコードやプレスリーの初版のレコードをたくさん集めていたが、情けなくなるほどの安値ですべてを業者に引き取らせたそうだ。それでもどこかのコレクターが狂喜するはずで、そのようにして骨董品はほしい人の手にわたって行く。これが植木となると厄介で、不要となればたいていは伐採だ。そんなことを考えると、寺にある堂々たる蘇鉄はやはり見応えがあり、大きく成長する植物はそれなりに大事にされる場所が確保される現実に安心する。何度も言うように問題は平凡な庶民のささやかな鉢植えの蘇鉄だ。それらが所有者の変化によって地植えされ、さらなる巨大化への道が保証される可能性がどれほどか。売れない平凡で小粒な芸術家が無数にいるのと同じで、ほとんどの蘇鉄は鉢植えのまま処分の運命をたどる。
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