「
兎跳び 罰でやらされ へこたれて 根性つかず うさを晴らして」、「進み行く 工事眺めて 日は長し 為すべきことに 踏ん切りつかず」、「公園を 日がなうろつく 顔見知り 姿見かけず 一年が経ち」、「顔会えば 笑みを交わせる 人あれど いずれ散ること 互いに思い」
今日の4枚の写真は2月18日の撮影。家内と嵯峨のスーパーに行く際、順に撮った。この川床工事の写真はすべてそうで、投稿目的のためにわざわざ撮影には行かない。最初の写真は渡月橋下流右岸の嵐山公園で、左端に見える「テロ対策重点警戒実施中」の赤い文字が目立つことと、工事期間が5月5日までという表示に着目した。5月5日は新年度にずれ込んでいるから、当初は長引くとの予想があったのだろう。しかし今日の他の写真からわかるように、2月中旬で工事は半分以上終わっていたから、3月末日まで要さないことは明らかであった。「テロ対策…」は誰がどういう形で警戒しているのか、周囲を見回してもわからない。防犯カメラの有無も定かでなく、しかも警官が怪しい人を監視していることはない。嵐山公園にそもそも怪しい人がやって来るだろうか。怪しいように見えるのは筆者くらいだ。渡月橋付近にパトカーやまたごくたまに警官を見ると、帽子にサングラス姿の筆者は呼び止められないかとしばらく落ち着かないが、買い物キャスターを引いて手提げ袋を持つただの老人であるから、注視されることはない。それで「テロ対策…」の看板はそれを見る人に油断するなとの警告の意味と受け取るが、油断していなくてもテロに巻き込まれる時はそうなる。ではこの看板は無意味かと言えば、「ないよりまし」という価値はある。「ないよりまし」はさびしい言葉だが、誰でもほとんど関心はないが、「ないよりまし」と思っている存在はある。それを好意的に捉えると、「あったほうがいい」で、それなりに気にしていることを意味する。ただし、その「あったほうがいい」存在はいつ消えるかわからないほどにはかなく、消えれば「ああそうか」で済まされる。家内が昔ある大学に勤務していた頃、亡くなった教授の葬儀に参列して来た別の教授が家内に漏らした。「亡くなっても誰も気にしないですよ」そう言った教授もやがて亡くなったが、教授の言葉どおり、大学には何の変化も起こらなかったようにいつもの日常が進んだ。大学教授でそれであれば、ほとんど何の取り柄もない人はもっとだ。「あの〇〇さん、去年の末に亡くなったのよ」「えっ、そうですか」それで終わりだ。惜しむ声は聞こえず、むしろ生前の〇〇さんのさまざまな横柄な態度が思い起され、「ついに死んだか」といったように厄払いの気分を抱く人が多いだろう。ここでは書けないが、その〇〇さんについて筆者は短編小説を綴りたいほどの交わりがあった。生前いかに偉ぶっても、死んで初めて人からどう思われていたかがわかる。
白居易は70歳で引退した。それに倣えば筆者は去年か一昨年の間に自治会がらみのことはすべて固辞しておくべきであったのに、平安講社の役員をまだ数年は務める必要があるだろう。日本の政治家も高齢が多く、60歳は早いとしても70歳で引退すべしとの法律を作ったほうがよい。70でも若者に負けないと自負する人があるが、その態度は醜い。体力で勝てるはずがなく、そうなれば知力も怪しい。それに70代がいつまでも社会を牛耳ると若者はやる気をなくす。今思い出した。コロナ禍になってから健康診断の案内書が届いても筆者は開封していない。4月になればまた新しい大型封筒が届くが、筆者はやはり開封せずにそこらに積んでおく。これは健康診断を絶対にしたくないという意味ではなく、ほとんど無意味と思っているからだ。コロナ以前、筆者は毎年の健康診断で必ず「要医療」の項目が3つか4つは出た。それでも医者に行ったことがない。そうこうしている間に70歳になり、ますます健康診断はどうでもよくなった。「風風の湯」に筆者より1歳下の常連客Mさんがいる。Mさんは健康管理が徹底していて、血圧を毎日数回計測し、グラフにしている。Mさんの体形は筆者より背が低く、腹がすこぶる出っ張り、胴回りはたぶん1メートル近いだろう。足は細いので、裸のMさんを見ていると、ビア樽が歩いているように見える。Mさんは健康食品に関心があるようだが、筆者は全くない。どちらが病気をせずに長生きするかはわからないが、薬や医者に関して万全の態勢を取っているMさんは、半ば栄養不足に見える筆者よりも健康に自信があることは容易に想像出来る。70を過ぎれば残りの人生は神から与えられたおまけと思うことにして、いつ何があっても受け入れる覚悟で生きるのが、筆者は潔いと思っている節がある。別の言い方をすれば、70過ぎの人生は綱わたりで、落ちればそれでおしまいという覚悟を持つべきで、過剰な健康管理は不要との考えだ。つまり健康診断で「要医療」の数値が出たとして、生活を大きく変えることはせず、自分と対話しながら、無茶なことはしないという程度の舵取りをする。自分の体は健康診断の数値や医者が管理するのではなく、自分自身と対話して把握する。それは自信過剰に聞こえそうだが、筆者は健康診断や医者を信頼するほどに病気を抱え込むと信じている。「風風の湯」には数年前まで血圧計があった。筆者はそれで自分が高血圧気味であることを知っていたが、血圧が測れなくなれば血圧に関心が全くなくなり、数値を知りたいと思わない。知ったところでそれを改善するための食事や運動というものを守るつもりもない。そのことをMさんに言うと、信じられないという顔をされた。人間は血圧だけで生きるものではない。もっと気にすべきことがたくさんある。
半世紀ほど前、老女が「ぴんぴんころり」を願って寺参りしている記事やニュース映像を何度か見た。ぴんぴんしながらある日急に死ぬことは、Mさんのように健康診断の数値を絶えず気にしている人は無理だ。少しでも異常が見つかれば薬を飲み、食事制限し、適当な運動もする。それで改善すればいいが、やがて無理となる。そして病院のベッドに寝た切りとなり、点滴まみれだ。つまり「ぴんぴんころり」とは真逆で、幸福とは正反対だ。「ぴんぴんころり」を願うのであれば、健康診断せず、自己対話に努め、異変を察知しながら、その改善に務める。とはいうものの、70歳を超えると全くの老境で、免疫の力が落ちている。それで酒量は増やすのは禁物だが、ここ半年ほど筆者は以前の倍になっている。飲む時間は必ず9時頃と決めていて、好きな時間に好きなだけ飲むという「自堕落」にはならない自信はあるが、ウィスキーよりもウォッカやジンがおいしいと思うようになり、体内に毒を注いでいる気になることがある。まあ飲める体力のある間は健康のはずで、体に深刻な異変があれば酒はほしくなくなるだろう。これまで酒好きの人をいろいろと見て来てそう思う。酒がほしいと思う間は健康と言えば、アル中はそう思いながらアル中になったので、やはり酒量が増えることは警戒せねばならない。筆者は飲んだ後20分ほど眠り、目覚めてからブログを書く。その時点で全く酔いは醒めている。その程度の酒であるから、やめようと思えばいつでもやめられる。ところが筆者は美術や音楽でもそうだが、あらゆる種類のものを知りたい。それでウォッカやジンもさまざまな銘柄を飲む。それ以外の酒もしかりで、特に決まった銘柄の酒が好きというのではない。そう言えば先日「風風の湯」のサウナ室で20代半ばのふたりと話したところ、ひとりは芸能人並みの男前でバーテンダーをしていると言った。作るのはもっぱらサントリー角を使ったハイボールで、カクテルの知識がなく、筆者がアレキサンダーやブラック・ルシアンが好きと言っても理解出来ない。バーテンは女が惚れては駄目な3B職業のひとつとされるが、知識豊富な一流になれば話は別だ。だが基本的なカクテルを全部知り、さらにオリジナルをいくつか持つにはそれなりの格式のあるバーで働く必要がある。そういう覚悟や出会いが彼にあるかどうか。サウナ室には嵯峨のFさんもいて、4人で大いに話が盛り上がり、ふたりの若者は筆者とFさんを特別の凄い大人だとえらく褒めていた。最後帰りがけにふたりの若者は、湯舟にひとりで浸かっていた筆者の背後に立ち並び、深々と頭を下げて挨拶して帰った。なかなか感心な態度だ。アルバイトをしている彼らに対し筆者はこう言った。「そのうちいろんな出会いがあって生活は固まって来る。そう気にせずに楽しくやればいい…(ぴんぴんころりを思うまでには半世紀ある)」
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