「
謗られて 素知らぬふりの 素人も 寿司にラーメン 店でたまには」、「天の理を 免れぬ身と 知るほどに 天の理守る 意思強まり」、「無頼とて 神の摂理の 組み込みと 覚えし歩み 道なお険し」、「もう少し 経てば花咲く 山辺の 霞む空見て 歌は浮かばず」
先月天理に行くと決めた後、京都嵐山から天理に行くのに京都駅に出るのがいいか、それとも阪急で大阪に出てからがいいかを考えた。電車賃は同じで、往路は京都駅から、復路は鶴橋から天満に出ることにした。天理大学附属図書館での調べものは500冊の雑誌で、1冊1分費やせば500時間、複写の時間を含むと10時間は要する。家内に作業を手伝わせるのは無理で、筆者ひとりが奮闘する。筆者の就寝は深夜2時過ぎが常態化しているので、早朝の起床は大の苦手だが、決めたからには朝の4時でも起きる。2日は結局天理駅に朝9時少し過ぎに着いた。筆者は天理市内をネットの地図やグーグルのストリートヴューで一切調べなかった。附属図書館のホームページには近鉄天理駅西口より徒歩25分と書かれていて、それだけを頼りに出かけ、駅を出て筆者は西方向にさっさと歩き出した。家内はそっちは反対方向ではないかと言ったが、西口から徒歩25分ということは西に真っすぐ歩くとの意味であると筆者は耳を貸さず、15分ほど線路伝いの道を西進した。天理大学のスポーツ部の校舎や「おやさとさかた」風の建物がいくつか並ぶ地域を抜けた後、どうもおかしいと思い始めた。すると自転車に乗った70歳くらいの女性が西からやって来た。「あの、天理大学図書館はどこですか」「ああ、逆方向ですよ」「駅の西口から徒歩25分とあったので、西に歩きました」「あの山の方向ですよ。駅前に商店街があります。そこを抜けると天理教の神殿があります。その前を南下すると、やがて右手に天理高校があります。その向かいの道を突き当たったところが図書館です」そばにいた家内はやっぱりと言う顔をしている。数十メートル遅れて歩く家内にかまわず、真っすぐ天理駅に向かい、駅前の大きな交番に入ると若い巡査が3人いて、そのひとりが有名な住宅地図本を広げて説明してくれた。先ほどの自転車の女性から聞いたとおりの道筋だ。二度聞けばいくら方向音痴の筆者でも覚える。アーケードの商店街に入ってすぐ右手の喫茶店でモーニングの看板を見かけた。朝食の食パンを食べたが、図書館で調べものに没頭すると昼を食べる時間も場所もないはずだ。迷わずに店に入り、コーヒーつきのサンドウィッチを2人前頼んだ。筆者は高菜入りの卵サンド、家内は野菜サンドで、半分ずつ分けた。食べ終わってすぐに撮ったのが「その1」の最初の写真だ。家内からは長い商店街を歩くことを聞いていたが、家内は昔はもっと狭くて賑やかであった気がすると言う。コロナで商店街ではシャッターを閉めたままの店が増えたが、朝9時台では開店準備だろう。
筆者はアーケードのある商店街のすぐそばで生まれ育ったので、大阪市内に出ると必ずと言ってよいほどそうした商店街を歩く。京都では三条通商店街が好みだ。初めての天理の商店街をさっさと歩いているようでいて、両側の店をすべて確認し、また交わる道路の奧に見える昭和的な家並みも味わった。歩きながら、姫路の商店街を思い出した。姫路駅から北に延びる商店街の最後の北奧を抜ける時とほとんど同じ雰囲気が天理の商店街にもあった。違うのは姫路では前方に城があるのに対し、天理では天理教本部の神殿だ。「その1」の3枚目の写真がそうで、4枚目の上の写真は南方の真正面から撮った。前述のように前知識なく出かけたので、この神殿はなるほどと思う一方、いつ建てられたのか、いずれ重文になるのか、宮大工をどうして集めたのかといったさまざまな思いが一斉に脳裏に浮かび、またその解放的なたたずまいに驚愕した。ある宗教にとって最も重要なこうした建物は、信者でなければ接近出来ないのが普通ではないか。昨日創価学会の各都市にある大型の支部に威容について触れたが、この天理教の神殿は柵を巡らして閉鎖的にせず、いわば丸裸状態だ。最近狂った人間が凶悪な事件を起こすことが多く、特定の宗教に恨みを持つ者もいるはずだ。そういう連中はたとえばこの天理教の神殿を燃やそうと思わないとは言い切れない。警備員の姿がなければなおさらだ。そのようなことを考えれば天理教の神殿は無防備極まりなく見えるが、遮る柵がなく、警備員はおらず、誰もが間近に近寄れるそのたたずまいに、誰しも天理教の本質があるとの連想を働かせるのではないか。筆者は東本願寺の御影堂を思い浮かべながらそれより上品と言えばいいか、女性らしさを感じた。威圧感がないのだ。左右対称性は当然として、よけいな装飾がなく、三つ並ぶ三角形の千鳥破風が印象的だ。この破風は「その1」の3枚目の写真では、つまり神殿を斜めの方向から見ると、屋根が大小複雑に交差してなお美しい。千鳥破風の代表は筆者のような大阪生まれではまず大阪城を思い浮かべるが、この神殿は木造で、戦後に建った大阪城より古いはずだ。さて昨日の「その2」の2枚の写真は神殿の南方にそびえる「おやさとやかた」で、それが厳密にはどこに当たるのかは筆者は知らない。「その1」の2枚目の写真は商店街の途中で右手に見えた同種の建物で、鉄筋コンクリートの6階建てだ。「高知」その他の表示があって、各県の信者の宿泊施設になっているようだ。信者全員が集まる祭典があるのかどうか知らないが、たぶんそのようなお祭りがあり、大挙する信者たちはまさか各地のホテルに分散して泊まることは出来ない。それで全員が泊まれる建物が必要になったのだろうが、そうとすれば部屋のほとんどは普段は空いたままではないだろうか。それでは不経済な気がするが、宿泊以外にも利用するのであればそうとは限らない。
商店街の途切れから見えたこの巨大な建物と同じデザインの、つまり千鳥破風がきわめて印象的な「おやさとやかた」が、神殿の南方に立ちはだかり、それを初めて見た筆者は驚愕した。昨日の最初の写真は「天理参考館」の看板柱が目に入ったので撮った。実は図書館での調べものが終わった後、同館を訪れる予定でいた。結論を書くと、最後の複写を司書にしてもらった時、5時少し前で、同館はすでに閉まっていた。話を戻す。信者の宿泊施設は最初は木造で点在していたのではないだろうか。ところが天理参考館や天理大学など、天理教を代表する施設を神殿の南方に集合させることになれば、同じデザインのしかも横方向に増築可能な鉄筋コンクリート造りがいいということになった気がする。「おやさとやかた」の千鳥破風の連なりで思い出すのは難波に昔あった新歌舞伎座だ。村野東吾の設計で、唐破風が波のように執拗にファサードに何重にも繰り返されていた。それが建った当時、筆者は母に連れられて堺にいた叔父によく会いに行ったので、鮮明に覚えている。建物前面中央のてっぺんに大きな千鳥破風があり、その下にほとんど漫画のような具合で唐破風が並ぶ様子は、鉄筋コンクリートで造る日本建築のひとつのあり方として好意的に捉えられる一方、建築における装飾はどこまで許されるのかといった、何となく腑に落ちない思いを抱かせた。新歌舞伎座は10年ほど前に取り壊され、近年同じデザインでホテルが建った。そうなると今度は大きな千鳥破風の上に無機質な立方体のホテル本体が丸見えで、さらに違和感を覚える。それはともかく、「おやさとやかた」は難波のかつての新歌舞伎座を連想させ、またそれとは比べものにならないほどの圧倒的重量感に、度肝を抜かれない人はまずいない。そしてそのような巨大な建築を可能にしているのが信仰だ。60年ほど前に家内が「おぢばがえり」に参加した時は現在のようには鉄筋コンクリートの「おやさとやかた」がなく、また子どもたちが土を手にして一種の「鍬入れ式」のようなことをした記憶があるとのことだ。信者全員が何らかの形で「おやさとやかた」の建設に参加するという考えがあったのだろう。数多い新興宗教の施設において、この鉄筋コンクリート造りの「おやさとやかた」に匹敵するものはないに違いない。ただの直方体の無機質な建物でも内部空間は同じに作り得るし、ホテルはどれもそうなっている。利潤を優先すれば建物によけいな装飾は不要で、利用客もそれにすぐに慣れ、利用してすぐに忘れる。天理教では神殿がまずあり、それに倣った「おやさとやかた」のデザイン性を重視した。新歌舞伎座のように「唐」破風を用いなかったのは当然で、日本建築の屋根の形から自然に生まれる三角形の破風とし、それを屋根に連続させた。ただしそれはすべて実用本位であって、装飾すなわちなくてもいいものかどうかについては筆者は知らない。
さて、今日の最初の写真は目当ての図書館の正面が奧に見えている。露出過多でほとんど写らなかった。この図書館が見えた付近から風が一気に強くなり、樹木のざわめきがひどく耳についた。また筆者ら以外に人影がなかった。戦前か戦争直後か、古めかしくて重厚な建物で、「おやさとやかた」とはデザイン的に共通性はない。階段を10段ほど上がったところに玄関扉があり、水没や山崩れには遭わない。150万冊を蔵するとされ、しかも誰でも気軽に利用可能は大学の附属図書館では珍しい部類に入るのではないか。筆者は各地の図書館をこれまで利用したが、二度と行きたくないところが二三あった。入館すると扉のすぐ近くで家内ともども住所氏名の記入を求められた。たぶん10時を少し過ぎていた。すぐ奧の右手のロッカー室に男子学生がひとりいて自販機で飲み物を買っていた。筆者はすぐに手提げ袋をロッカーに入れ、男女3,4人の司書のいる正面の受付に行き、目当ての本を求めた。ひとりが別の人に「あの場所にある……」と伝えたので、閲覧希望がままあるのだろう。一度に5冊までしか出せないと言われ、仕方なしにバックナンバーの古い順に家内と合わせて10冊ずつ調べた。左手の奧の部屋が閲覧室で、受付から20メートルほどだ。家内は役に立たないので、雑誌コーナーで適当に読ませた。10冊調べて小走りに返却に行くと次の10冊が用意されている。それを5,6回繰り返したところで、司書からキャスターに載せた100冊ずつ程度を一挙に見てよいと言われ、そのための場所が閲覧室で確保された。当初500冊ほどと思っていたのに、最初の方のバックナンバーがまとまって保存されず、400冊はなかったと思う。また古い号は個人の寄贈者名があり、ある時期から出版している京都の古美術会社からの寄贈になっていた。この図書館以外には東京の国会図書館しか、あるいはそこにもないかもしれず、そのことを知った古美術会社が新号をそのたびに寄贈するようになったのではないか。筆者ら以外にひとりの男性が閲覧に訪れていたのに、いつの間にか筆者らのみだ。目当ての頁に紙の栞を挟み、それが10冊ほどたまると司書に複写依頼をする。5時が近づくとますます猛速度で調べ、1冊当たり30秒を要さなかった。そばで見ていた家内は筆者の血走った目が即座に望む頁を探り当てることに驚嘆した。複写した頁は合計30ほどで、それは筆者が所有するバックナンバーの数にほぼ等しく、ほとんど目新しい情報がないことを知った。つまり筆者は古本を漁って全冊の半分ほどを確認していたことになる。筆者が所有する2,3冊は同館になく、寄贈可能ならばそうしたい。司書たちの親切さはこれまで筆者が利用した図書館では群を抜いていた。それが天理教の本質なのだろう。6時間半ほどいた閲覧室の雰囲気は永遠の言葉がよく似合う。改築せずにそのまま伝えてほしい。
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