「
籤運の なきこと笑う 老夫婦 神も仏も 金持ち贔屓」、「遠慮して 小さくなるや 金なしは 旅にグルメに 自慢のし合い」、「花街の 桜も色気 ありと見え 造花に負けぬ これ見よがしは」、「有名に あやかり狙う おこぼれを 京の気概は 安く落ちたり」
先日
昭和の祇園の写真展について書き、その会場で買った絵はがき3枚の写真も載せた。そのうちの「桜の下で」と題する1989年撮影の写真は、祇園新橋のすぐ北にある辰巳神社から白川沿いに50メートルほど西で撮られた。ふたりの舞妓のすぐ背後に東山の一部を象ったような自然石に短歌を刻んだ碑がある。これはよく目立ち、この白川沿いの石畳の道を歩く人は必ず気づく。吉井勇の「かにかくに 祇園はこひし 寐るときも 枕のしたを 水のながるる」と刻まれ、冒頭の「かにかくに」は今では読める人は少なく、また読めても意味がわからない人は多いだろう。この歌碑の前で祇園では舞妓や芸妓たちが接待する「かにかくに祭」が毎年11月に行われるという。筆者は目の当たりにしたことがないが、普段あまり見かけない彼女たちを間近で見られる機会として観光客に人気があるだろう。筆者は毎月25日は北野天満宮の縁日に出かけたもので、上七軒の花街のすぐ近く、あるいはその通りそのものをよく歩き、その風情を楽しんだが、吉井勇のように祇園に入り浸りになり、お茶屋に歓迎されるにはどれほどの財を使うのかとまず思ってしまう。もちろん財だけでは駄目で、それなりの有名人ないしそういう人の紹介があって身元がはっきりした人しか出入り出来ない。富士正晴は茨木の山中で貧乏暮らしをしながら、たまに知り合いに呼ばれてそうした花街にタクシーで往復した。知り合いが富士を面白くてしかも有名であることを知っての奢りで、富士ひとりでは行くつもりはさらさなかったであろう。吉井勇や富士の例からわかるように、文人が祇園によく出入りし、その伝統は今もたぶんある。そういう伝統を守って行く人々が各分野での主流となり、社会的地位と収入が約束される。またそうした人々が出入りするお茶屋は限られ、そこで情報が交換され、人のつながりが生まれて行く。それは出会った人から仕事をもらえる機会が増えることでもあって、同様の小社会は至るところに存在している。そういうところに属さずに金持ちになる人はいつの時代でも多いが、そういう成金は伝統のある小社会ではまともに相手にされない。京都の花街はおおむね今もそうだと思うが、「背に腹は代えられない」の言葉があるように、収入があればそこそこどういう客でも歓迎とばかりに質を落とす店もあることは容易に想像出来る。一流の店があれば、必ず二三流もあるからだ。いずれの茶屋も筆者には無縁の世界だが、それは貧乏人という理由とは別に、経済的に豊かであっても茶屋で遊ぶ楽しみは学びにくいと思うからだ。
昔に書いたことだが、筆者の学生時代の親友が勤務していた大手ゼネコンの同僚が京都支店にいた。そして夏のある夜、筆者と親友はその同僚から鴨川沿いの床料理のコースを御馳走になった。個人では敷居が高く、紹介がなければ出入り出来ないだろう。そこで食べた後、同僚は宮川町の花街に筆者と親友を連れて行った。屋号は忘れたが、同僚は通い慣れて1年ほど経っていたのか、女将と親しく、大いに気炎を上げた。店内に舞妓がひとりいて、お世辞にも器量はよくなく、そのことを親友は2,3度筆者に言った。酒に強い親友で、酔った勢いではない。京都の舞妓の幻想を打ち砕かれたことによる一種の腹いせだ。筆者は親友を制しながら思った。『これでは茶屋遊びは出来ないな』。一方同僚は舞妓の美貌など気にならないようで、茶屋で楽しんで飲むことが大好きという陽気さだ。当夜たぶん筆者の分だけで10万円は使わせたが、筆者は何もお返ししなかった。その後何度か年賀状をもらったが、会ったのはその夜限りだ。親友はやがて同社を辞め、おそらく同僚は出世したろう。大手ゼネコンの支社長になると、年収は桁違いとなる。またそれよりも接待費が使い放題で、祇園の茶屋遊び代は経費で落ちる。筆者は酒の1本でもお返しする必要はなかったと今でも思っている。次にこれも昔書いた。わが家の近所に昔老夫婦が住んでいて、ご主人のHは洗濯物の回収と配達を請け負っていた。それを辞めてからは昼間から酒の臭いを漂わせ、半ば浮浪者のような振る舞いと姿になった。筆者とは親しかったが、それが次第に怪しくなって行った。Hがまだそうなる前に何度か聞かされたことは茶屋遊びの楽しさだ。Hはある大社の神官を司る家系で、その道に進まずに商売で成功し、そこから上七軒の茶屋に出入りするようになった。ところがそれで身上を潰し、屋敷を失った。浮浪者のような姿になってからも茶屋遊びの楽しさが忘れられず、歯の抜けた笑顔で筆者は何度か誘われたことがある。もちろんそんな金がHにあるはずがない。また奧さんは家から出ず、終日家に籠って奇妙な言葉を叫んでいた。成功した頃のその夫婦を知る人からすれば想像を絶する激変ぶりであったろう。同じように茶屋で遊ぶのに、有名人は歌碑が建てられ、無名人はホームレス同然で野垂れ死にする。誰でも知る事実だ。有名になるために茶屋遊びは欠かせないとは思わないことだ。有名になれば茶屋からお誘いがあるだろう。その一例が前述した『昭和の祇園』の写真家の溝縁氏だ。花街に愁波を送り続けていると、いずれ手応えはある。これは蛇足だが、筆者の姪の長男は中学生の頃、一力茶屋の息子と親しくなり、何度もその店の中に入ったことがある。溝縁氏もなかなか撮影出来なかった内部であるのに、縁があれば何事も簡単に事が運ぶ。その縁は没後に生まれることもある。悪く言えば無料で利用されることだが、利用する側は顕彰と言う。
溝縁氏の「桜の下で」は吉井勇の歌碑とそのそばの満開の桜の間に舞妓を立たせ、彼女らがたまたま通りがかったところを懇願してモデルになってもらった写真ではない。ちょうどよい日和を選び、89年当時には祇園の花街と馴染みになっていた溝縁氏は特別に舞妓を望みの場所に来てもらって撮ったに違いない。あるいは一般カメラマン用によくモデル撮影会があって、舞妓のそれもたぶん年に数回はあると想像するが、そうした催しの際に撮られたかもしれない。つまり溝縁氏の周囲には数十人ほどの男性がカメラをかまえていたことはあり得る。それにしても祇園の華やかさを狙った典型的な構図で、観光ポスターに使うのはもって来いだ。舞妓は夜の座敷でのイメージが強く、日中のこうした姿は京都に長らく住む人でもめったに見られないが、溝縁氏は市井の人々と一緒に写る舞妓を撮って来たし、またたまたま路上で見かけたそうした姿を撮ることしか出来なかったので、この「桜の下で」はどことなくぎこちなさがある。作り物めいていると言ってよい。そのことが作り者である舞妓には似合ってもいる。さて、「桜の下で」に写る桜は樹齢が3,40年といったところか。昨日触れた74年にウォーホルが再来日した時、佐賀出身のカメラマン兼現代美術の画家の原榮三郎氏が京都に来たウォーホル一行に随行して写真を撮った。それが当時美術雑誌などで紹介されたかどうか知らないが、今回のウォーホル展と会期を併せて祇園のとある画廊で展示された。チラシに入場料1200円とあって、筆者はそれを見た瞬間に行かないと決めた。別の理由として、チラシの表に大きく載る写真の出来栄えに感心しないからだ。その1点で他の写真も想像がつくし、チラシに紹介される他の写真4点のどれも一度見れば充分と思う。似た写真はビートルズ来日時に撮られた。彼らが都内に出て勝手に歩き、あるいは古美術店に入った時に撮られた写真だ。ウォーホルたちが京都のどこへ行ったかとなれば、案内者は祇園の花街を見せ、てんぷら屋や骨董店に連れて行くという定番の考えによるのは当然で、そこにウォーホルの選択はない。日本が大好きで来日前にいろいろ調べることはウォーホルにはなかった。56年に初来日した時は世界一周旅行の一環としてで、東京を中心に日光、熱海、鎌倉を2週間かけて巡り、他のアジア諸国にも行きながら2週間帰国を早めた。ヨーロッパには51年から毎年の夏に旅行していたが、ウォーホルが初来日した50年代半ばはアメリカ人の間で日本旅行がブームになっていて、万単位の人が来日していた。そして74年の来日は自作の展覧会が東京と神戸で開催されたからで、祇園のほか桂離宮や三十三間堂にも訪れているが、これらは1日で見て回れる。ウォーホルにもっと日本ないし京都への関心が強ければ、数日の滞在を増やすことは容易であったはずだ。
それをするつもりがないほどに当時のウォーホルは画風を確立していた。今回のウォーホル展の出入り口脇の液晶パネルやまた「東山キューブ」でも、原氏撮影の74年来日時の写真が紹介された。それは展覧会を「京都のウォーホル」と題するからには当然として、原氏撮影の写真が見つかったか、あるいは所有していた人が美術館にそのことを打診し、ウォーホルと京都を結びつけた内容の展覧会の話を持ち上げたからではないか。また以前投稿したように、丸太町通りのとあるギャラリーが今回の展覧会開催に尽力したと筆者は聞いたが、それは同ギャラリーにとって儲け話であり、ウォーホル展開催で利益を得た企業や人物が当然ある。昨日書いたようにポスターが自治会の看板に5か月の間、貼りっ放しにされ、その劣化して行く様子をスーパーに通う間に目撃して来た筆者は、京都市挙げての宣伝に努めるほどの展覧会は、観客動員数はおそらく目論見どおりに行くだろうが、京都にことさら関心のなかったウォーホルの京都におけるごくわずかな足跡をネタに大規模な展覧会を開催することに、京都市の矜持というものがここまでなくなって来たかと慨嘆した。そのいい例を今日は紹介する。前述のように、原氏撮影の京都でのウォーホルの写真のうち、関係者がベストと考えた写真が写真展チラシの表側に使われた。それは溝縁氏の「桜の花の下で」と同じ場所を通り行くウォーホルを真横から捉えたもので、ウォーホルにぴたり重なってもうひとりの男性がウォーホルの向こうにわずかに見えている。その人物は別角度の写真から背丈や容貌がわかるが、原氏はこの白川沿いの石畳の道の、北側の歩道を歩いてウォーホルを撮った。そうしなければ吉井勇の歌碑やそのすぐ奧の白川や茶屋と一緒に写し込むことは出来なかったからだ。この写真は原氏が小走りに撮ったもので、若い女性ふたりが白川沿いに座って何なら覗き込んでいる様子が写り込んだ。またウォーホルのすぐ背後を歩く随行者のひとりもわずかに写っている。ウォーホルは若い女性ふたりに一瞬気を取られたようでそちらに顔を向ける。さらに仔細に観察すると、ウォーホルの横顔は口髭があるように見える。これは奧に並んで歩く男性の鼻や顎だろう。ウォーホルはコンビニかスーパーで買ったのか、小さなビニール袋を後ろ手に持っている。歌碑のそばの桜は葉ばかりで、季節は初夏か夏だ。桜の木は89年撮影の「桜の下で」と比べてかなり小さい。以上のことがわかる写真は白川筋を歩くウォーホルのスナップ・ショットの代表と目された。自然と言えば聞こえがいいものの、写真の出来としては平凡かそれ以下だ。ウォーホルと言われてもこの1枚ではそれを信じない人が圧倒的に多いだろう。それでも今回この写真を最大限に利用して写真展が開催され、またこの写真の撮影場所に特製の記念碑が建立された。それを知ったのは2月12日だ。
その日筆者は家内と一緒に以前に二度訪れて見られなかった祇園の漢字ミュージアムについに行くことにし、それを見た後に四条通りを南にわたり、辰巳神社から白川筋を歩くことにした。溝縁氏の「桜の木の下で」を思い出し、そこに写る歌碑を確認するためだ。もちろん昔から筆者は何度もその歌碑を見ているが、原氏がその歌碑の前を歩くウォーホルを撮影したことを知ったからには、なおのこと確認しておこうと考えた。この歌碑の建立は吉井が70歳の昭和30年(1955)だ。ウォーホルが56年に初来日し、白川筋を歩いたとすれば、この歌碑の存在に気づいたことになるが、もちろんウォーホルは吉井やその歌に関心はない。それは74年でも同じで、ウォーホル一行はこの歌碑の前で立ち止まらなかった。ところが原氏が歌碑とともにウォーホルを収めたのは、祇園白川沿いをウォーホルが歩いたことを他者に納得させるには最適と考えたからだろう。ただし、思惑は写真的にはあまりうまくかなわず、観光客の若い女性2名が写り込み、ウォーホルも彼とはわかりにくい。京都には世界中の有名人が昔からやって来る。ウォーホルと祇園の結びつきはないに等しいのに、この原氏の写真を元に大規模展覧会が企画され、それを契機として歌碑の前を通りすがるウォーホルの写真を採用した記念碑が設置された。誰がお金を出し、誰がどういう形で許可したのか知らないが、時代は吉井よりもウォーホルに注目が集まるようになったことを意味する。この道をかつてウォーホルが歩いたということで、いずれ白川筋はウォーホル筋と名前が変えられるかもしれない。そして祇園の茶屋ではウォーホルのマリリンの版画の複製が飾られるだろう。吉井の歌碑は茶屋の奧、白川に出っ張った部屋に寝込んで詠んだもので、石碑の形は白川が横になっている姿を暗示している。また吉井が好んで利用していたその茶屋が並ぶ100メートルほどの花街は戦時中に強制的に取り壊され、石畳が敷かれた。つまり白川を挟んで両側に長さ120メートルほどの花街があったのに、それが半分になった。吉井の歌碑はその茶屋の吉井が寝込んでいた部屋の近くに建てられた。ウォーホルや若い観光客は石畳を歩きながら、かつてそこに舞妓が舞う茶屋が建て並んでいたことを知らない。ウォーホルが眺めた白川筋の向こうの日本建築は茶屋の裏手になるが、現在は白川筋から白川をわたって店内に入れる店が数軒ある。吉井が恋した白川沿いの茶屋は古い絵はがきに写真が残っているだろう。狭い道が続くその様子は先斗町を思えばよい。しかしそこもあちこち建て替わり、消防法によって道からかなり後退して建物の玄関がある。白川筋西端角に昔若い女性ひとりが切り盛りする一杯飲み屋があって、筆者は先輩Nと昔一度だけそこで飲んだことがあるが、2月12日に確認するとすっかり様子が変わっていた。
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