「
戊辰から 次の己巳まで 役があり 鳥羽伏見には 死体累々」、「母神には 次の岸まで 役はあり 此岸去りても 益をもたらせ」、「舞妓さん まあいい子だと 言われれば 岩の上でも まあいいか舞い」、「舞妓さん 迷子になって 越さぬかな 芸妓の壁を 前に悩むまい」

1月11日にJR京都駅ビル内の美術館で本展を見た。昭和の写真がこうした有料の展覧会で展示される時代になったことに少々驚く。昭和26年生まれの筆者はいつ死んでもおかしくない高齢者で、まだ比較的最近と思っているたとえば昭和53年(1978)が、若者にとっては遠くて知らない過去であることをよくかみしめねばならないのだろう。そう思いながら、筆者より上の世代と話をすると、筆者の知らない時代の流行その他のことが話題になって自分はまだ若いかと実感するので、いつも自分のことを若くてしかも年老いていると思っておくのがよい。それに昭和53年を経験している筆者は同年をさほど古く思わない一方で、たとえば千年前の文化を作品を通じて知ると、自分のことを赤ん坊ほどに幼ないと感じる。つまりほとんど何も知らないことを年老いるほどに実感し、体はますます老いるが、関心は広がり続け、心は常に若返っている気がする。そのことでもう少し言えば、筆者以上に文化芸術や歴史などを何も知らない、また無関心な若者は筆者の眼中にないか、あるいはもう死の間際の老人に思える。それは筆者にとって魅力がないからで、人間的魅力は年齢の若さに関係がない。このように書けばあたかも筆者は自分が人間の魅力に満ちていることを自慢したがっているように受け取られるが、筆者の内面の基本は「何も知らないので少しでも知りたい」であって、そうしてさまざまな展覧会に赴き、気になった本を読み、またそういう音楽を聴き、心の中にかすかに浮かんでいることを捉えておくためにこうして文章を綴る。思い出したので書いておく。これは30年ほど前、筆者が最初に本を上梓した時、出版社の編集者はその完成したゲラをとあるサイトに登録している、名前も年齢も性別もわからない3人ほどに送信して読ませ、感想を聞いた。彼らは出版前の本を無料で読めるのでサイトに登録している。読了後にある人が、「本の内容よりも、著者がどういう人かと関心を持った」という感想を送って来た。本が褒められるのではなく、筆者について関心が湧いたことを筆者はどう判断すべきか。喜ぶべきか、本を失敗だったと残念がるか。AIに本を書かせると無個性の味わいが露呈するはずで、本の内容から読者が筆者のことに興味を持ったことは、書いた甲斐があったと思うべきではないか。このブログも強く意識しているのではないが、筆者にしか書けない話の運び、広がりを意識している。つまりAIが筆者の全文章を記憶しても今日の投稿は絶対に書けない。それがどうしたと言う声があるのは知っているが、自分が楽しければよい。
本展に展示された祇園を撮影した写真はすべてひとりの写真家、溝縁ひろし氏の手になる。筆者より2歳年長の香川県生まれ、千葉工業大学を卒業後、就職で京都に移住、ある日夕暮れの四条花見小路で初めて見た舞妓に心を奪われ、その後仕事が終わると撮影のために祇園に足を運ぶようになり、祇園の写真を撮って半世紀という。26歳でスタジオ勤務を経てフリーの写真家になり、31歳で写真事務所を構えたから、工業大卒の経歴は役立たなかったようだが、カメラの扱いに向いていたのだろう。アマチュア写真家は常に大勢いるが、本展チラシ裏面の文章を引くと、溝縁氏は70年代にお茶屋のおかあさんから、「舞妓さんをしっかり撮っておいておくれやす。いやはらへんようになるかもしれまへんさかいに」と言われ、熱心さが周囲に伝わっていた。チラシ裏面に白黒写真5点とカラー写真1点が印刷され、最も古いものは昭和48年(1973)だ。当時筆者は京都に住んでいたので、その写真の時代感覚はわかる。また前述のようにさほど古い時代と思わないが、本展の写真には知らない風景がままあり、現在との風景の違いに時代の落差を感じる。花見小路に市バスが走っていたことを本展で知り、また子どもを含めた一般市民と舞妓が一緒に写っている写真は土門拳が喜びそうで、生活感があってよい。溝縁氏と筆者との2歳差は同世代と言え、その意味でも親近感が湧き、筆者は数十年ぶりに出口の売店で絵はがきを3点買った。作品を順に見て行きながら、心地よさが増し、撮影者をいよいよ好ましく思うようになったのは、筆者も工学を学んで設計会社に就職した経験があるからだろう。会場の出口近くで撮影者の正面顔の写真が紹介され、かすかに笑みを浮かべたその顔を見て、工業大学卒を納得した。いかにも技術畑の実直な人柄が伝わり、それがどの写真からも伝わって来るようだ。同じ美術館で数年前に見た、そして同じく京都の花街を舞台に撮影した
蜷川美花の写真より格段に面白かった。それは本展の特に前半の展示作の報道写真的な味わいと、蜷川氏の作品におけるモデル撮影を意識した「芸術」的写真の違いでもあるが、後者はどういう写真を見たのかすぐに記憶から薄れた。それは前者に特徴的な京都に住んで祇園に通い続けて撮った生活に根差した安定感と、後者における舞妓芸妓の化粧顔がカラー写真でどのように化けて写るかを強く意識した「作りものめいた」虚構感との差でもあるが、前者が皮相的、後者が存在の内面に肉薄しているとも言い切れない。一写真家が趣味でスナップ写真風に舞妓を祇園の街並みと一緒に撮った感じから、祇園に顔馴染みが増えてからは特別に舞妓をモデル撮影することも可能となった。有名度が上の蜷川は最初から花街に深く入り込むことが許され、好みの舞妓芸妓を撮影することが出来たのだろう。ともかく、筆者は本展を見ながら絵はがきを買おうと決めた。

本展のチラシ表側とチケットに使われた写真は昭和56年、「舞妓と白川女」だ。祇園に花を売りに来た老いた白川女がふたりの舞妓を見やりながらこちら側にリヤカーを引いて歩いて来る。左下隅に舞妓を追う日本髪の女性の上半身の影が見え、舞妓のように簪が見えないので、芸妓であろう。柔らかい陽射しは秋か初冬を思わせる。筆者は同作に戸惑う。若さと老い、あるいは舞妓の華やかな衣装と白川女の田舎じみた身なりの対比が面白いと思って撮られたのか。女の一生が垣間見えるようで、残酷な気がする。舞妓は10代半ばから20歳までの数年間の命だ。そのごく若い頃の女性はその時期にしかない美しさを放つ。舞妓を卒業して誰もが芸妓になれるとは限らず、最近では舞妓の裏事情を暴露するような形で報道があり、70年代に溝縁氏が懸念を言われたのと同じような状況が今後目立つかもしれない。それほどに時代に合わない特殊な世界で、年々批判は大きくなる気がする。中卒で舞妓の修行をし、芸を覚えて行くという京都の花街の伝統だが、10代半ばで職人の弟子になることは世界中にあることで、京都の友禅職人もそうであった。そうでなければ30歳頃に一人前になって独立出来ないからだ。舞妓は20歳を過ぎて芸妓への道があるが、それになれない者はどうすればいいかという批判めいた言葉がある。だが、芸大卒の全員が芸術家になれるはずはなく、学校で芸術を学ぶことに意義があるとされる。その後は勝手に生きて行けばよく、その点は舞妓も同じだ。舞妓に憧れる女性がいつの時代も一定の割合でいるために舞妓が途絶えずに済んでいるが、その憧れは本展で舞妓の姿を見れば納得出来る。10代半ば以降の数年間、舞妓の姿で芸を学べることは、他に代えられない魅力だろう。そう思わない女性もいるが、思う女性もいる。思う女性にとって舞妓の姿はひとつの輝く完成した「型」で、それを凌駕する他のものはない。何しろ生身の自分が中心になった「型」であり、またその「型」の中で個性を発揮出来る。そのことを10代の女性が直感することに誤謬は混じらない。それほどに舞妓の姿には貫禄の美がある。溝縁氏が感じたのもそれで、そこに理屈はなく、美しいものをそのままそう感じただけのことだ。10代の女性が舞妓の完成美に自分を重ねることは、筆者は女性らしくていいと思う。女性らしさ、男性らしさを言えば今は差別用語と謗られかねないが、10代半ばの女性ならではの美しさは絶対にある。またそうした女性が舞妓になることにはさらに一段高い美のひとつの形体がある。それは長年の伝統で培われたもので、流行を超えた美だ。その美しく着飾った美しい舞妓が老いた白川女と道で擦れ違うことは、舞妓の輝かしさを誇るかたわら、やがて女がたどる定めを暗示してもいて、そのことでなおさら舞妓の美が誇張される。

さて、昔なら日本画家が舞妓をよく描いた。村上華岳や土田麦僊以外にも舞妓は京都の日本画の画題としてひとつのジャンルを築いて来た。最も新しいところでは石本正だ。筆者は70年代の『芸術新潮』などで石本の半裸体の舞妓像を頻繁に見ながら、よい印象を持たなかった。作品はどれも同じモデルを使ったように見え、陰毛を見せた舞妓像は舞妓の神聖さを穢すものに思えた。その点、華岳の舞妓像はふわふわとしてどれもかわいいが、彼女らは一様に目を閉じている。それが不思議ながら、舞妓の魅力をあますところなく描いているように感じる。石本の舞妓像は本物の舞妓をモデルにせず、画学生をアルバイトに使った雰囲気がある。またその裸身の肌は甲斐庄楠音の「穢い絵」と呼ばれた系譜を継いでいるようでいて甲斐庄ほどの激しさはなく、蠱惑性を見どころにしたように見え、舞妓もそうでない女性の双方を何となく卑小化しているように感じる。それはさておき、舞妓をモデルとして使うことは経済力が豊かでなければ無理だ。筆者が舞妓を描きたいと思ってもまずそのことで失格だ。それゆえ花街は無縁の世界であり続けているが、溝縁は熱心さが認められ、お茶屋に出入りが出来るようになった。貧しい画家でも同じ道が切り開かれる可能性はあろうが、石本のように舞妓を裸にして精緻に描くことはまあ無理だろう。それで石本は舞妓ではない女性をモデルに描いた可能性があるが、それがあったとすればそこまでして舞妓を題材にヌードを描く必要は何であったかの疑問が湧く。溝縁の写真は今日の2枚目の写真の額縁に入れた絵はがきのように、舞妓をスタジオでせいぜい踊らせるだけで、その衣装を脱がせたいという思いは全く伝わらない。それどころか、筆者がこの絵はがきを買った理由は、舞妓の衣装の驚くべき個性と完成度の高さだ。世界中を探してもこれと肩を並べる美しい形の衣装はない。あるとすれば現代の洋服のオートクチュールだが、彼らの新流行を意識した作品は案外舞妓の姿を意識しているように思える。この絵はがきで筆者が注目するのは背面に斜めに垂れた長い帯だ。このだらりと下がった部分は用をなしていないが、長さといい、角度といい、舞妓の全身にぴたりと釣り合っている。それに長い袖、こっぽりや髪型、簪など、どれもそうでなくてはならない形をしている。そうした最前衛と評してよい舞妓の衣装と、それを着る女性に憧れる10代の気持ちは、美しくなりたいという健気なものだ。またそうなるためには厳しい修行に耐えようという覚悟を知っているだけに、純心で冒し難い。舞妓は男が作り上げたものでいて、女性の美への思いが中心にある。3枚目の写真の2枚の絵はがきは左が78年の「半だらり」、右が89年の「桜の下で」で、どちらもモデルとして溝縁が時と場所を選んで撮った。前者の凛としたたたずまいは日本美のひとつの極致だ。右の写真については後日書く。
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