「
藤の木の 蔓を這わせる 杭立てて 悔いが残るは 不二の勢い」、「取り立てて ほしきものなし 湯に浸かり 去年の桜 昨日のごとし」、「長い息 吐いては吸うて 長生きを 気長に待つや 目覚めぬ朝を」、「土手下の 日差しの芭蕉 四五本に あいさつをして 道遡り」
今日からは年が明けてから見た展覧会について書く。去年10月22日から1月9日までの会期で嵐山の福田美術館と嵯峨嵐山文華館で開催され、1月6日に見た。京都では金閣寺や清水寺と並んで最も多くの観光客が来る嵐山であるから、そのうちの百人にひとりでもこの2館に足を運べば百貨店での展覧会並みに盛況になると思うが、実際はどうなのだろう。筆者が知る限り、わが自治会の住民で福田美術館の年間パスを購入している人はふたりいるが、開館当初のその金額は3000円であったと思う。2回使うと元が取れるのでとても割安だが、筆者は購入していない。どの企画展も観たいとは限らないからだ。それに調べてはいないが、年間パスはもう値上げされているかもしれない。本展会場で「福田美術館企画展スケジュール」のチラシがあって1枚もらって来た。本展以降4月上旬まで「日本画革命―魁夷、又造ら近代日本画の旗手―」、次に7月のかかりまで「KANSETSU<橋本関雪生誕140年>―入神の技・非凡の絵―」、10月上旬まで「竹久夢二のすべて(仮)―画家は詩人でデザイナー―」が開催されるとある。現在は「日本画革命」が見られるが、又造の絵は好きではないのでたぶん行かない。それを言えば夢二もこれまで何度も見たのでもういい。関雪もそうだが、見たことのない作品が並ぶかもしれない。嵐山にふさわしい作品となれば、上述の画家たちはみな知名度が高いので観客動員数を見込みやすいだろう。ところで、筆者はたまに知り合いがわが家に訪れると渡月橋の見える辺りまで一緒に散歩するが、彼らはTVその他で充分知っている渡月橋やその背後の嵐山にだいたい無関心で、ましてや観光客に混じって竹林を歩きたいと言う者はいない。嵐山は一部の人にそのように思われている観光地であるから、福田美術館の展示も特別見たいものではないとの先入観を持たれやすい。観光客目当ての、言い換えれば誰もがよく知る作品を展示するだろうという思いだ。それは半分は当たっているが、仕方なきところがある。たとえば数年前に大和文華館が開催した柳沢淇園の展覧会を福田美術館で巡回するとして、それを見る人はたぶん同館の他の企画展の観客数の十分の一ないし数十分の一に留まるだろう。美術館が金儲けに血眼になるのは避けるべきとしても、あまりの赤字では経営が成り立たなくなる。筆者がそういう心配をする必要はないが、先の柳沢淇園展は奈良の美術館が開催すべきで、その役割を大和文華館が担ったことに大いに感じ入った。見るべき人は遠方でもわざわざ足を運ぶ。地味な大和文華館だがその貫禄は他館では真似が出来ない。
福田美術館が開館してしばらくして福田美術館は嵯峨嵐山文華館も経営することになった。その経緯については知らないが、嵐山文華館はそれ以前に企画展をすることはあっても1階で小規模に行なわれた。小倉百人一首に関する展示をすることで建てられたが、その役割は残しつつ、ひとまずその役目を果たしたと考えられたのだろう。そのことは入場者数の推移でわかる。そこで福田美術館は割合小さな美術館で、展示作品数には限りがあるので嵐山文華館を使えるとなると、一気に展示壁面はたぶん4倍ほどに拡大した。橋本関雪展が開催されるのも、六曲一双屏風が同館の2階では白沙村荘のMUSEUMとは比べものにならないほどにゆったり、たっぷりと展示出来る。その意味では4月から7月まで開催される関雪展はこれまでの展示とは違った味わいを感じさせてくれるだろう。ただし、六曲一双屏風や長い絵巻のような大作はいいが、小品主体では同館2階は間延びする。ともかく、嵐山にある同2館を使えば、小品から大作まで、どのような展覧会でも対応出来そうだ。またこれは率直な思いを書けば、福田美術館は嵐山文華館も入手したのであれば、福田美術館を建てる必要はなかったのではないか。これら2館を使えば、また絵画ならどのような企画展でも可能になるだろうが、2館は雰囲気に共通性がなく、たとえば本展はそれが手伝って散漫な印象を受けた。作品数が多いのはいいが、まとまりに欠ける気がした。しかしそれは本展が芭蕉と蕪村という俳句つながりの巨頭をふたり取り上げるのはいいとして、蕪村と若冲は同じ年生まれということで8年前に大規模な二人展が開催された。同展は蕪村と若冲それぞれのファンが見たとして、通常の企画展の倍の来場者数に届かなかったのではないか。同年齢で蕪村は京都に住んだとはいえ、画風は全く違い、二人展を開催する意義が明確ではなかった。となれば本展でまた蕪村と若冲の作品を展示することは奇異に感じるが、福田美術館は若冲人気に便乗する形で、若冲画を集中して購入し、また若冲人気はそれなりに続いているので、本展でもそれらを見せることにしたのだろう。また2館を使ってとなると、作品数はふんだんに用意する必要がある。筆者は後期しか見ていないが、前期のみで見られる作品が多々あり、図録があれば購入するつもりでいたのに、今回は作られなかった。その代わりと言うべきか、撮影は自由で、それは近年の美術館の傾向となっている。写真を撮影者がSNSに上げると宣伝になるからで、時代は変わって来ている。撮影自由を予想してカメラ持参で出かけ、また若冲画を中心にたくさん撮ったのに、ほとんどがぶれていた。福田美術館は内部が暗く、筆者のボロ・カメラではそうなる。それで今日の写真は嵐山文華館の最後の展示で注目した作で、また部屋が明るいのでうまく撮れた。
これを書く段になって気づいた。嵐山文華館が第1会場で、それを先に見た後に下流側にある第2会場の福田美術館を見るのが正しい順序だ。本展の目玉は再発見されて福田美術館が購入した芭蕉の「野ざらし紀行図巻」で、蕪村と若冲の作は1割ほどの個人蔵を交えて福田美術館の蔵品が展示された。芭蕉は画家ではなかったので、「野ざらし紀行図巻」は珍しい作ではあるが、絵画作品として取り立てて見るべきものではない。この図巻が一般の市場に出たかどうか知らないが、おそらく有名な古美術商が入手し、福田美術館に購入を持ちかけたのだろう。以前MIHO MUSEUMにいた岡田秀之氏は福田美術館の学芸員のひとりでありながら実質的な館長の立場にいると思うが、彼が古美術商とつながりがあり、福田美術館が持つにふさわしい作品を探す一方、古美術商も売り込んでいるのだろう。そう想像すると、福田美術館は雇用する学芸員の思いが強く反映した蔵品およびそれらを用いた企画展がなされて行くことになり、作品購入は美術館建設を意図した会社社長の決済が必要とはいえ、同社長の趣味以外に他の美術館と比肩し得るいわゆる名作が集まりやすい。ただしそれは社長の絵画に対する好みが最優先されず、側近の意見を受け入れることになって、私立の美術館として特徴が曖昧化しやすい。福田美術館が若冲画を細見美術館に並ぶほどに購入し、また今後もし続けるであろうことは、社長の好みである一方、人気画家で市場価格が当分は下がらず、展示すれば大いに話題になるという一石二鳥の思惑を感じさせるが、「野ざらし紀行図巻」も蕪村を絡めると企画展が開催出来るとの思いが岡田氏に働いたのであろう。彼の好みがちらちら覗くことは非難されるべきことではない。逆に彼のような若手が今後の京都の江戸絵画の評価を改めて定めて行くべき企画展を開催すべきで、その場として福田美術館の今後が期待される。名品が市場に出ても公立美術館は購入の予算がほとんどない。それで福田美術館がどんどん買えばよいが、人気画家ないし名品と呼ばれる作に限られるとそれはそれで面白くない。こう書きながら筆者は大和文華館の企画展を思い出しているが、観光客が大勢集まる嵯峨嵐山であれば福田美術館での展示は渋い内容に傾くよりもやはり人気画家中心になるのは仕方がない気がする。あるいは元来美術館に足を運ぶことはそれなりに渋い趣味であって、美術館側は半ば大衆向けを意識しながら、もう半分は啓蒙の考えに立ってこれまでにない内容を示す必要があろう。本展はその意味では充分な内容で、図録で各作品が詳細に論じられなかったのは惜しい。筆者がやや驚いたのは小野竹喬の切手図案にもなった芭蕉の「奥の細道」に取材した有名な連作で、今回はその習作が前後期合わせて10点展示された。本画は写真パネルで紹介され、習作と比較出来ることが面白かった。
さて、今日の写真について説明しよう。嵐山文華館の2階の最後に展示されていた絵巻だ。てっきり蕪村の作と思ったが、説明を読むと蕪村の作を忠実に模写したもので、巻末に「了川」の落款と印章がある。これは書いていいかどうか、数年前、TVの有名な骨董価格判定番組で、蕪村の最初期作が4点出品された。ネット・オークションで落札されたもので、落札者はそれらの作品について本を書いて自費出版した。同番組で価格を判定したのは京都の老舗古美術商の社長で、ネット・オークションに出たことが意外と言いながらかなりの高値をつけた。筆者はTV画面でそれらの作品を一瞥した瞬間に贋作と思ったが、社長は蕪村の初期作らしい拙さと後年の技法が混じっているといったことを述べた。番組に出品したその男性はふたたびネット・オークションで蕪村の初期作と思い込んだ絵を購入し、また同じ番組にそれの評価を仰いだ。しかも今度は出演以前にまた本を自費出版した。その再度の挑戦作に蕪村らしさは皆無で、現代の作であることは少々絵画を見慣れているひとなら誰でもわかる。案の定同作は番組で否定されたが、その際気になった場面があった。前回の蕪村初期作4点はネット・オークションでなく、知り合いから譲ってもらったとその男性は発言したのだ。筆者は今でもその最初期作と判定された4点は贋作と思っているが、それは絵があまりにまずいからだ。蕪村と称する作はネット・オークションに膨大に出品される。1パーセント以下の数が真作だが、判断にとても苦しむ作がある。印章があればその真贋で判定すればよいが、蕪村は必ずしも印章を押さなかった。そしてそういう作でどう見ても蕪村でしかあり得ない作がごくたまにある。その真贋判定は誰がするか。蕪村は絵も書もとても独特で、完璧にそれを学んで蕪村と思わせる作を作ることはほとんど不可能だろう。そこで、本展に展示された了川による蕪村の「奥の細道図巻模写」を見ると、その考えが揺らぐ。全巻を間近かつ仔細に見ていないので断定は出来ないが、蕪村の真作を忠実に模している。この了川が画巻の最後に自分の名前と印章を入れなければ蕪村作として市場で通用していたかもしれない。了川は蕪村に私淑し、限りなくその絵画と書を愛し、その筆法をわがものにすることに多大な時間を費やしたはずだが、たとえばこの画巻の最後の部分を了川が知らない場所で誰かが切り取って蕪村の真作として流通させた可能性があり、市場に出回る蕪村の作に了川作が混じっているかもしれない。それはともかく、蕪村の作にそれほどに心酔する者がいたことは筆者にはよくわかる。また原本を眼前に置いて忠実に模写することは絵心のある者には不可能では全くない。問題は蕪村らしい作を描くことだ。そしてそれらは前述のTV番組に出品された贋作のように、ほとんど取るに足らない技量や構図を見せる作となる。
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