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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『白沙村荘 橋本関雪記念館』その9、「琵琶行」
門に 晒され笑う 罪人の 首見て笑い 気も天も晴れ」、「天下人 怒りに点火 責任を 嫁に転嫁し 喧嘩に勝てん」、「分かち合い 分かり合えねど する人を 心動かぬ 人は分かちて」、「多様性 聞こえよけれど 出鱈目で 愛も変わらず 抱え続けて」
●『白沙村荘 橋本関雪記念館』その9、「琵琶行」_d0053294_01325415.jpg
昨日の続き。まず写真の説明。最初は庭園南東角辺りから西を向いて撮った。左端は「如舫亭」、奧に見えるのは捗月池の対岸にある茶室の「憩寂庵」だ。2枚目左は「如舫亭」から「憩寂庵」を見通し、2枚目右はほぼ同じ撮影位置から「存古楼」を眺めた。3枚目は捗月池に架かる橋を西に越え、東を振り返って「如舫亭」を撮った。そして西にさらに進み、突き当りで北に向かう、と突き当り右手に「存古楼」がある。去年12月30日の再訪では中に誰もおらず、気兼ねせずに入った。内部で4枚撮ったうちの1枚が今日の4枚目上の写真だ。関雪、その妻、関雪の父の肖像写真の額が3つあり、写真奧の日本髪を結った女性が関雪の妻で、なかなかの美人だ。MUSEUM3の内部に関雪夫婦が渡欧して撮ったスナップ写真が数点展示され、そこに妻の写真もあるが、関雪ともども疲れていたのか、あまり表情はよくない。「存古楼」を出て真東にほぼ隣接する「持仏堂」に向かう時、「存古楼」を振り返ると、その北端辺りの雨に濡れない棚のような箇所に開催中のフォロン展の冊子図録が2,30部ビニール袋に入ったまま無造作に置かれていた。入園時に見かけたカリンの実と同様、バッグに一冊入れようかと一瞬思いながら、先を急いだ。4枚目下の写真は「持仏堂」の北東角から西に向けて撮り、竹林の奧にMUSEUM3が見えている。左上の黒く見える屋根はもちろん「持仏堂」のそれだ。5枚目上は「持仏堂」をその南にある順路に戻って撮った。下の写真は向きを変えて西端にあるMUSEUM1,2だ。1は1階、2は2階の意味だ。二度訪れたので白沙村荘の庭園のほとんどは写真で紹介したことになるが、四季それぞれ咲く花や光が変わり、訪れるたびに新たな発見があるだろう。来月から嵐山の福田美術館で関雪展が開催される予定で、関雪の作品をまとめて見る機会がまた得られるが、関雪が凝って作ったこの庭園は嵐山に運べない。福田美術館は桂川の向こうに嵐山を借景とするが、庭園は小さく、見物というほどに年月が経っていない。そこで関雪の作品を別の場所で触れた後は、やはり一度は白沙村荘の庭園を実際に歩き回って鑑賞すべきだ。以前書いたように入館料は1300円だ。これで庭園とふたつの美術館の展示が見られることは現在の他の美術館の入館料に比べるととても安い。物価値上げの折り、この金額がいつまで持続可能かわからないが、きわめて良心的な美術館運営と言える。また関雪の人気が今後下火になるかどうかの懸念はこの庭園がある限りは必要がない気がする。結論めいたことを書いたが、写真は5枚あり、もう3段落は書かねばならない。
●『白沙村荘 橋本関雪記念館』その9、「琵琶行」_d0053294_01330954.jpg
 今回MUSEUM1では以前同様、内部正面に「ベルリンの画家」作とされる古代ギリシアの梟を描いた黒絵壺は相変わらず展示され、その奧の両側のガラス張りの展示壁に、向かって左はチケットの図柄になっている六曲一双屏風「木蘭」、右手には明治43年(1910)27歳で描いた六曲一双屏風「琵琶行」があった。生誕100年記念の図録には、後者は長らく行方がわからなかったとあって、再発見後、関雪美術館が買い戻したのだろう。この作品の左隻は印象深く、筆者はおよそ40年ぶりに見てその長い年月を感じなかった。さて、先日木島桜谷の展覧会の感想を書いた時、漱石が2年続けて文展に出品して2等賞を得た桜谷の六曲一双屏風を酷評したことについて簡単に触れた。桜谷の同作は明治44年の「若葉の山」と同45年の「寒月」で、関雪の「琵琶行」は「若葉の山」の前年の文展出品作であるので漱石は見たであろう。当時関雪は神戸から東京に移住していて、「琵琶行」やそれに続く作品は文展で褒状をもらいながら、生活苦にあえいでいたと言う。京都で暮らすようになるのは大正2年の30歳からだ。その頃6歳年長の桜谷は琳派の画風に傾倒していた。関雪は中国旅行をするなど、桜谷のような、よく言えば画風の多様性を追求せず、漢詩への造詣を深めて画題を中国もしくは動物画に限った。あるいは円山四条派を学びながら洒脱さや透明感のある画風を深化させ、関雪でしかあり得ない個性の確立を成し遂げて行った。関雪は嵯峨の桂川に面して住んでいた富田渓仙とは仲が悪かったとされる。それは関雪が渓仙の漢詩に対する知識が浅かったからとされ、その意味で画家である以前に詩人であると自認した鉄斎に通じている。筆者は渓仙の軽ろみの画風をとても好むが、関雪にとって絵画は軽い持ち味を主張すべきものではなかったのだろう。それで関雪の絵は高潔、高貴といった風格が重視され、格調高さを表現し得ないのであれば意味なしといった厳しい思いが鑑賞者に伝わる。一方渓仙は同郷の仙厓の画風に憧れたこともあって、屈託のなさを好み、また膨大な素描的作品を遺したが、現在双方どちらの評価が高いかとなれば、筆者にはわからない。それはさておき、そこに桜谷の作を持ち込むと、京都の別の面が見えて来る。桜谷も漢文の素養はあり、漢詩を作った。ただし、関雪のように絵を同じほど書の作品も残さなかった。明治人であるので、漢詩を学ぶことは当然であったと言ってよいが、漱石は関雪の絵をどう思っていたかが気になる。「琵琶行」を描いた頃の関雪は東京住まいであるから、漱石は関雪を神戸出身ではあるが東京の画家として贔屓目に見たであろうか。漱石がそのような小さな人間ではなかったとして、また関雪の画風を好ましく思ったとすれば、それはなぜか。これは関雪と桜谷の画風の差の問題でもある。
●『白沙村荘 橋本関雪記念館』その9、「琵琶行」_d0053294_01332855.jpg
 漱石は漢詩を作り、絵も描いた。その絵は伝統的な南画の延長上にあって、筆者には素人にやや毛の生えた程度に見える。桜谷の没後50年展の図録所収の平野重光の文章に、漱石が画家の津田青楓に「私は生涯に一枚でいいから人が見て難有い心持ちのする絵を描いて見たい」と手紙を書いたとある。無数にいる漱石ファンは漱石の絵をありがたいと思ってほしがるはずで、漱石の思いはとっくにかなえられているが、同じように言えば桜谷の絵もそうだ。「若葉の山」や「寒月」を発表した直後の桜谷は時代の最先端を走る画家と目された。そういう桜谷の名作を漱石が好まなかったのは、文学者として絵画の面白さを見て評価していたということになるが、先日書いたように「寒月」に描かれる一匹の狐が気に食わず、ほぼ全体描かれる雪の中の竹林を写真館の背景画のようだと評し、写真のような写実が却って嘘じみていると感じたのだろう。円山四条派の伝統を突き詰めると「寒月」のような作品に至るのは必然で、画家がその超絶技巧を得るにはどれほどの修練を重ねるべきかは素人でも想像がつく。その技巧でどういう精神性を表現するかが漱石にとっては重要なことであったのだろうが、「寒月」にはどこか限界ぎりぎりの孤独が露わになっていて、桜谷が自身の内面を覗き込み、それを狐や雪の中の竹になぞらえたとして、そのいわば誰にでも感知出来るような見え透いた舞台の仕掛けが漱石にとっては安っぽく感じられたのかもしれない。だが漱石がそう感じたとして、それが正しいとは限らない。ひとつの文から無限の絵が描けるように、一枚の絵から無限の詩が導き出せる。漱石が「寒月」を嫌ったのであれば、中国の唐時代の詩を絵解きした関雪の「琵琶行」はどうであったか。南画に絵と賛がお互い高め合って全体として見どころがあるとすれば、「琵琶行」は白楽天の詩文を固定した絵で再現しているだけのもので、詩がまずありきだ。それがなければ絵は存在し得ず、したがって詩の下位にあり、どの画家でもその詩を題材に別の絵が描けることとなり、漱石はやはり感心しなかったのではないか。筆者はどうかと言えば、左隻に描かれる琵琶弾きのうらぶれた女性がとても現実味を帯びて描かれていることに驚き、その点は関雪の女性を主役とする他の作に共通していると思う。白楽天は左遷されていた時の境遇を琵琶弾きの女性に重ねて「琵琶行」の詩を詠んだ。そこには若き画家としての当時の関雪の思いが重なっている。琵琶弾きの女性は若い頃は琵琶の名手として都でちやほやされながら楽しく暮らしていたのに、容貌が衰えて商家に嫁ぎ、やがて夫から飽きられて顧みられない境遇になって舟で暮らして琵琶を弾いて客を呼んでいる。白楽天は衰えぬ才能があるのに恵まれない境遇に陥った琵琶弾きに同情し、優秀な官僚であっても態度如何で左遷の憂き目に遭う自分を重ねた。
●『白沙村荘 橋本関雪記念館』その9、「琵琶行」_d0053294_01334612.jpg 関雪は単に「琵琶行」の詩の内容に他者として感じ入ったという一線を越えて、才能に恵まれるのに運のないことに同情した。その点では「寒月」にどこかでつながっていると見てよい。つまり関雪の「琵琶行」は挿絵画家が文章を絵説きしたような作ではなく、どうしても描きたい、描いておくべき絵であった。しょげている琵琶弾きの女性の話を聞く白楽天の横顔は強い意思に溢れ、無名の琵琶弾きとは違っていかにも理知的な詩人として描かれている。印象深いのは琵琶弾きの方で、関雪は彼女を描くほうが白楽天を描くよりも何倍も時間を費やしたであろう。筆者はその女性と同じ職業として、芸能人やライヴハウスで活動するミュージシャンを思う。彼女らは若い時は人生を最大限に謳歌する。人前で芸を披露し、男から喝采を浴び、贈り物をもらう。容貌が衰えても人気が持続すればいいが、それは万に一の割合で、ほとんどは身を固める。それで幸福な暮らしが死ぬまで続けばいいが、若かった頃の華やかな暮らしが忘れられず、また他に出来ることはないので、ふたたび芸を金に換える方策を採る。白楽天は「琵琶行」の中で、琵琶弾きの女性にその詩を捧げると言って詠み、白楽天の名声とその詩は1200年後の現在まで伝わり、琵琶弾きもその詩の中で生きている。そこには音楽より上位にある詩への意識がある。白楽天は絵画よりも上に詩があるとも思っていたであろう。ヨーロッパでも同じ考えで、詩は絵画や音楽より上位に位置する。関雪はそのことをよく知っていたはずで、それでもなお詩人ではなく、画家として名を遺そうとした。関雪は白楽天の「長恨歌」も描いているが、詩から浮かぶ鮮やかな情景を絵画にする行為は、台本を舞台劇、映画にすることに通じ、別の意味で関雪は桜谷と同じく、写真や映像時代の画家であることを証明している。そして漱石はそういう絵画が好きではなかったのだろう。もっと言えば絵画や音楽では人間を救うことは出来ないと思っていたのではないか。関雪の「琵琶行」や「長恨歌」は白楽天の詩を知らなければ意味不明の作で、文学の知識を要する。桜谷やまた渓仙は絵だけで面白い作を目指した。関雪の絵画は漢詩を不要とみなす向きが拡張していると言ってよい現在、人気は下火になって行く可能性が大きい気がする。白楽天の詩は彼が生きている平安時代に日本にもたらされ、日本の文学に多大な影響を及ぼし続けて来た。『和漢朗詠集』では白楽天の詩は最も多い。一生そういうことに無関心な人が圧倒的多数を占めるが、それは平安時代でも同じであった。そのことを関雪は知っていた。卑俗な芸能人ファンの百分の一以下の数の人たちが、高潔な芸術を称えて後世に伝達する。とはいえ、舟の中の白楽天が目の当たりにした琵琶弾きの女性の演奏は絶品であった。それゆえ白楽天は涙を流して聴き惚れた。そういう名人芸の大部分は後世に伝わらない。
●『白沙村荘 橋本関雪記念館』その9、「琵琶行」_d0053294_01341213.jpg

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by uuuzen | 2023-03-02 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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