「
又生えが また伐られても また生えて 根ある限り 生きる気力も」、「根気なく 今夜は早く 寝たろかな 体休めて 気力も湧きて」、「無理をして ヤンバルクイナ 頑張るや 晴れて悔いなし 空を飛べると」、「同じこと 繰り返すうち 手慣れして いずれ宿るや 神の美意識」
去年12月11日、泉屋博古館からNOANOA,そして四条烏丸の大丸百貨店に行った後、そこから烏丸通りを徒歩で南下し、東本願寺北の「しんらん交流館」で今日取り上げる無料の展覧会を見た。チラシを以前に入手していたこと、同館を訪れるのが初めてであったこと、そしてチラシに柳宗悦の書が印刷され、その実物が見られると思ったためだ。鑑賞者は筆者と家内のみで、学生アルバイトか、若い女性が受付にいるだけであった。展示は画架上の写真パネルが中心で、柳の書も写真であった。奧に書店が併設され、展示会場との境に柳の全集が並べられていた。その全集のうち筆者は2冊だけ所有しているが、全冊揃えると定価では30万円ほどする。受付の女性はいつの間にか姿を消し、書店コーナーにも人影がなかったので、裸のままで並べられていた全集は盗難に遭いかねないと思った。もっとも、そんなことをする人は本展に足を運ばない。チラシには9月中旬から12月15日までの3か月の会期であることが記されるが、今月10日まで延びたとの告知が館内にあった。観覧客があまりに少ないための延期だろう。写真パネルの展示では入場無料は妥当であろうし、また柳や民藝のファンは関心をほとんど持たないのではないか。筆者は即座に3年前の秋に
大谷大学博物館で見た展覧会を思い出した。柳が富山で出会った人や「三帖和賛」、『大無量寿経』の第四願「無有好醜の願」から美についての思想を固めたこと、また棟方志功が同地域に住んで才能を開花させたことなどが作品とともに紹介された。本展は今日の最初の写真が示すように、「因幡の源左(げんざ)」という人物に柳が関心を抱き、彼についての本を上梓することに焦点が当てられた。筆者はその本『妙好人 因幡の源左』の存在について昔から知っているが、読もうとしたことはない。柳がこだわって作った特製の限定部数の初版本はかなり高価で、たぶん図書館でも貴重書扱いで容易に見られないだろう。さて、本展では柳の生涯を13章に分けて印刷した34頁のA4冊子が置かれていて、一部もらって帰った。そこに源左についての記述がある。画架上の写真パネルの重要と思えるものを撮影して来たので、今日はその写真を合成加工して掲げるが、2枚目の写真が『妙好人 因幡の源左』の初版だ。3枚目上右は源左の書、左が肖像写真で晩年のものだろう。源左は1842年(天保13)生まれで1930年(昭和5)に没し、柳は面会しておらず、源左を知る人々を訪ね歩いて本を書いた。そしてよき民藝品を生む地域には源左のようなよき人もいると思い至ったであろう。
前述の冊子から引く。「体躯は頑丈で、素直で優しさをたたえた人柄だったと伝えられます。源左は浄土真宗本願寺派の願正寺の門徒で、農業を営みながら仏の教えを熱心に聴聞し、感謝の念を忘れずに人々に尽くしたことから、「妙好人源左さん」として知られるようになりました。その聴聞の始まりは父である善助の臨終の言葉に「おらが死んだら、親さま(阿弥陀仏)を頼め」だったといわれています。そして、父のいう親様とは誰のことなのか、どこにいるのか、この儚い生とは何なのかを問い続け、聴聞の生涯を送りました。源左の口ぐせは、「ようこそ、ようこそ」でした。「ようこそ」とは、因幡地方の方言で、「ありがとう」という感謝の心と、「よくいらっしゃいました」というおもてなし」の心を意味します。源左の人生は苦難ではありましたが、その言葉や姿で多くの人々に教えを伝えました。…」次に『妙好人 因幡の源左』から柳の言葉を孫引きする。「彼は絶えず聞法を怠らなかったが、同時に得たものを進んで人々に届けた。彼が人に接することを好んだのは、これによって法話が出来るからである。…彼との縁にあづかることを人々は心待ちに待った。彼は寺からも大家からも百姓家からも招かれる身であった。」柳は妙好人についてこう説明する。「妙好人を個人的天才と考えるより、信者全体が育てたその代表者として考えるほうが至当だと思われてならぬ。…妙好人は真宗の園生に咲くいとも美しい花なのである。だが花のみを見て、それを培い育てる力を見忘れてはなるまし。…源左は無数の信徒の結晶した姿なのである。源左の中には真宗の信徒全体がいるのである。逆にいえばそれぞれの信徒に源左がいるのだといえる。」『妙好人 因幡の源左』は昭和25年に東本願寺内にあった大谷出版社から刊行され、特製版の紙は柳の希望により、源左の故郷の山根和紙が使われた。題字は柳の手になり、その書体は蓮如上人の文字から発想を得たとされる。今日の最初の上の写真のように、柳の典型的な筆跡の書は「三帖和賛」に倣ったものだ。柳の説く美は真宗とつながりが深く、また柳の見出した民藝の品を柳は「妙好品」と呼んだことが冊子に書かれる。源左のような人が各地にいたことも当然で、冊子の第10章は「南砺が生んだもう一人の妙好人 砺波庄太郎」と題され、南砺の井沢別院瑞泉寺が宝暦12年に焼失した際、京都の東本願寺から御用彫刻師の前田三四郎が派遣され、地元の宮大工らに技術を伝えたことから、今に伝わる井沢彫刻が誕生したことが書かれる。この南砺の彫刻については個人的な思い出がある。筆者が大阪の設計会社に勤務していた時、京都産大の優秀な学生を二名アルバイトで雇った。そのひとりは片足が悪く、歩く姿が不自然であったが、かなりの男前で、学校を出れば専門のコンピュータではなく、砺波の欄間彫刻家に弟子入りしたいと語っていた。その夢を果たしたであろうか。
筆者は10代で柳に関心を抱いて代表作はほとんどみな読んだが、物づくりする人にとって信仰が大事であることについては現在まで考え続けて来ている。源左のような人物は人の付き合いが密接な時代の田舎であればどこにでもいたと思う。彼らは学はなく、またそれを求めようとしても身につかない。しかし人のよさから立派な存在については批判的ではなく、信じ込みやすい。現代なら「馬鹿」と陰口を言われる人たちだ。以前に書いたが、アクセル・ムンテはそういう無学ではあっても優しい人物こそが天国に行けると書いた。東大を初め有名大学出であっても小賢しいだけの愚か者の代表が巨額の収入を得、TVの人気者になる。唾棄すべきそういう連中はたとえば源左が眼前にいても何とも思わずに無視するだろう。話は変わる。筆者は源左の現代の代表が山田洋次監督が描いた「寅さん」に思える。寅さんは周囲から馬鹿呼ばわりされるが、曲がったことが嫌いで、憎めない存在だ。そういう半端者の存在を許す世間が昭和時代にはまだかろうじてあった。寅さんが信心深いかどうかはそのシリーズ映画からは見えないが、人として何が一番大事かを随所で示す。柳が源左に関心を持ったのは、肖像写真の朴訥さとそのおおらかな書を見てのことだろう。その個性は柳が見出した朝鮮の陶磁器の味わいに通ずる。柳は国宝の井戸茶碗は貧しい李朝時代の陶工が無数に作り続けたことから生まれた美とする。当時の朝鮮では仏教の信仰は日本の真宗ほどに広く行きわたっていなかったと思うが、では李朝の陶工が妙好品を作り得た理由は何か。柳はそれを、貧しさゆえに量産せねばならず、それゆえ技術が熟練したと考えるが、もちろんそれだけではないだろう。真宗という宗教がなくてもどの国の庶民でも生きることは精いっぱいで、そこには祈りが無意識に込められもする。明治以降新興宗教が次々に登場して信者をそれなりに増やして行った理由は、真宗の勢力が地域限定的であったことを示唆すると同時に、どの地方の人々も何かにすがりたい思いを持っているからだろう。その人間的な弱さに付け込む詐欺集団が跋扈する弊害が増加していることは、芸術を初め、人気商売の世界でも見られると筆者は思っているが、要はいかに手軽に救われるか、あるいは金を稼ぐかで、金が神になっている。李朝の陶工はいくら茶碗を焼いても貧しいままであったが、名品を生むひとつの条件として、限りなくたくさん作ることは柳も認めていた。筆者が柳の著作から学んだ最大のことはそれであって、真宗を初めとした仏教信仰はひとまず置いたままにしている。戦後の大都会に住む人たちは特定の宗派を信仰しない場合が多く、一方では新興宗教アレルギーもある。そして努力が報われないことを知っていて、いつの時代にもいる源左のような人も浮かばず、大手を振るのは要領のよい調子者ばかりだ。
会場で写真パネルの説明を読まずに撮影し、ブログ投稿用の加工を済ませて今頃写真を解読しつつこれを書いているが、今日の最初の写真下の木版画と4枚目の写真の説明をしておく。瞠目したのは4枚目左上の木造の涅槃像だ。これはドイツ表現主義のバルラハの彫刻を連想させ、民藝の精神が世界共通であることを知る。この異様な迫力はアカデミックな教育を受けた芸術家ではなかなか表現出来ない。この涅槃像は最初の写真下の木版画に描かれる同じ形の人物像だ。筆者は勝手に涅槃像と呼んでいるが、眠る人物を象ったものだ。木版画の文章は加工した写真が荒いので判読しにくいが、全文を次に書く。「越中御五箇山の道宗ハ蓮如上人にご帰依申し无二の信者なりしがたたみのうへにてハ御恩よろこばぬぞとて四十八本の割木をバ四十八願にかたどりて御影に其上に〇し玉ふ今その節の割木并ニ道宗の木像外ニ蓮如上人の御木像等を披露せんとする〇すなハち其喜びをおもひしらんがためなりけり(方印:越中國五箇山赤尾行徳寺)」『妙好人 因幡の源左』は赤尾の道宗についても書く。道宗は蓮如を警護し、弟子でもあって、48本の割木の上に痛みに耐えながら寝たとされる。4枚目の写真右上は道宗が開いた行徳寺本堂、下が庫裏で、道宗は五箇山から親鸞の御影が安置される井波の瑞泉寺に毎月参り、年に一度は京都山科の本願寺の蓮如に会いに行った。柳は道宗を源左と同じく妙好人とする。柳が妙好人を知ったのは鈴木大拙から贈られた著作によってで、一方江戸末期に真宗の教えに生きた念仏者157人を伝記した『妙好人伝』が編集されたという。4枚目の写真左下は有名な五箇山だ。筆者は20代の終わり頃に同地のとある一軒で一泊し、地元の若者と談笑したことがある。今も名刺2,3枚を所持するが、かつて話した若者が後にTVで紹介され、地元の風習を守っていることを知って懐かしかった。当時は道宗のことを知らず、行徳寺に訪れなかったが、柳が南砺一帯の精神風土を表わすために「土徳」の言葉を使ったとされる意味は当時の思い出をたどると何となくわかる。ある地域特有の野菜があることを思えば、動物も人間も地域色を何十世代にもわたって築き上げる。ただしそれは情報社会化するに伴ない、民藝が廃れて行ったのと同様、平板化に向かう。国鉄がJRに変わって日本国中の駅舎が同じようになって来ていることもその一例だが、それでも方言は残り、地域の気候の差がある限り、地域の特色は完全にはなくならない。そこに古くからの信仰が守られる限り、独自の風習や風俗は残って行くだろう。道宗が徒歩毎月37キロの道を瑞泉寺に参り、年一度は本山にも参拝に行くという労苦は人生の区切りを確認する喜びでもあったはずだ。現代は車や電車で一足飛び出来るが、それで信仰心が減少するとは限らない。それに道宗の妻は本山を訪れなかったが、今では交通の便によって移動はたやすい。
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