「
拮抗の 亀甲模様 息苦し 蜂の巣に見て ホルモン思い」、「投げられた チキンナゲット ゲットした ワンコ喜び 転びて落とし」、「ポリ袋 吸うて目まいの ズベ公は ポリ公睨み 口から火吐き」、「木の生える 島に桜の 谷があり 山水想い いつしか夢中」
去年12月11日に家内と泉屋博古館に訪れた展覧会について書く。近年嵐山の福田美術館でも開催されたが、それは見ていない。さて、『没後五十年 木島桜谷』展の図録を引っ張り出して来て手元に置いているが、京都市美術館で同展を見たのは昭和62年(1987)10月だ。同展は戦前の遺作展から46年ぶりで、同展以降、木島(このしま)桜谷の人気が上昇したかと言えば、近年相次いで展覧会が開催されていると言ってよく、認知度は高まっていると見てよい。筆者は今日の2枚目の写真の没後五十年展の図録表紙の六曲一双屏風「寒月」の印象が強烈で、桜谷と言えば同作を思い出す。本展でも示されたように実際はもっと温和な作品がほとんどで、ひとことで言えば「遥か遠い霞む山並み」を愛好する画家の印象を抱いている。というのは、筆者が所有する桜谷の水墨画の2点の風景画の掛軸がそういう雰囲気を持っているからだ。また筆者はその画題における最も遠方の山並みから写真の影響を強く感じる。それは「寒月」の写実的な竹林からも思う。明治生まれの京都の画家が江戸期の応挙の影響を受けるのは当然として、桜谷の時代は写真があり、写実について応挙とはまた違った思想を持つ必要があった。写生を重なることは同じとして、写真ならこのように写るという画面を意識させられたと言えばいいか、写真を通じた現実の事物に対する見方が生まれた。それで、ある画家は写真では捉えられない描き方を意識的に進め、ある画家は写真のよさを絵画でもっと高めようとする。桜谷の描く風景画すなわち山水画における最奥の山並みは、写真で同じように捉えられることを認識し、そのことを面白がりながら写真ではあり得ない理想の形を創出しているように思える。ここで少し脱線する。山に囲まれた京都盆地は東北の愛宕山や西の比叡山を除くと、どの山並みもあまり特徴はなく、何十年も住んでいても覚えられない。それには理由がある。松尾橋の上から北西を見た最奥の山の稜線は、松尾大社から少し北に行ったところから見える同じ方向の山並みとは意外にも形が全然違う。そのことを他の場所でも何度も体験し、山並みは案外わずかな距離の移動で違って見えることを知る。それを捉えどころがないと言えば実際は正しくないが、気分的にはそうだ。山は動かないものの代表であるのに、それが見る位置の少しの違いで違った様相を呈する。それほどに山が近いからで、京都市内では山は雲と同じように形が変化する存在のように思える。桜谷もそう思ったに違いない。それで桜谷の山水は実際の風景を写真のように写実的に描かず、想像の産物だ。
本展では桜谷の写生がたくさん展示された。桜谷は各地を歩いて膨大に写生を重ねた。写生帖は描いた場所が記され、本展では「加茂川」、「鞍馬、貴船」、「鷹峯」、「嵯峨」の4つのエリアに分けて数枚ずつ写生が展示され、それらが現実のどの場所に相当するかを観覧客に問うコーナーがあった。半分ほどは該当する場所が特定されていたようだが、120年ほども経てば同じ場所がわからないのが普通ではないか。それにふと感じたのは、岩や樹木を描く際、写真のように忠実を心掛けたとは思えない。桜谷は10数人ほどの画家仲間と連れ立って写生に出かけ、誰よりも描くのが早かったと見え、時に仲間が写生している姿を描いてもいる。話は逸れるが、筆者はその写生の小旅行をした仲間のうち、桜谷のみが現在知られ、他の画家たちは作品もおそらく伝わっていないことを想像し、芸術の道の厳しさを思った。120年も経てば当然かもしれないが、同じ道を志す人物の中で1世紀を超えて名と作が伝わることは万にひとつの確率であることを思う。そしてその桜谷ですら、他の有名画家に比べて認知度は高くない。財団法人の桜谷文庫が存在しているので本展も開催出来たと想像するが、そういう財団が設立されること自体、きわめて珍しい。話を戻して、桜谷は京都市内だけではなく、日本各地で写生した。そして筆者が所有する「嵐山図」にしてもその題名があるのでそう思って見るだけで、嵐山の特定の場所を忠実に写生したものではない。それどころか、筆者には嵐山とは思えない。このことは何を意味するか。桜谷は写真をある程度意識しながら、写真のように現場をそっくり写すことに関心はなかった。そのため桜谷の風景画は特定の場所を示す題名がついていても写生を自在に変形合成している。それは写真では出来ないことだ。先に筆者は眼前の山並みが少し場所を変えただけで違って見えると書いた。桜谷はそのことを知り、ならば忠実の稜線を写生しても意味がないと思っていたに違いない。またわずかな移動で稜線が変化しても、どの稜線もありふれた形と言ってよく、奇抜な曲線はまずない。日本とはそういうところだ。それでたとえば若冲は日本の景色は山水画にならないと思った。一方蕭白もそうで、ならばいくらでも想像の中で奇抜な形を作り出してよいと考え、現実にあり得ない山を描くことをもっぱらとした。中国の山水はその点、かなり現実を写しているかと言えば、日本よりはるかに岩山が多く、また想像を絶する稜線も豊富だが、そのことを前提に蕭白がしたように絵の上での遊びを行ない、現実から遊離することを旨とした。桜谷は当然そうした中国の伝統的な山水画を学び、そして円山四条派のそれを吸収し、そのうえで時代にかなった独自の山水を追求したが、日本中さして変化のない山の稜線であり、絵画もそれに準じた温和なものになるしかなかった。
本展を見て筆者はそう納得したのだが、30代で見た前述の「寒月」の印象があまりに強烈で、それと本展の写生は山水画とどうつながるのか少々戸惑った。ところで、桜谷は昭和13年に62歳で京阪電車に跳ねられて轢死体として発見される。自殺かどうかわからないが、松茸狩りに出かけて帰宅せず、大騒ぎになって捜索され、翌日見つかった。新聞には「最近ほとんど作品もものにせず神経衰弱が昂じてゐたとのことで…」と書かれ、創作に悩んでいたのだろうが、そのことに筆者は深入り出来ない。明治45年、35歳の「寒月」は一匹の狐が雪積る竹林の中、後方を振り返りながら歩む姿、そして竹林はほとんど精密な写真と言っても人は信じるほどに明治の、つまり新時代の写生画を提示しながら、月は琳派風で、また狐は追っ手を意識してドラマを感じさせ、京都の伝統の装飾性を捨て切れずに、映画の一場面のようで、盛られていることが過剰な気にさせられる。当時の文展で一等賞なしの二等賞を獲得し、絶賛されたが、一歳上の夏目漱石は酷評した。その理由は没後五十年展の図録に書かれるが、漱石は前年の文展出品作でやはり二等賞を得た桜谷の「若葉の山」も酷評した。好悪をはっきりと書く漱石に感心しながら、ではどういう絵が新時代の理想に思えたのかと訊きたくなると同時に、絵も描いた漱石だが、画家としては小説ほどに立派な作を遺さなかったことを思えば、文章と絵画の違いを考えさせられる。「寒月」は文学的なところがあって、またそれは小説ではっきりと言葉で書くのとは違って鑑賞者に想像させる点で文学に届かず、絵画として一種のいやらしさのようなものを、漱石は感じたのかもしれない。写真のように描くのであれば文学的な香りは不要という立場はわかるし、そういう絵画のほうが迫力があるのは確かだ。だが桜谷は「寒月」で孤独に歩む一匹の狐を描きたかった。この大作から狐を省き、竹林だけでも充分見ごたえがあるが、花鳥画の伝統、そしてそれを革新するには桜谷には自分の姿になぞらえた狐が必要であった。しかしこの狐はどこか救いようがない。漱石は桜谷が自分を狐に投影していることを感得してこの作品を嫌ったとして、それは悲劇の主人公を謳っているところだろう。だが実際桜谷の人生は久坂葉子と同じ鉄道自殺であり、また画壇で大きな地位を築かず、本人も漢籍を繙き、自作の漢詩を作ってひとりで過ごすことを好み、流行遅れの画家とみなされるようになって行ったのであるから、「寒月」はそれを予告していたと言ってよい。先の図録には東京人の漱石は京都の新しい絵画に理解がなかったかと書く。この点は研究に値する。漢籍の素養を持ちつつ英語を学んだ漱石には、桜谷はあまりに後ろ向きの人物に見えたかもしれない。だが「寒月」は京都の伝統を継ぎながら革新を苦心して遂げた、新時代ならではの作だ。
「寒月」の黒い竹とその背後の樹木の描写は当時他に匹敵する力量を見せる作はなかったと思う。雪の中に撓んで倒れている2,3本の竹は写真にしか思えないほど迫真的で、日本画でこれほどの写実は応挙でも成し得なかった。あまりに完璧過ぎて息苦しく、これ以上の作はもう描けないと思わせる。久しぶりに筆者は没後五十年展の図録を繙きながら、桜谷の他をすっかり忘れていたことに気づいた。「若葉の山」を漱石が嫌ったのは、10匹ほど描かれる鹿の表情だ。みな目を閉じて眠たそうにしている。漱石は鹿の色と背景の金茶色との対比が気に食わなかったらしいが、若葉の季節はこういう気だるい日和や時間帯はある。明治42年の同じく六曲一双屏風「和楽」では農民の女性たちや子ども、犬、牛、猫が描かれ、女性の顔がよくないという批評が当時あった。その点は何となくわからないでもないが、人物、動物、風景と何でも描ける画才は当然とはいえ、当時の桜谷は一流の画家としてどんな困難をも克服して行くという気概に満ちていたことがよくわかる。その何でもありの態度が却って没個性と思われたことはあり得る。「和楽」の人物の顔は類型的ではなく、みな実在の人物を写生して応用したことを感じさせる。その真面目さが鑑賞者には息苦しさに映ったかもしれない。それに「和楽」や「若葉の山」はもう少し工夫があってもよかったかもしれない。さほど印象に残らない作であるからだ。40歳頃になると光琳、琳派の模写と言ってよい装飾的な大作屏風が目立ち、筆者は感心しないが、50歳くらいの作でやまとと絵に倣った人物の群像を描く風俗画はまた意外な面を見せ、写生を重なる一方で古画を学んでいたことがわかる。戦争で失われた作品も多いそうで、桜谷の画風はつかみどころがないと言えばいいかもしれない。その意味では山水画の焦点を合わせた本展はさらに桜谷の才能を過小評価することになる恐れがある。しかし本展から伝わる才能は気宇の高さで、雄大な景色を前にしてとにかくそれを描くことが楽しいという人生すなわち自己肯定性だ。部分図がチラシ表やチケットに採用され、見開きチラシの内部に明治43年の水墨の六曲一双屏風「万壑烟霧(ばんがくえんむ)」の全図が載り、「その幅11m超、櫻谷山水画の金字塔」と言葉が添えられる。応挙や呉春以降の明治でしかあり得ない山水図で、奇を衒わず、桜谷らしい柔らかさ、実直さがある。ただしその個性を面白いと見る人はその後減少して行った気がする。運筆の基礎をしっかり学んだうえに写生を積み、そして個性を発揮する。それを作画の王道とはもはや美大芸大では教えない。死ぬまで練習、勉強を続けるとして、ではいつ勝負の絵を描くのか。人生は短いのに写生ばかりしている暇はない。だが桜谷はかなりの多作であったようだ。六曲一双の屏風ではわからない持ち味が小品にはあり、それらは案外安価で入手出来る。
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