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●『よみがえる川崎美術館―川崎正蔵が守り伝えた美への招待―』
害を 知りつつするや 悪戯を 仲間ほしさと 気晴らしほしさ」、「気晴らしに 泥酔しての 二日酔い 不束者は 束にはなれぬ」、「束になり 若き強盗 老い襲う 結束バンド 一束用意」、「札束を 何にも替えず 持て余し 賊に盗られて ああそうかいな」●『よみがえる川崎美術館―川崎正蔵が守り伝えた美への招待―』_d0053294_23593277.jpg 去年12月2日、兵庫津ミュージアムに行った後、三宮に出て食事をし、神戸市立博物館に向かった。本展のチラシは去年夏に同館にて開催の『スコットランド国立美術館』展で得た。半年前からの宣伝で、意気込みが伝わる。チラシには開館40周年記念と記され、かなり以前から本展のために作品の借り出しについて協議されていたのだろう。チラシには「ようこそ 日本初の私立美術館へ」の言葉があって、神戸市の威信をかけての企画展と言ってよい。本展について筆者の考えがまとまっているとは言い難く、今日も思いつくままパソコンのキーを叩くが、書くことに気が進まないひとつの理由は、この川崎正蔵が造った美術館は現存せず、彼が集めた作品はすべて他者の所蔵になっているからだ。つまり彼が「守り伝えた美」と副題にあるが、彼がこの世からいなくなって3年ほど後に所蔵美術品は売り立てされた。まことにはかないことだが、作品は高値で買われ、大事に所蔵されて来ているので、正蔵が保有した当時のままと言ってよい。はかないのは人間の命であって美術品ではない。ある人物が作品に惚れて購入した作品は、所蔵する人物の有名度にもよるが、来歴という輝きを持つ一方、泣く泣く手放さねばならなかったことに対する一種の恨みが付与され続ける気がする。古美術品を購入する人は運よく自分の手元にやって来た感動を持ち続けることとは別に、自分の死後にそれがどうなるかの心配もし、単なる物とは思えない。そうではない人もたくさんいることも事実で、美術品を投機の対象に思ってろくに鑑賞せず、時機を見計らって購入時より高値で売ることだけを日夜考える。そういう考えが絶無の収集家がいるはずはないと考えられがちだが、ほしい美術品との出会いは一期一会で、自分の人生そのものであるから、作品を得たことを運命と思い、その行く末を心配するのは当然だ。これが複数生産の本やレコードであれば同じものが大量にあり、全部ゴミとなっても誰も惜しまない。美術品は一点限りで、それが売りに出された時、購入する金額が手元にあれば、何としてでもほしいと思う心境はたいていの人に理解出来るのではないか。お金は使ってこそ意味がある。それを貯金や株の形で何億持っていようが、使わねばゼロと同じだが、大金を持っている思いだけで満足なのだろう。そういう無粋な人に美術、芸術は無縁であるから、放っておけばよろしい。いろんな人がいてこの世は回っており、川崎正蔵のような人は企業家としてだけではなく、私設の美術館を造った人として本展で広く紹介される。そしてそのことに関心のある人だけが本展を訪れた。
 本展のチラシを最初に見た時、筆者は若冲の「象鯨屏風」を思い出した。二曲一双の同作は昭和3年の川崎正蔵が所蔵した美術品の売立目録に白黒図版が掲載され、現在まで未発見だ。当時北陸の素封家が競り落とし、3年後にまた売り立てされた。その時どこの誰が買ったかは記録がなく、空襲に見舞われた都市ならば焼けた可能性がある。これほど若冲ブームになっているのに出て来ないところを見ると、たぶんそうだろう。同作はMIHO MUSEUMが入手した同じ画題の屏風の「八十二歳画」と違って「八十歳画」と署名され、制作年が早い分、画面は装飾的画題が少ない。発見されないので本展での紹介は無理だが、せめてそういう未発見の作品があることに言及すればよかった。前述のように昭和3年に売り立てがあり、その8年後の昭和11年には厚さ7センチに及ぶ作品目録とともにふたたび売り立てがなされた。その二度の競売で目ぼしい所蔵美術品は川崎家からはほぼなくなったのであろう。ただし、これも本展では触れられなかったが、若くして鉄道自殺した曾孫で小説家の川崎澄子(久坂葉子)の本には、家にある掛軸その他が生活費のために馴染みの骨董商に買われて行くことが述べられ、戦後もわずかに美術品を保管していたことがわかる。つまり、川崎正蔵が買い集めた作品の全貌はわからないと言っていいと思うが、本展で展示されたように美術館の「長春閣」が開館した際の展示目録があり、その後毎年開催された陳列目録から、さらに昭和3年と11年の競売目録から、目ぼしい作品の全貌はわかると言ってよい。正蔵は明治10年代の40過ぎから収集を始め、約2000点を集めたとされる。本展は正蔵が集めた作品の一部を展示するもので、国宝や重文を含み、正蔵が好んだ絵画の傾向はおおよそわかる。売立目録には絵画以外の作品の図版も載るが、大半は絵画だ。中国絵画、仏画、狩野派、応挙や呉春の円山四条派、肉筆浮世絵といったところで、蕪村はあっても大雅はない。また蕪村の作が買われたのは呉春が弟子であったからかもしれない。若冲は先の屏風の大作以外に、近年展覧された著色の横幅「闘鶏図」があり、正蔵はそれなりに若冲を気に入っていたのだろう。蕭白は買わなかったようで、そこから正蔵の審美眼が何となくわかる気がする。それは狩野派を好んだことにも言える。一代で男爵の称号を得、権力を示すにふさわしい画風に目が行ったのではないか。また明治期は日本美術が大量に海外に流出し、それを見ながら秀逸な作は日本に留めたい思いがあったろう。先の若冲の屏風は3100円で落札され、昭和3年の貨幣価値を現在に直すと200万円ほどであった。現在は2000万円でも安いほどなので、若冲人気が昭和初期は低かったか、古美術全般が安値であったのかもしれない。ちなみに同作は3年後に2100円で落札された。
 大金があれば国宝級でも手に入るのは事実だが、伊藤博文の命名になった長春閣は正蔵が気に入った作を集めて展示した建物で、そこには彼の美術に対する目の高さがうかがえる。そもそも大金持ちでも美術品に血眼になる人物はたぶん1000人にひとりもいない。いてもアカデミックな知識がないか、それを得る努力をせず、自分の目を信じると言えば聞こえがいいが、ろくでもない作や贋作が混じることはよくある。正蔵のような人物は大金持ちでもごく稀であるので、現在の同じクラスの富豪は正蔵を意識せず、それこそ後になって換金しやすい人気作家の作品を求める。そのほうが金持ち仲間に自慢するにはいいからだ。そうしてろくでもない成金がたまに美術品を冊子にして自慢するが、そこには深い思想はあるはずがない。そのように金持ちの自慢の道具にされがちな美術品だが、人気を落とすよりかはいい。正蔵が集めた作品は「旧川崎家所蔵」の箔がつき、たぶん市場に出ればほしがる人が多い。それは幸運なことだ。先に若冲人気について触れたが、昭和初期で二曲一双の大作屏風が200万円ほどの価格では、大恐慌に遭遇した川崎家の窮状を助けるにはほとんど役立たなかったのではないか。それはいいとして、若冲の同作が発見されればたぶん2億円以上はすると思うが、それはここ2,30年に人気が高まって来たからで、度重なる展覧会が後押しした。また半世紀ほどすると人気は下火になり、2億円が2000万になる可能性は充分にある。正蔵がそうしたことを考えて購入したかどうかだが、自分の目、好みに正直であれば、売る時のことを考えず、せっかく巡り合った名品を手放す気にはなれない。そこで亡くなって間もなく作品を手放さねばならなくなったことは「長春閣」の名前にそぐわないが、せめて正蔵が生きている間は同館が保たれ、その意味で彼の人生は幸福であった。日本中に名家、素封家がいた時代、同じように作品を売り立てした例は5000ほどある。それだけの数の目録が残っている。中でも正蔵の売り立ては最大で、昭和11年の分厚い目録は後年再版されたほどであった。正蔵の集めた作品が戦前の写真図版集として残されたことは幸運であった。繰り返すと、それが簡便に利用出来るので本展の企画が進んだ。筆者が会場を訪れた時、超満員で、また筆者のそばにいた年配の女性客は正蔵や長春閣のことを初めて知ったらしく、しきりに驚きの声を上げていた。それは展示された美術品にと言うより、正蔵の行為だ。本展に展示された作品は中国絵画の国宝「宮女図」にしてもどれほどの人が関心を抱いたであろう。特に若者では少ないのではないか。筆者は京都で暮らすようになって友禅作家が同作を訪問着の上前部に模写していたことを思い出すが、半世紀ほど前に同作のブームがあったのかもしれない。
●『よみがえる川崎美術館―川崎正蔵が守り伝えた美への招待―』_d0053294_23595654.jpg
 昭和11年の目録に同作は他の数点とともに特別にカラー印刷されるが、大部分は白黒だ。2枚目の写真はその目録に本展のチラシを挟んで撮った。チラシに採用された個人蔵の「牧馬図屏風」は今回初めてカラーで広く紹介されることになったのではないか。この二曲一双の金箔地の著色画は売立目録では狩野永徳の作とされるのに、今回は狩野孝信となっている。その後の研究によって永徳でないことで研究者の考えが一致して来たからだ。華麗ではあるが硬さが顕著で、永徳らしい豪放さはない。正蔵時代でも疑問視する人はいたであろう。そこは古美術商が正蔵を口車に乗せたのかもしれない。それはさておき、この屏風は保存がきわめてよく、正蔵が目の当たりにした当時のままだろう。筆者はそのことに感じ入った。ほとんど見る機会のない因陀羅の作品は特に印象深かったが、彼は別として、彼を含めた中国人による絵画は今では「伝」が作品名の前に着く場合が目立つ。その点は仕方がないと言おうか、それほど研究が進み、作者の同定に関して厳密になって来ていて、当時の正蔵や扱った古美術商を笑う気にはなれない。またそうした「伝」のつく中国の古い絵画は日本の絵師たちが長年鑑として崇敬して来た歴史があり、そのことを正蔵は買い集める過程で学び、それなりに系統立てた収集を目論んだことがわかる。もはや二度と正蔵が集めたような美術品に匹敵するものを個人が一生の間に手元に置くことは不可能だ。現在の個人が建てた美術館では京都岡崎の細見美術館や嵐山の福田美術館が思い当たるが、正蔵のような中国絵画に視野を広げた幅広さはない。目ぼしい作品がもう市場には出て来なくなり、出て来ても天文学的な桁の価格となっているからでもある。世界にはいくらでも大金持ちがいて、彼らは金に糸目をつけない。そこで日本の収集家はせいぜい江戸期の美術に視点を絞り、先に書いたようにその一例として若冲の絵画が最も高額で取り引きされるようになっているが、その若冲も出尽くして来ている感があって、古美術界は次のヒーローを見出し、売り出すことに余念がない。あるいは現存の作家を先物買いするかだが、正蔵がそれをしなかったことはなぜだろう。明治半ばにすでに手に入れたい現存作家の作がなかったとすれば、それから150年後の現在は押して知るべしと言ってよいが、円山四条派の直接の技法、流れは途絶えたとはいえ、その精神を受け継ぐ画家はいる。彼らの作はそれなりに評価され、たとえば京都に学んで神戸に住んだ村上華岳の人気は現在非常に高い。正蔵の収集は日本の美の形を俯瞰する一例であったが、美は捉えどころがなく、常に変容している。本展は他館に巡回せず、確か2500円の図録は戦前の2冊の売立目録とともに見ると、白黒図版がすべてカラーに変わり、作品が新たな命を得たかに思えるだろう。筆者は買っておらず、同図録にあるはずの論文も読んでいないが。
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by uuuzen | 2023-02-19 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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