「
慄きの 理由と知るや 異物には 目を閉じ聞かず 意見をせずに」、「春の雨 杉花粉毒 洗い去れ 防塵仮面 今日は掃除を」、「よきことを すると自惚れ 紅顔の 紅衛兵は 厚顔に無恥」、「片隅で 好きなことする 法被族 傍迷惑は 思いも寄らぬ」
今日は終日雨で、花粉は少しましか。今日の2枚の写真はこれを書く場所からの山の眺めと立ち上がっての庭の見下ろしで、手元の貧弱な2台のカメラで同じ角度で撮った。今年の杉花粉の飛散量は去年の百倍という記事を昨日読んだ。それが正しいかどうかは別として、例年の筆者の花粉症は今年は異常な変化を体に来している。くしゃみは毎日50回、洟をかむのにティッシュ毎日一箱、目が痒くて睡眠中もごしごしと両瞼をこすっている。以上のことは毎年のことでどうにか我慢出来るが、今年は体中にニキビの親玉のような湿疹が出来て、痛くてたまらなない。後ろ首と左の臀部に5,6個、左の腰のパンツのゴムが擦れる箇所と右の背中脇にひとつずつ、両足のふくらはぎの外側に2,3個で、半分は帯状疱疹のようだが、もう半分はそれに該当しない気もしている。家内は医者に行けと毎日うるさいが、もらった薬ですぐに治るとは思えない。4,5日前は両手の中指の先が膿み始め、2日後に腫れの頂点が訪れ、直径1センチほどの水膨れが出来た。それを熱した針で突き破ろうかと思いつつ経過観察すると、翌日は腫れが少しましになり、昨日は水膨れが平らになり、今夜は「風風の湯」でぺろりと皮が剥けた。これは体全体の発疹が治癒に向かっているかと思うと、首と両足は新たな発疹が出来て触れると猛烈に痛む。こんな体調の変化は初めてだ。帯状疱疹は50代から70代の発症が多いそうで、体力が落ちて免疫力が低下するためとされる。花粉が去年より百倍多いことは、去年とは違う体調の変化をもたらして不思議ではない。息子のアトピーはもっとひどく、立ち上がれないほどに全身血と膿まみれになって10日ほど寝たきりになった。足の裏にも膿を伴う湿疹が出来るので、歩けないのだ。筆者はそこまでひどくないが、今年初めて息子と同じ湿疹が出来た。息子は病院に通って塗り薬をもらっているが、ほとんど役に立たず、季節の変わり目になると毎年体調が悪化する。息子は数年前にアトピー体質改善の1本数万円の注射を何度か打つと、全身から湿疹が消えた。ただし毎月2度ほど打ち、また一生打ち続けねばならない。どんな薬かと言えば、簡単に言えば回虫のエキスとのことだ。東南アジアの子どもたちにアトピーの症状はないと読んだことがある。日本も昭和の東京オリンピック頃までは子どもは回虫を体内に持っていた。それを「虫下し」で絶滅させた後にアトピーが爆発的に広がった。近視眼的に悪者はやっつけるというのが人間の考えだが、その後に必ず何らかの形で復讐される。快適を手に入れると予想外の不快が待っている。
両足の湿疹はひとつの大きな噴火口状を呈し、立っているとひどい圧迫感がある。歩いているとそれは気にならないが、立ち止まった途端にズキズキと痛み、立っていられない。真剣に防毒マスクの購入を考えているが、それを部屋の中で終日つけたままでくしゃみと目の痒みが収まるだろうか。杉花粉の被害は杉をたくさん植えたからで、昔の人は後の代の人の収益につながる行為をしている自負があったろう。ところが時代はどう変化するかわからない。杉山は放置され、杉花粉が春になると爆発的に日本中に飛散し、人々に悲惨な目を遭わせる原因となった。これはあらゆることに通じる教訓でもある。「誰々のために」と自惚れて活動する人はいつの時代も一方でその思いとは正反対の害悪をまき散らす。筆者が好んですることはみな自分が好きであるからであって、誰かのためにとは一度も思ったことがない。一本の苗木を山に植える行為が後世の人のためという面があることは否定しないが、それは百パーセント正しいとは言えない部分を持っている。話は変わる。先日録画した『地下鉄のザジ』を見た。この映画の主人公を筆者は半世紀前から男子と思って来たが、女子であることを知った。それはともかく、いたずらっ子の彼女はパリに出て見知らぬおじさんから昼食を食べさせてもらう場面がある。山盛りのムール貝の料理皿を前にしたザジはある貝から大きな真珠を見つけた途端、それを即座に背後に投げ捨てる。大人ならその幸運をもったいないと思うが、子どもにとって真珠の美はどうでもよい。それはさておき、先日久しぶりに自治会のFさん宅にお邪魔し、その後仏師のOさん宅に行った。Oさんは筆者と同じ年齢で、去年12月に癌の手術を受けた。早期発見であったので10日ほどで退院し、また仕事が出来るようになった。気になりながら筆者は3か月ぶりに様子伺いに出かけた。Oさんと立ち話をしながら、最近彫っている密教の法具を見せてもらい、その素材の白檀の欠片の匂いをかがせてくれた。Oさんによれば伽羅を使うこともあるとのことで、近年その香木を人工的に作っていると聞かされた。それは木が嫌う病原菌を注入すると、木は抵抗のために樹液をその菌の周りに量産密集させ、そうして香木が要領よく作り上げられる。その話を聞いて筆者は真珠と同じと言った。真珠は貝にとっては寄生される厄介なものだ。香木の香りも人間がいいと思っているだけで、木にとっては生きるために抵抗して作り出した樹液の匂いであって、木にとっては腐臭かもしれない。となれば人間に生ずる癌も、別の生命からすれば大いに歓迎するものであるかもしれない。癌患者の尿には特定の微生物が集まるとされるが、彼らは癌を真珠や香木のようにありがたがっているのではないか。嗅覚がその微生物にないとすれば、味覚だろうか。ともかく癌を好んでいることは確かであろう。
話はまた変わる。先日嵯峨のスーパーで若い母親が1歳にならない女児を乳母車に乗せていた。筆者は女児と何度も目を合わせ、そのたびに彼女は筆者をしばらく見つめ続け、笑顔を作った。そのかわいらしさに匹敵するものは他にはない。よほど何かの菓子を買って彼女の手に握らせたかったが、財布を持たず、家内は店内の遠方にいた。その赤ん坊はどういう成人に育つか、その顔つきをほとんど完成させていたが、どういう大人になろうが、周囲にあるものに対し、受け入れるものとそうではないものとを識別して行く。そのことが人生で、人格を作って行くことだ。受け入れるものは最初からすんなりそうなるものと、吟味の期間がしばらく続く場合がある。前者は問題なくその後も受け入れ続けるようになるとは限らない。後者ももちろんそうで、益か害のどちらを多くもたらすかをあらゆる面から本能的に考える。害と判断すればそれ以上の害はほとんど受けないが、それでも害に遭遇したという思いは去らない。益の場合もそのすべてが問題ないという場合は少なく、摂取するには何らかの異物感を覚える。その異物感に対して先の赤ちゃんは今後毎日猛烈に晒され、受け入れるか退けるかしながら人格を形成して行く。違和感の正体を探ろうという興味ないし態度を持つことは普通で、違和感のある存在に触れた後、その毒気を無害なものにする意識を本能的に持つのが、健康な人の証と言ってよい。毒気を無害にすることの最も適切な方法は忘れることだが、毒気が強い場合、なかなか退いてくれない。そこで毒気のない何かに積極的に触れて意識の底にべったりとこびりつく毒気を忘れようとするが、その解毒行為の大きなひとつが表現行為、芸術だ。筆者はこう書きながら、ザッパの「マフィン・マン」の歌詞を思い出しているが、話があまりに逸脱するので本題に戻す。筆者の今年の花粉症のひどさは杉花粉の飛散量の多さのせいとして、筆者はその花粉毒を解毒するのにどうすればいいか。医者、薬に頼らねば、まずは自分の体の変化を凝視し、一方で自愛し、体力を蓄えることだ。それには何もしないで寝転んでいるのが最も効果的だが、下着も布団も血と膿だらけになるではじっと座っているしかない。Oさんが癌になるのであるから、筆者が花粉症で少々寝込むことはある意味自然なことだ。杉を植え過ぎた行為を恨んでも仕方がないが、よかれと思ってやっている行為が意外なところで深刻な害を生む現実からは、たとえば筆者のこのブログもどこかで誰かに毒を振りまいていることになっているとの想像力を働かせてみる。筆者の知らないところで知らない人が筆者の毒気に当てられながら、それを解毒するために新たな何かを生もうとする。そう考えると少しはましなことを書いた気になるが、筆者の文章が毒にも薬にもならない。「くしゃみして ひとつ解毒の 撒き散らし 拍手ォーーン さらにアクション」
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