「
醗酵の し過ぎで酸味 増すキムチ 本物のそれ スーパーになし」、「薄幸を 自覚せぬ子や いじらしき 大人になりても 世間に揉まれ」、「古き音 発売されて 新しき 知らぬこと知る 楽しみの価値」、「杉花粉 飛ばぬところは 京になし 春は来るなと くしゃみ連発」
本作のブックレットでジョー・トラヴァースが書くところによれば、ザッパはマッド・クラブのような少人数の会場での演奏に積極的であった。ファンが知る有名な場所では82年10月末に演奏したニューヨークの「ザ・リッツ」がある。そこの観客収容可能数はマッド・クラブに比べてどうであったのだろう。ザッパがプライヴェイトでマッド・クラブに何度訪れたかについては情報がないが、わざわざその会場名の曲を書き下ろすところ、とても気に入っていたことがわかる。それは個性の強い客ないしファンとの出会いを楽しむ思いがあったためだろう。そのことは77年のニューヨークでのハロウィーン・コンサートを収録する『ベイビー・スネイクス』の映画やアルバムからわかる。また観客を間近にしての演奏は73年末期のロサンゼルスの「ロキシー」にあって、ザッパは客から世相を読み取る、あるいは作曲のネタになることを求めたと言ってよい。その作曲の着想はそれ以前ではマザーズのメンバーの会話を隠し録りするという、かつて自分が刑事の罠にかかって同じことをされた悪趣味な手法に頼ったこともあったが、そのことによってメンバーが呆れて脱退する顛末を経験し、別の方法で面白いことを探すことになった。それはたとえば「イリノイの浣腸強盗」のように新聞記事に目を留めることや、ディスコ・クラブで見聞した男女のセックス事情といった、もっぱらセックスに因むことが多かった。ザッパがマッド・クラブをどのように思っていたかを同曲名の歌詞が正しく伝えているとすれば、簡単に言えば客が無茶苦茶をして傍迷惑な行為をするのではなく、酔って寝入ることはあっても気分を解き放って楽しく騒ぎ、良識ある人々が訪れる場所との見方だ。酒が入ると人格が変わる男女がたまにいる。昔よく飲み歩いた先輩も筆者もそういう連中が大嫌いで、深酒しても寝入ることはあっても絶対にはしゃぎ過ぎて他人に迷惑をかけることはなかった。たばこ中毒のザッパはさまざまな酒も嗜み、デビュー前はクラブでギタリストとして演奏していたので、酒が入った人々が大勢集まる場所には早くから馴染みがあり、また好悪もあったに違いない。ザッパの冷静さはギターの演奏に端的に表われていて、何事に対しても気分よく酔うことがモットーであったろう。そして親しい友人のいなかったザッパはマッド・クラブのような場所で客が飲んだり踊ったりしながら好き勝手に行動しながら、自分勝手などんちゃん騒ぎで雰囲気を台無しにすることには眉をひそめたことが歌詞から想像がつく。
ブックレットにジョージ・アルパーというザッパと懇意になったファンが文章を寄せている。彼は70年に姉とアルバムを交換し、ザッパの『ランピィ・グレイヴィ』をもらってサンタナの『アブラクサス』をわたした。お互い儲けたと思ったが、当時『ランピィ』は超貴重盤だ。ザッパが76年にボストンで演奏した際、アルパーはその最前列の席で、ザッパが「ディスコ・ボーイ」を歌う間、着用している自作のTシャツをザッパに披露した。そこには「ディスコはクソ」と書かれ、それを見たザッパは笑顔で応じながら歌が止まらなかった。アルパーはそのTシャツをショーが終わった会場の外や野球場、また数名以上が集まる場所で売ったというが、その後3年間、ザッパに「Titties‘N’Beer」のロゴ入りTシャツを販売させることをしつこく言い、ザッパはその商売を始めた。これはバーキング・パンプキンから始まったグッズの通販のひとつの理由を明かす。ゲイルが中心になってアルバム以外のものを通販する気になったと筆者は思っていた。それは正しいはずだが、アルパーの意見に押されたことも一因であった。アルパーはマッド・クラブにも出入りした。ザッパは自分の思いを支持するファンがいることで心地よく、それで本作のディスク1のようにライヴをするまでになったのだろう。これはややこしい説明になるが、クラブで楽しく飲むことをザッパが好んだというより、ザッパの考えに同調し、面白いことをする人物と出会うことを楽しんだ。ザッパはそれを「weird」という形容詞でよく表現する。「異様な」「気味悪い」「変な」という意味だが、目立った何かを持っている点で「普通と違う」というニュアンスを普通の人に伝えることは難しい。たとえばディスコ・ブームがフィーヴァーした時、真っ先にそれに乗って踊る連中は「普通」で、何も面白くない。逆にそういう調子乗りの滑稽さを「クソ」と喝破する少数派が「変」で、ザッパの好むところだ。これがわかればザッパの歌詞の意図は大半がわかる。ザッパは「アイム・ザ・スライム」という曲を73年に書いた。スライムとはTVに毎日登場する有名人だ。今の日本でも同じことが起こっているが、筆者は彼らの顔を見ると「クソ!」という気になるので見ないことにしている。先日そういうひとりの国際政治学者を名乗る女がTVから消えた。わっはっは! 世間は正しく出来ている。筆者にすれば彼女を美人と持ち上げた者は全員人柄を見抜けない「異様な」「気味悪い」「変な」であって、もちろんこの場合の「weird」はザッパの意図とは正反対に使っている。まともな人はTVには出ない。そのまともな人の中の少々センスが「weird」な人がザッパの音楽を愛好する。ただし基本は常識人で醒めていて、他人に迷惑をかけず、努力を惜しまない。そして流行に囚われずに本物を見抜く力がある。
アルパーは最後にザッパが80年夏にサンタナとブッキングされてショーを行なったことを書く。たぶんアイク・ウィリスがザッパに訊ねた。「みんな知りたかがっている。サンタナとジャムをしないのか?」ギターの指馴らしをしていたザッパは顔を上げながら素気なく言った。「ジャム・セッションは音楽を生まない。それはドラマを生む」話は変わるが、アレックス・ウィンターのクラウドファウンディングに筆者は寄付し、それのお返しとしてザッパが81年のラジオ・ショーのためにまとめたライヴ音源を2021年夏の「ザッパ会」の集まりで10人ほどに配布した。CD-R1枚に収まる77分の演奏で、5パートに分かれている。録音年月日と場所は明らかにされなかったが、80年から81年までの演奏だろう。最初のパートの冒頭が81年5月に通販が開始された3枚セットのギター・レコードのうち、2枚目冒頭の「サンタナの秘密コード進行の変奏曲」で、同曲は80年11月の演奏だ。また元は「シティ・オブ・タイニィ・ライツ」の中間部のソロだが、なぜ「サンタナ」の名前が使われたか当時はわからかなった。ザッパはその意味を81年のラジオ・ショーに提供する音源で明らかにした。アレックスによって提供された音源の同曲は3分54秒で、ギター・アルバム・ヴァージョンとほとんど同じだが、最後近くにサンタナがカヴァーしてさらに有名になったゾンビーズの「シーズ・ノット・ゼア」の主題が奏でられる。同ヴァージョンをギター・アルバムに収めればよかったのに、他人の曲の引用は著作権上ややこしい問題があったかもしれない。それはともかく、ザッパとサンタナがギターで共演しても音楽を生まないというザッパの見方は正しい。『ランピィ・グレイヴィ』のいかにも「weird」の代表格的味わいを、「ちょっと待てよ」と考え、その本質を探ってみようとする人がサンタナの音楽を愛好することは矛盾しないが、ただしサンタナの音楽を軽く聞き流す。ザッパとサンタナとではあまりに幼少時から耳にしていた音楽に差があり、ジャムをしても魅力が倍増することはないだろう。しかし何らかのドラマが生まれたことはそのとおりで、そのことはジョンとヨーコとの共演に最適な例がある。では「ザ・リッツ」でアル・ディ・メオラが参加してザッパの曲のソロを担当した時はどうであったか。アルはその演奏をアルバム化することを認めなかった。今もそうかどうかだが、ジョー・トラヴァースはマッド・クラブのアルバム化が実現したからにはリッツもと考え、手を尽くしているのではないか。ただしアルのその演奏も含めた全編の録音が海賊盤やYouTubeにもう出てしまっている。アルバムの売れ行きを考えねばならないジョーとしては次作をどうするかは難しい問題だろう。
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