「
汝らは すべからく 仰ぐべし 見下ろし歌う 子守りの母を」、「始まりを 神も知らぬの 人なれど われここにいて 神秘に触れし」、「義務として 教わることに 変化あり 為政者代わり 白が黒にも」、「本質の 見極め大事と 言う詐欺師 本の質とは 売れ行きなりと」
昨日の続き。「ひょうごはじまり館」の展示室に入る際、今日の最初のチケット画像の左側がもらえた。「初代県庁館」では右側のチケットを受け取り、2枚の図柄がつながることを教えられた。同館は新築されたばかりの木造の平屋で、白木の色合いが歴史の重みを感じさせないが、初代の県庁の建物が出来たばかりの頃は同じようであったはずで、新しい建物はそれなりに気持ちがよい。一方、長い年月を経た建物は重厚感が備わり、筆者はそれを味わうことも好きだ。そういう建物は大阪の中之島図書館以外にはすぐには思い出せない。京都府立総合資料館もいかにも戦後の昭和期の建物で、頻繁に訪れた筆者はその内部の様子を鮮明に記憶するのに、新たに出来た歴彩館は何となく馴染めない。新しさは薄っぺらい気がするが、耐震設計を施しているので実際は古い建物より地震には強いのだろう。古い時代の重厚感は岡崎の府立図書館にも当てはまるが、外面はほとんどそのままで内部はすっかり新しくなった。耐震問題もあって古い建物が斬新なデザインで建て替えられるのは仕方のない面があるが、もっと古い建築物を大切にすればどうかと思う。廃藩置県によって多くの天守が取り壊され、兵庫城は史料が残っていないようで復元のしようがないが、せめて県庁の建物だけはどうにかなると考えられた。それは昨日書いた『ドキュメント1868』展の企画展示で紹介された県庁の平面図が存在したことによる。ただしそれは何もないよりましという程度で、面積不明の間取りの略図というあまりにも簡単なものだ。そこから県庁の建物を復元することはかなり大胆な決断だ。とはいえ当時は江戸末期に直結し、現存する同時代の建物からおおよそは想像可能で、凝ったデザインが細部にあった可能性を無視すれば、おおまかには妥当な建物が再現出来ると考えていいだろう。庭や白州はだいたいどこも似たようなものであったはずで、筆者は彦根博物館を参考にしたのではないかとの思いがよぎった。庭は植樹が時代を経なければ落ち着きがないので、その点は初代県庁館は数十年先にはより味わい深くなると思われる。現在でも田舎に行けばこの建物よりもっと立派なものも珍しくない。それゆえ、建てる費用や技術については問題とならなかったであろう。筆者はとても気になったのは、靴を脱いで中に入るとどこかの家を訪れた気になってそれなりに落ち着くが、借景が現実感と呼び起こすことだ。今日の最初の写真「下」は知事室で、その北側の障子が開け放たれ、奧の土塀が見えていたが、その塀の向こうに大型スーパーの大きな立体駐車場が丸見えであった。
その点は兵庫城があった場所に復元しても同じことで、運河の向こうにその巨大な商業施設が見える。この知事室の東側が白洲で、白い砂が敷き詰められていた。この館には男女合わせて5,6名の職員がいて、そのうちの50代の男性は筆者らにすこぶる親切でいろいろと説明をしてくれ、白洲を示しながら大岡越前の気分が味わえると笑顔で言った。伊藤博文になった気分で知事室の椅子に座って写真を撮ればと勧められたが、その気が起こらなかった。狭い部屋で、そこから東西南北の眺めは充分にわかるからだ。次に男性は特殊なゴーグルを通して見ると明治初期の眺めが仮想的にゴーグル内で再現されるのでぜひ試してはどうかと二三度勧めた。せっかく用意した最新技術を駆使したサーヴィスで、来館者にぜひとも味わってほしいのだろう。筆者はそれも断った。試すのに5分と要さないが、だいたいどんな具合かは理解出来るからだ。似た仕組みの仮想画像は「ひょうごはじまり館」にもあったからだ。そこでは部屋の片隅にカメラがあり、それで捉えられた自分の姿が明治期の建物の庭らしきところに合成されて画面に映し出されていた。その写真は撮ってもよかったかもしれないが、撮る気が起こらなかった。ついでに書くとその画面の向かい側の壁面際に3台の記念スタンプ・コーナーがあって、栞に使えるように白い薄手の画用紙に記念スタンプがエンボス加工で刻印出来た。これはたいていの来館者は試みるだろう。筆者も家内も3つとも押し、それが手元にあるが、写真を撮って紹介するほどのデザインではない。話を戻して、先の男性係員は来館者を見てそれなりに説明の度合いを変えているだろう。専門的なことを質問しそうな高齢者にも対応出来る用意や覚悟はあるはずで、新施設への勤務に対してそれなりに意気込み、緊張している様子が伝わった。だがチケット売り場の若い女性も含めて県の職員ではなく、アルバイトの可能性はある。ミュージアムであるので学芸員を置かねばならないが、学芸員がチケット販売や来館者をつかまえての説明もせねばならないとすれば過酷な労働と言わねばならない。それで筆者はその男性と話をしながら、彼らがJR兵庫駅を利用しているのかと想像したが、地下鉄のはずで、そうであれば通勤に便利で労働の過酷さは軽減される。話がそれなりに弾んだので、筆者はネットで印刷した地図を見せ、新開地の有名な映画館があった商店街がどの筋かと訊ねた。筆者が印刷した地図にその道は含まれず、男性はどう説明していいか困惑しつつ、新開地駅に行けばわかると漠然と答えた。今日の2枚目の写真「下」は同館を後にする際に玄関に向けて撮った。他の職員が2名写り、また下辺半ばに家内の帽子が見える。真冬ではとても寒い施設で、説明の係員たちはたまらないので暖房器具が必要と思うが、そうなれば明治初期のムードは壊れる。その点はどのように対処されるのだろう。
昨日触れたように『ドキュメント1868』のチラシには伊藤博文と判事、オランダ人医師の3人が並ぶ写真が載る。撮影年度が記されないが、知事になった頃とすれば27,8歳で妥当な風貌だ。旧千円札の博文の表情は温和で、ある意味美しいが、この若き頃の顔は変に自信が溢れ、怖いものなしといったところで筆者は嫌いなタイプだ。農民の出自ゆえに学を求めるには無理があるが、学者にありがちの柔和さがないのが幕末から明治にかけての動乱期には却って役立った。簡単に言えば失うものが何もないに等しく、思い切り突っ走ることが出来た。教育者となった福沢諭吉とはそこが違う。金を遺すのは最低で、人を遺すのが最上の生き方とされるが、その点諭吉は大学を創り、最高の人物であったと言ってよい。博文は併合した朝鮮で暗殺され、一方無類の女好きで有名で、人間としての評価はあまり芳しくないようだが、金には恬淡であったらしく、そこは大いに好感が持てる。また女好きというのも芸者などの商売女相手で、誰とも長続きしなかった。明治では妾を持つことはごく普通で、博文の女好きは今風に言えば一種の病気であったと思えばよい。筆者が注目したいのは怖いもの知らずの態度からイギリスに行き、英語力を身につけたことだ。それは年配の諭吉よりも実力が上であったかもしれない。ブロークンであっても相手の懐に入り込み、物怖じせずに対等にわたり合う度胸はあったろう。その博文の英語力は神戸のその後の発展に直接には役立てられなかったと思うが、ハイカラを自認する神戸には似合う才能であった。初代の兵庫県知事になって150年ほど経つ現在、日本の知事で博文ほどに外国語を重視し、広い世界を動き回る例はきわめて稀、あるいは絶無だ。そう考えると博文の歴史的評価は今後さらに高まっていいが、兵庫県初の知事としての銅像を本館もしくは「ひょうごはじまり館」の敷地内に建てる意見が出なかったのだろうか。そこでネットで調べると、博文が生きていた時代に大きな銅像が大倉山と湊川神社にあったことを知った。前者は戦争の金属の供出の際に撤去され、後者は楠木正成像より目立ち、また日露戦争後の条約の不利益が不興を買い、市民の手で破壊された。それで現在は花隈の自治会が大倉山に残る大きな土台を整備し直し、銅像を再建する動きを神戸市や兵庫県に打診しているようだが、行政は返事をしていないらしい。昨日書いたように博文は朝鮮では不人気で、そういう政治家の像を建てて国際間の摩擦を引き起こしたくないというのがひとつの理由でもあるだろう。博文は兵庫県に骨をうずめず、兵庫とのつながりはさほど強くないと思うので、戦前のような目立つ銅像は不要と筆者は思う。さりとて小さな像であれば博文を貶めているとの意見が出る。ともかく、『ドキュメント1968』は博文の銅像造りの「はじまり」を意図している印象もある。
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