「
礎の 石取り去りし 更地にて 新たな意思で さらに栄えり」、「銅像を 建ててほしきや 卑俗人 金はあれども 徳は買われぬ」、「ハイカラな 神戸にもあり 木の家は 古き歴史を 誇る限りは」、「震災の 傷跡見せる メリケンの 波止場さびしき 船は泊まらず」
去年12月2日に神戸の兵庫区を訪れた最大の理由は今日書く展覧会を見るためであった。「風風の湯」の85Mさんに本展および会場となった新しい建物について湯に浸かりながら話すと、淡路島出身の85Mさんは、兵庫区は昔からよく知っているので今さら行く気はないと言った。そして兵庫区にあった最初の県庁がどんどん東に移転し、今は元町界隈が神戸で最も賑っていることの話題になったが、85Mさんが兵庫県で暮らしたのは若い頃だけで、もっぱら大阪市内住まいであったので震災後の神戸の変化はあまり知らないと思う。さて、本展は「兵庫県立兵庫津ミュージアム開館記念」と銘打たれ、同館は去年11月24日にオープンしたので、筆者と家内は早速見に行ったことになる。鉄筋コンクリートの本館「ひょうごはじまり館」と、初代の県庁を復元した木造の平屋の施設から成り、大輪田橋を東にわたると100メートルほど先にまずその初代県庁館が目に入った。それが今日の最初の写真の「上」で、「下」はその正面玄関だ。筆者らは最初にそこを見るのかと思って玄関を入ると、チケット売り場で東隣りの本館を先に見たほうがよいと言われ、それにしたがった。本館の展示は撮影禁止で、玄関ホール内のみを撮った。その床には江戸時代の街並みの鳥瞰図のイラストが大きく貼られ、同館の場所がどこに位置するかの問いの文字が記されていた。有名な鳥瞰図作家に依頼したもので、じっくりと見ると発見は多いだろう。整然としたどの街路にも家屋と小さな人影がたくさん描かれ、初代県庁を中心とした地域が繁華であったことがわかる。明治の地図からもそれは明らかだ。新川運河と兵庫運河が出来たことで本館のある陸地は島となり、またその東部が埋め立てで拡張されたこと、また阪神大震災の影響もあって殺風景さが目立つようになったのだろう。その広々とした感じは今日の最初の「上」の写真からもわかると思う。この新しい施設に勤務する人たちは筆者らと同じようにJR兵庫駅を利用しているのかと言えば、地図を見るとすぐ東北に地下鉄の中央市場前駅がある。筆者は神戸の地下鉄に乗ったことがないのでそのルートがどうなっているのか全く知らなかったが、先ほど確認すると三宮から直通で数駅だ。中央市場前駅は巨大なビルで、ポートライナーのように高架かと思うと地下を走っている。埋め立て地ではなく本来の頑丈な陸地であるからだろう。ともかく地下鉄を利用すればJR兵庫駅辺りから歩かずにもっと便利にこの施設に訪れることが出来たが、西国街道歩きも目的にしていたので、地下鉄の駅が近くにあることに気づいてもそれを使わなかった。
初代県庁館の係員にこれらの新施設が建つ以前は何があったかと訊いたところ、アパートのような建物があったと言われた。グーグルのストリートヴューで確認すると、「兵庫県水産会館」の4,5階建てのビルで、中央市場付近であればそういう会館があったことは納得出来る。昭和の高度成長期の建物のように見えるので建て替えが必要になったのだろうか。それとも水産業の衰退が関係して新たな建物は不要になったのか。それも気になるので早速調べると同じ名称で明石に建物がある。兵庫県の漁業と言えば明石が本場だ。ともかく兵庫区にあったその建物の後に「兵庫津ミュージアム」が出来た。これも初代県庁で係員から耳にしたことだが、初代県庁館は復元された現在地より少し北とのことだ。どれほどの距離かと思ってまた調べると、琵琶塚から北200メートルほどで兵庫運河沿いの兵庫城があった場所だ。つまり現在の地から北西200メートルで、まあ妥当な場所に復元された。同じ場所にこだわると土地の買収や景観から現実的ではなかったのだろう。「ひょうごはじまり館」の「はじまり」はどの時代を見据えてのことかと言えば、この施設は最新のデジタル技術を使って視覚的に子どもたちが楽しめる仕組みが随所に凝らされている。1階の常設展示の最初は大型画面とその手前下のジオラマによって兵庫区の地勢の成立を説明する数分の映像で、入り組んだ湾があったことで港としての利用が始まったとあった。その天然の良港は和田岬の北方で、兵庫城のあった付近だ。その兵庫城に関する資料はほとんど残っていないようだ。2階にはイラストに見えなくもない尼崎城の不鮮明な白黒写真が展示されていて、筆者はその形を記憶し、帰りの電車で尼崎を通過する際に復元された尼崎城を一瞬車窓から眺めたが、古い写真と同じデザインであることがわかった。尼崎城の写真が残っていれば兵庫城もと考えるが、天守の写真がない、あるいは発見されないのは不思議な気がする。ともかく尼崎城の天守の復元が近年あったことが初代県庁の建物の復元への弾みになった可能性はあり、ハイカラ一辺倒の神戸市が開港とは別の歴史を示そうという気になっていることが想像出来る。そしてそのことの中心となる地域が兵庫区で、初代県庁館や西国街道ということだ。館内のエントランスへの出入りは無料で、有料の常設展示室の外側は、兵庫県下のたとえば淡路の瓦やたまねぎを展示紹介するなど、ちょっとした物産展の趣があった。筆者らが館内に入ってすぐ、小学5,6年生の社会見学の団体がやって来た。彼らは突風のように小走りに展示を見流して去って行ったが、わずかでも心に残ることがあればという教育者の思いだ。また彼らが関心を抱きやすいように最新の映像技術の採用で、文字を読むより視覚に訴える展示が目立ったが、それはこうした展示の催しではあれば当然でもある。
その肝腎の展示物はチラシの写真にあるように、兵庫県初代知事となった伊藤博文を中心とする幕末から明治初期の文書や鑑札、高札、遺跡から出土した陶磁器といった地味なものだ。その中で最も威力を発揮するのはやはり写真で、チラシには明治初期の神戸の街並みが見える。大半は畑で、その間に大きな樹木と平屋建てが点在し、遠くに海が見えるので山手からの撮影だ。こうした写真は北野の異人館でも展示されるが、それらは外国人が自分たちの居留地を撮ったものが中心で、現在の兵庫区を撮ったものは少ないのだろうか。先日書いた
『博覧―近代京都の集め見せる力―』では、明治5年撮影の写真が大きく引き伸ばされて展示されたが、市民が撮った街並みの写真が目立って増えるのは明治半ばからではないか。というのは筆者の手元に1989年に京都市から配布された『写真でつづる京都の100年』と題する写真の冊子があり、そこで最初に紹介されるのは明治22年の写真であるからだ。また明治初期の京都と兵庫では前者が繫栄し、写真はより多く撮られた可能性が大きいだろう。一方では西洋人の多さで言えば神戸であったはずで、彼らが持ち込んだカメラで撮影した写真を考えると兵庫のほうが古い写真が残っているかもしれない。神戸は港を抱え、そこから入って来る外来の文化を反映した街づくりが行なわれ、またそのことは京都や大阪にはない強みとしてこれまで誇って来られた。ところが先日書いたようにかつて平清盛が住み、最澄の時代に遡る寺もある。その延長に位置する大人物として本展の題名にあるように、1868年の明治の始まりに際して伊藤博文がいて、兵庫県の最初の知事になった事実がある。このことをもっと宣伝に努めようという意気込みが兵庫県、神戸市にあっての「ひょうごはじまり館」であろう。開館記念展に伊藤博文がらみの展示をした後、今後どういう企画展が開催されるかだが、「はじまり」をどこに設定するかで古生代でも古代でもあり得るし、近世、近代でも可能だ。1階の常設展示は江戸時代の西国街道の体験コーナーや年表を示しながらの明治期の尊王攘夷に関わる神戸事件など、とても一度では咀嚼出来ない広範囲に及んでいたが、2階の企画展示室は学校の教室程度の大きさで、その壁面を埋める展示物には困らないだろう。大阪や京都にも歴史を紹介する施設があり、兵庫県もそれに倣ったことになり、本展のように明治維新頃に焦点を合わすのは伊藤博文という有名人を一時期でも抱えたことによる。ただしそこには伊藤博文の肖像が千円札から消え去ったことにも関係する国際間での微妙な歴史問題があり、また日本での伊藤博文の評価が完全に定まっているとは言い難い面がある。これが同じように紙幣のデザインに使われた大阪の福沢諭吉であれば話は別な気がする。
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