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●『箱男』
安部公房が死んだ時、新聞の訃報欄に写真入りで載ったことをよく記憶している。5、6年前のことかと思ってさきほどネットで調べると、1993年1月22日で、もう13年も経っている。



●『箱男』_d0053294_0442512.jpg1924年3月生まれで、享年68歳の計算だが、まだ若い死と言えなくもない。晩年はワープロで小説を書いて有名であったが、それはこの『箱男』を読んだ後ではよくわかる気がする。それに、サインを見れば縦横斜めの直線でガチガチと構成された絵のようで、字が上手とは思えない。そんなコンプレックスもあって手書きの原稿をあまり残したくなかったのかもしれない。小説は本になって初めて意味があって、筆跡によって作者の別の何かを感じ取られることを拒否したかったのだろう。安部の小説は意識の片隅にありながらも、長い間読むことがなかった。映画『砂の女』を確か監督の勅使河原宏が亡くなった頃にTVで見た。独特な映像もよかったが、安部の原作がまた突拍子もない物語に思えた。原作は1963年に書かれた。当時はまだ中学生であった筆者は翌年撮影の映画とともに接することはなかったが、それでも『砂の女』というどう考えていいのかわからない詩的なタイトルによって、小説や映画の存在については知っていた。新聞を毎日そこそこじっくり見ていると、おそらく小学生であっても大人の間での話題について大体は知り得るものだ。その点はネットとは違ってさまざまな記事が隣合って並ぶ新聞は独自の意義を持つ。これは紙で出来た辞書でも同様だ。調べたい項目の近くに全然違う情報が見えていることが思わぬ拾い物になることがしばしばあるが、電子辞書では目的のものだけがわかって、その隣は隠れて見えない。そうそう、また話がそれるが、10万字を1分で読む、すなわち、筆者の毎日のブログの5000字を即読(速読)して3秒で読めるようになる講座があるらしい。これは限られた時間の人生でなるべく早くたくさんの本を読みたいとの思いから考え出された特殊な技能で、訓練次第でぐんぐん上達するそうだ。大体2時間要して書くこのブログの文章を、他人がたとえば3秒でぱっと読んで全部頭に入れるというのはきわめて信じがたい。先日、自分で書いたものを3秒で読めるかどうか試したところ、どうにか可能であったが、それはどんな内容をどこに書いたかを知っているからこそで、他人の書いた5000字ではとても3秒では頭に入らない。
 確かに文章をぱっと見てどんな字句が並んでいるかは大体わかるし、どんなことについて書かれたものであるかも瞬間に把握出来ることは多い。だが、細部に重要なことが書かれている場合はしばしばある。いや、むしろそういう文章の方が多い。そしてそんな細部を見落とせばその文章を把握したことになるだろうか。細部は本筋とは関係なく、頭に入らなくても一向にかまわないと速読する人は考えるのであろうが、本筋がない文章もあるし、軽い内容のものからややこしい哲学書まで、あるいは古文混じりの文章からもっぱら話し言葉だけで出来ているような、あらゆる文章のどれをも同じように速読出来ると考えるのはかなり傲慢ではないか。「上っ面だけをたくさん読みました」で満足出来る人とその反対に面白いと思える本をじっくり時間をかけて何度も繰り返して読む人とがまともに話し合いが出来るのかどうか、きっとそれはないように思うが、速読術が流行するからにはそれはそれでその原因があるはずで、簡単に言えばぱっと見て大体何が書いてあるかわかるような本が多く登場して来ているからだ。そして同じ傾向はブログではさらに強調される。ほとんど写真混じりの文章であるブログは、読み手は写真にまず目が行くが、その視野の中に文章も入っていて、ほぼ同時にその内容の把握がなされる場合が多い。誰でも手軽に文章を綴れるブログでは、本とは違ってますます速読どころか視読にかなう文章の大氾濫だ。それゆえ、速読では把握出来ないような細部がなるべくたくさんあるような文章を書いてやろうと思う。読書の速度は人によってさまざまで、また本の種類によっても変わるものだが、5000字を3秒で読み続けることを生涯続けても読める本の数は高が知れていて、人類が書いた本の総数の割合からすれば、じっくり読む人と五十歩百歩だ。そのため、いいと言われている本をなるべくしっかり読んで内容を噛みしめることを筆者は選びたい。この調子ではきっと死ぬまで気になりつつも読まない、読めない名著はたくさんあることになるが、それでも得られなかったものを惜しむより、得たもので満足する方がよい。
 『箱男』は2月に吉田神社に節分祭に行った時、近くのスーパーの前で古書売場が臨時にあって、そこで見つけた。箱入り美本で100円だった。谷崎の『細雪』の後、毎日少しずつ読んで2週間ほど前に読み終えた。安部の本をついに入手したのがたまたまであったことを喜び、速読ではなく、じっくりと読んだ。2日は難波の古本屋で安部の10数冊の全集が1万円少々で売られているのを見たが、あまりたくさんの量という気はしなかったが、寡作であったのか、あるいは短、中編主体であったからだろうか。この小説は1973年の初版だ。『砂の女』から10年経っている。『砂の女』は読んでいないものの、登場人物がごく限られていること、閉じられた場所が主体となって陰鬱な気配が支配的なことなど共通点は少なくないと思う。安部は満州で生まれ育ったが、日本とは風土が全く違って、近くに山や桜があるわけではなく、ただ広大な大地が遠くまで続く。そのことが後年の安部に何を決定的に寄与したのかは作品が示しているのだろうが、何もない田舎の大地に逞しく生きて行くといった感動的大河小説ではなく、むしろ都会に特有な人々の孤独を断片的に描きつなげたようなものを書き続けたのではないか。だが、これは『箱男』が10年前の『砂の女』と似た感じということからの類推に過ぎない。『箱男』は、初めはダンボール箱に入って移動して暮らすホームレス生活に憧れを抱いたあるカメラマンの物語として始まる。1973年はそんなホームレスが実際いたはずだ。同じ年の筆者の記憶の中に、ある町で見た「箱男」に似たホームレスがいる。なぜそれをよく記憶しているかと言えば、その浮浪者を見て筆者と一緒にいた人物が揶揄してしばし笑ったからだ。筆者はその浮浪者を別に哀れとは思わなかったが、それでも嘲笑する趣味は持ち合わせておらず、むしろ揶揄した人物を嫌悪した。安部が浮浪者にどのような思いを抱いていたかはわからないが、この小説を読む限りは、たとえば世間から尊敬されてしかるべき医者という職業に就く者でもどこかでホームレスに憧れを抱くということが正直に明かされていて、職業に対する偏見は何ら感じられない。これはあたりまえのことだが、安部がふんぞりかえって人々を見下すような小物ではなかったことは確かで、医学を勉強しながら実際は小説家になったところからは、むしろ医者に対する嫌悪があるかもしれない。
 箱を被って生活するホームレスへの憧れを描いたものと思わせながら、やがて話はどんどん脱線し、複雑にしかも曖昧さを増す。脱線した後また本筋に戻ってくればいいのだが、そのようには進展しない。何が本筋かわからないように読者を翻弄しながら、次々と新たなエピソードが浮上して来る。だが、本筋らしきものはあって、それはカメラマンが箱男になって暮らしいる時、空気銃で撃たれて負傷するという「事件」から始まる。銃で撃ったのは町医者なのだが、その医者の経営する医院には堕胎するために訪れてそのままいついてしまった看護婦がひとりいて、やがて物語は箱男と医者と看護婦の3人の話になって行く。そして医者が空気銃で箱男を撃ったのは、自分がその箱男になりたかったためなのだが、物語の後半になると、箱男と贋箱男である医者とが紛らわしくなり、どちらの告白が書かれているかわからなくなる。また、看護婦が裸になったりして、エロティックな描写も随所にあるが、これは箱男が箱の中から世間を見ているということを通して、読者も同じ「視姦」行為を味わうように仕組まれる。小説はもともと文字によって読者が映像を頭の中に描くものだが、それは頭という一種の箱の中に映される像の連続で、ある意味では究極の視姦行為だ。そのことがこの小説では二重の意味でなされる。読者は箱男の視線になって箱に開けられた隙間から女の裸を眺めるのだが、自分の頭の中で箱の中に入っている眺めている自分の眼差しを一旦感じてしまうと、もうこの小説の手の中に落ちたも同然で、次々と描写される光景がみなはっきりと脳裏に刻印されて忘れ難いものと化して行く。それは、まるで自分が見た夢を文字にして書き記して行く時の感覚に近い。この本を読みながら筆者は自分の夢千夜日記のあれこれをしきりに思い起こしていたものだ。実際この本の中は現実から得た体験談と、それから夢想して紡いだ話、そして眠っている時に見た夢を参考にした記述の3つがない混ぜになっていると思う。それだけならごく普通の小説の手法だが、写真がところどころに挿入され、文体も一様でなく、しかも本筋とは直接関係のない挿話が次々と現われたり、またあえて文末を語の途中で切って強制終了させた章もいくつかあるなど、夢がそうであるようなコラージュ手法を濃厚に使用し、起承転結もまともに展開しないため、読者は意識を常に宙ぶらりんにされつつ、一時も目が離せないといった悪夢に似た感覚を味わいながら最後まで読み通すことになる。
 起承転結がないのではない。それはある。だが、最後まで巧みに隠され続ける。最後の結びは小説の結末としてはとても鮮やかなものを感じさせるが、深い闇の陥穽を覗き込むような気分にさせられて、これもまた悪夢で味わう映像や思いととても似ている。簡単に言えば幻想小説に属するが、その幻想はお化けや奇妙な形をした何かで表現しているものではない。個々の描写は現実にあり得るものばかりだ。安部はカフカが好きだったそうだが、この小説にはその手法がかなり参考にされている。細部をしっかり描写しながら、読者がもっと知りたいと思うことをあえて書かない。「乞食は3日やればやめられない」と昔からよく言うので、箱男になったカメラマンは現実にあったことの体験談かと思って、読者はいわばきちんと心のあるところにとどめながら、いわば安心して読み始めるが、それはただちに裏切られ、ホームレスに対する興味や哀れみといった内容とは全く関係のない、「他者(の心)を覗く」といったことに小説の主眼が置かれ、その「覗き視線」を読者が受けつつ、また自分も他者に対して用いる存在であることを知ることになる。箱をすっぽりと被ると他者から顔を見られないことから大胆になれるし「他者(の心)を覗く」にも最適だが、そのような覗き趣味社会は人間には大昔から普遍的にあるものであろう。そしてますますそんな世の中になって来ているのは間違いがない。こうしたブログでもそれが可能で、箱を被ったような匿名のもとに他者を平気で視姦したりする。表現者安部が小説で自己をさらけ出しながら他者に覗き込まれることを拒否していたとすれば、箱を被った匿名の存在に憧れを抱く人物を登場させるこの小説の生まれた理由づけも出来る気がするが、この小説はそんな私的なことがきっかけでは毛頭なく、小説をどこまで自分という個人から切り離しながら、自分しか書けないようなものを日々思考し続けたの結果であって、そこに大いなる野心を見る気がする。だが、それは満州育ちやまた医学生であったこと、それにどんどん時代が進んで風俗が変わり行くことなど、あらゆる条件を踏まえての1973年という時点における自己対世間、小説界の表現だ。もし安部が今健在であれば、きっとネット社会やブログという形態に則した問題作をきっと発表したに違いない。それを現在している人があるかもしれないが、あるとして速読によって大量の本の上っ面を読んで納得している人ではあり得ない気が何となくする。『箱男』は中編小説で、400字の原稿用紙にして370枚ほどだ。となると5000字の30倍ほどとして、90秒で速読出来る計算だ。それで本当にこのややこしい内容の物語の醍醐味が味わい尽くせるのだろうか。そんな速読者が名作小説を書く時代が来ないとも限らないが。
by uuuzen | 2006-04-10 23:59 | ●本当の当たり本
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